物価の魔王

天宮暁

物価の魔王

 薄暗い魔王城の最奥で、魔王の秘書が魔王に最後の確認をする。


「魔王陛下。本当によろしいのですか? スライムなどにあのような大金を持たせて……」


「まあ見ておれ。勇者など、直接戦わずともなんとでもできる」


 自信満々に言い切った魔王に、秘書は一礼して引き下がった。

 

 秘書には、魔王の意図がよくわからなかった。

 

 魔王城の薄暗い回廊を進みながら、秘書は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 

「わたくしどもは、『魔物の跳梁跋扈する世界で頂点に立った人物』という条件で、魔王陛下をお迎えしました。その条件をお伝えした時に陛下が奇妙なお顔をされていたのは気がかりですが、前代陛下が執行された召喚術式に間違いはなかったはず……」


 召喚された魔王は、屈強な戦士にはとうてい見えないし、偉大な魔術師というわけでもなかった。

 

 ただ、人の上に立つことに慣れている様子は見て取れた。

 

 頭の回転もすこぶる速い。

 異世界に突如召喚されるなどという異常事態を前にしても、驚きを速やかに収め、矢継ぎ早に的確きわまりない質問を投げかけてきた。


「あの方には、わたくしには計り知れないお考えがあるのでしょう」


 魔王としての最初の命令が「最弱のモンスターに大量の金貨(ゴールド)を持たせよ」という奇妙なものだったとしても。

 魔王に捧げる忠誠に変わりはない。





「すっごぉぉぉぃっ! このスライム、とんでもない額持ってたよ!」


 スライムの消えた跡を漁っていた女武闘家が、弾んだ声を上げた。

 その手には金貨のぎっしり詰まった革袋があった。

 

「なぜスライムがこんな大金を……スライムといえば3ゴールドが相場だったはずだ」


 男魔法使いは怪訝そうに言う。

 

「理由なんて知らないわよ! こんだけあったら、装備を一新した上で、すごろく場でも遊べるわ!」


「おまえは遊び人以上に遊び人だな」


 勇者が呆れたように言った。

 

「だが、この金は有り難い。魔王軍との長引く戦いで国庫は空。王様は、俺たち勇者にもたった300ゴールドしかくれなかった」


「これで鋼の剣が買えるな。いや、鎧兜まで揃えられる!」


 いつもは真面目な女戦士も、浮かれた表情を見せていた。

 

 勇者たちは街に戻り、武器屋・防具屋・道具屋を巡って、必要なものを片っ端から買い上げた。

 商人たちは贋金ではないかと疑い、金貨を念入りに調べたが、正真正銘の金貨だった。

 

 この世界では、金貨は魔王にしか発行できない。

 人間の粗末な鋳造技術では質の高い硬貨を造り出すことができないのだ。

 おまけに、戦争に次ぐ戦争で、各国は率先して貨幣の悪鋳を繰り返してきた。

 結果、人間の国の鋳造する貨幣は信用をなくし、市場ではほとんど流通しなくなっていた。

 そのような事情により、偽造の恐れのない魔王金貨のみが、人間界の通貨として定着している。

 人間たちの魔王への敵愾心を思えば、大いなる皮肉と言えるだろう。

 

 ともあれその日、勇者は一夜にして裕福になった。

 なにせ、スライムを倒すだけで無尽蔵に金が手に入るのだ。

 最初は怪しんでいた男魔法使いも、すぐに贅沢になれてしまった。夜には盛り場でバニーガールをはべらせて、高い酒を次々にあけるようになっていた。

 

 だが、勇者パーティがそうして浮かれ遊ぶうちに、見えないところで着々と変化が起きていた。

 

「なあ……薬草が一つ100ゴールドは高すぎないか? よく覚えてないけど、前は15ゴールドくらいだったよな?」


 勇者は、道具屋での買い物の途中で、はたと薬草が高くなっていることに気がついた。


 道具屋の主人がすまなそうに言った。

 

「へえ、最近物価が上がっておりやして……。仕入れ値も上がっておるんで、これ以上は負けられんのですわ」


「そうなのか……まあ、いいだろう。払えない額でもない。100ゴールドで10個くれ」


「まいどあり。まとめ買いの特典として、すごろく券を一枚差し上げます」


「すごろくねえ。まともにクリアできた試しがないんだが……やらせなんじゃないのか?」


「さて、わたしにはなんとも……。たまにクリア者が出てはおりますな」


「まったくのインチキってわけでもないってことか。いいアイテムもあるみたいだし、狙ってみてもいいかもな」


「勇者殿は景気がよくてうらやましいですなぁ。商人たちは物価高でひいひい言っておりますよ」


 道具屋の主人のお世辞にくすぐられつつ、勇者は再びスライムを狩る。

 たった一日の単調な狩りで、おそろしいほどのゴールドが手に入った。

 戦いの経験という意味では物足りないが、ゴールドがこれだけあればいくらでもいい装備が買えるだろう。

 

「もう使い切れないくらい金も貯まったし、次の街に行ってみるか?」


 勇者の提案に、反対するパーティメンバーはいなかった。

 

 新大陸のモンスターは強力だったが、高価な装備で身を固めた勇者たちは、危なげなく戦うことができた。

 

「あっはっは! 笑いが止まらないね!」


 女武闘家が笑って言った。

 

「だが、スライムよりも落とすゴールドが少ないな……。敵が強くなったのに稼ぎが減るのでは割に合わん。これでは一晩ぽふぽふ屋に行ったらそれで終わりではないか」


 と、男魔法使いが不満そうにつぶやいた。

 三十をいくつか超えた男魔法使いは、お世辞にも男前とは言いがたい。

 それだけに、ゴールドをバラまくだけで女性がちやほやしてくれるある種の店にドハマリしていた。

 パーティの金庫番であるのをいいことに、連日連夜、放蕩の限りを尽くしている。

 

「あたしは物足りないね。ここいらのモンスターは、このプラチナの剣で一撃じゃないか」


 女戦士だけは、戦う相手が弱いことに不満を抱いているようだ。

 

「まあまあ。旅が順調なのはいいことじゃないか」


 勇者はそう総括すると、貯め込んだゴールドの重さに辟易するパーティメンバーを宥めながら、次の街を目指して進んでいく。

 

 勇者たちは、次の街に入ると、早速装備一式を買い換えた。

 前の街に比べるとかなり割高だったが、その分性能はすばらしかった。

 装備は最近の物価高でさらに値上がりしていたが、勇者たちの懐にはそれ以上の金がある。

 

 勇者たちはそうして、金に飽かせて装備や道具を買いあさり、その力で大陸を着々と踏破して、魔王軍の配置したボスたちを倒していく。

 

 勇者一行が各地でばらまいた金は、さらにべつの場所でばらまかれ、その金がさらにばらまかれる。

 物価が上がっていることもあり、金を貯めておくよりはさっさと使ったほうが得であるという事実も、この状況に拍車をかけていた。


 人間たちは、にわかに訪れた勇者バブルに酔いしれた。

 

 

 

 

「魔王陛下! これ以上は限界です! 各地のモンスターから不満の声が上がっています!」


 秘書の言葉に、魔王は含み笑いを漏らしただけだ。

 

「そんなことより、各地の物価はどうなっておる?」


「物価、ですか? いえ、それよりも、各地のボスが……」


 なおも言い募ろうとする秘書を、魔王はゆっくりと制して問いを重ねる。


「たとえば、薬草の値段はどの程度上がっておる?」


「っ……。魔王陛下が現在の策を取られる前の薬草の価格は15ゴールド前後でした。現在の薬草の価格は、実に1000ゴールドを超えています。先週までは500ゴールド以下だったのですが……」


「人は、物価が上がると予想すれば、その分急いでモノを買わねばと思うものだ。いま500ゴールドで買える薬草が一週間後には1000ゴールドになっておるやもしれんのだからな」


「なるほど、その通りですね」


「しかも、だ。そうしてみながモノを買い漁れば買い漁るほどに、物価の上昇は加速していく。

 いまは500ゴールドの薬草が、今にも1000ゴールドになりそうだ。それなら、600ゴールド出すから今のうちに俺に売ってくれ。それなら俺は700、いや800ゴールド出すから俺に売れ。……というようにな。

 商人の側でも、将来の値上がりが確実なら、今はあえて売らずに置き、値段が上がってから売ろうと考え、薬草を売り渋ったり、法外な値段で売ろうとしたりするだろう。

 身勝手で欲深な人間どもは、我先にと値段を釣り上げはじめるというわけだ。

 そうなったら最後、一週間後には1000ゴールド程度だろうと思われていたはずの薬草が、蓋を開けてみれば2000ゴールド出しても買えぬということになるであろう。

 その認識がまた、さらなる物価の急騰を招いていく。

 薬草が2000ゴールドになった。ならば、来週になれば4000ゴールド、いや8000ゴールドになっていてもおかしくない。

 物価は、人々の予想を常に上回る速さで上がり続ける」


「……おそろしい話です」


「やがて、人々は悟るであろう。お金などいくらあったところで薬草ひとつ買えぬ、とな。

 そうなれば、みな、いくら金を積まれても、何ひとつものを売りたくないと思うようになる。

 もはや、物々交換でもせぬ限り、他人の持っているモノを手に入れることができんという事態になるであろう」


「人間どもの経済は完全に麻痺することになる……。貨幣はただのかなくずと化し、人間社会は物々交換でしか望むものが手に入らない原始社会へと後退する……」


 ようやく事態のおそろしさに思い至って、秘書は戦慄に震えていた。


「そうだ。今頃勇者も、薬草ひとつ満足に買えず、立ち往生しておるのではないか?

 連中は、薬草くらいいくらでも買えるからといって、僧侶を雇い入れなかったそうではないか。

 回復手段を持たぬ勇者パーティが、温存してある屈強なモンスターを相手に、はたしてどこまで戦えるかな?」


 低く含み笑いを漏らす魔王に、秘書が深く頭を垂れる。

 

「おみそれしました、魔王陛下」


「なぁに、まだまだ始まったばかりだよ」








「きゃああっ!」


「武闘家!」


 次の大陸への架け橋があるとされる塔の途中で、武闘家がモンスターの攻撃を受けて負傷した。

 しかも、毒まで受けたようだ。

 

「大変だ! もう薬草がない!」


 男魔法使いが焦りの声を上げた。

 

「くそっ! 金なら腐るほどあるってのに、どうして薬草ひとつ買えないんだ!」


 勇者は悔しげに叫びながら、手に入れたばかりの伝説の剣を使って、モンスターにとどめを刺していた。

 

「あっ、宝箱を落としたぞ! 薬草が入ってるかもしれない!」


 勇者は、喜び勇んで宝箱に飛びついた。

 

 だが、

 

「くそおおおおおおおっ!」


 勇者が塔の床を、拳で何度となく殴りつける。

 

「なんで……なんで2万ゴールドなんだ! 今どき2万ゴールドじゃ宿にすら泊まれないんだぞ! せめて、せめて薬草をくれよおおおおっ!」


「勇者! 取り乱してる場合じゃない! ここはさいわいにも塔の屋上だ! 渡り鳥の羽を使って最後に立ち寄った街に戻ろう!」


「渡り鳥の羽だって、今じゃ50万ゴールド出しても買えないんだぞ!?」


「今は武闘家の命が優先だ! 羽ならモンスターを倒して手に入れることもできる!」


「256分の1の確率だって言うじゃないか! スライムを倒してゴールドをかき集めたほうが……いや、その間にもまた物価が上がってるだろうし……くそっ、どっちがいいんだ……?」


「……ゆう、しゃ、さま……わたしに、構わず……新大陸、へ……」


 武闘家が、額に血と汗を浮かべながら、勇者に手を差し伸ばす。

 

 命を捧げる覚悟の武闘家に、勇者はハッと我に返る。

 

「っ! 羽を使って街に戻る! 生きてさえいれば、また戻ってこられるんだからな!」





 だが、街に戻った勇者一行を待っていたのは、過酷すぎる現実だった。


 教会へと駆け込んできた勇者たちから事情を聞くと、初老の神父がこう言った。

 

「解毒ですか? 300万ゴールドになります」


「さっ……」


 勇者たちは絶句した。

 

「ば、かな……どうして。教会は貧しい人たちのためにも、解毒料金は最低価格になってるはずじゃ」


「解毒のために必要な道具や素材が値上がりしておりましてな……」


 神父が、申し訳なさそうにそう言った。

 

「勇者様たちならば、洞窟のポイズンスライムを狩ってはいかがでしょうか? やつらは低確率で毒消し草を落とします」


「くぅっ……それしかないのか……」


 勇者、女戦士、男魔法使いの三人は、武闘家を神父に預けて洞窟に潜る。

 現在の装備からすれば、危険はほとんどないはずの洞窟だったが、なにせ薬草も毒消し草も持っていない。

 三人は、細心の注意を払いながらポイズンスライムを狩っていく。

 だが、

 

「出ない、出ない、出ないいいいいっ!」


 何十匹のポイズンスライムを倒しただろうか。

 勇者は悔し涙すら浮かべて地面を叩く。

 

「このままでは武闘家が死んでしまう!」


 悲痛な叫びとともにポイズンスライムを狩り続ける勇者一行。

 

 だが、64分の1の確率で落ちるはずの毒消し草が、ポイズンスライムを何百体狩ってもひとつも落ちない。

 ひとつも、だ。

 

 金満だった勇者たちは、気づいていなかった。

 

 魔王が、スライムに大金を持たせるのと同時に、ほとんどのモンスターからドロップアイテムを削除していたことに。

 

 悄然と洞窟から戻ってきた勇者たちを見て、神父は事態を察知した。

 

 教会の長椅子に横たわってうなされている女武闘家の前に、勇者たちが言葉もなくしゃがみこむ。

 

 ぎいっと、教会のドアが軋む音がした。

 

 神父が顔をあげると、そこには見知らぬ人物がいた。

 商人風の装いをした若い女性だ。

 勇者たちも顔を上げ、突然の闖入者に目を向ける。

 

 女性が、女武闘家の手を握る勇者に近づいた。

 

「勇者様。なんとおいたわしいことでしょう」


「……君は?」


 勇者は心ここにあらずで問い返す。

 

「しがない商人でございます。昨今は物価が高騰を続け、とどまるところを知りません。わたしのような商人でも、薬草や毒消し草のような基本的なアイテムの仕入れすらできないほどです」


「やはりそうなのか……一体なぜ」


 本気でわかってなさそうな勇者に、女商人は一瞬笑いをこらえるような顔をした。


 だが、苦しむ女武闘家に気を取られ、勇者たちは女商人の浮かべた笑みに気づかない。

 

 女商人は、心底からの誠意を感じさせる顔を取り繕って、勇者に言った。

 

「勇者様の大切なお仲間を、こんなことで失わせるわけにはまいりません。わたしが、なんとか毒消し草を調達してみせます」


「ほ、本当かっ!?」

 

「ええ。ただ、毒消し草を求めているのが本当に勇者様であるという証になるものをお貸し願いたいのです。

 今では、人々の信頼すら失われてしまいました。わたしがいくら勇者様のためだと訴えたところで、猜疑心に凝り固まった商人は、おのれの商品を容易に手放そうとはしないでしょう」


「勇者の証、か……」


 勇者は、しばし考えてから、腰から下げた伝説の剣を取り外す。

 

「ゆ、勇者!?」


 男魔法使いが驚いた。

 

「仲間あってこその勇者だ。俺はこの人を信用する。

 親切な人よ、この伝説の剣を見せれば、どんなに疑いに凝り固まった者だろうと、勇者の依頼だと信じるだろう。この剣は、俺以外には装備できないものだからな」


「そうでございますわね。お見事な覚悟でございます、勇者様」


 女商人は、高級そうな布を取り出し、伝説の剣を丁寧にくるむ。

 

「必ず、毒消し草をお持ちしますわ」


「ああ。早くに頼む」


 再び女武闘家の手を握る勇者を尻目に、女商人は教会を後にした。


 その顔に、悪魔的な笑みを浮かべながら。

 


 


 

「で、これがその伝説の剣というわけか」


 魔王は、秘書から受け取った伝説の剣を検分しながらつぶやいた。

 

「はい。魔王城の闇のとばりを切り裂き、魔王陛下の御身をも傷つけられるという聖剣です」


「これがここにある以上、勇者はもはや何もできぬ」


「その通りでございます。武闘家はその後毒で命を落としたと、斥候に放ったホークマンから報告がございました。勇者は、怒髪天を突く勢いで暴れまわっていたそうですわ」


「騙されて伝説の剣を巻き上げられた挙げ句、大切な仲間まで失ったのだからな」


「勇者は、もはや何物とも交換できなくなった大量のゴールドを抱えて途方に暮れてている状態です。

 これまで資金力頼みだったために、強力なモンスターとの実戦経験にも欠けています。

 パーティには僧侶もおりません。勇者たちは、装備品を道具屋に持ち込んでは、薬草と物々交換しているそうです」


「薬草が買えぬ中で、回復魔法の使える僧侶の価値は上がっておる。今の勇者たちでは、仲間に引き入れることはまずできまい」


 うなずく魔王に、秘書が思い出したように言った。


「……そういえば、魔王陛下は以前、『今のうちにすごろく券を買い占めよ』とおっしゃっておられましたね。あれには一体どのような深謀遠慮があったのでしょうか?」


「うむ、そうだったな。もはやこれまでという気もするが、さすがに哀れでもある。金の魔力に溺れた勇者に、ふさわしき末路を用意してやろう」


 同情的なセリフとは裏腹に、魔王の顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。





 スライムがすごろく券を落とすようになった。

 それも、比較的高確率で。

 

 その噂は、勇者たちの耳にもすぐに届いた。

 

「たしかによく落とすね」


 スライムの落としたすごろく券を拾い上げながら、女戦士が首を傾げる。

 

 一方、男魔法使いは、スライムが一緒に落としたゴールド入りの革袋を、いまいましげに睨みつける。

 

「ゴールドか……こんなもん、もう拾う価値もない」


 10万ゴールド入りの革袋は、勇者たちに顧みられることなく放置された。

 物価高騰が極まった今、金貨の詰まった革袋など、ただの重りでしかないからだ。

 

 勇者が、すごろく券を握りしめながら言った。

 

「ゴールドがゴミ以下になったいま、俺たちがまともな装備を手に入れるには、すごろく場に賭けるしかない」


「でも、イカサマ上等だって話じゃないか。ほんとにクリアできるのかよ?」


 男魔法使いが眉をひそめる。

 

「それでも、クリアしたやつは実際にいる。

 回数をこなせば、いつかはきっと、特賞であるミスリルスライムの剣が手に入るはずだ。伝説の剣の所在がわからない今、魔王と戦うにはどうしたってアレが必要なんだ……!」


 鬼気迫る表情の勇者に、女戦士も男魔法使いも何も言えない。

 彼らとて、女武闘家の死に衝撃を受けているのだ。

 

「わかったよ。とことんまで付き合うさ、勇者」


「俺もだ。あいつの墓に、たしかに魔王は討ったと報告してえ」


「ありがとう、二人とも」


 勇者はその日、459匹のスライムを倒し、29枚のすごろく券を手に入れた。

 

 

 

 

 

 

「くそっ、くそっ、くそぉぉぉぉぉxっ!」


 勇者は、人目もはばからず泣きじゃくり、赤いカーペットの敷かれたカジノの床を殴っていた。

 29回めのすごろくで落とし穴に落ちて失格となった勇者は、こみ上げてくる絶望と憤怒に我を忘れた。

 

「俺たちにはアレが必要なんです! 魔王を倒すために、どうか譲ってはくれまいか!」


 一方、男魔法使いは、カジノの支配人相手に交渉を試みていた。

 もっとも、赤いカーペットに這いつくばり、頭を床に押し付ける魔法使いの姿を見て、「交渉」していると思うものは少数派かもしれないが。

 

「申し訳ありません……。このすごろく場は、魔王軍の残した遊戯施設を居抜きで利用しているものなのです。支配人であるわたしであっても、景品には触れることすらできんのです」


「すごろくはちゃんと確率通りに動いてるんだろうね?」


 女戦士は鬼気迫る顔で、別の角度から支配人を追及する。

 

「それはわたしにもわかりかねます……。長い目で見ると帳尻が合ってはおるのですが……」


 イカサマへの疑念は燻り続けるが、これが最後の希望であることに変わりはない。


 伝説の剣を失った勇者たちは、来る日も来る日も、すごろく場に挑み続ける。


 一心不乱にすごろくに賭けるおのれの言行が周囲の目にどのように映っているかにも気づかずに――





「くそおおおおおおおっ! 今日も出ない! 俺は勇者なんだ! 俺が魔王を倒さなければならないんだ! それなのにどうして俺にあの剣が手に入らない!」


 勇者はまたもすごろく場で暴れていた。

 支配人に殴りかかろうとする勇者を、女戦士が必死に止めている。


「もう、後がないんだぞ! 魔王軍は、すぐそこまで来てるんだ! 俺にすごろくをクリアさせろぉぉぉぉっ!」


 すごろくに負けて喚く勇者を、カジノに避難してきた住人たちがすさまじい目つきで睨んでいる。

 

 魔王軍が迫っている。

 そんなこと、彼らのほうがよく知っている。


 周囲の国や街は、ひとつ残らず魔王軍に占領された。

 この街にも魔王軍が迫り、既に街の半分が落とされて、人間の領域はカジノを中心とするこの一画を残すばかりになっている。


 カジノに避難してきたこの街の住人たちは、今の状況を痛いほどに知っていた。


 一方、勇者はここ数日、貯め込んだすごろく券を握りしめ、カジノから一歩も出ていない。

 

「伝説の剣を詐欺師に巻き上げられたってマジ?」「どうしてこんなクズが勇者なんだ……」「一時は羽振りがよかったらしいぜ」「あの魔法使い、ぽふぽふ嬢に大金を貢いでたんだろ?」「最近はカネじゃ遊べないからカジノに入り浸ってるんじゃないか?」「最悪だな……」「すごろく勇者……」


 避難民たちが、聞えよがしにささやきあう。

 

 彼らからしてみれば、この勇者は、むざむざ伝説の剣を騙し取られ、その後はすごろく遊びに興じて世界を危機に陥れた張本人だった。


 勇者がモンスターから得た金をばらまいたせいで物価が急騰し、商売が破綻したり、破産したりした者だって少なくない。


 王城勤めの兵士たちですら、山と積まれたゴールドで支払われる使えもしない「給金」を前に、目の前が真っ暗になるような経験をしている。

 

 そこで、カジノを包囲するモンスターの中から、低く威厳のある声が聞こえてきた。

 

「人間どもよ。わが軍門におとなしく降れ。

 わが支配地では、新たに鋳造した魔王金貨が流通し、経済は極めて安定した成長を見せている。

 公共投資が民間部門を引っ張る形で、各地の復興が進められおるところだ。

 人々にはきちんとした職が与えられ、衣食住に事欠くことはもはやない。

 我は、人と魔族とを問わず、誰もが安心して働き、豊かに暮らせる――そのような社会を実現すべく、総合的な経済改革に邁進しておる」


「聞くなっ! 魔王の甘言に耳を貸すなっ!」


 勇者が叫ぶが、人々はカジノの外のほうに耳を向けたままだった。

 

「モノも買えぬ、給料ももらえぬ、そんな破産国家で暮らすのは辛かろう。

 魔王は、支配地域の経済発展に責任を持つ。

 機動的な財政金融政策によって、魔王領全体のGDPは、年率にして11.7%の高い伸び率を示しておる。

 これは、国全体が毎年一割以上豊かになっておるということだ。

 このことは、ホークマンに上空から配布させた資料パンフレットを読めばわかるだろう」

 

 勇者は、弾かれたように避難民たちを見た。

 避難民たちは、揃って紙の資料を手にしている。

 資料は、16ページもあるパンフレットのようなものだ。

 避難民の中には文字の読めない者もいたが、周囲の者が資料に書かれたことを説明してやっている。


「経済成長? みんなが儲かるようにするってことか」「でも、どうせお国が全部吸い上げちまうんだろう?」「よく見ろよ、所得税を累進制にすることで、貧富の差を小さくするって書いてあるぞ」「通貨を安定的に供給すればインフレは根絶できる、か……」「年金……老後に生活費がもらえるってのか」「魔王領には健康保険なんてものがあるの? 教会の解毒や解呪代も馬鹿にならないし……」


 資料には聞き慣れない言葉が多かったが、魔王は手ずからそれに注釈を加え、読む者が読めば理解できるようなペーパーに仕上げていた。

 さらには、お世辞にも絵がうまいとはいえないが、漫画を使ったわかりやすい説明も添えられている。

 

 じわじわと広がっていく理解に、勇者の顔からみるみる血の気が引いていく。

 

「くそっ! そんなものを読むなっ! それは悪魔の書だっ! みなを誘惑し、騙して利用するための魔王の策略だ!」


 勇者が避難民たちに飛びかかり、その手から資料を奪おうとする。

 

 かたや、一方的な報告とはいえ、数字に裏付けられた説得力のある主張をする魔王。

 かたや、すごろくに負け続け、感情的になって避難民に掴みかかる勇者。

 

 人々がどっちを信じる気になったかは言うまでもない。

 

 魔王が、とどめを刺すように、演説のシメに取り掛かる。

 

「ひるがえって、そこな勇者が何をしたというのだ? 魔王からの和平の申込みを一方的にはねのけ、身勝手に戦い続けた挙げ句、おまえたちの経済を崩壊させた。

 おまえたちの中には、経済的な困窮によって肉親を亡くしたものも多いだろう。大事な資産を他人に奪われたものもおるにちがいない。

 そのような結果をもたらした『勇者』と、自領を発展させ、人々に雇用を与え続けてきた『魔王』と……貴様らは一体どちらを選ぶのだ?」

 

 魔王の言葉に、人々が勇者を取り囲む。

 

「ま、待て……もう一回だけ、もう一回だけすごろくをさせてくれ! これが最後の一枚なんだ! これでミスリルスライムの剣が手に入ったら、もう魔王を恐れる必要もなくなるんだ……!」


「ふざけんなっ!」


 人々が勇者に襲いかかる。

 女戦士も男魔法使いも巻き込まれ、人々に全身をくまなく殴打された。

 そのあげく、三人まとめて縛り上げられる。

 

 人々はカジノの入り口に築かれたバリケードを自ら壊し、縛り上げた三人を引きずって、魔王軍の前に投降した。





「お見事でございました、魔王陛下」


「なに、前世での経験を活かしただけだ」


 秘書の言葉に、魔王は鷹揚にうなずいた。


 魔王・榊原敬介は、日本銀行の総裁だった。

 榊原は、総裁になるやいなや、徹底的なリフレ政策によって、日本経済を長きに渡って苦しめてきたデフレに終止符を打った。

 榊原敬介は、国内外のメディアから「物価の魔王」と呼ばれようになっていた。

 

 だが、その後の経済運営のあり方については、政府とのあいだに路線の対立が生じていた。


 金融政策について政府と真っ向から議論になっていたさなか、榊原は突如交通事故に遭って死亡した。


 それが、何らかの陰謀だったのか、ただの偶然だったのかはわからない。

 

 結果として榊原は、前代の魔王が死の間際に放った召喚魔法によって、この世界へと転生した。

 

 もともと8ビット時代からロールプレイングゲームを嗜んでいた榊原は、この世界に比較的すんなりと適応できた。

 

 魔王という身分には、葛藤もあった。

 

 だが、実情を調べさせてみると、人間の国々も、とてもまっとうとはいいがたい、専制君主が支配する破綻国家ばかりだった。

 

 永田町や霞が関の複雑な政治力学から解放された榊原は、持てる経済の知識を十全に活かし、勇者を追い詰め、世界を魔王の支配する統一国家へと組み上げた。

 その中では汚い策略も用いたが、「魔物の跳梁跋扈する」官界を生き抜いてきた彼にとっては今更だ。

 

 榊原は、肩をすくめてうそぶいた。

 

「最強の力は、剣でも魔法でもなければ権力でもない。カネなんだよ」

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