僕のディフィニッション

森村直也

僕のディフィニッション

 この文章読むキミにとって、この物語は単なる架空の物語だろう。僕にとっても過去にあった話ではなく、未来に現れる予言でもない。それでも僕にとっては真実だったと言ったならば、キミは困った顔をするのだろうか。

 そう、この物語は、僕にとっての真実なのだ。

 世界五分前仮説を証明することが出来ないように、僕も僕のこの記憶が事実であると言うことは出来ない。それでも逆に。真実でないと否定されるものでもないのだから。


 この物語は、僕が認識する世界の一つを記したもので。

 僕とユウの二人だけの物語である。


 *


 目が合った。その時僕は、そう、感じた。

 ユウは特大の溜息をつきながら、手元へとゆっくり視線を移した。折りたたみテーブルの上に広げられた参考書の頁をめくりはするが、目はかろうじて文字を追っているだけに見えた。

「進学するべきだって、言われたんだ」

 ぴぴぴと電子音が鳴り響いた。ユウは無造作にアラームを止め、よいしょと声をかけて立ち上がった。

「言われたの」

「三者面談でね。せめてどこか受験してくれって」

 ユウは溜息を挟み込むようにして参考書を閉じた。カラーボックスへとしまうと、鉛筆消しゴム、筆記用具を筆入れに戻していく。

「なんで」

 折りたたみテーブルをひっくり返す。僕を見ることもなく、四ツ足をきしませながら折っていく。

「学校の宣伝になるんだって。私は塾にも行ってないしね」

 予備校なんて行く時間もお金もないし。

 ユウは自嘲気味に笑いながら、机を定位置へと片付けた。

「受験料、高いんだよね」

 就職するのなら情報を集めたり対策を始めたり、そろそろしないといけないのだと、ユウは溜息をこぼすように呟いた。受けて合格する気なら、勉強はもちろん継続になる。

 ユウはトレーナーの裾へ手をかけた。一息に脱ぎさると、部屋の隅のかごへと放り込む。

 ユウは僕の見ている前で、飾り気のない下着だけを身につけた姿になって。タンス代わりの段ボールボックスへと手を伸ばした。

「ユウなら、行けるよ」

「そうかな」

 ユウは長袖Tシャツに手をかけた。引っ張り出して、ふと、僕を見た。

 目が合った。ユウはゆっくり、瞬きした。

「ユウ、頭いいもん!」

 甲高い子供の声が響き渡る。……僕の声だと、唐突に気付いた。

 ユウはTシャツを無造作に被る。瞬きを繰り返して僕を、見る。

「トオル……?」

 ――トオル。そう、僕は、トオルだ。

「指定校推薦ってヤツでも良いって先生言ってた! 奨学金だってあるからって」

 ユウは僕を見る。鏡の前の僕を見る。足を、手を、胸を、頭を、目を。……僕を。

 そしてゆっくり、そっと。ユウは僕へと手を伸ばした。

「トオル」

 少し冷えたユウの手が、僕の足を突くように触ってくる。手に触れて、頬を撫でる。そして、ユウより一回りくらい小さな僕の頭を、そっと。

 ユウの胸は暖かくて。石鹸に似た柔軟剤の香りがした。

「できる、かな」

「できるよ、ユウなら」

 ユウは笑う。少しばかり照れたように。

 そうして時間に気付くと慌てたようにパーカーを引っ掴む。鍵の入ったポーチを取ると、玄関で靴へと足を突っ込む。

「トオル」

 最後に僕へと振り返ると。

「行ってきます」

 夜の街へと踏み出していく。


 そして、聞こえてきたのは足音だった。

 玄関脇の小さな窓はうっすらと明るくなっていた。遠くバイクの音がした。自転車のベルが響き渡った。そこにスニーカーの足音が混じった。

 足音は玄関の前でふいに止まった。次いで涼やかな金属音が小さく僕の元へ届いた。

「お帰りなさい!」

 ユウは僕を見て少しだけ目を見開いた。一度瞬くと今度はちょっとだけ笑って見せた。人差し指を唇に当てる。悪戯っぽく唇だけで言葉を紡いだ。……お母さんが起きちゃうよ。

 僕は神妙に仕草を真似た。ユウまで真面目な顔をして頷いた。やがて僕らはどちらともなく声もなく、クスクスと二人で笑い出した。

 ユウは疲れていないはずはなかった。けれど、疲れている暇もなかった。疲れている様子も見せずに、靴を脱ぎ、部屋へと上がる。

 ひとしきり笑うとユウは、時計を見て慌てて台所へと立った。バイト先からもらってきた弁当を置き、お母さんを起こしにかかる。

 布団をはがれ、枕を取られ、ようやく起きたユウのお母さんは、寝癖で頭を爆発させたまま、ユウが持ち帰った弁当を機械的に口へと運ぶ。その弁当がなくなる頃、起きた顔してようやく支度を始めるのだ。

「ユウ、いつもありがと。学校、行ってらっしゃい」

「お母さんも」

 パートを掛け持ちしているユウのお母さんは、朝から晩まで休む間もなく働いていた。雨の日も風の日も平日も休日もなく。だからユウは、いつも一人だ。

「さ、たべよっか」

 ユウはコンロにさびの浮きかけた薬缶を載せる。弁当を広げ、取り皿を置く。僕の前にも箸を置いた。子供用の箸がないから、いつも大人用の箸だった。

「頂きます」

 誰かと食べるのは楽しいよ。言っていたのはいつだったか。トオルは? 僕も! そうして言葉でじゃれ合いながら、いつもユウは卵焼きをパクつくのだ。

 壁の薄いアパートの隣の部屋からばたばた音が聞こえ始めると、ユウは溜息と一緒に表情を消して制服へと手を伸ばす。すっかり着崩れたブレザーを、悩んで鞄に詰め込んだ。

 くたびれ始めた教科書を一冊一冊詰め込んでいく。ノートの束を、プリントを。こんなことを習ったよ、ここの解き方がわかったの。夕方開くときならば、楽しそうですらあるというのに。

 学校へ行く前のユウは、いつもこうだ。

 肩を落とした背中に、僕は、背伸びするように声をかける。

「今日はバイトない日だよね」

「そうだね」

 ユウは気のない様子でスニーカーに足を突っ込む。ゆっくりゆっくり紐を結ぶ。

「帰ってきたらさ」

「うん?」

 鞄を持ち、扉のノブへと手をかける。

「勉強、教えて!」

 ユウは振り返って目を丸くした。

「トオルに?」

 何度も何度も目を瞬いて、僕を見る。けれど。

「……いいね」

 ぱっと、笑った。


 *


 なぜ僕が僕になったのか。ユウが何を望んだのか。それとも望んだことさえ気付かずに、ただ何かに願ったのか。

 僕は知らない。知るべきではない。知らないことになっている。

 それはユウが持つべきもので、僕のものではないのだから。

 ただ僕に言えることは。目が合ったあの日、目が合ったと思ったあの日、僕が僕だと判った時。あの時から『僕』が始まったのだ。『じゃぁ、今までは?』……そう、全ての人に言われたとしても。

 そして僕も願ったのだ。ただここに。ユウの側にあることを。


 *


 教えてもらうといっても、ユウの勉強の邪魔はしたくなかった。だから僕の勉強はユウの使った問題集を解いてみることから始まった。最初は全然解らずに、仕方無く教科書を読んだ。教科書でも解らないと上目遣いにユウを見た。問題集を解くユウは、僕に気付くとにこっと笑った。

「何処が解らないの」

 折りたたみ式の小さなテーブルの、最初は向かいに座っていた。僕が何度も聞くものだから、やがてユウは僕の横に座り直した。

「ここ」

 二人で教科書を覗き込んだ。ユウの頭が僕の頭にコツンと当たった。

 教えてくれるはずなのに、ユウは大抵直ぐには答えられなかった。あちらこちらのページを開いて、答えとなる箇所を探した。探して見つけて、そうして少し得意げに、ほら、と僕に見せるのだ。

「これはね、決まり事なの。最初っから全部計算していると大変だから、こう置き換えますって昔の人が決めたんだよ」

 まだ涼しい宵の空気にそこだけ暖かさを感じながら。僕はうん、と、頷くのだ。

 勉強は数学だったり、物理だったり、英語だったりすることもあった。家に誰もいないとき、僕らは声を出して勉強した。ユウのお母さんが居るときは、黙々と問題集を解き合った。

 僕の答えが合っていると、凄いねと小声で言い合った。ユウの解答が模範解答通りだと、顔を見合わせて喜んだ。二人そろって間違っていると、真顔で教科書を読み直した。

 一つ何かを理解すると、少しだけ世界が広がった。一つ何かを間違うと、もう少し遠くを見ようとそう思えた。思って見上げたその場所には、必ずユウの笑顔があった。――多分きっと、かつてのユウが味わったように。

 そうして僕はまたユウと一緒に問題集に向き合った。


 一緒に行きたい。言い出したのはいつだったろう。

 ユウはまた、きょとんと僕を見て首を傾げ。そして小さく微笑んだ。

「行こうか」

 ユウが出掛ける時、ちょっとした買い出しの時、僕らは並んで道を歩いた。周りに誰もいないときは、小声で話すこともあった。

 雲の形、空の青さ、夕焼けの色、ビルの反射、月の満ち欠け。

 つつじとさつきの違い、藤の強さ、ネモフィラの色。

 蚊に喰われるとは、ミツバチの行動、腐肉の栄養価について。

 僕が聞けばユウは大抵答えてくれた。判らないことも調べてくれた。問題集を解くように、勉強をするよりもっと。世界は知らないことに満ちていて、不思議な事が溢れていた。いつしか僕はユウと一緒に歩くことを何より心待ちにした。

 ビルの間、道の先の陸橋に真っ赤な夕日が落ちていく。街の端っこの草むらに、一本伸びる朝日のライン。蔓日々草の回り出しそうな花の形、アスファルトに根を張るのみのつづり、青く見える遠くの山並み、霞の向こうのランドマーク、薄雲に映える淡い月虹。

 街が眠りに落ちるそんな時間、バイト先までついて行くこともよくあった。自転車を押すユウの横で、二人そろって空を見上げた。

「夏の大三角」

「デネブ、ベガ、アルタイル」

 ユウが遠く空を指すと、僕は聞き覚えた星座を答えた。同じように見上げるけれど、空にはぽつりぽつりと明るい星があるだけだった。

「天の川があるハズなんだ」

 見えないね、とユウは笑った。

「カズは見たことあるって言ってたけど」

 カラカラと自転車が音を立てた。ユウの口元は微笑みながら、目は天の川を探していた。

「本当はないのかもしれないね」

 前から車が近づいて、ユウの横顔を照らして過ぎる。微笑んだ口元、柔らかく持ち上がる頬、じっとここにはない何かを見上げ続ける瞳。

 ビルが並ぶ向こうの地平がいつも薄ら明るいこの街では、見える星など知れていて、せいぜい三等級くらいまでだとどこかで聞いた。天の川は五等級くらいの明るさしかなく、とてもこの街で見えるものではないのだと。

「ううん。あってもなくても同じなのかも」

 そんな言葉を聞いたとき、僕は慌ててユウの上着の裾を引いた。見上げるユウは笑っていた。笑っていたのに、泣きそうに僕には見えた。

 ユウは引かれて振り返る。どうしたの、と首を傾げる。

「僕は、見たいよ!」

 ユウは少しだけ驚いたような顔をして。

「そうだね」

 そうして再び笑うのだ。

「私も、見たい、かな」

 トオルが言うなら。

 バイト先のコンビニが見えて、ユウはそこで言葉を切った。


 *


 本当はいけないことなのだと、ユウはいつか僕に言った。けれど店長に頼まれて、他に人もいなくて、少しだけ時給も良くて、お母さんも助かって。だから良いのとユウは笑った。

 レジを打ち、商品を並べ、夜間配送を受け取って。掃除をし、廃棄食品を選り分けて、備品をチェックし、在庫を見て。店員として休む間もなく。

 僕は店の片隅で、懸命に働くユウをずっと見ていた。


 *


「いらっしゃいませ」

 頭を下げかけてユウは動きを止めた。自動ドアをくぐった男たちは深夜に似つかわしくない賑やかな声を上げた。

 男たちは若いと言える年齢だった。見覚えがあるわけではなかったけれど、僕は顔を知っていた。僕は……ユウが。

「あれ、合田?」

「バイトしてんの?」

「こんな時間に?」

 ユウは男たちを見回して、痩せた男にほんのわずか目をとめた。ちょこんと頭を下げてみせ、言葉に肯定して見せた。のっぽ。痩せ。小太り。長髪。それでもそこで気軽に挨拶を交わすような、そんな間柄では決してなかった。

 男たちは賑やかなまま、雑誌コーナーを、菓子売り場を、パンの売り場に弁当売り場を渡り歩く。それぞれの売り場で溜まり、かごへといくつも商品を投げ入れ、最後にドリンクコーナーを経て、ばらばらとレジへ並び始めた。

「いつからバイトしてるの。おれんちこの近くなんだよね。合田の家も近いんだっけ」

「う、うん」

 小太りのなれなれしい声を聞きながら、ユウは菓子パンにスキャナを当てる。ピッピと言葉の間に音が挟まる。

「――円になります」

 出された小銭をおつりに替える。品物をうつむきながら袋に詰めて、話したそうな男へ返した。

「バイト何時まで? 早く終わる? 朝まで? そっかー。明日休みじゃん。俺たち、勉強してたんだよね」

 押しのけるように長髪の男がレジ前に立ち、ユウは商品をかごから出した。まだ小太りは賑やかに言葉を続けていた。

 成績トップのユウがいれば心強いが、どうやって勉強しているのか。そういえば指定校枠の選考が。カズもアレを狙っている。篠崎もだろう? ……アイツ理系だったっけ?

 スキャナを当てて値段を読み込むユウの手が、一瞬止まって何事もなかったように動作を続けた。

 篠崎もけなげだよな。なぁ、カズ。

 僕はユウのシャツの裾を、ぎゅっと握って引っ張った。ユウは勝手なお喋りなど知らないとばかりに、レジをたたき、値段を告げる。

 長髪、のっぽ。

 四人目、痩せた男……カズも。

「凄いね。バイトしながら塾も行かずにあの成績」

「――円になります」

 カズはぽいと投げるように千円札を台においた。ユウは答えずレジを開いて震えそうな手に力を込めて小銭を取った。

「おまえと違ってトモカは覚えが悪くてさ。評定はなんとかなりそうだけど」

「――円のおつりです」

 会計を済ませた連中は雑誌コーナーで騒いでいた。店のなかには笑い声が響いていて、小銭を財布に戻す音すら紛れて僕には届かなかった。

「先生には、言わないで」

 レジ袋を渡すとき、添えた言葉は届いただろうか。カズはちょっとだけユウを見て、笑ったように僕には見えた。たぶん、ユウにも。

 最後まで賑やかだった連中が全員自動扉をくぐって出る。表から自転車をこぎ出す音がする。

 その音すらも闇に吸われて消えた頃、ユウはレジの中で蹲った。

 

 *


 冷えて小さく震えていたユウの肩を僕は腕を伸ばして抱きしめた。僕の腕は短くて、すがりついてるようにしかならなかったけれど。

 疲れ切った学生がのんびり自動扉を開けるまで、ユウが気付いて立ち上がるまで。

 僕はずっと、そうしていた。

 

 *


 夏休みになれば図書館にもよく行った。ユウの家にはエアコンがなかったから、暑い部屋にいるよりは、と、冗談交じりで言っていた。

 図書館ではユウの隣で勉強する様子をずっと見ていた。お喋りは禁止だし、他の本を読もうという気にもならずにいて、少しばかり大きい椅子のユウの横に腰掛けて、紙がめくれてノートが埋まって、ただそれだけをずっと見ていた。

 ユウは息抜きにと雑誌を見ていることもあった。カズに教えられたという科学雑誌は、鮮やかなイラストや写真を何枚も載せ、悔しいことに見ているだけで楽しかった。ユウは天体望遠鏡のカラー合成写真が好きだった。地上からは、この街からはとても見えない宇宙の果てを、憧れのように眺めていた。

「マルチバースって考え方があるんだって」

 小声で示したカラーの図は、大きな小さな円をいくつも描いていた。絶えず宇宙は生まれて別れ、似たような、けれど違う歴史を辿っていく。そんな理論、宇宙は一つじゃないということを。

 僕だけ飽きて、顔を上げることもあった。

 そんなときは、同じように机を占領してノートを広げる人たちを、一人一人見回していた。時々はしゃいだ声を立てて、叱られる子供達を眺めいていた。

 知ってる人を見つけることもあった。痩せた身体に薄っぺらい鞄をかけて、女の人とひそひそ楽しげに話していた。

 そう僕が気付いたときには、ユウは何も言わずに片付けていた。ノートを閉じて、シャープペンシルをしまい込み、逃げるように図書館を出た。

「少し、飽きたかな」

 僕へと向けた笑い顔は無理して作ったものだったけど。見上げるだけの僕の頭をユウは乱暴に、ただ、撫でた。

 帰り道はいつも陽炎に揺らいでいた。二人並んで街路樹が落とす陰影を一つ一つ辿っていった。駅の方へは行かなかった。住宅街をさらに奧へ。子供が駆け抜けることもなく、老人が散歩するでもない坂道をぶらりぶらりと登っていく。時折追い越す乗用車は邪魔そうに大きく蛇行した。それに気付く様子もなく、ユウは足元ばかりを見て歩いた。

 登り切った先の夏の陽射しに白っぽく沈む交差点を、ユウは大きく右に曲がる。木陰と雑草と踏み固められた砂地で出来た公園が山の上を覆うように広がっていた。

 誰もいない公園の誰もいないブランコに、二人並んで腰掛けた。漕げばわずかに風を感じた。大きく漕げば汗が飛んだ。僕が勢いを増す横で、ユウは静かに揺れていた。僕を見る。口元がわずかに緩む。遠くを見て、地面を蹴る。

 視界の中で百日紅の紅が流れて戻った。木々に地面に染みこむような蝉の声が、一層強く響いてきた。夏の陽射しは僕らを溶かそうとするかのようで。陽炎にユウが揺らいだかと思ったとき、僕は飛ぶようにしてブランコを下りた。

 揺れていたユウのブランコが止まる。僕が首に抱きついたから。

 あっけにとられたらしいユウは、汗かいちゃうよねと言いながら、それでも僕を抱きしめてくれたのだ。

「トオルがいてくれてよかった」

 それを僕は、返事と思った。


 *


 穏やかな夏休みは暑くともずっと続くような気がしていた。もっとも、気がしていたのは僕だけで、ユウはバイトに学校に推薦に奨学金の申し込みにと、忙しくしていたようだった。

 新学期が始まると、また、笑えもせずに学校へと通い始めた。


 *


 気がつくと僕は教室にいた。休憩時間だったのだろう。大勢のクラスメイトが賑やかに過ごす中で、ユウは一人、硬い顔して自分の席に座っていた。机の上にはかろうじて次の時間の用意があった。いつもなら予習しながら過ごす時間を、机のただ一点を見てじっとしていた。

「ユウ」

 瞬きすると、ユウはそっと顔をあげた。僕を見て驚いたように目を見開き。どうしたの、と口だけわずかに動かした。

 僕が学校に来たのは初めてだった。僕は学校は僕がいるところではないと思っていたし、たぶんユウも同じように思っていた。それでも。

「僕にいて欲しいのかなって」

 ユウの腕を抱き込むように横に並んだ。汗ばんでいるのに冷えた腕が僕の手の中に収まった。少し跳ねた短い髪に顔を寄せた。汗とリンスと柔軟剤とが混じりあった、ユウの香りが鼻を擽る。

 ユウがいて。僕がいて。ここが何処でも、誰がいても。僕はユウをしっかり抱きしめていて、だからここに、ユウは、いて。

 ユウはほんの少しあごを引き、頷いたように僕には思えた。

 授業開始のチャイムが鳴っても、教室が静まりかえることはなかった。ふざけ合う声がなくなった分、聞きたくないことばかりが僕の耳に届いてきた。たぶん、ユウにも。

 ユウは指定校推薦に合格した。机の中には先生に渡された証書があった。学習態度も悪くなく、成績は学年で一番だから、志望すれば決まるのは当たり前だった。僕は、悩んで決めて、そして成績を落とさないよう、頑張っていたことを知っていた。宇宙を知る。世界を知る。ユウと僕とお母さんと、クラスメイトと、星と銀河と天の川と。将来さきが見えずに漫然と過ごしていた頃に、教えてもらった楽しさを。もっともっと、解らないことを知りたいのだと、ユウは確かに言っていた。

 だから僕は、おめでとうとただ言いたかった。

 でも。

「だから篠崎が枠落ちで」

 ひそひそ声が聞こえてきた。

「名村と付き合ってたんでしょ」

 あからさまな声だった。

「カズと? それって未練?」

 好奇心にしか聞こえなかった。

「トモカは保健室?」

 親しい友人ばかりを案じて。

「頑張ってたのに」

 無責任な言葉だった。

「トモカ、かわいそう」

 ――一方的な。

 僕は腕に力を込めた。ユウはわずかに身じろぎした。僕は内緒話に耽る人たちを一人一人睨んだけれど、僕の視線に力なんてあるはずなかった。

 バイトと勉強に明け暮れるユウに『友達』は少なかった。保健室に逃げることも出来なくて、授業をサボるなんて思いつきもしなかった。どうして良いかも解らずに、ただ、いつも通りに振る舞った。振る舞おうとして。――僕が呼ばれた。

 おさまらないひそひそ話を知ってか知らずか興味がないのか。数学の教師は淡々と授業を進めた。

 そして、教室の戸を叩く音が響き渡った。


 *


 ユウに自殺願望があったとは今もって僕は思っていない。確かに生活は厳しかったし上手くいかないことも多々あった。けれど、死んでしまいたいとか、そういう強くて積極的な気持ちではなかったと思う。

 疲れていたのは事実だっただろう。進学と決まりかけていた奨学金の話をなくし、バイト先はなくなっていた。貯金と生活費と、出遅れて上手くいかない就職活動の狭間に立たされていたのは間違いなかった。

 僕はずっとユウの側に居続けた。朱に染まる夕空を二人で眺めていたかった。寂しげになく鈴虫の声を聞き続けていたかった。ぐるりと回る台風の雲を凄いねと言い合っていたかった。一面のコスモス畑を、色が変わりゆく銀杏を。僕らの生きる世界の大きさを、鮮やかさを、奥深さを。二人で笑い合いながら。

 僕は。


 *


「いくつもの宇宙があるのなら、ほとんど変わらない世界もあるのかもしれないね」

 紙の破れる音がいつまでも耳に残っている。紙くずとなった指定校推薦合格書はゴミ箱の中に収まっていた。

「私はどうすれば良かったのかな」

 ユウはようやく手に入れた最後の給料明細をじっと眺めて呟いた。店長は労働基準法違反とやらで、今日も取り調べを受けたらしい。

 アンタがやるって言いさえしなけりゃ。店長の言葉が今でも鮮明に思い出せる。

「私がいなかったら」

 ユウは膝を抱えて丸くなった。僕が横に並んでも、ユウの温度を感じても。顔を上げようとはしなかった。

「……もっと色々違っていたのかな」

 お母さんは再婚できていただろうか。店長は捕まることなく今日も働いていただろうか。トモカは指定校枠に入っただろうか。カズは。

 僕に何が言えただろう? 右手にユウの暖かさを感じながら、僕は窓の外を見る。夕日が落ちゆく空の色を、世界の描く不思議の一つを確かにこの目で感じている。のに。

 大好きなんだと、いて欲しいんだと、ただ僕は、知っておいていて欲しいだけなのに。


 *


「トオル」

 僕を呼ぶ、世界で唯一の声がする。

「この世界は、好き?」

 僕はこの声を、忘れない。


 *


 目を開けると当たり前の朝がそこにはあった。カーテンの隙間からまっすぐな朝の光が零れてくる。母さんの枕元で時計が控えめな警告音を発している。音を止めて母さんを起こしにかかる。はがれかけたタオルケットを完全に剥ぎ取って、四十にもならないのに疲れ切った背中を、踏む。

「遅刻するぞ」

 くぐもった悲鳴を尻目に狭い台所に一人立つ。小さなコンロにさびの浮きかけた薬缶を載せて、ふと、顔を上げた。

 コンロの向こうのアルミの壁紙に映る僕。薬缶の取っ手に載せたゴツい手、母さんが呻く寝室兼居間、今は誰の気配もない風呂場。

「ユウ……?」

「ゆうって?」

 寝癖で爆発した頭をかきながらゆらゆら揺れている母さんに、インスタントコーヒーを作ってやる。あちちと言いながら啜り始めた母さんは、飲み干す頃には親らしい顔を作ることに成功していた。

「大学、さ」

 僕を見る。まっすぐ見る。いつの間にか追い越した背に少しばかり視線をあげて。正面から。

「行きたいなら行きな。学費は出してあげられないけど、入学金くらいなら」

 深夜バイトがばれたこと。店長が捕まり、併せて推薦がダメになったこと。……それでも僕が行きたいのなら。

 就職活動は上手くいく気がしていない。大学に、学ぶことにも未練はあった。否などどこにも、あるわけが。

「ありがと、母さん」

 ……それに。

「母さん、僕が居ない方が良かったって思ったこと、ある?」

 傷みかけたエノキにシメジに成長しすぎた青梗菜の味噌汁を美味そうに啜りながら、母さんはきょとんと僕を見る。

「考える暇もなかったわ」

 にかっと笑って、言葉を続ける。

「だってアンタは、いたわけだし」

 そうして今日も出勤した。


 *


 ユウは何処にもいなかった。家にも、学校にも、あのコンビニにも、図書館にも。世界の何処にも。存在から。

 そして僕がここにいる。一八歳の人間として。初恋も喧嘩も勉強も親には言えない秘密の体験も、十八年分の記憶を持った、単なる人の僕がいる。

 例えば人に話したなら、おまえの夢だと笑われるだろう。証明しようとしたとして、世界にユウの爪痕はない。

 それでも僕は断言する。

 ユウがいなければ僕はいない。僕にはユウしか存在しない。ユウのないところに僕はなく、だからユウが僕の全てなのだと。


 *


 決めたよ、ユウ。

 僕がユウの願望の中で生まれたように。

 僕はユウを探してみせる。

 僕はユウを──諦めない。


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