第6話 束の間の果てに

 貴女を砂の上に横たえて、覆い被さるように口づけた。

 他の行為を知らないうぶな少年のように、ただ貴女の唇だけを求めた。

 覚める事のない夢のように、貴女の熱に沈んでいく。

 

 今この瞬間に、世界が終わってしまえばいい。

 僕は本気で、そんな事を望んだ。


 狂おしく、貴女の熱に沈んだまま、僕は終わっていく。

 僕の全てを、貴女にあずけて。



 息継ぎするように唇が離れた刹那、貴女の眼と僕の視線がぶつかった。

 貴女の黒く濡れた瞳は、僕をじっと見詰めていた。寸分も逸れる事なく。


 その眼に射すくめられるように、僕は動きを止めた。

 ひっそりと草陰に咲く控えめな花のように、潤みを湛えた眼差し。

 貴女の眼は、決して僕を咎めてはいなかった。けれど僕は、それ以上貴女を求める事ができなかった。熱を帯びていた息をひそめて、貴女の眼を見詰め返す。


 波の音が戻ってきた。 

 秒針が、二人の時間をゆっくりと進めていく。


 砂の上に仰向けに横たえた貴女に覆い被さったまま、僕は動かなかった。

 瞳を重ね合わせて、互いの心を探り合う。


 貴女は本当に綺麗だった。

 その眼も、弧を描く眉も、控えめな小鼻も、なめらかに淡く桜色に染まった頬も、柔らかな唇も。


 全部、全部、愛していた。

 頭の奥が、貴女の熱に浮かされたまま、甘く痺れていた。



「……僕に、一生忘れられない貴女を見せて」


 波に浚われないように、そっと貴女に囁く。

 貴女の瞳が、しっとりと濡れた憂いを孕んだまま、僕を映していた。



「貴方はこれからの長い時間、ずっと私の影に捕らわれて生きていくの?」



 僕は、波に言葉を奪われた。

 貴女の眼は僕の形を映したまま、柔らかな光を零した。

 ほんの一瞬、貴女の瞳に涙の粒を見た気がした。……いや、違う。僕の方が泣きたかったのかもしれない。

 さんざん求めた貴女の唇は、緩やかな笑みを浮かべていた。



「まだ19歳の貴方の心に一生棲みつくなんて、そんな酷な事、できるわけないでしょ」



 波の音と貴女の声が重なった。そして、酷く悲しげな音になる。

 微笑んだ唇とは裏腹に、貴女の眼は苦しそうに僕を映していた。

 酷く、対極的に。


 貴女の中で、何かが交差している。

 僕の胸の内側が冷たくなっていく。

 何かを、予感していた。


「そんな事、あるわけないだろ」


 貴女の言葉を、僕は打ち消した。けどきっと、貴女の心に僕の声は届かない。

 貴女の瞳は、僕の肩越しに遠い空を見ていた。もうそこに、僕の形を映してはいなかった。




「もう、帰らなきゃ」


 貴女は上体を起こしながら云った。そして、僕の隙間からそっと抜け出す。



「次は、いつ会える?」


 嫌だ、行かないで。

 本当に伝えたい言葉を隠して、貴女の後ろ姿にすがるように訊ねる。


 貴女は、答えてはくれなかった。


 振り向いた貴女は、僕を見た。

 穏やかな潮騒の中で、優しい光に包まれて。


 何故だか、この世の果てに居るような気がした。

 

 貴女は微笑んだ。非日常の世界の、一番果てで。

 まるで、真昼の目覚めきれない夢。


 この世界の一番淋しい場所に、貴女は僕を置き去りにしようとしている。

 僕の心は涙の粒のように砂の上に落ち、そのまま波に浚われた。


 もう、何もかも変わってしまったんだ。ほんの一瞬の隙に。

 僕は気づいた。

 あるいは、失ってしまったのだと。


 貴女の形が低い陽射しの中に呑まれ、ゆっくりと離れていく。

 目覚める寸前の夢のように。

 心地好い非日常という時間が、日常の向こうにほどけていく。

 手を伸ばして掻き集めても、欠片さえ残らない優しく儚い夢。

 もう戻らないものが、空気の粒子に溶けていく。


 けど、貴女は微笑んでくれた。

 僕に、恋をしてくれた。


 貴女の心が離れてしまったわけではない。けれど、貴女は決めてしまった。

 もうきっと、貴女は会ってくれない。


 貴女を引き留めたい。大声で呼び止めたい。

 貴女の名前を大声で叫んで、その背中を抱き締めたい。

 本当は、何処にも帰したくない。ずっと苦しかった。今だって。

 貴女を失いたくないよ。

 しまい込んだ全ての気持ちを吐いてしまいたかった。


 けれど、できるわけないじゃないか。

 そんな行為は無駄だって、もう知っているんだ。


 ならば最後くらい、大人でいたい。

 貴女には決して釣り合わないけれど、大人の男のふりを。

 いつか貴女が僕を思い出す時、その記憶の中でだけでも大人の男でいたいんだ。

 


 ほんの束の間だけれど、貴女と僕は恋に落ちた。

 決して結ぶ事のない恋を、非日常という二人だけの場所で。

 他の誰も踏み入る事のできない、二人だけの場所で。


 僕は一生忘れられない貴女の後ろ姿を、今はまだ埋められない深い穴の空いてしまった心で見送っていた。



   《END》

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きっと貴女は、僕のものにはならない 遠堂瑠璃 @ruritoodo

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