第一章 異世界 17―2 『いってきます』



「―――やべぇ、眠すぎる」


 出発の前夜。イツキは寝台を机代わりとして必死にものを書いていた。

 手紙、とかそういう誰かにあてたメッセージではない。ただ単に、文字が読めなければ困るから勉強しているのだ。


「えっとこれが・・・何だっけ?」


 文字を覚えると言ってもすべては無理なので、平仮名的存在の単字のみ。

 そしてもちろんイツキは自分から覚えようと考えるほど勤勉ではない。覚えるように言ったのはシルだ。

 今のところ半分程度は覚えたのだが、それも順番通りなら書ける、と言ったところだ。

 形を覚えてしまえばマスターしたと言ってもいいほど簡単な仕組みだが、五十ある文字の形を数時間で覚えるのは至難の業。イツキはそれに苦戦中である。

 こんなことなら訓練よりも先にやっておくべきだったのに、やりたいことを優先してしまうのはイツキの悪い癖。

 学校生活でもそうだった。だが、記憶力に割と自信のあるイツキはある程度勉強しなくてもついて行けるのだ。だから、勉強せずにやりたいことだけをする、堕落しきった生活になった。

 結論、やればできる子は怠け癖がすごい。


「まぁ、覚えて損はないし・・・というより得だし、やっておいた方がいいんだろうけど」


 とは言うものの、睡魔との戦闘は誰しも苦戦するもの。イツキも例外でなく、時折、羽ペンの羽に鼻を撫でられる。

 ぞわっとする感覚で目を覚ましても、それを繰り返すだけだ。

 そんな繰り返しの中、脳がこれ以上の働きを受け付けなくなったと判断し、もちろん眠いからだが、イツキは寝台にもたれかかったまま、睡眠に入るのだった。



 遅く寝たのに割と早く起きてしまう。何か大きなものに引き寄せられるかの如く。

 目を覚ましたイツキは冷たい感覚を膝に覚え、自分が勉強中に寝ていたことを思い出す。そして、まだすべての文字を覚えていないことも。

 だが、


「ま、いっか」


 テスト前や長期休暇の終わりに感じる謎の余裕がある。焦りが諦めとなり、何故か余裕だと判断してしまう現象だ。なんとかなる病だ。

 イツキはいつからか、そんな病気にかかってしまった。

 ちなみに医療薬は『頑張る』だが、間違えて『次は頑張る』を使わないように。猛毒ですよ(笑)。


「それより準備しとかなだな」


 イツキの言う準備は衣服だけだ。その他の必要なものは王都やルクス領内にある村で買い揃えるらしい。

 一応、護身用の短剣を渡されたのだが、ガイルが警戒して帯剣を許してくれなかったので、シルが管理することになっている。

 そのおかげでイツキの準備する荷物は少なく済んだ。


「―――寒いな」


 早く準備が終わって広場に下りると、朝の寒さを実感する。普段はシルが魔法で一帯の気温を高めているらしいが、今朝はしていないようだ。


「てかやっぱすごいな、魔法。規模がパねぇぞ」


 などと呟いていると、気温管理人のシルと、ヒナタが出てくるのが見えた。

 ここ数日、ヒナタと話す機会は少なくなっていた。否、少なくしていた。

 恐らく詳しく話を聞いていないヒナタは疑問と不安でいっぱいになっているだろう。

 それでも何も伝えようとせず、誰にも伝えさせなかったのは、イツキなりの配慮で、もしヒナタに伝えていたら、今よりも状況が悪くなっていただろうと推測していたからだ。


「おはようございます、イツキさん」


「おはよ」


「準備できましたか?」


「まあね。文字は覚えてないけど」


「でしょうね」


「やらないって知ってるならやらせないで欲しいかな!」


 とかなんとかやり取りする中、いつもとは異なる朝に不安が過ぎる。


 ヒナタからの朝の挨拶がない。イツキを見かけるとまず交わされる言葉がこの朝にはない。

 もちろん原因はこれから起きることの説明が不十分だったことなのは明白だが、それだけでヒナタがこうまではならない。

 ここまで暗い顔にはならない。

 視界に入ったヒナタの表情には心配の色しか見えない。不安の種はきっと尽きない。


 それならば―――



「―――君には大いに期待しているぞ、イツキ君。色々な意味でな」


「じゃあ色々と頑張るよ。こちらも色々と懸かってるんで」


「少年、応援しとるぞ」


「魔剣代、払えよ」


「わ、わかってまーす」


「まぁ、なんだ。怪我はするなよ?」


「したくてもできないけどな。―――それより約束の件、頼むぜ?」


「おう、任せておけ」


「ちゃんと帰ってきなさいよ?」


「もち。ここはもう俺の第二の故郷だからな」


「寂しくなったらみゃーのことでも思い出して帰って来るにゃ」


「あー、思い出したら帰って来れないかも」


 朝食を済ませ、皆が見守る中、出発の時を迎えた。冗談を交えながら、ひとときの別れの挨拶を交わし、軽く握手。いつもより時間が早いため、ハープは御眠だ。だが、その眠そうな笑顔で充電もばっちり。

 あとは―――


「ヒナタ」


 未だ心配の色が消えないヒナタに声をかけた。下を向いていた彼女はゆっくりと顔を上げる。その動作の中でもきっと様々な心配が浮かんでいるのだろう。

 だからこそ、


「―――いってきます」


 心配無用。そんな笑顔で一言。


 もしも、ヒナタがイツキを心配しているのなら、それはすごく嬉しいことだが、必要ないと笑い飛ばそう。

 むしろ安心して欲しいと、その力はなくとも、そう願おう。

 帰ってくると、イツキはここに誓おう。


 ―――だから、待っていろ。


「・・・うん」


 イツキの声を耳にしたヒナタが、小さく頷く。表情が次第に軽くなったのを心なしか感じた。


「いってらっしゃい」


 明るくなった顔で言葉を返す。イツキに対する心配が、信頼に戻ったと、そんなことを感じさせる笑顔で。

 これから何が起きるのか、イツキにもわからないことだ。でも、何が起きても、イツキは帰って来なければならない。


 イツキが『   』でいられる場所に帰って来なければ。


 この異世界にて守るべきもののために


 ―――いってきます。

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イセカイカクメイ 凪と玄 @Nagitogen

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