第20話 潮風のKISS

 平成30年夏。

「美姫、ちょっと、ドライブに行かないか」

 夫の達也は、新車で買ったスズキのスイフトスポーツで遠出したいのだろう。

 二人の子供も既に、この家を出ている。

「どこに行くの?」

「そうだな、御前崎にでも行こうじゃないか?」

「えっ、今から。もう12時よ」

「大丈夫さ。土曜日だから空いているだろう、夏休みだし」

「夏休みって言っても、学校だけでしょ」

 だが、美姫はちゃっかり外行きの服に着替えている。

 達也は、スイフトスポーツを150号線に乗り入れた。

 掛塚橋を渡ると昔は竜洋町だった町が、今では磐田市だ。

「ここら辺りは、あまり変わらないな」

「そうかな。私はそんなに行った事がないから、分からないけど」

「そうだよ、スーパーが出来たくらいかな。そう言えば、美姫っていくつだっけ?」

「ホホホ、何言ってるの、同い年だから同じ53歳でしょ」

「ああ、そうか。それもそうだな」

「結婚生活30年よ、分かっている?」

「もう、そんなに経つのか。美姫と結婚して30年も一緒に居たのか?」

 達也は、しみじみと言う。

「後悔してない?」

「してると言える訳ないだろう」

「何、それ、してるみたいじゃない」

「してない、してない。俺は美姫で、ほんとに良かったと思っている」

「どうかしら?」

「疑り深いやつだな。30年か、いろんな事があったな」

「そうね。結婚当初から、あなたのご両親と同居してたじゃない。私が、あなたの家に馴染めなくて、ストレスが溜まっていた時があったわ。

 お義母さんがそれを見て、外に食事に誘ってくれた事があったの。それからね、ちょっとした事だけど、それで大分救われたような気がする」

「そんな事が、あったのか?」

「あなたは、鈍感なのよ。だから理恵ちゃんの作戦にまんまと乗っかったのよ」

「それは、もう昔の話だろう」

「あの時、あなたの妻になるとは思っていなかったけど」

「だったら、誰のところにお嫁に行くつもりだったんだ?」

「やっぱり、たっくんのところかな」

 美姫はあなたと呼ばすに「たっくん」と高校の時のように呼んだ。

 美姫とエアコンの効いた車内に居ると、昔の事ばかりが思い出される。

「美姫、後悔していないか?」

「何よ、今更。フフフ、してないわよ」

「だけど、仕事で家を空ける事も多かったし」

 達也は仕事柄、台風の時などは呼び出しで、夜でも風雨の中、出勤して行った事もある。

 その時、乳飲み子を抱いて美姫は送り出してくれたが、美姫だって不安だったハズだ。

「そうね、でも、それが、たっくんの仕事だから。一番辛かったのは、東北の地震の時ね。会社からの呼び出しに、私にも相談せずに『行きます』って答えて、1週間も帰って来ないんだもん」

「ああ、あの時か。自分だけで決めて悪かった」

 達也は東北の地震があった、その日の夜、第一陣として浜松を出発した。

「あの時、行かないと言ったら、私は離婚届を書いていたわ。たっくんなら行くと言うと思ってたし。テレビで放送されて、私も出発の準備もしていたから」

「だから、会社から出発のために家に一旦、帰って来て、直ぐに出れたのか」

「そうよ、東北の様子がテレビに映ると大地と美咲に、お父さんが行って『東北の人たちのために、お仕事しているのよ』と、言ってたのよ」

 大地と美咲は息子と娘だ。

「だけど、1週間で交代部員が来たからって、帰って来た時は臭かったわ」

「おいおい、それは失礼だろう。頑張って来た夫に向かって」

「だって、本当の事だもん。たっくんが入ったお風呂のお湯、全部交換したんだからね」

「まるで、粗大ごみ扱いだな」

「でも、そんなたっくんは私の誇りだよ」

「美姫だって、看護婦の仕事を頑張っているじゃないか。一度、退職したけど、また就職してさ」

「それはお義母さんが、大地と美咲の面倒を見てくれたからよ」

「俺からすれば、美姫の方が凄いと思うぞ」

「なら、定年になったら、どこかに連れて行ってね」

「英語の勉強をしなくては」

「誰も海外って言ってないじゃん」

「新婚旅行だって、満足な所に行ってなかったから、そのお詫びだよ」

「無理しなくてもいいわ。あなたに英語が出来るとは思っていないから」

「失礼だな。ほんとの事だけど」

 車は御前崎市に入った。

「ここは、昔は浜岡町だった所だろう。今は御前崎市か」

「平成の大合併でなったのね」

 国道150号線が二車線になると、車の流れがスムーズになった。

「ほら、浜岡原発が見えて来た」

「大地は仕事中だろうか?」

「土曜日だから、どうかしら?」

「まさか、あいつが中電に入るとはな。しかも配属先が原発だなんて」

「そうね、私も最初、びっくりしたけど。でもね、あの子はあなたの背中を見て育ったのよ。だから、会社も電気関係の会社に行くって言ってたし」

「 そうだったのか。親としては、嬉しいような恥ずかしいような感じだな。でも、美咲も美姫の背中を見ていたんじゃないか。だから今、看護師になったのだろう」

「あの子が看護師になるって言った時は正直、嬉しかった」

「まあ、早紀も看護師だったからな、それを見てのことだろう」

「そうかもしれないわね」

 その時、達也の横をシルバーのカタナが抜いて行った。それに乗っているライダーは短パンTシャツ姿だ。達也はそれを見て、昔の事がフラッシュバックする。

「おっ、カタナだ。珍しいな」

「そう言えば、たっくんもバイクに乗っていたわね。確かXJ400とか言ってたっけ」

「あれも、車を買ったら、売っちゃったしな。でも、今のカタナって、あの時代のバイクだぞ。それが現役で走っているなんて」

「そうなの?」

「そうだよ、あれを見るとクラスメートだった上田を思い出すな。あいつもカタナに乗っていた」

 達也はしみじみと言う。

 浜岡原発を過ぎると、岬へ向かう道路に入る。砂地に作られた道路を御前崎に向かう。

 途中にある小さな峠を越えると、目の前に太平洋が広がった。

「うわっ」

 美姫が思わず声を出した。

「お腹空いたな。どこかで食事にしよう」

「だったら、この先の『なぶら市場』ってとこにしない」

 昔、ホテルがあったところには既にホテルはない、今は駐車場だけがある。

 達也はそこを過ぎようと思ったが、そこにカタナが止まっているのが、目に入った。

 達也は車を駐車場に入れた。

 カタナの横にいる男性に見覚えがある。

 達也はカタナの横に車を停めた。

「上田!」

 達也が声を掛けるとTシャツの男が振り返った。

「川杉か?」

「おお、やっぱりそうか。カタナにTシャツ短パンで乗るやつなんて、俺はお前しか知らないからな」

「お前も元気そうでなりよりだ。それで、そっちは嫁さんか」

「ああ、美姫と言う」

 達也が紹介すると、美姫は頭を下げた。

「美姫さんって、お前が高校の時に付き合っていた人か?」

「お前も知っていたのか?」

「まあ、有名だったからな。駅前の中華料理屋の看板娘って、新村が言っていた」

 それを聞いた美姫は、傍らで笑っている。

 だが、美姫の実家である中華料理屋も既に無い。

「それで、これからどこに行くんだ?相良工場か?」

「ああ、それが最後の開発車になるかもしれない」

「そう言えば、お前はレーサーになるって言ってなかったっけ?」

「なったさ。だけど、世界のレベルはどうにもならなかった。それから、俺はスズキに入社して、開発にあたるようになったんだ」

「そうか、お前もそのカタナを大事にしているな」

「ああ、やっぱり、俺にはこれが一番だな。おっと、二人のデートを邪魔して嫁さんに怒られると堪らんから、これで失礼するよ。それじゃ、幸せにな」

 上田はペットボトルの水を飲む干すと、空になった容器を指定のゴミ箱に入れてからバイクに跨った。

 30年前、上田はここでジュースを飲んで、同じように飲み干した缶をゴミ箱に捨てたのを達也は思い出す。

 上田は白髪の目立ってきた頭にヘルメットを被って、エンジンを掛ける。

「それじゃな」

 上田はそう言い、左手を振るとカタナを発進させた。

「あいつは変わらんな」

 そう言う達也だって、頭には白い物が目立っている。

 美姫はそんな達也を見て、微笑んでいる。

 達也と美姫はスイフトスポーツに乗ると、なぶら市場に向かった。

 美姫は干物などいろんな物を買い込んでいるが、こんな場所に来ると、何か買うのは女の本能かもしれないと達也は思う。

「ねえ、灯台の所に行ってみない」

 美姫の希望で崖上の灯台の所へ行き、近くにある駐車場に車を停めて、歩いて灯台に行く。そこで入場料を払って灯台の敷地に入った。

 高校生の時は、入らなかった所だ。

 今になれば、安い料金だ。

 灯台の上に上がって、海を見ていたら美姫が言う。

「ねえ、展望台って、まだあるのかしら?」

「あると思うよ。行ってみようか」

 達也は再び、スイフトスポーツを発進させると展望台の所に来た。

「前に比べたら、きれいになっている」

「そうだな。昔と違う」

 達也と美姫は、整備された道を通って展望台の所に来た。

 海から吹き上げる潮風が、美姫の長い髪を揺らす。

 眼下に太平洋と遠くに白い灯台が見える。もう直ぐ陽が沈むのだろう、空が赤くなりつつある。

「きれいね」

「美姫の方がな」

 達也は、高校生の時に言えなかった言葉を言う。

「ホホホ、もう17歳じゃないのよ」

「ううん、俺は今までの美姫を知っている。今でも美姫はきれいだ」

「ありがとう。あなたもカッコいいわ」

「そうか、素敵な中年になって良かった」

「私ね、初めてたっくんのバイクに乗った時、たっくんの背中が大きくて、凄く安心したの。そしてね、御前崎に来た事があったじゃない。その帰りかな、もしてかしたら、私はこの背中に一生ついて行くかもしれないって、直感でそう思ったの」

「その直感は、当たった訳だ」

「そうね、あなたは、いつ私と結婚するって思ったの?」

「俺か?俺は出会った時だな」

「あっ、胡麻化したな。本当の事を言え」

 美姫が達也の腕を取った。

 達也は、美姫の腰に手を回し、引き寄せる。

 達也は美姫を見つめた。美姫は目を閉じる。

 夕日をバックに達也は美姫を抱きしめ、美姫の唇に自分の唇を合わせると、美姫の長い髪に潮風の香りが交差する。

「ごめん」

「フフフ、初めての時も、そう言ってあなたは謝ったわ」

「そうだったかな。もう、思い出せない」

「私は、しっかりと覚えているもの。女の子にとって、フォーストキスは大事なのよ」

「美姫にとって、俺が最初で良かったのか」

「あなた以外は、考えた事もなかった」

「なら、これからも、よろしくお願いしようかな」

「私こそ」

 達也は美姫の手を取った。美姫も達也の手を握り返す。

「あなたの手、ゴツゴツしている。今まで、頑張った手ね。この手で私は幸せな人生を送る事が出来た。そして、二人の子供も。ほんとに感謝しているわ」

「なんだよ、いきなり、照れるじゃないか」

「苦労したのかなって」

「それは美姫だって同じだろう。俺は苦労を掛けて申し訳ないと思っている」

「あなたが居たから、そんなに苦労したと思わなかった」

「それは俺も同じだ。美姫が側に居たから俺は苦労していない」

 二人は、停めてあった車の所に来た。

「では、奥様、私がドアをお開けしましょう」

 達也は、スイフトスポーツの助手席のドアを開けて、美姫を座らせる。

 助手席に座った美姫は、運転席に座った達也を見て、微笑む。

 達也は、照れるような笑いを残し、ギヤを1速に入れ、静かにクラッチを繋ぐと、夕日を目指してスイフトスポーツを発進させた。


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潮風のKISS 東風 吹葉 @ikkuu_banri

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