ノウミソクイクイ

桃月ユイ

ノウミソクイクイ

 頭の上にたかる小さな虫のことを、友人は『ノウミソクイクイ』と言った。私はあの虫の名を知らなかったけれど、間違いなくそんな名前ではないことぐらい理解していた。

「何で、そんな愛称になったわけ?」

 私が尋ねると、友人はにやりと小さく笑って答えた。

「耳から入って、脳みそを食べちゃうからだよ」

 なるほど『ノウミソクイクイ』である。

 しかし、その虫は耳から入って脳みそを食べるわけでもないし、ましてやそのために頭に寄り付くわけでもない。虫たちは人間の汗から出るナントカ、というフェロモンか何かによって引き寄せられているらしい。確か、生物の授業で先生が言っていた気がする。

 けれど、どうしてその虫は人間の脳みそを求めて『ノウミソクイクイ』なんて呼ばれるようになったのだろう。学校帰り友人と別れてしまった今となっては、その真相はわからないままだけれど、私はそんな謎を解明するきっかけと出会ってしまった。


「どうも、ノウミソクイクイです」

 私の目の前に現れた男は、唐突にそう名乗った。

「はい?」

「だから、ノウミソクイクイです」

「そうですか」

 関わってはいけない人種、という事は理解した。私は現れた男のことを気にしないようにして、その場から立ち去ろうとした。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

 自称ノウミソクイクイ男は私の腕を突然掴んだ。突然の出来事に私も驚いてしまった。いや、本当は目の前に現れたあたりでそれなりにおどろいていたのだが、謎の自己紹介でおどろきが一旦引いてしまったので再びおどろいたという方が正しい。私は思わず男に向かってどなるように叫んだ。

「何ですか!」

「だから、ノウミソクイクイですよ?!」

「だから何ですか!」

「あなたの謎を解明できるチャンスですよ!」

「どうでもいいですよ!」

 男に負けない大声を私も上げる。大体、何であんたが私のなぞを知っているんだ、と思ったがこのさい放って置くことにする。いちいち相手にしていたら私の身がもたない。

「なんですか、さっきまで気にしていたくせに!」

「何で私のことを知っているんですか! ヘンタイ、ヘンタイがここにいます!」

「変態ではありません! ノウミソクイクイです!」

「帰ってください! っていうか消えてください! だれか、だれかー!!」

 と、お互い叫ぶこと十数分。けっきょく周りにだれも来ることはなかった。

 私もすごくがんばったが、男は私のうでをしっかりとつかみ、なおかつ全力で叫んでいたのでかなりがんばっていたと思う。しかし、体力の限界らしく、ぜいぜいとお互い肩であらく呼吸をしていた。

「や、やっと理解してくれましたか……」

「理解、じゃなくって、じょうほ、です……」

 理解できるだろうか、いいや、りかいできない。そんな風に考えながらいると、じしょうノウミソクイクイ男はつかれたような顔をして私を見た。

「それでも、構いません……。あなたが、話を、聞いて、くれ、る、なら……」

「それより、も、こきゅうが荒いですよ……。むりして話さなくても、平気、ですよ……」

 ぜいぜい、と私も男も荒くこきゅうをしていた。しばらくはまともに会話できないだろう。そう思っていても、男は話をしたさそうにうずうずしていて、やっぱり口を開いた。

「いいえ、話させてください……」

 それから大きく息を吸って、同じぶんだけいきをはきだした。

「どうして、ノウミソクイクイが脳味噌を食べるか、知りたいのでしょう?」

 しょうじき言ったら、どうでもいい。けれど、男を早く帰らせるためにはその話をだまってうなずいて聞くほうがけんめいだろう。

「そうですよね。それはですね……実は、知識を得るためですよ!」

「……はい?」

 なんだかうれしそうに言う男のことばをきいても、まったくいみがわからなかった。

「ちしきを得るため、ですか」

「そうです」

「それって、私たちが本を読んだりべんきょうしたりするのといっしょですよね?」

「そういう事です」

「へー……」

 なっとく。いや、なっとくっていうのも変だけれど、とりあえず『ノウミソクイクイ』はちしきを手に入れるためにのうみそを食べるらしい。ふーん、へー。

「あの」

「はい?」

「言っていいですか?」

「どうぞ」

「どうでもいいです」

 私が言うと、男はぱちぱちと瞬きをした。どうやら、驚いているらしい。

「あんなに知りたがっていたのに、ですか?」

「あんなに、って……。べつに、すごく知りたかったわけじゃないですし。ちょっときになっただけですよ」

「そうですか。でも、それより気になることはありませんか?」

 男がほほえんで私にきく。

「あなたがどこのだれか、とか?」

「それは最初に言いましたよ。ノウミソクイクイだって」

「じゃあとくにないです」

「おや」

 いがいそうな声を男が上げた。そんな、「おや」っていわれても、もうきにすることなんてないじゃないか。早くいえに帰りたいのに。

「何で早く家に帰りたいんですか?」

「だって、つかれたから」

 今日もがっこうのじゅぎょうがつかれた。ぶかつだってつかれた。早くいえにかえって休みたい。

「学校で何を学んだんですか?」

 すうがく、えいご。あれ、あとげんだいぶんはあったっけ? せいぶつもやった気がする。あれ、すうがく? すうじ? って、なんだっけ。 えいごは、あれ、なに、それ?

「家はどこにありますか?」

 いえはいえだろ。だから、このまままっすぐ……じゃなくて、右にまがって? みぎ、ってどっちだっけ? あれ?

「あなたが知りたかったことは?」

 だから、おとこがどこのだれか……じゃない。それはほんにんがいっていた。どこのだれか、じゃないけれど、名まえはいっていた。だから、わたしがしりたかったことは

「なんだっけ……?」

 わたしがつぶやくと、おとこはくすりとわらった。

「おやおや、お忘れですか?」

「……あなたは、ほんとうにだれなの?」

 おとこがわらう。わらってるのに、ぜんぜんそうみえなくて、こわい。からだがふるえて、なきたくなった。めのまえにおとこと、くろいてんが、ちらちらとみえる。てん、てん、てんてんてん。なに、これ?

「忘れたのですか?」

 きこえてこない、はねのおと。くろいてんがゆらゆらとしてる。

「違いますよ」

 おとこがいう。じしょう、なんとかかんとか。

「食べたんですよ」

 なにを?

「あなたの脳を」

「わたしののう?」

 そういえば、このひとのあれは、えっと、えっとなんだっけ?

 ええっと、その、あの、だから、えっと、あれ?

 たしかなんかいってた。だから、その、のうをする、その、えっと?

 あれ、なんか、おかしい? おかしいって、なに? あれ、ここ、わたし、あの、なにが、えっと、あの、あれ? あれ? え?



「耳から入って、脳みそを食べちゃうからだよ」

「まあ、そのまんまの名前だよね」

「何で食べると思う?」

「さあ……。かにみそみたいか感じで、おいしいんじゃないの?」

「違う違う。ちゃんとした理由があるのよ」

「理由?」

「あいつら、私らの脳みそを食べるでしょ? そしたら、脳の中にある知識を手に入れるのよ」

「へー」

「あ、信じてない?」

「信じてないよ。当たり前じゃん」

「あーあ、ダメだなあ。そんなこと言ってるから、知らない間に食べられてるんだよ」

「まさか。でも、耳に入ってきたらさすがに気付くでしょ。音とか何か入ってきた感じとかでさ」

「あいつら小さいからわかんないよ。それに、私らの知識だって知らないうちに食べられてるんだって」

「まさか。ありえないって」

「そう言ってる間に、食べられてるかもよー」

「まさかぁ」


くろいてんが、てんてんてん。

ぶーんて、して、そしたら、あれ?

なに、して、あれ?

わた、し? て、なに? あ、なんか、い、やな、え? なに? が?



「ふむ、これはまずまずの味でしたね」

「おや、私が何を食べたかって? ……さあ、何だと思いますか?」

「そうそう、夕暮れ時の帰り道には気を付けてくださいね。虫も多いですし」

「え? 何を気を付けるかって?」

「……ふふ。さあ、何に気をつけたらいいでしょうかね?」

「それは、ほら、あなたのそこで考えてみたらどうですか?」

「あなたには、まだ、あるんですから……その、美味しそうな……ふふっ」

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ノウミソクイクイ 桃月ユイ @pirch_yui

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