第35話 黒猫の裏切り
その夜のドライブは、村井の心配通りのことが起こった。いや村井がそう言ったのだから、以前から誰かに尾行されていたのかもしれなかった。何の事情も知らない、詩織がいち早くそれに気付いた。
「何だか妙なのね」
「どうしだの?」
「あの白い車、さっきから私たちの跡つけてない?」
「ああ、僕もそれは気になっていた。でも、ここは大通りだからね。偶然かもしれない」
山田は、酷く慎重だった。
「きっと喫茶店からよ」
恐らく詩織を付け狙う奴らだというのに、彼女は相変わらず、厄介なことでも楽しんでいるみたいだった。むしろ山田の方がそんな彼女を見ていると、心中穏やかでなかった。
「それなら、分かったよ。ちょっと試してみるか」
「試す? 何を……」
山田は薫の疑問には、「いいから見ていて」と答えて、急に方向指示器を点して、右へ車の進路を変更させた。その道はいつもの山道へ向かう方角から、全く外れてしまう。そうして、彼は次々に右へ右へ分かれ道を曲がって、それでもときどき左折した。三度目に右道へ折れた所で、薫が角の軒先を示すように声を上げた。
「黒猫だ。あれ、黒ピーじゃない?」
「どこどこ?」
村井が突然、大きな体を不器用に傾けてそちらを覗いた。
「黒猫なんて、どこにでも居るよ」
山田も薫の示す所を探したみたが、あいにく狭い路地の難しい運転に気を取られて、黒猫を見逃した。
「あの猫、変なのね」
代わりに詩織が、黒猫をじっと眺めたように言った。
「どうして?」
「さっきから、こっち見ている」
「それは、猫だってこっちを向くときだってあるよ」
「そうじゃないの。あれは、じっとこっちを見ているのね」
「どう違うんだよ」
山田には、詩織の言った微妙な違いが分からなかった。
「黒ピーだ!」
村井がようやく黒猫を見つけたように、大声で叫んで、食い入るような視線を向けていた。山田だけが、黒猫を確かめられないまま、車はまた右へ右へと曲がって、ぐるっと大回りして、元の通りへ戻ってきた。しばらくその白い車が姿を消していたが、気付けば、いつの間にか彼らの車を追従していた。
「もうばればれじゃない」
薫が一度、後ろの車を振り返って、嫌みのある口調で言った。
「向こうだって、ばれていることは承知のはずだよ。それでも強引に追ってくる」
山田は、相手がこれほど露骨な行動に出るとは予測していなかった。彼の取った安易な作戦が裏目に出たようで、かえって詩織や皆を危険な目に遭わせる気がして、恐ろしくなった。
「あの車をまくことは出来ないの?」
薫が心配そうに言って、また後ろをちらちら見ている。
「そう簡単には行かないよ」
山田は苦笑いを浮かべながら、ハンドルを右へ大きく回した。彼らの車は、大通りを脇に逸れて、再び狭い路地へ入り込んだ。それでも、後ろの車は後を付いてきた。そこは古い路地で、車一台がようやく通れるほどの道幅だった。日中は、学生たちがそこで道幅一杯になって歩くこともあったが、夜になると人通りも無かった。道に沿ったお店は早いうちに、明かりを落として扉を閉めていた。
「不味いな」
山田が路地の間に、しきりに目を配りながら、困惑した顔を見せた。
「どうしたの? 淳二」
「道間違えたかもしれない。僕は、こんな狭い道は知らないよ」
「知らないって、ちょっとしっかりしてよ」
薫が、不満そうな声を上げて、山田の座る座席を、後ろから軽く叩いた。
「あっ、黒猫だ!」
山田はその時初めて、黒猫を見つけた。入り組んだ家の軒先に、黒猫がこちらを用心深く窺っていた。
「きっと、黒ピーよ」
しかし、それが薫たちの言う黒ピー、つまり黒崎寧音かは判断できなかった。ただの夜の散歩をする野良猫にも見えた。
「こっちの道だって言っている。黒ピーが道案内してくれるのね」
詩織が黒猫を指差して、妙な事を口にした。黒猫は、ちょうど道が分かれる所に居て、こっちだとそこへ入るような格好で待ち構えている。
「本当に?」
山田は、どうせ道は分からないのだからと覚悟を決めて、その黒猫に望みを託すことにした。彼らの車が、黒猫の示す横道へ曲がったときには、黒猫の姿を見失っていた。
「どこに行ったんだろう? すばしっこい奴」
村井は、まるで猫を追い掛けていた子供のように言った。
「もう居なくなっちゃったよ」
「後ろはつっかえているんだ。後戻りはできない」
山田の言葉を表すように、すぐに後ろの車が路地をこちらへ曲がって、迫って来るのが見えた。しかし、猫の示した道は、ごちゃごちゃして一段と狭い所を抜けるようだった。巨大なゴミ袋や、紐で束ねた段ボールが、道を空けるように捨ててあった。あまり人が通らないのか、建物の壁は黒くくすんで、汚れていた。奇妙な文字の落書きも多かった。それでも、誰も気にしない。そう言う所だった。
「見て、また黒猫ね」
「黒ピーよ。あの道に入れってことだよ。きっと」
「もうどうにでもなれ!」
山田は半ばやけくそに、ハンドルを切って、黒猫の現れた脇道へ車を入れた。ごんごんと音を立てて、車体に何かがぶつかった。それからも、右へ左へともうどの方角へ向かっているのか分からないほどに、猫に示す通りに山田は車を動かした。それでも、後ろの車の執拗な追跡は振り切れなかった。
「居た。あそこに居る。黒ピーよ。急いで、急いで!」
「あれだね。分かった」
山田は薫の明るい声を頼りに、薄明かりに沈んだ商店の前で、一匹の猫がぽつんと佇んでいるのに、ようやく気付いた。黒猫は山田の車を認めると、勢いを付けて走りだした。すぐ側の抜け道へ入って見えなくなった。山田もそれを追い掛けるように、ハンドルを回して、右折した。入った所へ、今度は黒猫の走り去る姿が見えた。
「あそこだ!」
彼らは、ほとんど同時にそう叫んでいた。狭い所をのろのろ運転する車よりも速く、黒猫は走って行った。ちょうどその先が出口のように、景色が光って見えた。そこに外灯で照らされた、大通りが顔を覗かせていた。山田には、その眩しい光だけが、この災難を乗り越える、唯一の希望に思えた。黒猫は、その希望に導いてくれたのだった。
当然、先に黒猫がそこへたどり着いた。その路地の出口を開けて、ちょうどその道脇へ立って、山田たちを待ち構える格好をしている。山田たちの車は、すぐに追い付いた。車がゆっくりと黒猫の近くへ来て、その路地を抜けさえすれば、自由になれる気がしたのだ。山田は一度、出口の手前で、車を停車させた。ところが、たちまち彼らの進路を黒い影が塞いだ。
「今度は、何?」
「スクーターよ。スクーター」
「あれは、ベージュのスクーターだぞ!」
山田よりも先に、村井が彼へ向かって大声で叫んだ。山田も村井の声に、目を見張った。彼らの車を通せん坊する格好で、出口を塞いでいたのは、紛れもなくベージュのスクーターに跨がった古都並だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます