花ちゃんが死んだ

 花ちゃんの思い出がちょうどぷつり、と途切れたところで「奈緒、おやすみ」という母さんの声が廊下から聞こえて来た。

 「おやすみ」と少し声を張り上げ、私は薄暗い部屋のドアに返事をした。元私の部屋は、今は父さんの書斎になっている。

 その部屋に母さんが暖かい布団を敷いてくれた。その温もりに独りくるまりながら、ぼんやりと薄明るい電球を眺める。あの日、広島の家に行った後、花ちゃんの話を聞いたことはない。

 三郎の話なら何度もある。

 三郎がツボを壊したとか、他の犬の尻尾を噛んでトラブルになったとか、三郎のために車を買い替えたとか……。しかし花ちゃんの話は一度もない。久々の花ちゃんのニュース、それがこれだった、花ちゃんが死んだと。


 花ちゃんの人生、いや犬生は幸せだったのだろうか。

 幼くして飼い主の暴力に遭い、その後も足を切断、やっと買い取ってもらった先ではひどい扱いはないにしろ、表札には入れてもらえない、丸い円の中で1日を過ごす。

 

 少なくとも今の私より、比べ物にならない苦しい体験を乗り越えきている、人間不信になるのももっともだ。

 そんな花ちゃんが見ず知らずの私を舐めてくれた、受け入れてくれた。

 私はあの瞬間、今までのどんなつながりよりも強いものを感じた。犬という本能で生きているはずの生物がくれた心の開きは、人間のそれよりもっと純粋で、暖かくて、とても輝いていた。


「……」


 気づけば私は泣いていた。

 ぼろぼろととめどなく雫が溢れていた。

 息を吸うと、鼻がずるっと言った。


 なぜ?

 たった一回しか会っていないのに?

 たった数時間しか会っていないのに? 花ちゃんは犬なんだよ。

 でもどうして……わからない。


 人と人との繋がりですら、ちょっとの軽い思いで発生しては、消えるときは一瞬。しかも記憶から消したい、と思えるような悲しい繋がりもある。

 なのに花ちゃんとの繋がりはとても大切で、優しくて、失くしたくない、そう心から強く思える、そんな宝物だった。


 きっと幸せだったんだよね、私は花ちゃんに会えて幸せだったよ、ありがとう。どうか天国から見守っててね。


 天井に浮かぶ薄暗い電球の明かり。そのぼんやりとした丸に、私はもう一度だけ花ちゃんの愛らしいあの瞳を重ねていた。


(了)

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花ちゃんが死んだ。 木沢 真流 @k1sh

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