碧虚に落つる

 ふ、と私は宇宙そらを見上げていました。正確には眼前に広がる大海原の様な空を、ですけれども。


 近所にある川沿いの芝生の上に制服のまま寝転がって蒼空を見上げていたのです。

 吸い込まれそうな程に気の遠くなる蒼は私の目を離させてはくれません。


 御空みそら色の天空を眺め続けていれば、私の魂も空にしまいそうだな、と感じたのです。落ちて、と表現したのは明確な意図があります。私にとって空とは大切な人を奪った場所に他なりません。大海原とも形容出来るこの天は美しすぎる死刑執行所なのです。


 あの人は罪を重ねすぎたのかもしれません。だから、空に落ちた。けれどもその道理でいくならば私も落ちねばなりません。あの人は後追いするなと言いますけれど、ならば私も等しく断罪していただきたいのですよ。あの人が百千ももちの罪を重ねたのなら、私はよろずの罪を背負っていましょう。


 つう、と風が頬を撫ぜました。そよそよと吹く風は卯月や如月の頃合いなら暖かいでしょうが、今は師走。刺すような痛みが私を襲います。師走の風は心を突き刺し傷を抉り、夢から醒まそうとするのです。私はこの風が大嫌いなのです。何故なら、私からあの人を奪ったから。この大きな御空と同じくらい、憎たらしいのです。


 嗚呼、早くあの海に落としてくれませんか。今か今かと心待ちにしているというのに、天の神はなんて非情なのでしょう。罪人は罪人らしく懺悔と共に身を震わせろということでしょうか。なんて惨いことをするのでしょう。私は気が狂ってしまいそうでした。――いえ、もうとっくに狂っていたのです。


 空の端が藍色、瑠璃色、紺青色へと蒼の深さを増してきた頃、段々と茜が差して参りました。陽が落ちてきたのだと自覚する頃、私は何かするり、と抜け落ちる心地がいたしました。そしてふわりふわりと昇り……いえ、堕ちていったのです。


 そして遂に藍の混じった茜色の海に辿り着いたのです。大海原はとても心地好いですから、私は果てるまで泳ぎました。身体がなんて軽いのでしょう。自由です。足枷も口枷も外れ鳥の様に天を泳いだのです。


 何れくらい泳いだ頃合いでしょうか。何を思ったか、突如上とも下とも判然と致しませんが、私が先程までいた芝生の方を覗いてしまいました。


 其処には蒼白い顔で糸が切れたかの様に横たわる私の身体が在りました。私は今此処に在るというのに、身体だけが其処に在りました。混乱した私は泳ぎ方を忘れ、茜の海に溺れ始めます。


 足を取られれば人魚だって沈みましょう。私はどんどん溺れてゆきます。しかし不思議と息苦しさはありますが、苦痛ではありませんでした。お酒を頂いたことはありませんが、あの人のお側に居たときの様な夢見心地というような感覚でした。


 これが酔うということなのかもしれません。酔って溺れて往ぬなんて、猫の終末の様ですね。此処はもしかして、水瓶の中なのでしょうか。あの人が溺れたがった理由が今になって分かる気がいたします。


 段々と意識が薄れてきました。目を瞑ればあの人の隣に行けるような気がします。


 約束を守れずすみませんね。私、あの人のいない世界で生きていくことに価値や希望が見出だせなかったのです。此処は良いところですね。


 さて、そろそろあの人の下へと逝きましょう……

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天つ空に溺れて 東雲 彼方 @Kanata-S317

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