第二部

高坂進乃は独特な大きい庭園のある病院の一人部屋で、シンプルな白いクルーネックのシャツの上から、ジップの付いた黒いジャケットを着て、ベッドに座っていた。ジャケットは、マットな質感の素材で光沢感がなく、大人びた印象を周りに与えていた。下は茶色のデニムパンツで、足元は地味なサンダルだった。目は切れ長で、美しく、髪型は肩につくくらいのいわゆるセミディで、ローレイヤースタイル風であり、片方の目が一方の前髪で隠れていた。毛先は、ヘアーアイロンでつけたような波打ちウェーブをしており、色白の顔には、歪んだ表情が見え、物憂げだったが、美形であり、姿を見たものとしては美的感覚を刺激される人が大半であるように思われた。

進乃に父と母と暮らしていた。恵比寿にある駅前通り商店街で、中古で購入したデジタルスチルカメラで撮った幼馴染の櫻子と一緒に撮った写真が、フォトフレームに収まって病室の棚に飾られていた。それを眺めるたびに、自分の「歌を歌う」という理念を思い出していた。

進乃の家から櫻子の家は近所にあり、二人はやんちゃで、よく近くにある公園で二人で遊ぶことが多かった。その公園である日、シンガーソングライターがライブをやっており、それを見て、その時、将来歌手になって、一緒にユニットを組もうという提案を進乃がし、櫻子は了承し、二人は約束をした。音楽は人を楽しませてくれるとその時肌で感じた。

思ってみれば、いつも進乃の周りには歌があった。母は小さい頃から、休みの日は、CDを流して、ゆったりするのが楽しみだった。シャンソン、カンツォーネなどの音楽をよく口ずさんでいた。それをよく聞いていた。そして公園で二人は歌の練習をしたりした。進乃は「私は歌を歌うから、櫻子はギター担当ね」と言った。櫻子は親戚の家からもらってきた地味なギターでまだコードもわからないままに、進乃が歌う歌に合わせてなんとなく弾いた。下手だったが、セッションするのは楽しかった。だが、ある日、櫻子は突然事故死した。公園に向かっている最中に起こったことだった。進乃にはその対象喪失はあまりにもショックが強すぎ、火事の時に煙を思いっきり嗅いでしまったかのような反応を見せた。それから進乃の性格は極端に内的な方向に沈潜していった。中学を卒業し、音大付属高校を受験するが、不合格であった。そして、普通科に入学し、吹奏楽部に入るも、進乃の歌手になりたいという理念が強すぎ、周囲と打ち解けることはなく、進乃はやがて吹奏楽部には顔を見せなくなった。進乃の性格が変化してから、家庭内でも特に喋らなくなり、関係性はざらつくようになった。父親は毎日酒を飲み、特には母親に暴力を振るうこともあった。進乃はある日、包丁を持って酒をやめるように父に叫んだことがあったが、父は変わることがなかった。進乃はそんな中で、家にいることが嫌になった。そして毎日のトレーニングのために外にでる機会を増やした。朝は早く起きて、体力をつけるためのジョギング、それから屋内での発声練習。さらにはアコースティックギターを買うために、アルバイトをすることにした。


初めてアコギを見たときのこと。

御茶ノ水にある楽器屋に入ると、年かさの男性店員が一人いるだけで、「何か探してんのあんの?」と聞いてきた。

「単純にギターが欲しくて」と進乃は言った。そこで店員と話しているうちに、一つのギターを見つけた。「Dove PRO VB」というものだった。表のピックガードの部分に鳥のマークがあり、それが気に入った。値段は税込で三万五千円ほどだった。「これはエレアコって言って、パソコンに繋いだりすることもできる」と言われたが、正直それは必要ないと思われ、普通のアコギでよかったけれど、「パッと見た瞬間デザインがいいっていうんだったらこれがいいよ。間違いない」と言われ、ギターを少し弾かせてもらいしっくりきたのでこれにすることに決めた。

「ギターって世界に一つしかない。そうじゃない?木って、何千本、何百本ある中の一つでこれを作ってる。人間と同じなんだよ。人間一人一人が個性を持っている」と男性店員が言った。

「そうですね。愛着が湧きそうです」と進乃は真剣な面持ちで返事をした。

「弾けば弾くほど愛着が湧くんだよ」

進乃はそのギターがすぐに欲しくなり、楽器屋に「アルバイトなど募集してないんですか?」と聞くと、「スタッフが何人かいるから、今は募集してないかな」と言われた。進乃はその楽器屋をあとにした。音楽が近くにある空間でバイトがしたいと思い、他の楽器屋にもバイトを募集していないかどうか調べ、見つけると、とにかく急いで応募することにした。

楽器には詳しくないが、シンガーソングライターを目指しており、楽器は魂、というようなことを言った。しかし結果は不合格だった。お客にコードなどを教えてもらう機会ができたかもしれないのに、そのとき、すべてが動き、向上が湧き立つのを感じたかもしれないのに。と思った。やがて時給が高かった居酒屋で働くことにした。さしあたり給料でギターを買うことと、コードを覚えることだ。頭の中にはギターのことでいっぱいだった。それを手にしたときの衝撃を想像する。しっくり私の手に収まってくれる。あの鳥も。毎回朝起きたらそれを見て、寝るときにはそれを見て眠っているときでさえも頭の中で音色が聞こえてくる。どんな音が出せるんだろう?私に釣り合っているだろうか?釣り合っている!楽器屋の人も言ってくれたのだし!ああ早く!進乃はZABADAKの「遠い音楽」を聴いた。こういう音を奏で、歌を歌いたいと心の底から思った。


進乃は日々の中で常にあのギターを思い浮かべ、それを持って帰り自分の所有物になるところを想像した。その物体が道標であることを考え、感嘆した。早く持ちたかった。音を鳴らしてみたかった。学校帰りに楽器屋に通い、それが売れてしまってないかどうか確かめた。進乃はバイトをしている時もほとんどそのギターを早く手にしたい、弾けるようになりたいという思いしかないと言ってもいいほどだった。そして給料が入ると、その楽器屋でギターを購入した。「本も買うといいよ。本がないとわからないから」と言われ、本も購入することにした。ギターを家に持ち帰っている時の喜びは何にも代えがたいものだった。そして部屋であぐらをかきながらギターの練習を始めたのだった。やがてオーディションを受けてみることにした。両親にも知らせず、プロダクショングループが主催している育成オーディションに応募した。自己PRと、歌唱審査と、グループワーク。会場は中目黒で行われ、焦りと不安により、混乱していた。 ZABADAKの「Psi-trailing」の音源を用意し、歌った。結果は落選だった。さらには「君には決定的なものがない」と言われる始末だった。進乃は心臓が潰されそうなほどショックを受けた。そこで、インターネットで「音楽塾」というものの存在を知ると、受講したいという気持ちが募り、すぐさま応募することにしたが、その時分に急に、突発性難聴になってしまい、病院に急遽入院することになった。



進乃はベットに座りながら、いきなり自分の頭をまるで缶を握りつぶすように片手で掴むと「私は絶えず…」と言った。

それから急に力を落とし、肘を太ももの上に置き、目線をまっすぐ見やると、またムンクの叫びのように頬に両手を当て、それから急に立ち上がり、辺りをうろちょろし、身の置き所がなかった。そしてまた座った。目をつぶった。目をつぶってはいけないと思って、唇を噛んだ。頭が短絡しているといったらいいだろうか。何もかもが進乃を不安にさせた。



進乃は樹木に緩やかに遮られている病院の庭のベンチに腰を下ろした。その庭は約三千平方メートルくらいあり、様々な草花があった。病院の庭には、薬草園を兼ねた園芸療法庭園があった。サトザクラ、アヤメ、バラ、ルピナス、ゼラニウム、カーネーションなど様々な種類の花があり、パーゴラには藤の花が咲き誇っていた。


その物思いにふけっているような進乃の姿を見て、白衣を着たとある二十代前半の男が話しかけてきた。

「こんにちは。園芸療法士の千田って言います。ちょっとお話いいかな」

「私は突発性難聴なので」と進乃はそっけない返事をした。

「耳、聞こえづらい?」

「そうですね」進乃は目を合わせず下を向きながら言った。

「片方の耳が聞こえないのかな?」

「はい。左耳が全く聞こえません」

「そっか、ごめんごめん。僕はここで働いている園芸療法士で、君の姿をよく見かけてどうやらしょっちゅう何か考え込んでいるようだったから少し気になってたんだ」

「そうなんですか」と言った後に進乃は「園芸療法士ってなんです?」と聞いた。

「簡単に言えば、花とか緑とかそういう空間で人を癒すことを仕事にしている人だよ。日本園芸療法士協会から受講すれば、働けるんだ。本来、園芸療法というのは、要は作業療法で患者が園芸に参加して、その活動を通して心身の機能を回復させることを目的としているんだけど、僕はここではガーデナーのお手伝いをしたりしているんだ」

「そうなんですか」

「うん。ところで君の名前はなんて言うの?」

「高坂進乃ですが」

「進乃さんは、入院するようになってどれくらい経つの?」

「一週間くらいです。耳に異常が出てから、安静にして治療に専念したほうがいいって言われて、ステロイド薬を飲んで、神経保護のためにビタミン剤の点滴をしています」

「そうなんだね」

「早急に治療を受けて、三週間経つと、症状が回復しないらしいです。そして、適切な治療を受けて難聴が完治する確率は半分もないらしいです。ずっとこのままなんだって思ったら…」

「治る。きっと治るよ」

「ギターを練習していたら、ある日、もわもわと誰かに息を強く吹きかけられたように、ざわざわした感じになって急に耳が痛みだしたんです。私は歌手の生命線である聴力を失ってしまいました。それと、私は言われました。医者にこうも言われたんです。どうも強迫性障害らしいって。だから精神安定剤も処方されています。もしこの歌手になりたいという思いが、強迫性障害の一つの症状だとしたらって思いました。私は小さいころ、絶えず深く息を吸い込まないと気が済まなかったり、よく道端を歩いていても、落し物をしたんじゃないかって、よく道を引き返したりすることが多かったです。歌手になりたいっていうこの想いも、ただ強迫が雪雪崩のように、自分を襲っているだけなんじゃないか、本当に歌手になることなんて自分にはできないんじゃないかって思って本当に怖いんです」

「その強迫を歌にすればいいじゃないか。その実存的な感覚を投げつけるようにさ。そうして奪い返すんだ。いまのどうにもならない強迫でさ。進乃さんは精力的になれる素質を持っているんだよ」と言おうとしたが、千田は言葉を引っ込めた。

進乃は不安そうな顔をし、無意識的に心臓に手を当てた。

「心臓が痛いの?」

「いえ、昔のことを思い出して、少し胸が苦しくなっただけです」

「昔のことってなんだい?ごめんもしよかったら聞かせてくれないか」

「私の大切な友達が死んだんです」

「え…」と驚いたように、千田は言った。

「私はその子と一緒にユニットを組んでメジャーデビューすることを夢にしていました。あの子はいなくなってしまいましたが、私はどうにかして彼女との約束を果たさなければなりません」

進乃は目の焦点を同じところに合わせながら喋った。

「それが一縷の望みなんです。どうにか私はその想いだけは叶えなければならないのです。私たちはよく二人で木を登ったり、好きな音楽をかけて昼寝をしたりしました。ひだまりの中で笑っていました。でも、ある日、突然事故で亡くなったんです。それは車道を跨いで公園にいる私のところに向かってくるときでした。私がいなかったら、彼女は死ぬことはなかったんです」

しばらく重い話が続いた。千田は言うべき言葉を見つけるのに苦労したが、「音楽を歌うのは楽しい?苦しい?」と千田は聞いた。

「いや…」と進乃は考え込むような表情をし、「うーん」と何回もつぶやくように言った。「楽しい…いや正直、苦しいです」

「じゃあなぜ歌を歌うんですか?」

「私には歌しかないからです。歌が私の全てだからです」

「どうなりたいかイメージするんだ」と言おうとした。だが、そうしたら今の進乃はどうなるんだ。その過程の中にいるんだとしても、彼女はもう自分の未来を先取りしようと絶えず焦っている。でもそうしたら今を肯定する方法なんてどこにもないではないか。彼女は歌を歌うことによってしか、自分とはなんであるかということを実感することはできないのだ。彼女にとっては、自分が作曲し、それを歌う歌そのものが他者と結びつき、初めて自分の生を生として感じることができる。ではどうしたらいいのだろうか。今を肯定したらそれは欺瞞だという意識によって、その瞬間に瓦解する。懊悩が深すぎて何かで気を紛らわせるということは不可能だ。彼女は日々、下降しているのだ。それを歌によって引き上げているのだ。引き上げたいのだ。こうなったら問題は一つだった。


千田は自分の頭を両手の手のひらでバンバン叩くと、何かを決めたように席を立った。そして空間を両手でなぞるようにした。世の中に認めさせる。彼女に必要なのは、形姿であり、それ以外は到底無意味なものだ。彼女自身に響くものは彼女自身の形姿であり、それは歌を歌って世に認められることによってしか得られない。ならば、ならばさ、やるしかないだろう。今、今、今、今、彼女にとっては絶えず今だ。絶えず今が問題で今がのしかかってくるのだ。彼女の課題は軽くすることだ。彼女の頭の中には絶えず歌があるが、混沌としている。精神安定剤を飲んだところで精神は安定せず、精神安定のための作曲にもならない。彼女の中にある核のような歌を形にして吐き出すまでは、精神安定にならない。絶対に。彼女にとっての現実とは、絶えず自分に現前するものに対しての対処であり、その中の火急的な苛立ちである。彼女は歌に囚われているのではなく、歌に囚われていると思っている今に囚われているのだ。外部からも内部からも蝕んでくる。でも内部からの方が痛むものだ。その強迫をどうにかして粉砕しなければならない。自分がやらなければならないのだ。その思い。メディアというのは焦燥に駆り立てる。実存をどうにもならなくする。

千田は園芸療法士の仕事に戻った。


「赤いカーネションが庭に咲いている

恋に落ちた香りを燃え立たせ

眠ろうとせず 待とうとせず

カーネションが持つ衝動はただ一つ

まずます性急に 熱烈に 奔放に咲くことだ!

私は見る 一つの炎が輝き 風がその紅炎を吹き抜けるのを

炎は欲望のために震える

この炎が持つ衝動はただ一つ

ますます早く 急いで 燃え尽きることだ!」

というヘッセの詩がなぜか千田の頭をよぎった。


千田は次の日、また同じベンチに座っている進乃の隣に座った。そしてあることを提案してみることにした。

「進乃さん、もしよかったら一緒に園芸作業をやってみないか」これは何かをすることで、一旦自分を、完全にではないが、忘れる機会を作るということを考えたからだった。

しかし、進乃は乗り気でないようだった。少し考え込み、それになんの意味があるんですかとでも言いたいという風に、千田の顔を見て、「よくわかりません」と言った。

「なにがわからないの?」

「なんで園芸作業をしなければならないのか」

「園芸作業は中枢性疲労やストレスに効果があるんだ。運動能力の維持や増進、新陳代謝の増進、心身の賦活にもなる。歌を歌うには筋力や肺活量も大事な要素だ」

「そんなことはわかっています!」と進乃は語気鋭く言った。

「わかりきったことを言ってしまった!」と千田は思った。左耳の聴力損失でそれどころではないのだし。病を治すことができたら。


「あ、魔法!」


進乃は次の日も同じくベンチに座っていた。進乃は病院に禁止されているギターを持ってきていた。そのギターを見ると、精神的にも落ち着くんですと医師に話し、今は弾いてはならないが、持ち込みは許可されてはいたものの、進乃は何度もギターの音をそこで鳴らしていた。

「進乃さんは本当の出口を見失っている」と千田はひとりごちた。

何かをして、一時的な気分解消にはなったとしてもその背後には絶えず鋭利なものが突きつけられている。


「これから、花の苗の移植の作業をするんだけど、よかったら一緒にやってみないか?」とまた千田は提案した。

「なぜ私がそんなようなことをしなければならないのですか?」

「植物を見ているだけよりも負の感情が抑制され、活気といった正の感情が増える」

「そんな理屈…」

「平鉢まきや箱まきで育てたものは、移植が必要なんだ。移植、この移植の作業をちょっとだけ一緒にやろうよ。生長して苗が大きくなってくると、場所が狭くなってくる。でも、花壇や鉢に植え付けるにはまだ小さすぎるから、小鉢やポットに一本ずつ仮植えして、苗を大きく育てる」

「だから、なぜ私がそんなことをしなければならないのですか?」と進乃は眉を寄せながら聞いた。

「魔法」と千田が言った。「気が向いたら来て」と千田は、鉢から抜いて、受け皿にさし一本ずつばらしく作業をやり始めた。

だが、進乃はベンチから動かず、やがて立ち上がり、その作業を見にいくも、作業に加わることはなかった。そしてまたベンチに戻った。

やがて「なら庭園を散歩してみないか?」と千田から声がかかった。

進乃は正直嫌だった。だが、仕方なく立ち上がり、庭園を見て回った。ただ感じたままに行動する進乃は、入院してからはいつものベンチに腰掛けるだけで庭園を見て回るという余裕なんてなかった。けれど、庭園を見て回っていると、不思議と嫌な感じはしなかった。こんなのただの娯楽かもしれないけど、なぜか気負うことなく、自然に受け入れられた。


次の日、進乃は、不承不承に園芸作業を受け入れた。千田の指示にしたがって、苗を指でつまんでビニールポットに植え付けた。移植の完成だ。


「そこで、僕は、君にあることをしたいと思うんだ」と千田が言った。


突発性難聴が治った。


その時、進乃は新鮮な空気が自分の身体に入り込んできたかのような心地になった。

「耳が治ってる」と進乃は片耳をおさえながら、驚いた表情をして、千田の方を向きながら言った。

「魔法が効いた」と千田は眠りから目覚めた時に自然と発せられる言葉のように言った。

進乃は震駭したが、しかし、暗い表情は決して変わることはなく、しかし、どこか期待が彼女の内に沸き起こり、それにこれから向かっていかなければならないという不安も同時に生じることとなったが、千田は言った。

「とりあえず、ギターに触れて、演奏してみたらどうかな。植物は音楽が好きなんだ。原形質が流動して、気孔ってわかる?葉っぱの表皮にある穴のことなんだけど、植物も人間と同じように呼吸しているよね。これに二酸化炭素とか酸素が、出たり入ったりして、呼吸するんだけど、音楽を聴くとそこが大きく開くんだ。表皮の内側にある棚状組織は長さと幅を大きくして葉は大きくなるんだ。植物の神経細胞は音楽の波長を受診する働きがある。例えば、ベートーベンとか、ブラームスとか、クラシック音楽とかを聴かせると発芽が早くなって、芽や茎の伸びも早く、開花も早くなり花数が増加していくし収穫率もよくなる。植物も人間と同じでリズムがあって成長している、このリズムに狂いが生じるとストレスが生まれるんだ。ストレスには二種類あって、善玉と悪玉があって、特に植物には悪玉のストレスが働くといわれている。植物も日々ストレスを感じている。進乃さんもストレスが原因で、突発性難聴になったのかもしれない。歌は日々の中にある共感で、それが歌の命だ」


進乃は、突発性難聴が治ったことを医師に告げると、もう少し様子見で、入院して安静にしていることは必要だが、このまま異常がなければ、退院することを許された。「発症してまだ二週間経っていないのであなたはラッキーですね。完治する確率は三分の一の言われていますからね。また、血管拡張薬やビタミン薬はまだ念のため退院するまでは続けてください」と医師に言われた。


進乃は夜の病室で、半ば無意識的にギターの弦を弾いた。音がなる。それを意識する。また弾いた。音がなる。それは徐々に奏でられ、花や、木の幹がそうなっていくように一つの形になっていく。物理的に目を閉じ、心地よい目の中の黒色だけが見え、それだけに精神が浸かっていくかのように、弦に語りかけるように弾いていった。音の世界に入っていく、自分ではない、音の世界に入っていく。しかし、進乃は自分の気持ちを安定させることはできなかった。それはギターを弾いている時でも不可能なことのように進乃には思われた。それは底知れぬ恐怖であり、自分の内面から蝕んでくるもう一つの墨を流し込んだような真っ黒な音である。それに取り憑かれると進乃は心臓が弦でがんじがらめにされたように縮こまり、下を向き、顔を抱え、さらには泣き出すこともあった。「どうして、どうして弾くことができないの」と進乃は身もだえした。手には汗が滲み、今にも死んでしまいそうに顔色が青白くなった。「眠れ…いや、眠ることはできない。私は弾かなければならない。それでないと進めない。私は進んでない。弾かなければ、音楽を作らなければ進めない」この苦悶は誰に受け取られることはなかった。進乃は自分のノートを開き、ボールペンで歌詞を書き始めた。言葉を書いて、それからギターの音を乗せることを考えた。歌詞の一行目から小さく歌った。千田の言っていた言葉、「歌は日々の中にある共感で、それが歌の命だ」という言葉を思い出していた。苦しみ、孤独、贖罪…様々なワードを頭に思い浮かべ、声に出したり、ノートに書いたりした。「でもどうしていきなり治ったんだろう。魔法ってなんだったんだろう」と進乃は気がかりだった。その日は眠れなかった。


朝方、進乃はベンチに座り、花壇や、藤が下がっているパーゴラに、黎明が差し込むのを眺めていた。ケヤキの木から小鳥が飛び立つ音を聴いた。その瞬間、夜通し塞ぎ込み、ささやき声で作っていた歌詞や歌が実りのある時間だったように思えてきた。ふと涙が出てきた。しかしその涙は朝日によってすぐに乾いてしまった。「歌わなくちゃ、未来に向けての健やかなエネルギーのためにも。櫻子のためにも、私は」

進乃はベンチでアコギをずっと鳴らし続けた。寂寥感に苛まれながら。時より、なんのために歌うのかわからなくあるときがあった。本当は歌なんて歌いたくないのではないかと思うこともあった。それは本当のことだと思った。でも私は歌わなければならないのだ。生きることは歌うことだから。内面にある何もかもが歌であり、それは以前まで瞋恚の炎のような属性を持っていた。だが、今日、現時点では、驚くほどに安らかだった。そして進乃はベンチの肘掛の部分にうつ伏せになり、眠ってしまった。

「進乃さん」そう声をかける千田を認識すると、進乃は起き上がった。

「今度、歌ってみませんか。あの公園で」と千田は声をかけた。

「歌う?」と進乃は眠りから覚めたばかりの薄い声で言った。

「そうです!そこで歌うことがあなたの出口になり、僕の出口になります!」

「僕の出口っていうのはどういうことなんですか?」

「決意と共に夢を終わらせなければなりません!」

進乃はまたもや意味のわからない千田の言葉に気がかりを感じたが、千田がいきなり声調を変えたので、「では歌います。なんだかわからないけれど。歌えるのならば」と言い「歌がまだできていないのでもう少し待ってください」と言った。

「わかった」と千田は言った。


歌ができた時には、進乃は退院を許され、退院することになった。



進乃と千田は昔、櫻子と一緒に行っていた公園へ足を運んだ。進乃は櫻子と別離してから、一度もその公園に足を運んだことがなかったので、進乃にとっては恐怖であり、そこで歌うということを考えたら、櫻子のことを絶えず意識せずにはいられなかった。進乃は動悸がした。何人かの人がいた。心細かった。本当は櫻子がギターを弾いているはずだったと思った。なぜ、私は今一人なのだろうと思った。そう思うと、手が震えた。

「私は歌うべきでしょうか?」そう思った。


進乃はギターのチューニングをし、自分の作った歌をアコギの音に乗せて、生声で歌った。 それはゆったりとした曲調の音楽だった。


祈りの手の中で歌う歌

あなたに

本当の言葉


どうか、明日のために少しだけ待って

心配を胸に抱いて


彼女は私の中に生き残った

私はあなたと明日のために一日一日を使った


あなたは今、私の隣で歌う


Can I sing now?

ここは、私達の町

決められた場所、私との約束


Can I sing now?

私達の夢が導く


空は、明日の表情を見る


私は今日歌う


私は今日歌う


黎明の鳥

あなたと共に


私は今日歌う


あなたはいつも私の隣に

きっとあなたが来て

私はあなたといつものように


明日の空を見て

私はあなたの側に


私は今日歌う


黎明の鳥

あなたの隣にいる

私は空の鳥のように再び歌う

私にはあの子の声が聞こえた


私はあの子と歌う


Are we shining?



それは殷賑とした雰囲気ではなかったが、その場にいた何人かの観客が進乃の歌を聴いて、拍手が進乃の前に注がれた。

目の前には爽快な光景が広がり、ただ真っ暗だった視野が一気に開けたように思え、全身に鳥肌が立つのを感じた。私はこのために生きてきたのだ。命が私をしている。なんて素晴らしい!私はギターの音色に身を委ね、その海岸の心地よい波の音のようなものをどんどん体外から排出するように歌った。それは一瞬にしておこった認識の飛躍であり、勢いよくほとばしる生命であり、噴出であった。それはどこか遠い彼方まで届くような気がした。なぜなら過去に体験してきた今までの鬱積の霧が今現在に至って光と共に眩しく取り払われたからである。暗い箱の中の実存の明るさであった。ずっとこのままがいい!と思った。感覚系統をただただ癒やしてくれた。歌っていること以外何もできないのが進乃には凄まじい喜びであった。永久に生きてこのままでいたいと思わせた。またこの境地に陥りたいから頑張ろうと決意した。全く色が変わって…。

ずっと向こうまで達したように思えた!


「自分自身が満たされて初めて、他の生物に目を向けることができる

そこで暮らす人の心が豊かなら、自然とそこにある人、植物、動物も、いきいきとしてくる。

水をやったり、少し肥料をあげたり、太陽の下に出したり、寒い日は部屋の中に入れたり…そうしていることで、毎日少しずつ、葉を増やし、茎を伸ばし、つぼみを膨らまし、成長していく様を見せてくれる。

それを見ていると、また本当にうれしくなって、心が安らかになって、花と私との間で、エネルギーを相乗しながら交換し合っているような…」とどこかで読んだことがあった。

進乃はそれを今まさに肌で感じていた。それは初めて感じた喜悦だった。進乃は一つ達成したと思った。弾みをつけることができたと思った。



生きるべきなぜを持っている者は、ほとんどいかなる事態にも耐えられる。とかつてフランクルの本で読んだことがあったな。彼女は生きるべきなぜを持っている。だから耐えられなければおかしいのだ!


「僕」は進乃に言った。「現在を大切にしなさい。現在進乃の中に生じているどんな問題でも大切にしなさい。大切にできないとしても、それはそれでいい。でも覚えておいてほしい。どんなになろうが進乃は進乃だ。たとえ窒息しそうになっていようが、誰もそれを見ていなかろうが、進乃は確かに今、現在、存在している。進むことができていないと思っていたとしてもそれは進んでいるんだ。花の茎の緑の部分が茶色に色変わりして腐っていくように、心の中にどす黒い感情が芽生えていったとしてもそれは進乃自身なんだ。これから何に触れてもそれに触れて感じた感情だけは本当なんだ。心を大切にしなさい。感情を大切にしなさい。感じたことは真実だ。そしていつか他人とそれを共にする時が必ず来ます。繋がりから離れた状態で自己実現しようとするのは空虚だが、もうこれからは違う」


進乃は今まで一人だった。だが意識の指導者、付き添ってくれる人が必ず現れる。それによってまた進乃の内にある音楽がどんどん形になっていく。その様は今は僕だけが知っていた。



僕は夢から醒めた。進乃と対話するという目的を果たすことができた。しかし僕は夢など見てはいなかった。それは全て創作だった。僕は一人だった。夢を夢とすることによって小説を完成させた。これを完成させた後、僕はこれは非常に恣意的な物語だと思った。交わした会話もわずかばかり。だが、もう僕はこのいま書いている文章を早く終わらせたかった。僕は早く何者かになりたかった。僕は移植できただろうか。僕は変化したい。別の自分になりたい。正直、僕はこの先どうなるかわからない。果たしてこのような作を応募しても良いのだろうか。様々な感情が今を支配している。それはこのテキストが他人に見られるということ、誰に見られるかわからないということ、もしかしたら誰にも見られないのではないかということ。でもそれはまた僕が進乃と対話できたように克服することができる課題であると僕には思われた。僕はこの小説を駆け足で書いた。もっと描写にこだわりを持つべきだと僕は思った。だが、自分を出さないと僕はもうどうしようもなかった。自分はすぐさま他者と相対化され、その坩堝の中でこの先進んでいくためには、もう終わらせるべきだと思った。

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