第37話 安沢教授の落胆

 間もなく彼らの車は手頃な空き地を見つけて、道脇へ止まった。彼らの車を見てか、安沢教授の車は古都並の攻撃を止めて、後ろに付けて停車した。今度は、運転席の扉が開いて、ゆっくりと安沢教授本人が姿を現した。もうその顔をマスクで隠していなかった。

 山田は、こちらへ颯爽と近づく安沢教授を待ち構えるように、車を降りた。安沢教授は、山田を見つけると、急に足を止めて、気軽に話し掛けてきた。

「吉田くん、君には失望したよ。私に嘘を吐いたね。忠告したはずだ。気を付けたまえとね」

 安沢教授は薄笑いを浮かべ、どこか勝ち誇ったふうに山田を迎えて言った。

「山田です」

「そんな事は、一々言わなくとも分かっているよ。山田、やまだ、やまだ、やまだ、やまだ。ああ、君には用事は無いんだ、山田くん。いいから、さっさと鈴川詩織を出したまえ」

「どんな用件ですか?」

 山田は、安沢教授の凄味のある声に、彼の声は上擦っていた。

「それは、君には関係の無いことだ、山田くん。しかし、君の山田という名前は、実に奇妙だね。在り来たりでありながら、何か厄介なものを感じる。英語で例えるなら、定冠詞のTHEによく似ているね。それは、誰もがみんな知っていて、非常に簡単なものに思える。思えるが、それは案外厄介でよく分からないところがあるんだね。一筋縄ではいかないところが、そうだ。まさに君と同じだね。山田くん」

 安沢教授は、その理論に酔いしれるように、口元をほころばせ、照れ笑いも隠さなかった。

「何が言いたいんですか?」

 山田は無表情のまま、安沢教授を睨み付けた。

「おやおや、話が逸れてしまったね。それは、まあどうでもいいんだ。山田くん」

 安沢教授は、山田の挑発的な態度にも、少しも機嫌を損ねていなかった。

「仕方がない。君では全く埒が明かないよ。いいから、引きずり出せ!」

 安沢教授は、いつの間にか側に立って居た、大森慎太にそう命じた。が、大森慎太は安沢教授の険のある声にも、すぐには動こうとしなかった。

「何をしているんだ! 早く引きずり出せ、と言っているじゃないか」

 安沢教授は、一度おどおどする大森慎太を顧みて、苛立ちを露わにしながら、もう一度命じた。が、それでも大森慎太は動かない。

「先生。僕は、こんな酷いことまでするとは聞いてません。もう降ります。お金も要りません」

「何を今更、馬鹿なことを言うんだ。そんな事が通じると思っているのかね。君はあの時、引き受けると、はっきり言ったはずだね。それを途中で放り出すとは、だから君は駄目なんだ。まあいい。後は自分でやる。君の処分は、帰ってから考えるとしよう……」

 安沢教授は、最後の方はどうでもいいように、口ごもって呟くようだった。

「鈴川詩織を出しなさい! さあ、早く」

 安沢教授が、じりじりと山田の方へにじり寄った。山田は何も出来ず、身構えたまま、安沢教授から目を逸らさなかった。

 安沢教授は、いよいよ彼らの車の側に迫って、小屋の中のウサギを窺うように、車内を覗き込んだ。後部座席に、詩織を認めると、下唇を舐めて、にやりとした。

「さあ、いつまで時間稼ぎをしているんだね」

 安沢教授が、山田にそうほくそ笑むのと同時に、突然とベージュのスクーターが軽快なエンジンの音を鳴らして、安沢教授を遮った。

「僕が、こいつを食い止めます。そのうちに逃げて下さい」

 古都並は、安沢教授に飛び掛かろうとしている。

「何だね。君は急に!」

 山田は殴り合いでも、始まるのかと心配した。が、それを制するように、後部座席の扉が開いて、詩織が姿を見せた。

「止めて。もういいの」

 山田は、詩織の言葉に絶望を感じながらも、この時表した安沢教授の表情に、何か彼自身が期待していたものとは、全く違ったものを見いだした。そればかり、次に安沢教授が発した言葉も、意外だった。

「君が、鈴川詩織なのか? 本当に君がか。君ではない。君では……」

 急に耳がキーンと鳴るよう思えた。凄まじい潮流が逆流する瞬間を迎えたみたいに、今まで吹き荒れていた欲望と憎悪の感情が、ぴたりと止んだ。そこに居る全ての者が動きを止めていた。安沢教授は目を見開いて、詩織を見詰めていた。詩織も冷たい表情で、安沢教授を見ていた。安沢教授の前には、鈴川詩織は居なかった。それは、彼の知らない死体の詩織だった。その事も、彼は気付いていなかった。

「――うむ。そうだったか、そうか……。何か勘違いをしていたのかな。違っていたのか。そうか」

 明らかに安沢教授の顔には、失望の色が見えた。それから、どこか気が抜けたように、歩き始めた。安沢教授は車へ戻ると、思い出したように扉を開いた。が、それが運転席ではなく、助手席だったことも、しばらく理解できないほどに動揺していた。それでも、安沢教授は何事も無かったふうに、運転席に座った。今度はしっかりと顔を上げ、車の側に立ったままの大森慎太に「いつまでそうしているんだ。早く乗りなさい」と声を掛けた。

「でも、僕は……」

「いいから、君はこんなへんぴな山奥に、独りで残されたいのかね」

 大森慎太が慌てて、後部座席へ乗り込むと、安沢教授の車は、ゆっくりと町の方へ去って行った。その走りは、実に穏やかだった。

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