妹と裸エプロンと幽霊、それとクリスマス

長谷川昏

クリスマス × もっとも縁遠いもの

「おかえりー」

 学校から帰宅すると、キッチンにいた一つ下の妹、透子とおこが振り返った。

 僕は「ただいま」と言おうとしたけど、その言葉を詰まらせると、視線を遮りつつ驚愕するしかなかった。


「と、透子……その格好は一体……?」

「え? 何って……裸エプロンだけど……」


 問いかけはしたが、戻ったのは現状そのままの返事だった。


 今日は十二月二十五日、クリスマス。

 リビングには母親手製の歪なリースや、僕の生まれ年に買ったという十七年物のツリーが飾られ、ささやかなクリスマス感を醸している。共働きの両親が帰宅すれば、家族四人のささやかなパーティの予定もある。

 高二にもなって家族とクリスマスパーティかぁ? と揶揄されそうだけど、僕に今彼女はいないし、実のところ今限定でもなんでもなく、十七年間ずっといたこともない。

 でもそれをネタに落ち込んだり腐るのはもちろん簡単だけど、僕は運のいいことに少しのんびり屋の両親とも、いつも穏やかでちょっと天然な妹ともうまくいっている。それならば落ち込んで腐るより、家族とパーティを楽しむ方が断然建設的でポジティブだった。


「いや、そうじゃなくて、僕が言いたいのは、透子がなぜそんな格好をしているかってことなんだけど……」


 しかし今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 妹はフリルで飾られた胸当て付きのエプロンをして、キッチンの流しの前に立っている。

 今は向き直った状態なので視線を遮らなくてもいいが、さっきまでは白い背中が丸見えだった。けれど裸エプロンと言っても厳密には、下は制服のスカートを身に着けたままだ。でもやはり上半身は裸と思えば、兄としては充分見てはいけないものでしかなかった。


「幽霊がしろって」

「えっ? 何だって?」

「私が帰ってきたら、そのツリーの前に立ってたんだよ、知らないおじさんの幽霊。うわっ、て驚いたけど、今日はクリスマスだし、尚史なおしちゃんやお母さんやお父さんが戻ってくる前になんとかしようと思って、帰ってくれないかな? ってお願いしたけど、やだって。だけど裸エプロンを見せてくれたら考えてもいいって言ったから、今こうしてる」

「な、何だって……?」


 つっこみどころの多い言葉に、僕は再び絶句しそうになる。

 帰宅して真っ先に目にしたものが、妹の上半身裸エプロンだったのも充分衝撃的だったけど、家に幽霊がいるというのもかなり衝撃的な出来事だった。

 でも反面、妹と幽霊の取り合わせは全く無い事柄でもなかった。

 一応説明しておくが、妹は思春期にありがちな霊が見えると言い回るような痛い女子の類では決してない。

 ほんの時々、薄ぼんやりと霊の姿が見えるらしく、けれどもその時は大抵お願いすればすぐ消えてくれるか、帰ってくれるものらしい。しかし妹自身、このことを疎んじてもいない代わりに、いいものだとも思ってない。彼女が誰にも言わないこのことを唯一知る僕としては、その心情を汲んできたつもりだった。


「ええっと、透子……それじゃ今の話を総合すると、家に戻ったら知らないおじさんの幽霊がリビングにいて、その知らないおじさんの幽霊が裸エプロンを見せてくれたら帰ってもいいって言ったから、透子は今そうしてるってこと?」

「うん、そう」

「じゃ、そいつ、もう帰ってくれた?」

「ううん、まだそこにいる」


 問うと、透子は僕の背後を指差す。

 僕は振り返るが、そこには色とりどりの電球を光らせるツリーがあるだけで、当然何かを目に映すことはできない。

 けれど僕はその何も見ることのできない空間を眺めるうちに、段々むかむかと腹が立ってきた。


 透子は僕や両親のために、恥ずかしい格好までして、この縁もゆかりもない幽霊の意を汲もうとした。

 しかし相手はまだそこに居座り続けているという。

 誰だか知らないが、図々しい上に嘘つきな野郎だ。

 湧き上がる腹立たしさを滾らせながら、僕がそんな悪態を過ぎらせると、不意に身体が軽くなった。別の言い方をすれば、足元を何かに掬われたような感触だった。

 気づけば、床上に尻から叩き落とされていた。


「いっ、痛……」

「な、尚史ちゃん! 大丈夫!?」

「今……何が起こった?」

「えっと、私もよく分かんなかったけど、尚史ちゃん、もしかして幽霊の悪口とか考えてなかった……?」

「ああ、図々しい嘘つき野郎って、思った」


 すると今度は頬を平手で叩かれたような衝撃が走った。


「痛いっ!」

「尚史ちゃん!」

「透子……もしかしてこいつ、僕の考えてることが分かるって言うのか……?」

「うん……割とできる方の幽霊だったみたい……」


 はぁ? 変態おっさんのくせに!

 僕は咄嗟にそう過ぎらせるが、途端背中を蹴飛ばされたような衝撃を感じる。


「ぐっ……」

「だ、大丈夫? 尚史ちゃん。でも……今はできるだけ何も考えないようにするしか避ける方法はないみたい……ごめんね……私、こんなことしか言えなくて……」

「いや、透子が謝ることじゃないよ。分かった……どうにかやってみる……」


 見えない幽霊への悪態はまだ浮かびそうだったが、この縁もゆかりもない相手にこれ以上好きに嬲られるのはご免だった。腹立たしさを押さえ込みながら、消沈する妹の忠告に従って、心にあるものをできるだけ封印できるよう試みる。


「えっ? 何?」

「今度はなんだ?」

「えっと、幽霊の人、私が靴下まで脱いだのが気に入らないって……」

「は? 何だって?」

「ハイソックスは穿いたままだろって、なんだか地団駄踏んで、怒ってる……スカートはそのままでいいって言ったのは、もしかしたらR15に抵触するかもって譲歩したのに、それはないだろって……」

「R15? なんだそれ?」

「知らない、カク……なんとかの規約がどうこうって言ってるみたいだけど……」

「なんかそのことはよく分かんないから、もういいよ。とにかくこいつはどうしたら帰ってくれるんだろう?」

「えっと、それは私も分かんないけど、とりあえずこの人の言うとおりに靴下は穿いてみるね」


 妹は脱いだ靴下を取ると、もう一度身に着ける。

 すると僕は再び、目を逸らさなければならない状況へと陥る。


「と、透子……悪いけど、不用意に屈まないでほしい……」

「えっ? どうして?」

「えーっと、見えるから、ほら、胸の辺りが……」

「あ、そっか。ごめんね」

「あと、背面と側面も向けないでほしい……目のやり場に困る……」

「うん、分かった。これからは一応気をつけるね」


 あたふたしながら僕は忠告するが、その慌てふためく様子に反して、透子はこちらほどには気にしていないようだった。

 僕の方にやましい思いはもちろんないし、透子も兄だからと安心しているからこそ、そのように無防備なのかもしれない。でもできればもっと距離感を保ってほしかった。

 透子は元々その辺りの感覚が、ゆるゆるでもある。兄として慕われているのだと、よろこぶべきものなのか、もっと危惧するものなのか分からないが、とにかくその辺りは常に悩ましいところではある。

 しかしふと我に返って、僕は一体何を考えているんだろうと肩を落とす。

 現状を思い出せば、こんなことを悠長に考えている場合ではなかった。


 僕はちかちかと明かりを灯すクリスマスツリーに目を向ける。


 賑やかで楽しいはずのクリスマスに、おっさんの幽霊と遭遇(見えないけど)し、その霊に蹴られ、殴られ、随分クリスマスと縁遠い目に遭っている気がする。

 おまけに妹の裸エプロン姿に目のやり場をなくして、右往左往気味でいる。

 けれど裸エプロン部分だけ切り取れば、些かクリスマス気分がないでもない。でもそんな脳天気なことを言っている場合でもない現状が、このリビングで依然継続中だった。


「な、尚史ちゃん……」

「透子、今度はどうした?」

「幽霊の人、また怒り始めてる……」

「今度は何だって?」

「……お前なんか十七年間彼女もいないし、ぼんやりした間抜け面で頭も悪そうな童貞野郎のくせに、こんないい家に恵まれて、おまけにこんなに可愛いい妹に慕われて、本当にむかつく……お前なんか死ねばいいって……」

「はぁっ?」


 その驚愕の声を上げると同時に、身体が吹き飛ばされていた。

 僕の身体はリビングのソファまで飛ばされて、激しくバウンドする。


「うぐっ……」

「尚史ちゃん!」


 透子の叫びが聞こえたけど、僕の身体は今度は宙を舞って、天井を間近に見る。


「うわぁっ!」


 間も置かず次は真下に落下して、強烈に床に叩きつけられる。

 得も言われぬ痛みには、呻きも出なかった。


「な、なんだ……つ、次は、どうするつもりだ……」


 反撃もできぬまま、僕は見えない相手に足を掴まれ、ずるずると床を引きずられていくだけだった。

 テーブルの脚やマガジンラックにごみ箱、手当たり次第に目につくものに縋ろうとするが、相手の動きは止められない。

 次は壁に叩きつける気か? それともまた床に落とす気か?

 発した震え声以上に、僕の心は慄いていた。


 このまま僕は、この見知らぬおっさんの霊に殺されるのだろうか?

 僕はジェイソン・ステイサムでもなければ、ドゥエイン・ジョンソンでもない。マット・デイモンでもないし、ダイハードのブルース・ウィリスでもないから、クリスマスの日に決して死なないなんてこともない。

 現実を生きる普通の人間でしかない僕の脆い身体は、非現実的な攻撃に耐え得るようにはできていない。

 あと数回も叩きつけられれば、死というものにより近づく。

 それが安らかなものでないことは、耳元に届き始めた狂気じみた高笑いが物語っていた。


「やめて!! 今すぐ尚史ちゃんを離して! 早く!」


 その狂気の笑いを掻き消すように、透子の声が響き渡った。


 引きずられていた僕の身体は動きを止め、掴まれていた足も放り出された。


『はぁ? やめろだと? 俺に命令か、生意気な小娘め! 霊が見えるだけのお前に一体何ができる? 温情で見逃してやってたが、この際だ、下も脱がしてやろうか!』

「うるさい、黙れ! 早くこの家から出て行け! いいか? これを聞け! #$%&&&**@%&##@$!」

『わっ! な、なんだと? お前……や、やめろ!……そ、その呪文を一体どこで? や、やめてくれっ!』

「黙れ! 今すぐに消えろ! お前にやめろと言われても、何度だって唱えてやる! #$%&&&**@%&##@$! #$%&&&**@%&##@$! そして最後に尚史ちゃんの代わりに私が言ってやる! 消えろ! この図々しい嘘つきの変態オヤジがっ!」

『ぎゃーーーーーーーーーーっ!!』


 断末魔の叫びとともに禍々しい気配は、掻き消えた。

 排水溝に汚水が一気に流れ込むように、それは消え去っていた。

 周囲には、もう痛いほどの無音しかない。

 僕は床に転がったまま、脱力した安堵を覚えていた。身体にまだ強張りが残っていても、危機が完全に去ったことは周囲の気配で感じ取っていた。


「尚史ちゃん! 大丈夫? 怪我はない?」


 駆け寄った透子が、僕の顔を覗き込んで心配そうに訊く。

 なぁ、今のは一体なんだったんだ? 透子。

 あの勇ましい妹の白い背中は、まだ目に焼きついている。

 僕が知る限り、透子は少し霊が見えるだけの普通の女の子だったはずだ。

 だけど妹は謎の呪文を唱えると、悪霊を撃退してしまった。


「ああ、大丈夫だよ、怪我もない……僕を助けてくれたんだな……本当にありがとう、透子」


 でもそんなのは些末なことでしかなかった。

 妹は僕を救おうと全力を尽くしてくれた。

 僕の知らない妹が、僕の知らないどこかにいたとしても、それがなんだというのだろう。

 透子は今ここにいて、僕に手を差し伸べてくれている。


「わっ、透子!」

「えっ? どうしたの、尚史ちゃん?」

「不用意に屈まないでって、さっき頼んだじゃないか!」

「あっ、そうだった。ごめんね、忘れてた」


 そう言って笑顔を見せる妹の背後では、傾いでしまったツリーの明かりが瞬いている。

 僕がまずやらなければらないのは、透子の手を借りて立ち上がることだった。そして次にやらなければならないのは、服をちゃんと着た妹と一緒に、滅茶苦茶になってしまったリビングを両親が帰宅する前に片づけることだった。



〈了〉

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