陶芸教室

かんらくらんか

陶芸教室

「じゃあ、なにか始めてみれば?」


 ――ちょっと愚痴ったら、すぐこれだ。


「なにかって?」

「趣味よ、趣味」

「だから、なんの趣味? わたしはなにを趣味にすればいいわけ?」

「知らないわよ、それくらい自分で考えなさい」


 ――無責任だ。

 

 ……とは思ったものの、口にしなかった。数日後、わたしは市民センターの掲示板に貼り付けられたカルチャースクールのチラシを眺めていた。

 わたしに文化的活動を勧めてきたのは、彼女だけではなかった。両親も、職場でも、まるで世界中が、わたしを脅迫するみたいに、テレビやインターネット、新聞のチラシも新聞自体も、趣味くらい持ったらどうなのと勧めてくる。やつらはパラノイアだ。

 嫌いなものを嫌いだと言ったり、憎いものを憎いと言ったり、愚痴ったりすることは、いつだって、どこだって、あまり好まれないらしい。そうわかっていて、やめないのは、この世界に対するささやかな抵抗であって、がっかりされるだろうけど、わたしはこの世界を変えてやろうだなんて、あんまり考えていない。だから、まあ、趣味を始めることにした。

 わたしは、わたしの心のこれまた、ささやかな機微を感じ取る。これは嫌だな、これはマシかな、これならやれそうか、これでは恥をかきそうだ。掲示板を眺めながら、わたしの悪い性癖が浮足立つのに気づいたが、もう遅かった。

 多種多様なチラシ、どれも他のより目立とうと多少の工夫がある、イロガミに印刷したり、イラストを描いたり、高校生のバンドメンバー募集なんてのもあった。顔を隠したワイセツな集合写真が添付されている。

 そんな中の、わたしは特に最低なものを選んで、とにかく行ってみることにした。好きとか、まして愛という感情が、なんなんだかよくわかっていないわたしには、嫌とか憎いとか死んじゃえっていう感情に従うのが向いている。

 マシンガンなんて手に入らないし、ナイフを振り回したって自分を切りつけるのがオチだから、わたしはこういう感情とか、こういう世の中と折り合いをつけていくことにしている。

 つまり、嫌いなものを、まあどうでもいいや、くらいに昇華していくのだ。そうすれば、いちいちイライラしないで済むわけ。少しは生きやすくなって、一番嫌いな死ぬことを考えずにいられる。

 陶芸という言葉を唱えて、わたしの脳裏に灯った映像は、泥だった。ベトベトした、経血みたいにドロドロした泥が、わたしの全身にへばりついて、わたしは乳歯をガチガチぶつかり合わせるはめになった。わたしは幼くって、生まれたときの記憶がまだ残っていた。細胞分裂とか胎盤の薄気味悪さを思い出して、吐きそうになる。

 ふざけた男、十五年も前のことだから、猿以下の小さな脳みそしか持ち合わせていなかったけど、明らかにオスで、わたしに欲情して、でもどうしていいかわからなくて、その代償行為として、わたしにベトベトの泥をぶつけてきたのだ。三発も。

 あんなことがなかったら、わたしは生まれたという記憶を順当に抹消することができたかもしれない。

 あの男は側溝にはまって死んだのだと聞いた。十年前のことだ。側溝にはまってという死に方がどういうものなのかはよくわからない。凍えたのか溺れたのか、それとも殺されて捨てられたということだろうか。

 どういう死に方だろうが、わたしは死者まで呪いたくはない。黒いリボンをかけられた笑い顔のバストショットに、手を合わせ、ゆっくりとお別れを言った。

 脳みそで日夜起こっている現象や機能について、わたしはそう詳しくはない。雑誌やテレビやインターネットで見たであろう未来的なコンピューターグラフィックを、わたしは自分の頭蓋骨の中身に当てはめてみる。市民センターのトイレの鏡で自分自身と見つめ合いながら、白や青の閃光が、宙に浮いたシナプス回路をつなげていく。わたしの忌まわしい記憶たちが、強固な塊となって、わたしの脳髄の中心に、けして落ちることのない林檎として繋がっている。その脳腫瘍のような林檎がむくりとまた一段回膨らむのを実感してしまう。

 忘れよう忘れようと努力しても無駄らしい。それこそドラッグとかロボトミーとか、試していない手段はあるけど、それらは死ぬみたいなものの気がする。だから、ここでも、折り合い、折り合い、折り合いをつけなければならない。

 立ち向かうとかではない。嫌だと思う、憎いと思う心が、なんの反応も示さなくなるまで痛めつけるのだ。なんども飲み込むことで、わたしはしつこく食事に混ぜられるタマネギをどうでもいいと思えるようになったし、なんども吐き出すことで、生理を日常のものと思えるようになった。

 同じように、生まれたことや、ベトベトした泥の記憶を、どうでもいいと思えるようになるだろう。そういえば、生理も生まれた記憶につながるかもしれない。そう思うと同時に記憶が接続される。ほら、考えれば、考えるほど、頭の中の林檎は大きくなる。いつか爆発する前に、不安は取り除かなければならない。


 わたしは、陶芸教室に行くことにした。

 こういった理由で陶芸教室に通うことを決めたわたしが、二度目の陶芸教室で、気に入らないエプロンをつけ、泥を触りながら、どういう顔をしていたかは、わたしはもちろん見ることはできないが、想像するのは簡単だ。最低の顔をしていた。

 それを見た陶芸教室の講師は、やたら気を使ってくれた。当然、余計なお世話だったわけだが、泥をねって、ろくろの上に叩きつけることにさえ協力してくれた。泥がべちんと音を立てて、ろくろにぶつかるのは嫌ではなかった。投げる側に回るのは悪くない。

 ひとつ、想定外の胸糞悪さを感じたのは、陶芸教室の講師が、男だったこと。性差別を包み隠さず言えるなら、わたしは男を呪っている。

 だから、わたしは女と付き合う。年下の女の子の華奢な体を抱くことが、わたしの生きている理由だ。大きすぎない、小さくもない胸に、顔を埋めている瞬間が、わたしが唯一、幸せらしい感情に沈んでいられる時間だ。それを味わうためには、もちろん、いろいろなことをしなければならない。女に好かれるような女であることとか、献身的な愛撫。

 なんでわたしは、こんなに男が嫌いなのだろうか、毛むくじゃらでゴツゴツしているからだろうか。男にはろくなことをされていない。体液をかけられたことがなんどかある。いや、今では女に体液をかけられることが多い。この違いはなんだろうか。

 やはり、若い頃の無防備な心に与えられた痛みの方が強く、人生に影響を与えるのだろうか。人には忘れるという機能が取り付けられている。不具合なのか忘れられずに増幅され続けることもあるが……。

 もしも、あの日、わたしに泥を投げつけたのが、女だったら、そんなことはおそらくあり得ない話だが、そうだったとしたなら、わたしは男ではなく、女を憎んでいただろうか。だとしたら、わたしは、わたしが男と同じくらい嫌っている売春婦になっていただろうか。それとも、女である自分自身を呪って、柔らかい贅肉を削ぎ落とそうとでもしていただろうか。

「昔は足踏式でした」

 とか、たったひとりの講師が十五人もいる参加者全員に向かって話す。

「今では電気式になったので、創作に集中できるんですよ」

 とか。

「だれかに任せるとしても、機械のほうが怠け者の弟子よりも信頼できます」

 とか。

 講師の言葉に応じる女たちの、耳に痛い笑声、いやらしい愛想笑い、相槌。

「たいていの教室では、機械を使わない手びねり、あるいは、手回しろくろですが、この教室では本格的な電動ろくろが人数分あります。それが目当てで参加してくださった方も多いかと思います」

 とか。

「この教室から未来の陶芸家が生まれるかもしれません。楽しみです」

 とか。

 知ったこっちゃない。

 やり方の説明はほどほどだった。

「とにかくまずは、やってみましょう」

 その号令で、わたしを含めた全員、ろくろに向き直り、背中を丸める。

 しばらく泥遊びをして、ある程度、筒状の形を作ってから、ろくろが回転を始める。ろくろというのは円形の回転台のことだ。この上で泥をなでると、円形の食器だの花瓶だのを作ることができる。仕組みを言語的に説明するのは面倒だ。とにかく、回転台の上で作業した方が、泥の塊を円形に仕上げやすくなる。

 陶芸教室の参加者は、わたしを含めて全員、女だった。だいたいは価値を失いかけている女たちだった。おそらく、男にズタズタにされた女の搾りかすが、やることもなく、陶芸でもやってみようかしらんと、ここにノコノコやってきた。わたしも似たようなものだが、ちょっと浮いている。場違いな女はもうひとりいた。若い可愛らしい女の子だ。そして、彼女もちらりとわたしを見て、似たような感情を抱いてくれたであろうことを、わたしは読み取った。わたしは人の心を読むことができる。ときどき、わたしに心を読ませても、そんなことを考えていないという女がいるが、嘘をついているか、自分でも自分の心に気づいていないだけだ。わたしと一緒に真っ赤で丸い回転遊具に入りさえすれば、よがりくるって、自分の間違いを認めることになる。わたしからしてみれば、どうしてそうも心を無防備にさらけだしていて、秘密にしておけると信じられるのかが不思議だ。彼女と、今夜、ホテルに行くことも、なんとなくわかってしまう。それを想像すると、少しだけ幸せらしい感情を先取りすることができた。

 手を水で濡らし、うずくまった泥の塊をなでる。この泥の塊が、女であるか、男であるか、ふと、そんなことを考えてしまう。すべすべとした感触は女のようであったし、ゴツゴツとした造形は男のように見えた。

 わたしは女になれと念じながら、泥の塊をなでた。意識するまでもなく男や中途半端なものにしてしまうつもりにはならなかった。泥の塊はまだ女でも男でもない存在で、わたしの意思の及ぶ範囲で、それはどちらにでもなる可能性を秘めているように思えてならなかった。その証拠に、泥の塊は念じて力を加えていくほどに、女になっていくように感じられた。

 しかし、泥の塊が薄く大きくなるほどに、力の加減が難しくなっていく。わたしは女を完成させることができずに、女になりかけた泥の塊を、また、ただの泥の塊に返してしまう。詩的表現をあえてしないのなら、わたしの手の中でぐにゃりと潰れるのだ。わたしはムキになって、泥の塊を高く立ち上げ、またぺちゃんこに潰すというのを繰り返した。

 はっと正気に戻って、わたしは若い女の子のほうを見た。あまり無様な姿を見せられないことを思い出したのだが、彼女の方も言うことを聞かない泥の塊に苦戦しているらしく、こちらなど見ておらず、表情を強張らせ、両手を泥色に汚しながら、泥の塊と向き合っていた。

 わたしは視線を戻すついでに他の女たちも観察した。わたしと若い女の子以外の女たちはみんな、出来栄えこそそれぞれだが、なんとなく完成に向かっている。それぞれに、いろいろな感情が見えた。このくらいかしらという妥協、隣よりは上手くやっているというような慢心、なにをやっているんだろうという後悔、使えそうなものができそうだという満足、壊してしまうんじゃないかという不安。それだけじゃない、もっと細やかな感情が、それぞれの心で、それぞれに混じり合っているのが見える。唇を噛んでいるもの、額に汗をしているもの、目をひどく細めているもの、耳を赤く染めているものもいる。

 どうして泥の塊なんかに、こんなにも真剣になれるのだろうかと、笑いそうになった。すぐに、自分もそうだった、いや、そうであるということを思い出す。彼女たちが作り出そうとしているものはどれも、男に見えた。わたしは女を作らなければならなかった。自分は特別なのだという劣等感がわたしを奮い立たせる。

 しかし、心や想いなんかで、うまくいくほど、陶芸はたやすくはなかった。うまくできない。これは人生の縮図なのだとつまらない考えまで浮かんでくる。いつの間にか、若い女の子も、それなりのもので妥協したのがわかった。うまく折り合いをつけたのだ。顔を上げ、わたしを見たのがわかった。わたしはまだ、なにも作れていないような状態だった。恥ずかしくなる。わたしだけが、たったひとり、袋小路で立ち尽くしていた。

 男が、わたしの背後に回っていたことを、わたしが気づいたのは、わたしの両脇からぬっと、男の黒く太い毛の生えた褐色の腕が伸びてからだった。わたしはその腕がはじめ、わたしの脇腹から直に生えたのかと錯覚した。虚を突かれ、恐ろしくて体が硬直し、悲鳴を上げることもできなかった。

 男の大きな手が、わたしの手を覆った。男の静脈が何本も浮いた手が、わたしの手を介して、泥の塊をなでる。わたしはずっと、わたしではなく、泥の塊の方になにかしらの責任があるのではないかと疑っていたが、間違いだった。泥の塊はみるみるうちに生き生きと、まるで、その姿が本来のかたちであったかのように、女になった。


 ――女の赤ん坊になった。


「責任を取らせてください」

 陶芸の講師はそう言って、わたしに指輪をくれた。聞いたことのない名前の高価な石のついた指輪だ。わたしはこんな最低なことはないと思って、男の求婚に応じた。

 赤ん坊はすくすくと大きくなっていく。ときどき、わたしはたまらなく彼女、つまり、わたしの娘のことを愛しいというように思う。笑う時、泣く時、わたしの胸に吸い付く時。これが、よく言われていた愛という感情だろうか。わからないが、それ以外に言いようのない感情に振り回される。

 似たような感情をあの男にさえ抱くようになり、憎んでいた家族が、わたしの娘をかわいいと言ってくれたとき、彼らのことを頼もしくさえ感じた。

 わたしは好んでエプロンをつけるような人間になっていた。作りもののように見えていた人たちのような人間になっていた。それでいて嫌悪感はなかった。娘の口に入るものはすべてわたしが決めたいと思うようになり、娘の着る服も、だれと付き合い、どんな言葉を交わすかさえ知らなければならなかった。

 世の中に対する、嫌だとか憎いとかいう感情は前と同じように残っていたが、それよりも深い感情が、胸を満たし、わたしは日々、戸惑い続けている。

 あれほど執着した、若い女を抱きたいという感覚も、遠い過去の、若気の至りであると断じることができてしまう。幸せのような感情を求めることもなくなった。ドラッグやロボトミーなんてとんでもない。わたしはそうきっと、今、幸せそのものなのだ。

 もちろん、わたしの幸福は、おそらくほとんどの幸福と同じように完全な晴天というわけではなかった。漠然とした不安が、雲となって浮かんでいた。かつて落ちることのない林檎だった不安は、今では風に飛ばされることのない雲の姿となって、わたしを脅かす。

 娘に対してこう思う。お風呂に入ってほしくない。雨の日には出かけてほしくない。水は美しいものをそっと飲んでほしい。肉体の滑らかさを保つために。この愛らしいものが、じつはやはり、ただの泥の塊で、いつか、なにかの拍子に溶けて消えてしまうのではないかという気がするのだ。窯に入れて焼くべきだったのだろうか。いや、そうしても、今度は割れやすいという不安が残っただろう。

 わたしはこの恐怖をだれにも、夫にも言えずにいる。もちろん娘に言えるはずもない。言った途端、言葉通り魔法は溶けてしまうのではないだろうか。だから、彼女には、母親、つまりわたしのことがときどき、わけのわからないものに見えるだろう。どうして、わたしをこうも束縛するのかと。わたしが、母親に思っていたのとまったく同じように……。


 ある夜、わたしはかつての恋人と再会した。

「あなたでなくてはダメなんです」

 そう彼女は言った。

「あなたにとっては数いる恋人のひとりだったんですよね……」

 わたしは頷きもせず、彼女の目を見返したけど、それが肯定の合図だと、彼女もわかっていた。

「知ってます。だけど、わたしにとっては、たったひとりの恋人だったんです」

 わたしは彼女があの日、確かに処女だったことを思い出していた。歯を食いしばって、声を発そうとはしなかった。そうでなくても、無口な女の子だった。

「これまでのすべてです。これから先のすべてです」

 彼女は、わたしと違って、美しいままだった。瞳に夜が染み込んだせいで、わたしがどれだけ疲れて醜くなってしまったか、気づかないらしい。

 時の流れに任せるままにし、わたしが手に入れた醜さは家庭を守るのには好都合のものだった。わたしにとって美しさはつまらない男を引き寄せる呪いでもあった。

 彼女はあえて死ぬという言葉を使わなかった。あなたに拒絶されたら死ぬとは言わなかった。たしかに言わなかったが、痛々しいほど心をさらけ出してしまっていた。

 わたしは結婚をしてからは、はじめて、他者の心を読み取った。彼女の願いを叶えてあげなければ、彼女は、絶対に間違いのない方法で、命を捨てるだろう。どんな奇跡も割り込む余地のない完璧な方法。コップを取ろうと考えて、コップを取るというくらい絶対の方法。それよりもっと簡単な、息を吸って吐くというくらい。利口な彼女だから失敗することもない。

 かつてのわたしならば、彼女を死なせても平気だった。恋人とはマニキュアに似ている。割れてしまったらまた新しいものに塗り替えればいい。割れた瞬間はうんざりするが、新しくなれば、以前どうだったかなんてどうでもよくなる。わたしは次々にマニキュアを塗り替えた。塗ったばかりでももっとマシなデザインや色があれば、簡単に塗り替えた。指は十本もある。

 あんな生活をしていて、こんなことが起きることは覚悟していた。あの頃は、わたしを刺そうとした女もいた。たくさんの女がいた。いろいろな嬌声を聞いた。こうして目の前に現れた女も、思い出の一頁にすぎなかった。すぎなかったのに。

 わたしは彼女に近づいて、その手を取った。そこではじめて、彼女は涙をこぼした。ボトボトと、まるでドロドロの経血のような涙だった。公園のオレンジ色の照明がなぜか、彼女の涙を真っ赤に染めていた。

 彼女はもうひとつの手をわたしの背中に回し、まさぐり、ひっかき、つねった。痛かったけど、そのままにさせた。わたしのかつてより少し膨らんだ胸を恨めしそうに額や頬や鼻で潰そうとした。

 わたしはわたしのものではない。そんな無茶な真実をわたしは実感していた。家に帰れば、わたしは娘のものであり、夫のものだ。実家に帰れば、母親のものだ。だれかがだれかを所有しあっている。目には見えないが、かけがえのないなにかを、いつの間にか彼らと交換したのだ。彼らが死ねば、わたしのなかのなにかが死に、わたしが死ねば、彼らのなかのなにかが死ぬ。たまには、だれにも所有されないという人間もいるが、同じように、だれも所有しないという人間もいるが、決まって不幸だ。彼女のように。

 わたしはこのときだけは、彼女の所有物であろうとした。今日この満月の下にいる間は、彼女だけの所有物であろうとした。わたしは彼女のためなら死んでも良いと思った。酔っ払っていたわけではなくて、凍えるほどの素面でそう信じ込むことができた。娘のことも夫のことも忘れてしまえた。なにか贖罪がしたいのでも、自覚しようのないことだが狂気に陥ったのでもないはずだ。無理に言葉にするなら気まぐれとしか言いようがない。心が分裂したようなこの感覚はどこか爽やかで清々しくさえある。

 泣き止んだ彼女に手を引かれ、どこまでも歩くことができた。彼女がきつく手を握って放さないから、指先の感覚はなく、そこで彼女と混じり合っているみたいだった。かつての淡い幸せの思い出に、現在がひとしずく垂れ落ち、新鮮な黄色と花の香りが、わたしの脳の奥の記憶を明滅させた。どこかでサイレンが鳴っている。探そうと首を振ったけど、すぐに消えた。

 かすかな明かりを求めて、街灯から街灯へ渡り歩く。都会ではなかったけど、夜中に開いている店はあるし、車通りだってあった。手を繋いで歩く女ふたりは、どういうふうに見えるだろう。友だちのように楽しげではないし、年上の方が、手を引かれている。

 すぐにわたしはどうだっていいんだと気づけた。この世界に今はわたしたちたったふたりしかいない。だれがどんな目で見たとしても、それは百億光年の彼方から向けられる羨望の眼差しと違いはない。たったひとりではこうは思えない。たったひとりでいるのと、たったふたりでいるのは、同じようでまるで違う。だから、彼女はわたしを求めた。

 世界の果ては近かった。彼女とわたしのささやかな旅は幸い、だれに貶められることもなかった。満月が薄くなって消える前に、アスファルトはだんだん鈍色の砂利を多く含むようになり、そして途切れた。砂浜、海にまで歩いてきたのだ。流木とゴミだらけだが美しかった。

 そこで、わたしたちはしゃがみこんで、ふたりで、砂をかき混ぜた。キレイな白い砂のある場所を選んだ。

「まるでウミガメになったみたいね」

 そう言ってみたけど、彼女はその表現を気に入らなかったらしい。しばらく待ったけど、答えはなかった。彼女の心はしんと静まり返り、体は上下していたけど、砂をかき混ぜるためだけのもので、その瞬間この世界で音を立てているのは海と砂と呼吸と心臓だけだった。

 わたしたちがいくら頑張って砂をかき混ぜてみても、触手のような指を折れそうなくらい絡み合わせても、かつて、ろくろの上でやったふうに、子どもなど生まれはせず、その予兆もない。

 彼女は唐突に立ち上がって、海の方に歩いていった。空は少しずつ青白んでいく。


 波が、彼女の足を濡らして、土塊の彼女は崩れていった。足を失い腰を失い、腹を胸を、腕を頭を失い。すべてを失い彼女は消えた。頭部の墜落のさなか、彼女は振り返って、わたしに笑い顔を見せた。


 灰色の満月、わたしは駆け寄ったけど、彼女を助けられなかった。寄せて返す波、その一度だけで、彼女は崩れ落ち溶けて消えてしまった。


 そして波が引いたまさにその場所に、まるで彼女の代替品だとでも言うように胎児が寝転がっていた。次の波がその子を連れ去るまで、考える暇もない。







 わたしがどうしたかって?

 あなたの思うとおりよ。

 それでいいじゃない。

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