第38話 古都並の過ち
安沢の車が去るのを確かめて、薫が恐る恐る車から降りてきた。村井は急に手に抱えた黒猫が暴れだすから、あたふたして外へ出ることも出来ないでいるらしい。それを見兼ねて、薫が黒猫を放して上げなさいと、村井へ言った。村井が放すと、黒猫はたちまち後部座席へ回って、薫が開けた扉から外へ飛び出した。
「急にどうしたんだろう?」
薫はまだ顔を強張らせながら、また戻って来るんじゃないかと、安沢教授の車が去った所を、不審そうに眺めていた。
「何か知らないけど、助かったのね」
詩織がようやく表情を和らげ、おどけて言った。
「たぶん安沢教授は、生前の詩織を求めていたんだ。でも、死んでしまった詩織のことは、詩織だとは分からなかったんだ。それで失望して……」
山田は、それ以上何も答えられなかった。こうなったのも、全て自分の所為だと責められる気がしたのだった。
「そうかもね。何だか悲しいけど。――でも結局、死んでて助かったってことよ」
薫は何の気なしにそんな事を口にして、肩をすぼめて見せた。
「それ笑えないですけど」
「黒ピー。あなた、本当にしゃべれるのね」
薫の側に居た黒猫が、じっと見上げていた。薫は黒猫の頭を撫でるつもりで、手を差し出した。が、詩織の声でそれは中断してしまった。
「でも私、死んでないよ」
「まだそんな事言っているの? 詩織。あなたも……、それに私もね。もう死んでいるの」
薫はわざわざ立ち上がって、詩織へ煙たそうな顔を突き出した。
「死んでないもん!」
「死んでいるの!」
「死んでないもん!」
詩織は、頑なに薫の言葉を拒み続けた。薫は強情な詩織の態度に、次第に声を荒らげると、それが突然と怒鳴り声に変わった。
「そんな事も分からないの。馬鹿ね! はっきり言って、大馬鹿よ!」
「そんな酷いこと言われなくても、薄々気付いていたよ。でもね。私は死んだなんて認めたくない。このまま楽しく生きていたいのね。ああ、死んでいるんだった……」
詩織はそこまで言って、急に顔を暗くして口を閉じた。
「あなたって、本当に幸せな人ね。私はうんざりなの。こんな惨めな体で死んでいたくない。こんな体じゃ、死ぬことだってできないじゃないの。死んでいるけどね」
「死ぬだなんて、酷いこと言わないで」
詩織は悲しみに俯いた顔を起こして、薫を見詰め返した。きゅっと閉じた唇を固く結んだ。
「それの何が悪いの? 詩織も分かったでしょう。首を切り離したって、平気なんだから、こんな体どうかしちゃっている」
「平気なんかじゃない。平気なんかじゃないよ」
詩織は鳥が羽ばたくみたいに、激しく頭を振って黒髪を乱して、薫の残酷な声を振り解くほどに強く叫んだ。
「そうよ。薫がやったのよ。酷い! ここをこうやって刺して、それから首を切ったの。崖からも突き落とし、車で轢き殺そうともした」
「はあ、私そんな酷いことした? 全然覚えてないけど。でも、どうせ死んでいるんだからいいでしょう。ちゃんと首もくっ付いちゃうんだから、何ともなかったでしょう」
「酷い、酷い、酷い! 散々やっておいて、何度殺したと思っているの?」
「そんな事、一々覚えてない」
「酷い。薫、分かっているの? 死ぬのって、死ぬほど痛いの。死んでいたって、刃物で刺せば痛いの。体も痛いし、心も痛い。首は元に戻っても、この包帯の首の傷は、私の体に痛みと一緒に刻まれているのね」
「傷! やっぱりね。そんな事だと思った。それ直らないんだ。それで、包帯で隠していたの。ちょっと見せてよ。早く見せなさいよ!」
薫は不敵な笑みを浮かべながら、そう言うなり、詩織へ掴みかかろうとした。
「触らないでよ!」
詩織は、蛇のように執拗に絡み付く薫の手を、何度も払い除けた。薫に比べて、背筋のすらりと伸びた詩織の方に、明らかに分があった。が、薫を止めたのは、いつの間にか薫の側に立って居た古都並だった。
「あの、百瀬薫さん」
「えっ、誰? 古都並くん? あ、あなたまだ居たの」
薫は詩織に気を取られ、まるで古都並の存在に気付いていなかった。薫はすっかり面食らったように体を止めて、改めて古都並へ蔑むような視線を返した。
「僕、百瀬さんに話したいことがあって……。その、えーと」
「何なの? じれったい。言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
「僕……。僕と、付き合って下さい」
「はあ? ――寝ぼけているの?」
「おっ、これは意外な展開だな」
「やっぱり、薫の新しい恋人なのね」
山田と詩織は体をくっ付けるほど近くに並んで、二人のやり取りを物珍しそうに眺めていた。
「古都並くん、さっき聞いたでしょう。私たちは、殺したって死なない化け物だって。あなたたちとは、住んでる世界が違うの。この世と、あの世ぐらい違っているの。あなたと、私は一緒に居てはいけないの。分かった? 分かったら、とっとと帰ってよ。そして、二度と私の前に姿を現さないで」
古都並は、薫の剣幕にすっかり怖じ気付いてしまい、急に黙ってしまった。
「薫、何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。それに、古都並は、薫が死んだことも理解してくれているんじゃないかな」
山田は、古都並が次第に可哀相になった。もちろん薫の言っていることは、正しかった。が、その事実を、薫から告げられるのは、あまりにも残酷すぎるように思えた。
「でも、おかしいよな。安沢のときは、詩織のことは分からなかったのに。どうして古都並の場合、死んでいるの薫のことは、生前と同じように認識できるんだろう?」
「それが、愛の力なのね!」
詩織はそんな浮ついた言葉を、照れ一つ見せずに、真顔で言った。
「そこ、何寝ぼけたこと平気な顔して言っているの! 寝言は布団の中で、おねんねして言いなさいよ!」
むしろそれを言われた薫の方が、恥ずかしさに赤面していた。また薫が詩織に掴みかかろうとした。今度は、本気ではないようだ。が、古都並の薫に対する気持ちは、本気だった。行き成り古都並は気を付けの姿勢から、懇願するように薫に向かって、深々と頭を下げた。
「それなら、お願いします。どうか僕を、百瀬さんと同じ体にして下さい」
「はあ? 古都並くん。あなた、自分が何を言っているか分かっている? ねえ、さっき私が言ったこと聞いてなかった? 私はね。こんな惨めな体で、死んでいたくないの。そう言ったでしょう。死んでも、死に切れない化け物なのよ。ねえ、ちゃんと聞いているの?」
「だから……、だから僕はこれから、命を絶ちます。それで、僕を薫さんたちのような体に甦らせて下さい。お願いします!」
古都並の声は、震えていた。薫に告白したときも、震えていたが、それとは全く別な、何か覚悟を決めた武者震いに近いものだった。
「これは、不味いよな。何だか雲行きが怪しくなってきた」
「彼は、本物の本気なのね」
「おい、馬鹿なことは止めろよな。古都並」
が、山田が古都並に呼び掛けたときには、もう手遅れだった。山田はいつも重大な局面で、手遅れになる気がした。古都並は行き成りスクーターに跨がると、ガードレール目掛けて突進し始めた。スクーターの猛烈なエンジンの音が、静まり返った森の中まで響き渡った。
「あいつ、何やっているんだ!」
古都並の乗ったスクーターは、数メートルも進まないうちに、不自然にバランスを崩して、頭のヘルメットを吹き飛ばすほどに、古都並は派手に転倒してしまった。
「古都並くん、危ない!」
その時、山田には薫の走る姿が見えた。薫が、地面に横になる古都並に駆け寄って、ぱっと二人の周囲が輝いて見えた。その後、何か恐ろしい影が、一瞬にして二人の体をかき消した。たまたま山道を走る車が、そこを通り掛かったのだった。辺りに恐ろしい悲鳴と、けたたましいブレーキの音が同時に響いた。車が止まって、車内から若い男女が、三四人現れた。
「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」
男女は、酷く混乱していた。山田たちだって、それは同じだ。三四人の男女が輪を作るように集まった所に、しゃがみ込む古都並の影が見えた。が、そこには薫の姿は無かった。
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