わおん

フカイ

掌編(読み切り)





 わおんという名のねこを飼っている。

 わおんは、和音のことだ。

 複数の音を一度に鳴らすと生まれる、えもいわれぬ不思議な調和。

 時に気分を高揚させ、時に悲しみを呼び起こす、あの和音だ。


 わおんは朝、目覚めたわたしが寝室から出てくると、廊下でちいさく鳴く。

 消え入りそうなか細い声で、わおんがにゃおんと、ひと声、鳴く。

 それを聞くとわたしも、

 「おはよう」

と答えることにしている。

 朝の挨拶というわけだ。


 その後、わおんはわたしのパジャマのズボンの裾にすこしだけ身をよじらせながら、廊下をついてくる。冬の朝のキチン。わたしは冷蔵庫にしまってある浄水ずみのお水をケトルに注ぎ、レンジに火をかける。それから流しの脇にひっくり返してある、わおんの食事皿を、キチン・マットの端に置く。わおんはいっそう激しく身もだえして、うろうろとわたしの足元を行きつ戻りつする。


 食事皿に半乾燥のキャット・フードを入れる。それにひとつまみの煮干しを加える。わおんはその皿の前に両前脚をきちんと揃えて座り、そのブルーの瞳でこちらを見上げる。わたしは彼女の左右の耳の間の、小さな額の部分を二本指の先で撫で、それからわおんに「いいよ」という。


 わおんは許可を貰うと、いつも何故か一口のフードだけを口にし、それからぷいと皿をあとにし、歩き去ってしまう。そしてダイニング・テーブルの下をくぐり、また皿に戻ってくる。

 まるで、「わたしはご飯になんて、ちっとも興味ないんですからね」とでも言いたげな様子で、クールを装ってあたりを一周する。けれどもフードの誘惑には勝てず、結局すぐに食事を再開し、そのあとは迷うことなく、最後まで食べきってしまうのだ。


 ケトルに湯が沸き、わたしは朝のお茶をゆっくりと煎れる。アールグレイから始まる日だ。

 キチンの北に向いた出窓に置かれたラジオをつけ、いつものニュースを聞き流す。

 カーデガンを羽織り、斜めに朝日が差し込むリビングを、ダイニング・テーブルから見渡す。


 冬枯れの乾いた天気が続くでしょう。

 洗濯指数は5です。乾燥に注意しましょう。

 次は、各地のニュースです。


 ラジオから、落ち着いた声がながれてくる。

 足元では、わおんがゆっくりと朝の食事を摂っている音がする。

 夫も、息子も、まだ起きては来ない。

 彼らが起き出してくる頃には、わたしもアクセル全開で、朝の支度をしていることだろう。

 わおんもおびえて、キチンからは出て行くことだろう。


 しかし。

 誰にも邪魔されない、テレビの電源も入らないこの時間をおだやかにすごすために。

 わたしはいつも、30分の早起きをする。

 何をするでもない、朝のこの時間。

 わおんに朝ごはんを与え、部屋の植物たちには水を与え。

 香ばしいお茶を煎れてすごす、貴重な時間。


 わたしの中に調和が生まれ、きれいな和音が聞こえてくる。

 貴重な時間だ。




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わおん フカイ @fukai

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