お父さん

三津凛

第1話

よく、茶碗の割れる家庭だった。

和雄が憶えているのはそれくらいだった。父親は平気で母親を殴ったし、姉にも和雄にも気に入らないことがあると手をあげた。

仕事だけは真面目にやる人だったから、母親も堪えていたのだと思う。

だが和雄が小学校にあがる頃には、もう家庭は死んでいたのかもしれない。

工場夜勤の休憩時間に、虚ろな水銀燈で照らされた空き地で1人膝を抱えて座り込みながら和雄はふと思った。もしかすると、家庭不和の原因は自分にあったのがしれないと最近になって思う。

小学校にあがったあたりから、茶碗の割れる回数は増えた。真新しい茶碗は食器棚に登ったかと思えば、すぐ床に叩きつけられてばらばらになった。新しい茶碗が来るたびに、見えないヒビは確実に家庭を蝕んでいたのだと思う。



じっと授業を聞いていることができずに、和雄は教室中を歩き回った。何度怒られてもその意味が分からず、窓の外を珍しい小鳥が飛んでいくのを見つけると、たまらず駆け出して行った。少し前に怒られていたこともすぐに忘れてしまう。

母親は教師に呼び出されるたびに頭を下げ、和雄はきつく叩かれた。そして、そんな姿を父親はさらに怒って茶碗を叩きつけるのだ。

一度木刀で叩かれてから、和雄は大人しく授業中は座るようになった。それでも一度気になることがあると、時間も場所もお構いなしになった。学校へ行く途中に、背中に渦巻きの模様をした野良猫を見つけて追いかけるうちに隣町まで行ってしまい、帰り道が分からなくなったこともある。

父親は母親のせいにし、姉は和雄のことを嫌った。



いつものように学校へ謝りに行った帰りに、母親はつい和雄に向かって「お前なんて、産むんじゃなかったよ。どこでもいい、飛び降りておいで」と口走った。ふと和雄の目にジャングルジムが映った。いつも横切る公園だった。

和雄は生温かい母親の手を振り払って、一目散にジャングルジムに駆け寄ると恐ろしい速さで登りだした。

「母ちゃん、頭から落ちれば俺はいなくなるかい」

和雄に悲愴な思いはなかった。ただそうすれば母親が喜ぶとだけ思ったのだ。母親はみるみる真っ青になって、金切り声で叫んだ。

「早く降りておいで!馬鹿なことするんじゃないよ!」

和雄はもう少しで頭から落っこちるところだった。それでも、母親のあまりの剣幕に少しだけ怖くなって大人しく降りた。

母親は和雄の手を握ると、引きずるようにして家路についた。



和雄が中学へあがる頃には父親と母親はますます険悪になった。姉は母親の側についた。和雄はあまり、両親の仲と姉に興味を持てなかった。人の怒りや泣き声に共感することができずに、一度だけ泣く母親の横で真似をして見たことがある。本当に涙が一筋出てきたものの、ふと目にした母親の鼻の穴から鼻水が覗いているのを見つけてたまらなくなって笑ってしまった。母親も姉も父親も急に笑い出した和雄を不気味なものでも見るような目つきで見下ろしていた。

和雄はなぜ母親や父親が怒ったり泣いたりするのかが分からないままだった。気まずい沈黙の中、誰かが怒っている時は何でもいいから泣いてみせるものなのかもしれないと和雄は思った。

そしてある日、母親と姉は和雄だけを残して家から出て行った。この頃になると和雄は薄々自分が他人とは違うことに気付き始めていた。友達はできたことがない。

数学と理科だけはずば抜けてできたが、その他の教科はまるでダメだった。家のそばにある池を滑るアメンボだけにその日あったことを事細かに聞かせることが日課だった。

両親が離婚したらしいことは中学を卒業する頃に、ようやく和雄は気が付いた。食器棚に、父親用の茶碗がもう並ばなくなったのだ。割れたものを捨てたのは母親だった。そして新しいものを買うのもまた母親だった。それをまた新しく買い足す人はもういない。

母親はもう二度とここへは戻ってこまい。

父親は母親と姉が出て行ってからは急に大人しくなった。朝は寝てばかりで、夕方頃にはどこかへ行っていなかった。

和雄はほとんど父親とは話さなかった。そして、なんとか高校を卒業してそのまま通学路で目にした工場夜勤の仕事に自分で応募してそこで働くようになった。

父親の姿はほとんど見なかった。

母親も姉も、訪ねてくることはなかった。



和雄が働き始めて3年ほど経った時だった。

朝方眠っている時に、玄関を叩く音で和雄は起こされた。なんとか起き上がって玄関まで行くと、鍵を開けた瞬間不躾に大きく扉を開けられた。

「あなたは和雄さん?」

警察官だった。

「そうですけど」

「あのう、お父さんはどちらに」

和雄は少し眉をしかめた。

父親、父親、父親。

そうだ、父親はどこにいるのだっけ。

家の中にいるのは間違いない。

和雄は廊下を振り返る。ゴミの山で人が1人なんとか通れるほどの隙間しかそこにはない。

警察官は露骨に嫌な顔をして、責めるような口調で続けた。

「あのね、君のお母さんとお姉さんから警察に連絡があって……お父さんの行方が分からないと」

和雄は不思議な心地で紺色に包まれた警察官を眺める。

父親なら家にいるはずなのに。それにどうして今頃母親と姉さんとやらは父親を探すのだろうか。

もう離婚して、姉だけを連れて母親が出ていったのは数えきれないほど昔のことだ。

和雄は不思議な思いで、そこに立っていた。警察官は何かを察したように一歩踏み込む。

踏み込んだ先はゴミ溜めそのものだった。かろうじて見える本棚の頭が書斎らしい場所であることをうかがわせた。

ゴミの山の中で、薄っすらと禿げ上がった青白い頭が覗いていた。

警察官はゴミをかき分けてその主人を確認すると、和雄に向かって振り向く。

「お父さんとはいつから会ってなかったの」

急に優しい口調になって、警察官は言った。

和雄は少し考えてから、自分でも思ってもみなかったことを言った。

「死んでいる予感はしました。朝は早くて、夜も遅くて……もうずっと会っていません」

警察官は和雄の肩越しに部屋を眺めた。異臭が鼻をつく。

カップ麺の器には、油の浮いた汁が捨てられないまま冷えた膜を張っている。小蝿時折、頰をぶつかっていく。

和雄は重い瞼をあげた。ふと視線を流した先にカレンダーがあった。ゴミ屋敷には不似合いな東山魁夷の絵が印刷されたカレンダーだった。

確かお父さんは東山魁夷が好きだった。

そこでようやく、父親のことを思い出す。そういえば、いつから会っていなかったのか和雄には分からなかった。

カレンダーはめくられないまま、半年前の暦を告げていた。

神経質な父親は家庭の暦を遅らせたことは一度もなかった。それが、半年前で止まっている。

そこでふと、父親は半年前にもう死んでいたんだなぁと和雄は確信した。


もう死んでしまったのか。


ただそれだけのことを、和雄は静かに考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お父さん 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る