第39話 薫の眼帯

「古都並は、命に別状はないそうだ」

「そうですか。良かった」

 山田は車の中に詩織、薫、村井の三人を残して、薄暗い大学の駐車場に、黒猫一匹を前にして、しゃがみ込んでいた。山田は黒猫に囁くように言って、その猫も彼の言葉に一々答えるように見えた。

「私、あれから自分の家に行ってみたんです。でも、玄関は閉まっているし、こんな格好だから、家族の誰も私のこと気付いてくれないと思ったんです。それで行く当ても無いから、ずっと家の前に立っていたんです。その時、たまたま古都並さんが、スクーターで通り掛かって、私に声を掛けてくれました。それだけでも嬉しいのに、古都並さんはわざわざ家の呼び鈴を鳴らして、お宅の猫が家の前で待っていますよって、伝えてくれました」

 黒猫の姿をした黒崎寧音は、そこまで言うと、しゅんとなって、黒く尖った耳のある頭を下げた。その耳も、どこか元気を失って垂れていた。

「それで、どうなったんだ?」

 山田はその話に興味をそそられ、黒猫の近くに寄った。

「うちは猫は飼っておりません。どこぞの野良でしょうって言って、通話を切ったんです」

「そんな、酷すぎる」

「ええ、私も最初そう思いました。酷い。親なのに、自分の子供のことも分からないのかって、怒りました。でも、無駄でした。私は黒崎寧音じゃなくて、ただの黒猫だったんですから、仕方ありません。しょぼくれている私に、古都並さんは自分の家に来るかって、誘ってくれました。正直、嬉しかった」

 山田には、黒猫の澄んだ瞳が、刹那に輝いて見えた。

「それで、古都並と一緒に居たんだね」

 山田は納得したように、体を起こした。黒猫は一度、山田をゆっくりと見上げて、また下を向いた。

「ええ。古都並さんは、薫さんのこと捜していると話してくれました。別に、私だから話してくれたんじゃなくて、ただの猫だから話したんだと思います。誰かに打ち明けたい、でも誰にも言えない悩みってあるじゃないですか。そんな時、私のような猫は、絶好の話し相手だったのでしょう。でも、私は知ってしまった。古都並さんが、薫さんを必死になって捜していることを知ってしまったんです。だから、古都並さんに協力しようと、薫さんに会わせて上げたいと思ったんです」

 それは、とても奇妙な光景だった。猫がしゃべるのを、山田がじっと耳を傾けているのだ。まるでお伽噺か、幻想世界のようだった。

「それで、人間の言葉をしゃべったのかい?」

「いいえ、出来ませんでした。そんな事したら、きっと古都並さんはびっくりして、私から遠ざかってしまうって、そんな気がして、しゃべれませんでした」

「それはそうだ。じゃあ、どうやって古都並へ、薫の居場所を教えたんだい?」

 山田は二三度瞬きした後に、頭の後ろをかきむしって、黒猫に向き直った。頭をかきむしるのは、村井の癖だった。

「私が逃げる振りをして、古都並さんを山田さんの車へ誘い出したんです」

「あっ、なるほど。僕たちにやったようにだね」

 山田は思わず声を漏らして、猫もやるもんだと、すっかり感心してしまった。

「はい、済みません」

「謝ることないよ。君にはそうするしか、手段が無かったんだからね」

 山田は腕組みして、頭を振った。黒猫もどこか、山田に応えるように思えた。

「でも、それは間違えでした。私はとんでも無いことを仕出かしてしまった。古都並さんを、薫さんの所へ案内すべきではなかったんです」

 黒猫はそう言い終わると、うな垂れるように、頭を下ろして口をつぐんでしまった。

「でも遅かれ早かれ、古都並は薫を見つけ出していたと思うよ。きっとそうだ。彼の執念は、それほど強かったんだよ。そうだろう。それなら、それでいいじゃないか」

 山田は、黒猫を元気付けるように明るい声を張った。

「そうでしょうか」

「そうだよ」

 黒猫は、ゆっくりと頭を起こした。その黒く潤んだ瞳に、山田を映すようにした。山田はそれを見詰めて、穏やかに頷いて見せた。山田には一瞬、黒猫が微笑んで見えた。それは、紛れもなく黒崎寧音のあの凜々しい顔立ちから、こぼれた笑顔だった。が、すぐに今度は、黒猫は頭を振ったように思えた。

「でも、薫さんはあんな酷い事になってしまったし、古都並さんは薫さんの記憶を全て失ってしまったじゃないですか。そんな結末なんて、あまりに悲し過ぎます」

 黒猫はそう言って、山田の次の言葉を待つように、一時も彼から視線を逸らさなかった。山田は多少彼女に根負けして、一度黒猫から顔を背けた。

「古都並のやり方は、間違っていたんだよ。自分の命を絶ってまで、薫と一緒に居たいだなんて、考えてはいけなかったんだ。薫はそれを自分の身を犠牲にして、止めたんだ。別に、君が悪いわけじゃない。あの場に、君が居なかったとしても、結局同じ結末を迎えたと思うよ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。それに、あれは薫が自分で決めたことだ。彼女は、何一つ後悔してないと思うよ」

 黒猫は、山田に勇気付けられたように、背中を伸ばして体を起こすと、長い尻尾を縄跳びみたいに回して見せた。山田も彼女の気持ちを見守るように、黒猫へ微笑を向けた。


 あの日、山田は古都並が運び込まれた、病院を突き止めた。病室の古都並に会いに行った。古都並は窮屈なベッドの上で、その頭には大層に包帯を巻いていた。が、意外にも元気そうだった。山田がベッドに近づいたとき、古都並は妙な顔をした。それは、どこかよそよそしい初対面の表情だった。

「古都並くん、怪我は大丈夫かい?」

 そう見舞う山田に、古都並は明らかに戸惑いを見せた。

「えーと、失礼ですが……」

「僕のこと、覚えてないの?」

 古都並は返事する代わりに、はっきりと頷いて、山田の容貌を確かめるような目付きをした。

「それじゃあ、薫。いや、百瀬薫を覚えているかい?」

「百瀬薫ですか? 知り合いにも、友達にも薫くんは居ませんが。あいたた、痛い。ごめんなさい。頭を強く打ったみたいで」

「大丈夫かい。先生呼ばなくていいの?」

「ええ、大丈夫です。でも、あなたとはどこかで会っているような気がします。えーと、どこだったか。ああ、そうだ。そうだそうだ。黒猫カフェですかね。えーと……」

「大体、合っているかな……。僕は、山田、山田淳二だよ」

 山田は一度目を丸くした後、笑って言った。

「それで、その百瀬薫って人が、どうしたんですか? 山田さん」

「いや、何でもないよ」

「そうですか。あっ、そう言えば、ちょっとおかしなことがあるんです。僕、確か車に轢かれそうになったとき、誰かが僕の前に飛び出して来て、女の子だったんです。でも、その子の顔が知っているはずなのに、どうしても思い出せなくて。知っているはずなのに、おかしいな。ごめんなさい。変なこと言っちゃって」

 古都並はベッドの上で、笑いながら顔を歪めて、痛みを堪えるようだった。

「いいんだよ。きっと夢と現実とが、頭を打った所為で、混乱しているんだと思うよ」

「そうですね」

「それじゃ、そろそろ帰るよ」

「もう帰っちゃうんですか?」

 古都並は、どこか人懐っこそうな顔で、山田を引き止めた。

「ここ病院だから、長居は出来ないんだ。それじゃあ、お大事に」

「はい。今日は、お見舞いありがとうございます」

 山田は後ろ髪を引かれる思いで、病室を後にした。山田は、古都並ともう少し話していたかった。が、あまりに衝撃的な事実を知ってしまったからには、古都並の前にこれ以上居るのが辛くなった。薫にどんな顔をして伝えれば、いいのだろう。その事で、頭が一杯だった。――


「それで、話は片付いたの?」

 ようやく黒崎寧音と話が終わり、車に戻って来た山田を待ちわびて、薫が真っ先に口を開いた。大学の駐車場に止めた車の中には、薫の他にも、詩織と、村井が、首を長くして山田の帰りを待っていた。

「ああ、一緒に来るって……。あっ。それから、これ眼帯」

 山田は枯れ草色の上着のポケットを、ごそごそ探って、薫に真新しい眼帯を渡した。

「あっ、ありがとう」

「私の包帯も使う?」

 詩織が首に巻いた包帯を、ブランドのネックレスを、他人に自慢するみたいに摘まんで見せた。

「いいよ。そっちの方が目立つから」

 薫は詩織の本気とも思えないお節介に、わずかに苦笑いした。昨夜、薫は古都並をかばって、不意に現れた車の前に飛び出した。車と衝突したときに、薫は左目を失う傷を負ってしまった。古都並は何とか無事だったが、その衝撃で、薫の記憶を全て無くしてしまったのだった。

「薫もなかなか、いい所があるじゃない。その眼帯も、よく似合っているのね」

 詩織は薫を労うように、今度は本気で言っているようだった。

「どこが? これで、詩織とお相子よ」

 薫は、何だかむず痒いのを隠すみたいに、つれなくした後、嬉しそうにした。

「そうね。そう言うことにする」

 詩織も、薫と同じ笑顔をした。いつの間にか黒猫が、車の後部座席に座る、薫の足元に優しく寄り添ってきた。

「黒ぴー!」

 それを見つけた村井が、振られた相手にすがり付くみたいに、情けない声を上げた。黒猫はその声には、全く知らん振りをしていた。今夜はいつものメンバーに、黒猫が一匹、いや黒崎寧音が加わって、詩織のドライブに行くことになった。こんなやり方は、間違っているかもしれないが、山田はもし詩織がそれを望むのなら、とことん彼女に付き合うつもりだ。

「ねえ。今から、ドライブに行かない?」

 詩織が、飛び切りの笑顔を見せた。

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死体のヒロイン つばきとよたろう @tubaki10

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