蛍雪の幸

鈴木しぐれ

蛍雪の幸

 青々とした木の狭間に、石の階段がすっと一筋の道を作っている。脇には提灯が神社まで案内するかのように一定の間隔を開けて並んでいる。そこを鼻歌と共に軽やかに駆け上がっていく足音が響いている。その少女、ゆきは、階段の頂上に立つ朱色の鳥居を、一礼してくぐった。


「お狐さまー」


 ぐるりとその場で一回転しながら、声を境内の全体に届かせる。

 その声に応えて現れたのは、永い間ここを守っている、人、ではない者。ゆったりと真っ白いふわふわした尻尾を揺らしている。一見、人の姿をしているが、髪に紛れて存在する獣の耳と、着物の隙間から主張する尾は妖しく美しい。


『なんじゃ、おぬしか』

「あたし以外誰もいないでしょー」

『まあ、そうじゃな。もうおぬしが来る季節か。早いのう』

「そうだよ。夏真っ盛りだよ!」


 低く這うような声だが、雪は怖いと感じたことはなかった。その声は優しい兄のような気配を纏っているから。狐は、雪に近づきその頭に手のひらを乗せた。


『おぬし、また背が伸びたか。前はこんなチビだったくせにのう』

「あたし、もう十四歳になったんだよ! ちっこくないもん」


 腰に手を当てて、どうだと言わんばかりにアピールするその仕草は、余計に幼さを強調しているのだが、雪本人は気づいていない。


『十四か……もうそんな歳か……』


 狐がそう呟きながら、目を細めて、口に薄い笑みを浮かべていたことにも、雪は気づかなかった。

 ふと、鳥居の向こうから近づいてくる足音が聞こえた。反射的に振り返ってそちらを見ると、すぐに声をかけられた。


「雪、やっぱりここにいたのね」

「ほたねえ!」


 雪とは対照的に、落ち着いた雰囲気を纏った少女が鳥居をくぐった。雪は、嬉しそうにほたるに駆け寄っていく。


『ははっ、姉の前だとやはりまだまだ子供っぽいのう』

「もう! そんなことないもん」


 頬を膨らましながら、雪は狐に言い返した。蛍は雪の目線の先を追ったが、どうにも焦点は合ってない。


『それにしても、姉の方は一段と大人びたのう』

「あたしだって二年後にはこうなるもーん」


 雪は、蛍の腕にしがみつき、わざとらしく舌を出してみせた。蛍はというと、一つため息をついて雪の腕を引きはがした。


「昼ごはん出来たから呼んできてって、おばあちゃんに頼まれたの。ほら、行くよ」

「はーい。じゃあまたね。お狐さま」

『うむ』


 二人で階段を降りているとき、蛍はぽつりと雪に尋ねた。


「またお狐さまに何か言われたの?」

「ほたねえの方が大人っぽいってさー。あたしのことは子供子供って」


 足元に落ちていた小石を蹴飛ばしてみるが、思ったほど飛ばず、雪はさらに口を尖らせた。


「そう」

「ほんとにさ、ほたねえにもお狐さま見えたらいいのにね」

「……うん」


 蛍は数段先を歩いていて、その表情はよく見えなかった。





「おまたせ、おばあちゃん」

「それじゃあ、いただきます」


 テーブルには、冷やし中華が三つ並んでいた。夏の定番にして、姉妹の大好物だった。少し梅ペーストを加えるのがポイントで、梅は祖母の手作りである。


「おいしー」

「そう言ってもらえると作り甲斐があるね」

「おばあちゃん、今度は私も手伝うわ」


 蛍の申し出に、祖母は柔らかい笑みを浮かべた。


「ありがとうね。でもここに来たときくらいゆっくりしてていいよ。こうして夏休みに毎年遊びに来てくれるだけで嬉しいんだから」

「そう、なの?」

「うん。おばあちゃんはそれだけで嬉しいよ。でも、もう少ししたら、忙しくなってなかなか遊びにきてくれなくなったりしてね」


 祖母はタンスの上に置かれた、蛍や雪の入学式、卒業式の写真を見つめた。増える写真が、時間の流れを主張してくる。


「あたしはまだまだ来るもん!」


 雪は箸を持ったまま、器用にピースサインを作って祖母に宣言した。私も、と控えめながらもしっかりとした声音で、蛍も言った。


「それは嬉しいねー」

 大きな笑顔を浮かべたまま、にこにこと祖母は問いかけた。


「そういえば、二人はなにか将来の夢はあるの?」

 その質問に、雪は間髪入れずに答えた。


「あたしね、先生になりたいの! 小学校の先生」

「雪ちゃんらしいね。頑張って勉強しなくちゃね。蛍ちゃんは?」

「私は特にない、かな。これから決めるわ」

「ほたねえは、可愛いし、家の手伝いもいっぱいしてるから、お嫁さんとか! どう?」

「どうって言われても、お嫁さんって……」


 雪自身は名案だと思って言ったのだが、蛍には微妙な笑顔で流されてしまった。


「ああ、そうそう」

 祖母は漬物を箸でつまみ上げながら、何かを思い出したように呟いた。雪も蛍も首を傾げて祖母を見つめる。


「お祭りの準備、二人が良ければまた手伝いに来てほしいなって町内会の人たちが言ってたの。どうする?」

「行く!」

「私も行く」


 目を輝かせて答えた二人に、祖母はうんうんと微笑んで頷いた。


「じゃあ、伝えておくね。準備は明日か明後日から始めるって言ってはずだよ」

「はーい」



 *



 神社には、人が集まっていた。屋台の枠組みや、神輿を担ぐときのはっぴだったり、物も雑多に置かれていた。


「蛍ちゃん、こっちに来てもらっていいかい?」

「はい、すぐ行きます」


 要領のいい蛍は、色んなところから引っ張りだこだった。忙しそうだが、楽しそうにしている。雪は、そっと準備の輪の中から抜けて、社の端の方へと来ていた。


『祭りの準備か。道理で騒がしい』

「わっ! びっくりしたー。もう、お狐さまかー」


 突然後ろから飛んできた声に驚いたが、相手が狐だと分かると肩の力を抜いた。


『おぬしは何もせぬのか』

「今は休憩中~」


 両手を組んで、頭の上でぐっと伸ばした。大して動いてはいないのだが、ここにいるだけで妙に達成感を覚えていた。


『今年は盛大にやってほしいものじゃな』

「何かあるの?」

『うむ。今年は特別じゃ。……待ちわびていたからのう』


 雪は首を傾げて、その言葉の意味を尋ねようと口を開いたとき、服の裾が引っ張られた。そちらを見ると、幼い子ども達が雪を見上げていた。雪以外には狐は見えないから、雪が一人で暇を持て余してしているように見えたのだろう。


「雪ちゃん、この結び方わかんないよー」

「わたしもできないの」


 その手に握られたものは、鮮やかな色の鉢巻きだった。祭りのときには、子ども達用の小さな神輿も用意される。大人と同じように、はっぴと鉢巻きを身につけるのだ。


『仕事が出来たのう』

 狐はそう言うと、社の屋根の上にひらりと上がった。優雅なその動きを目で追ったが、すぐに子ども達の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「じゃあ、一緒にやろっか!」

「うん!」



 *



 祭りの当日。雪と蛍は、祖母に浴衣を着付けてもらっていた。雪の浴衣には、淡い水色の生地に色とりどりの花火が咲いていた。蛍は、紺色に濃いピンク色の牡丹が存在感のある浴衣を着ている。長い髪を頭の上の方で一つに結い上げていた。


「ほたねえ、おだんご可愛い!」

「ありがと。雪もこの髪飾りとか合うんじゃない?」


 そう言うと、蛍は雪の短い髪を耳にかけて、そのすぐ上に大きめの赤い花飾りを付けた。鏡を見た雪は、ぱあっと顔を輝かせた。


「すごくいい!」

「二人とも可愛いよ。気を付けて、行ってらっしゃい」

「行ってきます!」


 家を出ると、掛け声と共に進んでいく神輿が目に飛び込んできた。きちんと鉢巻きをつけた子ども達も、大人に負けじと声を上げて、神輿を担いでいる。


「あ、雪ちゃんだ。おーい」

 雪の姿を見つけると、こちらに手を振ってくれた。手を振り返して、掛け声に消されないように、声を張った。


「みんな、がんばれー!」

 隣でその様子を見ていた蛍は、にこにこと笑った。


「雪、大人気ね」

「えへへ」


 祭りのときは、神輿が通る道の両側には提灯が並んでいる。紅い朱い光に照らされながら進んでいく神輿は、とても綺麗で、夏が来たことをより実感する。

 ふと、神輿の上を見ると、ちょこんと狐が乗っていた。体を縮こませながら、愉快そうに神輿に揺られている。


「ぶふっ」

 雪はその姿に思わず吹き出した。悪戯っ子のような表情をして、狐は片目をつむってみせた。


「ほたねえ、今ね、お神輿の上にお狐さまがいるの。すごく面白くて――」

 雪は、言葉を途中で止めた。隣で神輿を見上げた蛍の目が、ゆっくりと大きく見開かれていく。息をするのも忘れたかのように、その顔には驚きが満ちていた。


「お狐さま……?」

「見えるの!?」


 視線を動かさないまま、蛍は頷いた。いつも、ここにお狐さまがいる、と言っても蛍の目は狐を捉えたことはなかった。しかし、今はぴったりと焦点が合っているように見えた。


「あ、狐さんがいる!」

「どこどこ? わあ、本当だー」

「狐さんすごーい」


 子ども達が口々に“狐”と言っている。指さすのは神輿の上だった。


「皆、ううん、子どもには、見えてる……?」

 元々、神輿の上部には狐の形を模した飾りがついているため、見えていない大人たちはその飾りのことだと思い、特に不審がる様子はない。


 雪はもう一度神輿を見上げ、狐の姿を目に映す。「今年は特別じゃ」という言葉を思い出した。よく見ると、狐はかんざしや帯締めなど、普段は見ない装飾品を身につけている。一体、今年は何があるのだろう。


「綺麗ね……」

 蛍が、うっとりと神輿を見上げて呟いた。着飾っている上に、朱い穏やかな光の中にいる狐は、幻想的で美しい。


「ほたねえがお狐さまを見れて、嬉しい。いつもあたしだけだったから、一緒に見れて」

「雪は、いつもこんなに綺麗なのを見ていたのね」

「うん? お祭りじゃないときは、お狐さまもうちょっと普通の恰好してるよ?」


 周りの掛け声で聞こえなかったのか、蛍からの返事はなかった。





 祭りも終盤になり、人々はゆっくりと帰路につく。祭りのメインの神輿は終わったが、屋台はあと二日間続くため、子ども達はまた明日、と言葉を交わして手を振る。

 雪は、狐に手招きされるがまま、社の裏にいた。ここには人はあまり来ず、やけに静かだった。


「ねえ、今日お狐さまの姿、皆に見えてたみたい!」

『今年は特別じゃからのう。姿を見せるのもよいと思ってな』


 またしても、“特別”。その意味を聞こうとしたが、雪が何か言う前に、狐は低い声を響かせた。


『時は来た。ずっと待っていたぞ』

「お狐さま……?」


 紡がれた言葉は雪ではない誰かに向けられているように思えた。が、その手はまっすぐに雪へと向かってくる。


『さあ、約束を果たせ。嫁に来るのじゃ』

「よ、嫁!? ちょっと待って、お狐さま。何を言ってるの?」

『時が来れば思い出すかと思ったが……。まあよい。約束は約束じゃ』


 狐は、訳が分からないままの雪の手を引こうとする。笑顔を浮かべているが、有無を言わせないという意思がありありと見える。雪は、このとき初めて、狐に恐怖を覚えた。この狐は、人ではない。まして、優しいお兄さんなどではない。


「待って、やだ。……ほたねえ!!」

「雪、どうしたの」


 雪の声に呼ばれて顔を覗かせた蛍は、特に顔色を変えることもなく、雪を見つめていた。その視界に入っているのは、雪だけのようだった。今、蛍に狐は見えていない。


「ほたねえ! お狐さまが嫁に来いとか言うの。もうよく分かんなくて。助けて!」

『おぬしが来ぬと言うなら、この町がどうなっても知らぬぞ。我はここの守り神。守る価値のないものは守らぬ』


 さあっと血の気が引いていくのが分かった。これは、この狐は、神、なのだ。


『姉にも伝えよ。町が大切ならば、約束のもとに妹を差し出せ、と』


 雪はたどたどしく、蛍に狐神の言葉を伝える。瞬きをせずに聞いていた蛍は、一度深く目を閉じ、深呼吸をした。


「雪、お狐さまは今、隣にいるの?」

「うん。ここに」


 雪は自分の左側を指さした。蛍は焦点の合わない視線で、雪の左側を見つめた。


「……蛍雪けいせつ

『!』


 狐神が息を飲むのが分かった。雪のことなど忘れたかのように、蛍の発する言葉を凝視している。


「あなたが約束をしたのは、蛍雪という少女ですね。私は、覚えています。でも、雪は何も知らない。少し、時間をいただけませんか」

『目と記憶、別々に受け継がれた、ということか……。よい。祭りが終わるまで、二日待ってやろう。二日経ってどちらも来なかったそのときは……よいな?』


 蛍に二日の猶予をもらえたことを伝える。ありがとうございます、と言うなり、蛍は雪の手を引き、階段を駆け下りていく。





「ほたねえ、どういうこと? 何を知ってるの? 蛍雪って誰?」

「ちゃんと話すから、落ち着いて」

 提灯が照らす道を歩きながら、蛍は静かに語り始めた。


「私は、ううん、私たちは、三百年前に生きてた、蛍雪っていう女の子の生まれ変わりなの」

「生まれ変わり……?」


 いまいち話が読めない雪は、ただただ蛍の言葉を繰り返した。


「その時代は、お狐さまが見える人はもっと多かったみたいなの。もちろん、蛍雪さんも見ることが出来て、幼いころからお狐さまを慕っていたの。大きくなったらお狐さまのお嫁さんになる、と約束をするほどに」

 蛍は、遠い記憶を思い出すように、目を細めて、話を続ける。


「蛍雪さんが十四歳になったとき、親の言いつけでお見合いをして、そのまま結婚することになった。それを知ったお狐さまは、物凄く怒ったの。『約束を、神との約束を違えるか』って」

「で、でも、小さいときの結婚の約束なんて……」

「そう。蛍雪さんも、同じことを言ったの。でも、お狐さまは許さなかった。だからと言って、親が決めた結婚を覆すことも出来なかった。それで、お狐さまはこう言ったの。『生まれ変わったそのとき、約束を果たせ』と」


 雪は知らず知らずのうちに詰めていた息を吐いた。ようやく、話が分かってきた。狐神の言っていた言葉の意味も。


「あたしがお狐さまを見ることが出来る目を、ほたねえが蛍雪さんのお狐さまとの記憶を、それぞれ持って生まれ変わったってこと?」

「そういうことだと思う。私も、最初は夢だと思ってたの。でも、だんだんとこれは記憶なんだって気づいて」

「だから、ほたねえは、あたしがお狐さまがいるって言ったときに、すぐに信じてくれたんだ」

「うん。びっくりはしたけど、本当のことだと思ったから」


 家の玄関が見えてきた。神社から祖母の家まで、それほど長い距離ではないはずなのに、途方もない道のりを歩いてきた気分だった。


「今日は、もう寝よう」

「うん……」

 色々あって疲れたのか、雪は横になってすぐに眠りに落ちた。



 *



 翌日、白い狐が白い封筒をくわえて家にやってきた。狐神の使いで、封筒には、嫁に来るとなった者が読むように、と書かれていた。雪と蛍は、自然と正座をして向かい合っていた。どちらがこの封筒を手に取るのか、という話し合いをしなければならない。


「私が行く」

 蛍が、静かにそう言った。雪は反射的に蛍の手を掴んで声を上げた。


「そんな、ほたねえが行かなくても!」

「どっちかが行かないと、この町が危ないんでしょう。それに、私には蛍雪さんの記憶がある」

「でも、ほたねえはお狐さまが見えないじゃん。あたしが行った方が――」

 雪が言い終わる前に、蛍が言葉を重ねた。


「蛍雪さんの記憶で言ってたの。嫁に行くってことは、神域に行くってことらしいから、たぶんあちら側に行けば、見える」

「で、でも」

「雪は、小学校の先生になりたいんでしょう。私は特にやりたいこともないし。雪が神社に会いに来てくれたらいいよ」


 それ以上何も言えなくなってしまった雪は、ゆっくりと、掴んでいた手を離した。蛍は封筒を開け、手紙に目を通した。


「……なんて書いてあるの?」

「えっと、<一つ、嫁入りはおぬし一人で来ること>。それから、<二つ、白い服を身につけること>だって」

「ほたねえ、やっぱり……」


 蛍は、雪の手をそっと握り、その不安や戸惑いを全て包み込むように微笑んだ。


「明日、行くね」

「……庭から、神社の方見てるから。終わったら、すぐに行くから!」

「うん」



 *



 よく晴れた日だった。使いの狐の後について、蛍は石の階段を上がっていく。人間の世界から、神域へと渡る道。一段上がるたびに、提灯がひとりでに光を灯していく。ふわりと風が蛍の頬を撫でた。すると、白いワンピースの袖が、裾が、徐々に純白の着物へと変化していき、白い花の髪飾りが舞い降りて、花嫁姿になった。


 もうすでに、人智を超えた域にきている。蛍は、手紙の内容を思い出していた。手紙には、雪には言ってない、もう一つのことが書かれていた。<三つ、おぬしと関わった全ての人間の記憶から、おぬしの存在は消える。その覚悟をもつこと>

 雪には、とても言えなかった。きっと、泣いてしまうから。


 あと数段というときに、晴れた空からしとしとと雨が降り出した。蛍は頬を伝う雨を拭うこともなく、鳥居の向こうへと一歩踏み出した。



 ~・~


 雪は、庭から神社の方を見守っていた。自然と両手を胸の前で握りしめて、意識的に深呼吸を繰り返している。

 ふいに、柔らかな雨が降り出した。見上げると、青空が広がっている。

「狐への嫁入り、だね」



 ――――――――――――――。



「あれ? お天気雨だから、狐の嫁入り、だよね。なんであたし言い間違えたんだろう……? けっこう降ってきたし、中に入ろっと」


 ~・~



『よく来たのう、蛍雪』

 鳥居をくぐると、景色はいつもの神社なのだが、どこか空気が澄んでいるように感じた。そして、目の前には狐神が嬉しそうに笑っていた。見える、ということは、こちら側にきた、ということ。蛍は、ほっと息をついた。そして、狐神に向き合った。


『お狐さま、一つお願いがあります』

『なんじゃ。この町の安泰と妹の自由は約束する。おぬしはそのための贄とも言えるからのう』

『違います』

『?』


 蛍は、強い口調で否定した。何を否定しているのか図りかねる狐神は、目線で蛍に説明を促した。


『蛍、と呼んでほしいんです。私がここに来たのは、この町のためでも、妹のためでもない。……私自身のためです』


 狐神を見つめるその瞳には、強い光が宿っていた。


『あなたに、惚れたからです。十六年間ずっと、夢の中で、好きだと、愛しているとあなたに言われ続けたんです。そうなって当然ですよ。想われている相手が私ではないと、誰かの記憶だと気付いたときにはもう遅かったんです』


 蛍は、両手を胸に当てて、ドキドキとうるさい心臓の音を感じながら、言葉を紡いだ。


『蛍雪ではなく、蛍を。私を、妻にしてください』


 少女のあまりに純粋でまっすぐな想いを受け、狐神は長年追いかけていた面影を、頭から追い払った。目の前の少女への愛しさの雫が、水面に落ち、どこまでも波紋が広がっていくのを感じた。


『分かった。おぬしを愛すると誓おう。来い、蛍』


 差し出された手に、蛍は幸せそうな笑みを浮かべて、その手を重ねた。




 ***




 神社の境内に、ランドセルを背負った子ども達が楽しそうにしゃべっている。そこに、一人の女性が通りかかった。


「皆、何してるの?」

「あ、雪ちゃんだ!」

「こら、雪先生でしょ」


 注意された子は、はーいと気の抜けた返事をしただけだった。別の子が、服を引っ張りながら話しかける。


「先生知ってる? ここの神社って、狐の神様がいるんだよ」

「すごい、よく知ってるねー」


 褒められた少女は、にこにこと嬉しそうに笑みを浮かべている。女性は、ちらりと社の方を見やった。


「実はね、ここの狐の神様には、お嫁さんがいて、夫婦で神社を守ってるんだよ」

「そうなのー!」

「嘘だー」

「なんで分かるの?」


 それぞれの反応を見せた子ども達に向けて、女性は目線を合わせてしゃがみ込んで、口元に人差し指を当てた。


「先生ね、見えるんだ。内緒だよ?」


 社に佇む夫婦は、その様子を見て、穏やかに微笑んでいた。

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