第36話 詩織の覚悟

「何やっているんだよ。早くどいてくれ!」

 山田が必死に手で払って合図しても、古都並はまるで応えなかった。

「あの人、どうしたの? 何だか様子が変なのね」

「罠よ、罠だったんだ。ちょっと、私たちあの黒猫に一杯食わされたんだ」

 薫が嘆くように言って、黒猫を睨み付けていた。

「じゃあ、古都並も後ろの車と、ぐるだって言うのか?」

 山田がそう言う間にも、彼らを尾行してきた白い車が、この路地に入って来るのが見えた。後ろの車は、とうとう近くまで来た。彼らの車のすぐ後ろへ、ぴたりとくっ付くほどに迫って、そこで停車した。彼らは前も後ろも進路を阻まれ、完全に逃げ場を失ってしまった。万事休すというところだ。

 停車した後ろの車は、行き成り扉を開けて、誰か降りたのが分かった。山田たちと年格好は、大して変わらないようだ。こちらに近づくに連れて、はっきりしてきた。あのイケメン二人組の一人、大森慎太だと、山田は気付いた。となると、運転席に座っているのは、恐らく安沢教授だろうと察した。しかし、ここらかではよく見えないし、顔はマスクで隠していた。

 どうするつもりだ。山田は当然、その後のことを想像していた。大森慎太が、運転席の窓ガラスをコンコンと叩いて、もう逃げられないぞとか、何とか言いながら、車の扉を開けるように強要すると考えた。いや、詩織を引きずり出して、さらっていくかもしれない。山田がそんな事まで、考えを巡らせていた。

「やっぱり猫とスクーターは、ぐるだ」

 山田は村井の声で我に返ったように、猫を見詰めた。ーーその時、急に黒猫が勢いよく飛び跳ねた。スクーターの側まで行って、まるで飼い主にすがり付く動物のように、古都並の懐へ飛び乗った。

 山田は、目の前が真っ暗になったような気がした。すると、急に古都並はゆっくりとスクーターを前へ出して、山田たちの車が通れるくらいに進路を開け始めた。山田は透かさず、車を前進させた。ちょうど、スクーターが運転席の隣まで来ると、古都並がしきりに山田に向かって、何か叫ぶのが分かった。山田は慌てて、車の窓を全開にした。

「この猫を頼みます」

 古都並が山田にそう言って、黒猫の脇を抱えて、山田に突き出した。山田は何が何だか分からず、古都並の言うままに、黒猫を受け取ると、それを持て余したように、仕方無く村井へ渡した。渡した後になって、しまったと山田は思った。が、今はそうも言っていられない。

「急いで下さい。僕が、何とか時間を稼ぎます!」

「ありがとう」

 山田はそれだけ言って、大通りの左右を確かめると、車を出発させた。エンジンが軽快な音を響かせ、心地よく走り始めた。やはりそこは路地を出た大きな道だった。山田たちの車は、見る見るスピードを上げて、さっき出た路地は、たちまち遠ざかってしまった。山田はその時、古都並がスクーターで、必死に後ろの車の行く手を塞ごうとしたのが目に入った。それでも、後ろの車は、強引に車体をぶつけて、突っ込んできた。スクーターはその衝撃で古都並もろとも、派手に転倒したように見えた。古都並は大丈夫だっただろうかと、山田は心配になった。彼は、自然とハンドルを強く握り締めていた。

「古都並くんは、大丈夫なの?」

「分からない。あいつ、無茶苦茶するからな。怪我していないといいけど」

 山田は、不安そうに振り返る薫を、励ますつもりで言った。しかし、古都並の尊い犠牲も虚しく、追跡の白い車は、彼らの後方へぐんぐん近づいてきた。

「あの車、相当飛ばしているな」

 村井は指の太い両手で、怖々と黒猫の脇を挟んで、おろおろしながら、それでも後ろの車が気になるらしい。

「ちょっと、追い付かれちゃうよ」

 薫が後ろを覗いたまま、急かすように大声で叫んだ。さっきまであんなに小さく見えていた白い車体が、もう彼らの車と、ほとんど変わらないほどに、近くに見えた。

「そりゃそうだ。こっちのおんぼろ車と、向こうの高級車じゃ、まるで馬力が違うからね。仕様がないよ」

「そんな悠長なこと言っていていいの! すぐ後ろに来ている」

 薫は、それが親の仇でもあるように、さっきから一時も、その車から目を離さなかった。

「こうなったら、いつもの山道に誘い込むしかない。小回りなら、こちらに分はあるはずだよ」

「夜のドライブなのね」

 詩織だけが、嬉しそうだった。彼女の明るい声に、山田はわずかな希望を見いだした気がした。それでも、詩織は一度も、安沢教授の車を顧みようとはしなかった。


 それから十数分の後には、彼らの車は寂しい山道を走っていた。急なカーブが多くなると、後ろの車との距離が、少しずつ離れるようになった。が、ひとたび道が真っ直ぐに伸びてしまうと、たちまち追跡車はスピードを増して、あっと言う間に彼らに追い付いた。こんな見通しの悪い山道では、それほどスピードは出ないことは分かり切っていた。ここでは、如何にカーブを上手く曲がるかが、勝利の行方を左右するのだ。安沢教授の車は、次第に後れを取り始めた。こればかりは、高級車でもどうにもならなかった。安沢教授は苛立ちを紛らわすためにか、猛烈なクラクションを何度も轟かせた。が、そんな姑息な脅しで、事態が好転を見せるはずはなかった。既に勝負はあったと、誰もが思っていた。

「あの馬鹿、何やっているの!」

 後部座席の薫の声は、悲鳴に近かった。彼らは安沢教授の車にばかり気を取られていて、その後を古都並のスクーターが、懸命に追い掛けてきていることに、まるで気付かなかったのだ。

 古都並は、果敢にも安沢教授の車に、食らい付こうとしていた。が、スクーターと高級車では、全く相手にならなかった。そんな事は、古都並にも分かっていたはずだ。それでも、古都並は、安沢教授の運転する車の進路に割り込もうと、危険な走りを繰り返した。すると、急に安沢教授の車が標的を変えた。明らかに古都並のスクーターを狙って、その進路を妨害し始めたのだった。古都並は、それは何とか間一髪のところでかわした。

「このままじゃ、本当に怪我するぞ!」

 それでも、古都並は無謀な走りを止めなかった。その間にも、何度か危ないことが続いた。

「もう見ていられない!」

 薫が、後ろを食い入るような眼差しを向けていた。その時、古都並のスクータが、危なくバランスを崩しそうになった。誰もが古都並の危険を感じた。

「古都並さんを、助けて上げて下さい!」

 誰かが、叫ぶように声を上げた。それは、薫でも詩織でも、村井でも、もちろん山田でもなかった。黒猫が、思わずしゃべってしまったのだった。

「えー! 黒ピーがしゃべった」

「あ、ちゃー」

 山田は、彼自身が何かやらかしたように顔をしかめた。当然、黒猫を抱えた村井は、目を丸くして黒猫をじっと見詰めていた。黒猫は、どこか村井の視線から顔を逸らすように俯いて見えた。

「おい、今この猫、しゃべったよな」

「そんな事は、後回しだ、村井。今は、古都並の身の安全が最優先だ。――そろそろ潮時だな。ごめん、詩織。君を守れなくて」

「謝らないでよ、淳二。私は、いつでもオーケーなのね」

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