ジョーセフと二頭の山羊
フカイ
掌編(読み切り)
崖の下に道が通っている。
道はまだ舗装されておらず、古代から行き交う人が踏み固め、近代になってはクルマの轍がそこを道として成り立たせていた。この道はかつて、アレクサンダー大王が通り、チンギスハーンが通った。中央アジアの重要な街道でありながら、交通の難所であり、21世紀の今となってもまだ、舗装路が通っていない。
山間いのその道は大きくカーブしており、その道の向こうはさらに崖として、谷底へつながっている。カーブの頂点には、粗末な小屋がひとつ、立っていた。
風が吹いてゆく。
緑のほとんどない、黄土色に乾いた谷間。風は砂交じりの旋風となり、行く人の目を射る。
この地の人々は、したがって、顔のほとんどをターバンで覆い、その砂風を防ぐ。
そこへ、ふたりの兵士が歩いてきた。
ふたりは黄土色の戦闘服に身を包み、同系色のヘルメットをつけていた。ひとりは長いライフルを持ち、もうひとりは機関銃を背にしていた。彼らはヘルメットから伸びたインカムに向けて、ずっと何事かをしゃべりながら歩いていた。
ジョーセフはそれを、崖の上から眺めていた。
ジョーセフの脇には二頭の山羊、アシムとカリムがいた。
アシムとカリムはすこしも
これでしばらく、おとなしくなる。
まだ14歳のジョーセフはもう一度、崖のふちに戻った。
風がふいて、彼の着ているゆったりしたシャワールのずぼんをはためかせた。はたはたという衣擦れの音はしかし、崖下の兵隊の耳には届かない。
兵隊はこんなところで何をしているのだろう、とジョーセフは思った。カーブを抜けて、下り道を降りれば村がある。村にはあの方が滞在している。あの方がそこにいることは、兵隊たちには絶対に知られてはいけないことだ、というのはジョーセフにだってわかっていた。
しかし兵隊たちはすこしも緊張することなく、街道を歩いていた。都市や、兵隊たちの駐屯地からずいぶん離れたこんな場所で、いったい彼らは何をしているのだろう。ジョーセフの疑問は深まった。でも、そんなことは14歳の自分にわかることではない、と彼は素直に結論した。そして背中にたすき掛けしていた布袋を手に取った。
布袋の中には、野ネズミを撃つためのコンパクトなライフルが入っていた。ジョーセフはそれを手に取り、シャワールのポケットから、布に包まれた弾丸を4つ、取り出した。
金色の薬莢を手のひらに並べてみる。美しい造形物だと思う。
ジョーセフは学校には行けなかった。家が貧しく、子どものころから家畜の世話をしなくてはならなかったからだ。
だが、なぜかライフルの腕前は大人顔負けだった。野ネズミやヤマネコなどの小動物を見つけ出す目、そしてそれを正確に打ち抜く技術。銃の基本的な操作の仕方は叔父に教わったものだが、そこからこのような高度な狙撃を行えるようになったのは、まるっきり自前の才能だ。
ジョーセフは落ち着いて、ライフルに4発の弾丸を込めていった。
ふと、アシムとカリムのほうを見る。二頭は塩を舐め終わり、その場にしゃがんで主人の帰りを待っていた。
ジョーセフは崖のふちの地面にしゃがみ、そして腹ばいとなった。ライフルの粗末なスコープ越しに、西洋人の兵隊たちを見やる。
兵隊たちはあのカーブの小屋に興味を持ったようだった。ひとりが道路わきの岩に身を隠し、もうひとりが小屋を偵察に行くようだ。手信号をさかんにやりとりしながら、彼らは動いていた。
あの小屋は、ジョーセフのような牛飼い、羊飼いたちが休憩するための施設だ。まだ午前中のこの時間に、あんな小屋で休むものはいない。愚かな兵隊め、とジョーセフは思った。
頬にライフルの銃座を押し付け、右手で引き金に指をかけ、左手と手近な岩でしっかりと重心を固定した。距離と風を自然に計算に入れ、照星の先にいる西洋人のヘルメットを見据えた。斥候として忍び足で進んでゆくほうの兵隊を先に片づけることにした。斥候の黄土色のヘルメットを背後から狙う位置に、ジョーセフはいた。指先が引き金にかかり、力を籠めようとしたその瞬間。
ジョーセフは隣に誰かがいることに気が付いた。
見やると、そこに、神様がいた。
白い清潔なシャワールに、鳥の模様の入った青いシャツを着ていた。顎を覆うひげと、深い眼窩から見える、青い瞳。それが自分を見下ろしていた。
神様は、にこやかな表情を浮かべていた。その目は、ジョーセフの心のなかを貫き通した。
人を殺すのは良いことではない。
それはジョーセフにだって分かっていた。けれども彼らは自分たちの倍、殺していた。罪もない村人も、遠隔操作の爆弾で、何人も殺した。ジョーセフの先生になるはずだった女性も、彼らに殺された。だからあの方が立たれたのだ。彼らをこの地から追い払うために。
ジョーセフの国は、歴史が始まる前から異民族によって蹂躙されてきた。蹂躙そのものが、彼らの国の歴史だった。だから、異民族を殺すことは、自らが生きるために必要なことだった。
でも。
ジョーセフは、あの兵隊を殺したくない、と願う自分が心のなかにいることも知っていた。山羊のアシムとカリムは夫婦だ。もしアシムが死んだら、カリムは嘆き悲しむだろう。それと同じようにあの兵隊にも、海の向こうの祖国にきっと家族もいるに違いない。それがここで死んだら、きっとその家族は悲しむだろう。
できることなら、自分だって、殺したくはないのだ。
神様はそのジョーセフの葛藤を、すべて見抜いたうえで、微笑しておられた。
神様は、何も言わなかった。ジョーセフに伝えるべき何事かを、神様は何一つとして持っておられないようだった。ただ、ジョーセフが心に消し去ろうとしていた感情を、たった一度の目配せで思い出させ、彼の心を揺らした。
「神様…」とジョーセフは言った。「ぼくはどうすれば?」
だが、神様は最後まで何も答えず、フッ…とその場から消えてしまっていた。
●
その1分前。
ジョーセフのいる岩山の上空300メートルのところで、アメリカ空軍のRQ-1無人航空機「プレデター」が、第13歩兵コマンドと連携を取りながら稼働していた。
その航空機はこの地から76万マイルも彼方のアメリカ合衆国アリゾナ州にある空軍基地から無線操縦されていた。歩兵コマンドの斥候部隊は、後方に止めた支援車両から降りて、徒歩で敵将校が潜伏すると思われている村に近づいているところだった。
歩兵コマンドの行動を航空支援しているアリゾナ州の基地のプレデター操縦班は、その対地カメラの映像に、斥候部隊の背後の岩山の上に銃を持った敵兵の姿を認めた。操縦班は即座に斥候部隊に脅威報告を行った。が、通信機の不調で何度呼び出しても斥候班にメッセージが届かなかった。
プレデター操縦班の、曹長と先任上級曹長はとっさに判断を下すしかなかった。斥候班の命には代えられない。プレデターが内蔵する航空爆弾のうちのひとつを、あの岩山に発射することとした。ジョイスティックの脇のボタンを、先任上級曹長が押す。
と、プレデターのラッチから放たれたヘルファイアミサイルは、一瞬空中を自由落下した。その後ロケットモーターに点火し、一気に速度を上げて目標に向かって行った。
ジョーセフが神様と目が合わせていた時、同時に神様はそのヘルファイアミサイルの誘導回路に介入し、その着弾点を北へ200メートルほど、ずらした。
実はアリゾナ州空軍基地と斥候部隊とのラジオ通信を妨害したのも、神様の仕業であったが。
●
ヘルファイアミサイルがジョーセフの背後の岩山で爆発したのは、彼が引き金を引くわずか0.1秒前のことだった。距離が近かったため、爆破の衝撃波と爆発音が同時に轟いた。そしてジョーセフのライフルから打ち出された弾丸は、その衝撃波の影響を受け、わずかに右へそれた。
小屋に近づいたマーカス上等兵はまず背後で鳴った轟音に気づき、その直後、自分のわずか左の地面に着弾したライフルの弾丸に気づいた。彼は本能的にその場を走ると、道路の向こう側の崖に逃げ延びた。
マーカスは無線で伍長を呼び出し、状況把握に努めようとしたが、なぜかラジオ通信は不調となっていた。マーカスはその後に攻撃がないことを確認した後、伍長の元まで戻り、後方の支援車両に引き返すことにした。ここはやはり、あまりに危険すぎる、と判断した。
ジョーセフは自分がもはや優位に立っていないことを瞬時に悟り、アシムとカリムのほうへ走った。そして岩陰で主人を待っていた二頭の山羊に怪我がないことを知ると、心から安心した。
アシムの首に抱きついて、その匂いをかいだ。すると、カリムがジョーセフの頬を舐めてきた。
「よせよ、カリムったら」
といったジョーセフは、知らぬ間にこぼれていた自分の涙を、カリムが舐めていたことに気づいた。
神様、とジョーセフは思った。
ジョーセフと二頭の山羊 フカイ @fukai
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