第40話 幸福な逃亡

「リリヤドール?」


 昨晩の余韻はいったいどこへ? 幸福な微睡みはいっきに覚めた。可愛らしい寝息も、俺の名を呼ぶ声もない。聞こえるのは渓谷に吹きすさぶ冷たい風の音だけだ。

 立ち上がって、岩陰からネイハヤートの塒を眺める。


「……いない」


 まさか……とは、思っても到底口にだせなかった。もしも言葉にしてしまえば、それが現実のものになってしまうのではないかと、そう思えたからだ。


 空は嫌味なほど晴れ晴れしく、高いところに薄雲がわずかにかかっている程度。風も穏やかで、冷たい空気がむしろ気持ち良いくらいだ。本来ならば清々しい朝なのに、それがどうしようもなく俺を心細くさせた。


 これからどうすれば良いのかとか、何も考えられなくて、ただただ呆然とするばかり。すぐそこには切り立った崖があって、俺は知らぬ間に一歩、縁に近づいていた。

 絶望とか、悔恨とか、憎悪とか、強い感情は何一つなくて、そういうものを持つほどのエネルギーさえ失ってしまったようだった。

 とぼとぼと引きずるような足取りで、ふらふらと崖へ近づいていく。あと一歩、踏み出せば彼女のもとへ行けると、目を瞑った瞬間、背後から、鼓膜を通じて愛が届けられた。


「ヨアン?」


 振り返るととてつもなく無垢な存在がそこにいて、不思議そうに首を傾げて俺を眺めていた。湧き上がった愛情は、俺を正気に戻らせるのに十分な力を持っていた。正気に戻った俺は、自分のしようとしていたことに青ざめ、腰を抜かし、その場にへたりこんでしまった。


「ヨアン?!」

「ははっ、ははははははは」


 もしもあと一歩踏み出していたら、俺は二度とリリヤドールの顔を見ることができなかったのだ。そう思うと恐ろしくて乾いた笑いが出た。そしてそうならなかった今に安堵し、目尻には涙が滲んだ。


 恐怖? 安堵? どのみちもうすぐ喰われてしまうのにおかしな話だと、心の中では自分を嗤った。


「何をしておったのじゃ?」

「何でもない。それより、ネイハヤートは? 塒にはいないようだが」


 リリヤドールはニヤラのある方向を望んで答えた。


「うむ。どうやら、ほんの小さな傷とはいえ、自分の喉を傷つけたヨアンの武器が気になったのじゃろうな、ヒトの脅威がどれほどのものか確かめてくると言って南へ飛んでいってしもうた」

「ニヤラへ?」

「そうじゃろうな」


 ドラゴンは翼があって空を飛べる。移動速度もきっと速いに違いない。しかし俺たちが半月以上かけて来た道を、いったいどれほどの短時間で行き来することができるだろう。俺ではまったく及びもつかないことだった。


「それはいつだ?」

「ついさっきじゃよ。その音で目覚めたのではなかったのか?」

「さっきとはどれくらいさっきなのだ? 一時間か、二時間か?!」


 声を荒げてしまったのは、浅はかな企みが脳裏を過ったからだ。


「わしだって時計くらいわかる。一時間も前ではない。ほんの十五分ほど前じゃ」


 ネイハヤートがどれだけ速くとも、一瞬でどこへでも移動できるわけがない。数日、いや、数時間の猶予でもあれば、あるいは――。

 俺はリリヤドールを見た。俺と同じことを考えたのか、目があった彼女は、悪戯な笑みを浮かべて、


「逃げてしまおうか」


 と声を殺して言った。


「ばかな、危険すぎる。もしも追いつかれたらお前まで喰われてしまうかもしれぬのだぞ!」


 せっかく助かる命なのだ、迂闊なことをして失うことはないと諭した。

 さっきまで自分も思っていたことなのに、誰かに言われると否定してしまうのは何故だろうか。迂闊なリリヤドールを客観視できたことで、冷静になれたからだろうか。

 だが、俺の説教を聞いてリリヤドールは呆れ顔で溜め息を吐いた。


「ならばその時はこう言ってやろう。お主と死ねて幸せじゃ、とな!」


 得意げに下手くそなウィンクをしてみせるリリヤドール。呆れたいのは俺の方だ。だが――


「……死なせるものか」


 考えてみれば俺のこれまでの人生は、大事なことから逃げ続けた十六年だった。イニピア王宮での王位継承争いから逃げ、家族を皆殺しにしたノルバレン大公から逃げ、祖国奪還というヴィゼルグラム家の末裔としての責務から逃げ、目の前で命の恩人を殺されても、俺は敵に背を向けて走った。

 だが後悔はしていない。もしもあの時、逃げることを選んでいなかったなら、今リリヤドールの隣にはいなかっただろうから。


「こうなったら、何が何でも逃げ切ってやるさ。リリヤドール、お前と一緒にな」

「うむっ!」


 溌剌と、彼女は強く頷いた。






 俺たちはまずレデルハイトを南下した。途中で、恐ろしく寒くなったのは、俺たちが逃げたのを悟ったネイハヤートの怒りだろう。少し痛快で、だがニヤラを思うと複雑な気持ちになった。とはいえ、これでニヤラからフィンドハルト軍は撤退するだろう。その後、エルフたちが近代化を目指すのか、何らかの手段で厳冬に対応するのかは、彼ら次第だ。


 大森林をクリャンス王国側へと抜け、陸路でレギニアへと入る。

 さらにセルブドラ王国を経て、もう一度シフォニ王国へと入った俺たちは、同国をひたすら西へ進んだ。

 シフォニ王国の西端にはオズミア山脈という巨大な山岳地帯ががある。聳え立つ連峰を超えるのは容易ではないが、徒歩でヒトから逃げるとなると、ここを越えるのが最も手っ取り早い選択だと思う。なぜなら、オズミア山脈の向こう側はオズマニカと称され、長きにわたってヒトの地図からは黒く塗りつぶされてきた地域だからだ。近世以降、徐々に貿易路が開拓され、どうやらヒトとは違う人類の国があることがわかった。彼らは獣の耳や尾を持つことから獣人種と名付けられた。


 危険もあるだろう。だが、未知を行くならふたりが良い。


 山脈を超える頃にはリリヤドールの腹も目立つようになった。幼い身体での妊娠はひどく心配だが、彼女の幸せそうに腹を撫でる様子に俺は、これで良かったのだと強く実感した。


 俺の今までの十六年間は、誰の目から見ても決して褒められるようなものではなかっただろう。格好は悪いし、大義もない。おまけに状況に流されてばかりで行き当たりばったりだ。


 けれど逃げることで、そこから先の未来を知ることができた。教えてくれたのは俺のレン。

 リリヤドールの小さな頭を撫でながら毎夜毎夜思うのだ。


 嗚呼、勇者になど、ならなくて本当に良かった、と。

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ヨアン王子の幸福な逃亡 ふじさわ嶺 @fujisawa-rei

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