第13話 夏は透かした方が美しい

 外れかかって垂れたチェーン。それがフレームに当たる音が虫の声と合わって、僕の感情を逆撫でる。それでも走るよりは随分と楽だった。それにさっきは進んでいる実感というのが全くなかったが、進むたびに当たる風を感じていると何だか近づいているように感じた。

 しばらく進むと見たことのあるいつもの夏の風景が広がっていた。

 寂れたガードレールに、空に覆いかぶさるように伸びた木々達が作る傘。街灯に照らされなくても分かる荒れたコンクリート。

 群がる数多くの虫達。

 そこは彼女に会うために、僕が通っていた道だった。

 ここを通っていると、夏の思い出が今までの夏とは違っていたことが分かる。

 覚えているのだ。それは息をするよりも簡単で、生きる事と同等の価値を持っていた。

 自然と僕に刻まれた記憶の数々。それは、彼女といたからだ。彼女が、僕の夏に価値を与えてくれた。

 僕にとっての、呪いであり、死であり、悲しみであったそれを……彼女は変えてくれたんだ。


 山の麓までついた時、僕の心臓はいまにも焼け落ちてしまいそうなほど燃えていた。

 太陽よりも熱く、夏の空気が冷たく感じてしまうほどそれは激しかった。

 多田先輩の自転車を階段脇に停め、僕は足の肉と肉が引き裂かれそうな痛みの中、あの長い階段を一歩ずつ確実に上がった。

 それは永遠に感じてしまうほど長かった。一段一段上がる度に、骨が砕けそうなほどの激痛が走る。まるで山が僕に登って欲しくないと叫んでいるみたいだった。夏の夜が、僕を拒んでいるみたいだった。

 それでも階段を上がる。上がらないとと思ったから上がる。そこに義務や責任といったものは無かった。ただ知りたい。彼女がいるのか、そして……僕の結論が本当にそうであるのか。


 黒い空の下、蒸し暑い夏の空気が僕の体から漏れる。


「夏田、さん」

 細くどこにも届かないような、掠れた声。

 僕は胸が苦しくなった。それは、僕の体に十分な酸素が行き渡っていなかったせいかもしれない。ただ単に僕が疲れているだけかもしれない。

 痛いんだ。胸が、心臓が。

 それは片手で誰かに握られてるようだった。夏田さんが本当は僕の事を陰で馬鹿にしているだとか、欠けたものについての話も心の内で笑っていただとか、そんな彼女そのものを疑うような僕の考えが、僕の思考が、そして僕自身が、とてつもなく憎かった。

 彼女に対する一方的で暴力的とも言える信頼からくる僕の言動に、腹が立った。


「夏田さん!!!」


 僕は大声で叫んだ。叫ばないと、ここにいるちっぽけな僕の存在に気付いてもらえそうに無かった。いつものベンチ。虚ろな目で空を見上げ、そして木にぐったりともたれかかる彼女を見ていたら、いまにも消えてしまいそうな彼女が怖かった。そこにいるのにまるで幻影かのように見える彼女が恐ろしかった。

「優、くん?」

 ビックリしたと言うよりも、それは恐怖にも似た悲鳴。怯えた声。

 表情は固く、どこか諦めたような虚ろな目が僕を見つめる。

 それは悲しくて、虚しくて、軽い衝撃を与えただけで崩れ去ってしまいそうなほど脆く柔に見えた。

「大丈夫かよ……おい」

 それは余裕のない言葉で、震えた声だった。焦りから来るそれは、彼女の現状がどれほど僕にとって悲しく、そして信じられないかを表していた。

 どうしたらいいのか分からなかった。ただいつも二人で駄弁っていたあの木にもたれかかる彼女の元に、僕は駆け寄る事しかできなかった。間抜けなくらい弱々しい足取りで、みっともないくらい情けない姿で。

 なぜ彼女がそんなにも苦しそうなのか、僕の頭の中はそんな事でいっぱいで、いままで考えてきた事全部が吹っ飛んでどこかに飛んでいったみたいに僕の中は空っぽだった。

「いいの……大丈夫」

 近寄ってくる僕を遠ざけるような声は、深く僕の心臓を抉っていく。

「それより、さ……行かなくて、ごめん」

 行けなくてごめん。僕から顔を背けた彼女の言いたかった言葉が、本音が、そう言いたがっている気がした。

「なあ」

「大丈夫……大丈夫だから」

 笑顔だった。僕ではなく、自分自身に言い聞かせるようなその言葉は、彼女にとっての騙し騙しの苦しい言い訳なのかもしれない。はたから見ても彼女の姿というのはとても苦しそうで、そしてあまりにも僕が彼女に対して抱いている印象という物から乖離していた。

 そんな彼女を見て、僕は何とかしないとという意志だけで体が動いた。

「そんなこと言ったって……夏田さん、凄い熱」

 駆け寄って、いまにも崩れてしまいそうな彼女の体を支えるようにして触れた身体は、僕よりも熱く、記憶にあるどの夏よりも暑かった。まるで血が燃えているようで、心臓が燃えているようで、そんな体の内側から溢れ出る底なしの炎を目の当たりにした僕は彼女が灼熱の坩堝ではないかと錯覚してしまう。

「き、救急車呼ばないと」

 このままでは、彼女が燃えてしまう。手から溢れて消えてしまう。なぜそうなったのか、それまでの過程や理由はわからなかったが、苦しんでいる彼女の姿が痛々しくそして信じられなかった。

 ポケットから出した携帯を出し、パスコードを入力した。

「やめて」

 怒号と言えばいいんだろうか。彼女の口から想像もできないような強い言葉が僕の体を押しのけた。感情が乗った切羽詰まったようなそれは彼女の気持ちの焦りを表していた。

「ごめん……けど、もう、いいの」

 彼女は僕の取り出した携帯に手を添える。優しいというよりも、その手には力が入っていなかった。

 そんな彼女のやせ我慢とも言える言葉が、いままで僕が考えていた問題についての結論を導き出した。

 いや、初めから、何となく分かってたんだ。彼女のこんな顔、まるでそうだよって言ってるようなもんじゃないか。

「もしかして、人間じゃ……ないからか」

 結論は、彼女の元へと届いただろうか。その虚ろな目に映る僕は、本当に彼女に見えているのだろうか。そんな不安が募る僕の非現実的な結論。

 馬鹿だって分かってるんだ。だけど、僕の手を止めた理由がそうとしか思えなかった。

 今の彼女は、この山から出られない、籠の中の鳥のように僕は見えた。

「…………」

 彼女は何も言わなかった。何も答えなかった。

 口を開くことはなく、ただびっくりしたような表情で彼女は僕を見た。

 無音の夏が続く。まるでこの世界が、僕の結論を正解だと肯定しているようだった。

 彼女の何も発しない口がそうだと言っているようだった。そんな彼女がとても苦しそうで、悲しそうに見えた。

「さっき、分かったんだ」

 沈黙に耐えられなくなった僕は、そう言った。

 今まで僕が来ることを拒み、僕が彼女の芯に触れることを拒んできた表情は、もう、諦めきった切なく悲しいものへと変わった。

「バレちゃった、か」

 白い歯を出して、彼女は笑った。違和感のあるそれは、僕の胸を締め付けた。

 無邪気で、夏の光に照らされた彼女の笑顔というのは、こんなにも……こんなにも、苦しそうだっただろうか。これほどまでに、悲しそうだっただろうか。

「本当……だったんだ」

 その言葉には、嘘であってくれ、間違いであってくれという、意思がこもっていたのかもしれない。そうでなければ、僕のこの気持ちをどう解釈すればいいのか分からなかった。

「今まで……騙しててごめん。けど……いや、ごめん」

 何か言いたげな彼女。その背けた視線を僕は自然と追っていた。

 知りたくて、追いかけていた。

「謝る必要なんて、ないよ。だって、僕だって君のこと……騙してたんだから」

 隠し事はある。それが決して他人に伝えることのできないものだとしても、結果として彼女を騙していたことには違いないんだ。

 騙されてたって、人間じゃなくたって、問題はなかった。

 生贄だったとしても、目の前にいるのは夏田夏来なのだ。それは決して変わらない不変的事実である。

 それに……夏祭りの由来やその派生した話の通り、彼女に好きな人がいても、未だに愛し続ける想い人がいたとしても、僕は……僕は。

「ダメ……ダメ、なんだよ。謝らないといけない、だって……だって」

 首を横に振る彼女は、一体誰に怒っているのだろうか。僕、いや、彼女自身。彼女の内側に自らの怒りをぶつけているように見えた。今まで隠していた僕に見せないような感情が、自身の力では制御できない内側から溢れ出ているのを僕は肌で感じた。

「だって……あなたの全てを、私は知っているから」

「それって、どういう……こと?」

 何を知っているのか、全てとはどこまでの範囲なのか、彼女の言葉はそれだけでは理解出来ないほど様々な意味を持っていた。

「優くんの能力ってやつも、おばあちゃんが亡くなったことも、あの日かけてしまっものも、もう一人のあなたの存在も、私は……私は全部知ってたから……出会ったあの時の言葉も嘘だった、から」

 夏の虫、夜に鳴くその声は合唱を続けた。彼女の声をより鮮明に僕に聞き取らせるように、まるで世界がそうさせていた。夏が、そうさせていた。

「夏祭りの由来」

 俯いた彼女は、小さな声で呟いた。

 前髪で隠れた彼女の表情が気になって仕方がない。

「……近江に、滋賀に夏が来なくなって、夏を呼ぶために男の人と女の人が生贄になるって」

「続き」

 彼女はそれ以外喋らなかった。変わらないその俯いた表女は未だ分からないままだ。

「男の人は死を恐れていて、それを見た神様が男の人を殺して……女の人だけを生贄として夏を呼ぶ神の使いとしてその女の人はずっと愛した人を待ち続けてるって」

「そう、その通りだよ」

 表向きはね、と彼女は言った。

「それね……実は偽の話なんだ。本当は、女の子の方が死を恐れてて、男の子は女の子にただ裏切られただけなんだよ。その女の子となら一緒に死ねるって、そう思ってた。けど、女の子は、その男の意思を裏切った。それを神様は知ってたんだ。生贄として死を恐れた女の子を見た神様は、人間に対して幻滅した。そしてその愚かな女の子を前にして、罰を与えた。そしてその対価として近江に夏を戻した」

 その罰っていうのはね。

「愛する者が死に続けることを見続ける罰。輪廻転生を見届ける罰」

 息を飲む。その音が辺り一帯に響き渡りそうなほど、この場というのは静まり返っていた。

「その男の子も、また罰という呪いを受けて死んでいった。言いたくても、何も伝えられない誰にも言えない苦しみの呪い。女の子が見ていてもっと辛くなるようにと神様は言った。そして彼は女の子といういるはずの存在を失くして、欠けたままの人生を繰り返し歩み続けた。穴の空いた寂しい感覚、虚無の向こう側にいるような、ずっと一人の孤独感が彼を襲い続けた。そして最終的には首を吊ったり、高いところから飛び降りたり、車ってやつに轢かれたり、国を守る勇ましい人となって死んでいったり、形は何であれ、十七の蝉の鳴く季節に死んでいった。生贄と同じ歳に、季節に、何回も、何回も、何回も何回も何回も、女の子という欠けた感覚を背負いながらその永遠とも呼べる人生を歩み続けた。もう……分かっちゃったよね——それが、君なんだよ。優くん……なんだよ」

「夏田、さん」

「私……ずっと待ってたんだから」

 少し光った彼女の瞳が、空に浮かぶ月の光を写した。

 それは彼女が罰を受け、今日に至るまでそれを受け続けていたことを意味していたんだと思う。

 僕は欠けていたピースが当てはまって行くのを実感した。

 あの日、おばあちゃんが死んだあの日。僕はずっとあの時に全てが変わってしまって、この世界から何かがかけたもんだと思ってた。

 けど実際は違ったんだ。

 もっと、ずっと前から欠けていて、あの日あの時に思い出したんだ。何かが欠けたっていう感覚を思い出したんだ。

 彼女と一緒にいた時の満たされるような気分も全部説明がつく。彼女がそうであるのだから、心が満たされるのは当たり前だった。その感覚はやはり、彼女がそうである証明だったのだろう。欠けたものが分かりそうだったのも、彼女がそうであるからだ。本来の目的である欠けたものについての探究心や執着心よりも、彼女と会うことが優先的になってしまったのも、彼女がそうであるからだ。

 彼女が、夏田夏来が、欠けたものだったからだ。

 彼女が言うに、あの日野田さんが見たもう一人の僕というのは神が彼に見せた幻覚のようなものだという。僕が死ぬのは十七歳の夏。それが決定しているが為に、それ以前に死ぬというのは許されないらしい。僕の能力が目覚めるきっかけというのも、昔と同じ、つまり前世と同じでおばあちゃんの死がきっかけらしい。時代や人は違えど、僕はそれを何十回も繰り返してきたんだ。永遠と呼べるほどに、長い間ずっと。


「その顔、すぐに顔にでる所とか、変わってないなあ」

 自分がどんな顔をしているかなんて分からなかった。

 ぐちゃぐちゃで、ひどい顔をしているのかもしれない。全てがわかった今、欠けたものが目の前にある感動で涙が流れているのかもしれない。ただそんな感覚がないまま、僕はただ彼女を見つめていた。

「本当に……君が」

「もう、信じてないの? 疑り深い所も考えすぎる所とかも変わってないなあ。昔と同じだよ。本音が見えない私のことをずっと警戒して見てた」

 僕しか知らないはずの能力について喋る彼女を見ると、これは現実だと地面に叩きつけられているような気がした。

「何で、私たちが出会ったか、知ってる?」

 顔の見えない彼女はそう言った後に、それがありえないことだということに気付いた。

「あ、そっか、知ってるわけないよね。あのね……噂になってたんだよ。本音が見える怪物がいるーって昔の村の中で噂になってた。それが君だった。私の家ってね、当時では珍しかった外国の輸入品を扱ってる結構大きな商店だったの。そのせいで話製品が売れなくてね、村の人とかからの恨みとか妬みを受けてきて、私自身も中々外に出られないような生活が続いてて、退屈してたんだー。そのせいもあって、外の世界ってのがどうしても知りたくて、気になって、家から飛び出たの。私自身が好奇心旺盛ってこともあるかもしれないけど……やっぱり一番大きな理由って、私と同じだからだと思う」

「同じ?」

「そう、同じ。私も、見えるから。人の隠したい本音ってやつが、思いってやつが。だから、テンション上がらないわけないよ。同じ、なんだもん」

「夏田、さんも」

「持ってる。君と同じ、怪物だから、化け物だから。だからお互いの本音が見えないんだよ。どういう理屈か分からないけど……今もそうでしょ? 私の顔に、文字は出てないでしょ?」

「……うん」

「そう、だから私たちは惹かれあった。あの頃は、何でも見えて仕方なかった。お金の事とか、人とか家の繋がりとか、気付かないふりをするのが辛くて、苦しくて仕方がなかった。だけど君と出会ってから、人生が変わったの。見えない君が新しくて、新鮮に思えて、憧れてた普通に出会えた気がして嬉しかった。同じ境遇で、家や人の付き合いに縛られない生き方をする君がかっこよくて、話も合って、本当に楽しかった。一緒に遊んで、笑って、泣いて、恥ずかしいこともあったし、大怪我だってした。楽しいことが多い分、辛いこともたくさん合ったけど、その全てが私にとって新鮮で、私が普通の女の子でいられる瞬間だった。だから……必然的なのかな、私は次第にあなたのことが好きになって行くのも遅くはなかった」

 はらりと左右に分かれる前髪。その間から覗く彼女の丸い瞳は真っ直ぐ僕を見ていた。それは情熱的で、彼女の中に出てくる人物が、本当に僕なのだと実感できるような、そんな眼差しだった。

「当時はね、ゲーム機とか、そういのはなかったから二人で色んなことを話したり、こんなことをしたいなーって妄想したり、遠くの国のことを考えたりして遊んでたんだー。あ、本音を当てる遊びって奴もやってたんだよ。すっごく楽しかった。犬か猫か、好きなものか嫌いなものか、それが本当か嘘か見抜く遊びなんだけど、いつもは見えてる私たちからしたらそれってすっごい難しいことなんだよ。本当のことをそのまま言ったり嘘をついて見たり、何でも見える私たちからしたら、この世で一番満たされる遊びだったのかもしれない。二人一緒にいれば、自分は普通の人間なんだって、思えたから……」 彼女の熱というのは冷める気配はなく、より一層力を増して激しく燃えているような気がした。その言葉一つ一つに込められた長年の想いというのが、悲しいくらいに伝わってき、て僕の体も、彼女の熱に当てられて、熱くなる。

「けどね、それを見る周りの目は痛いものだった。私の家はそれなりの大きな家柄で、そのせいで周りの目からは疎まれたり、憎まれたり、そういうのが多くて、家の中でも長男が家を継ぐし、長女の私の居場所なんてなかった。貴方は言わずもがな村の厄介ものだったし……だから生贄にも選びやすかったんだよ。誰も反対する人なんていなかった。親さえも、それに賛成してた。けど、生贄の儀が終わって私だけが生贄になった時、時代が変わって外国との取引が主流になった時、父の顔を立てて私だけを祀るようにしてたみたい。もともと村でやってたお祭りも、次第に私を祀るための祭りに変わって行った。それがなんでそうなったのかは分からないけど、村の人たちは狂ったように私を祭り上げた。だから、呪いの話に全く触れない、あの馬鹿みたいな嘘の昔話ができたんだよ。現実の話は、私の心の迷いが、弱さが、産んだものだったから……」

 それから彼女は途切れなく過去の物語を語った。それは実に楽しそうで、まるでその物語が目の前で起こっているかのような、そんな錯覚すら起こさせていた。

 彼女は、ただひたすらに楽しかったと呟いていた。言葉と言葉が擦り切れて、その言葉の意味や形すら無くなってしまいそうなくらい、何回も何回も繰り返していた。

 その物語というのは彼女は繰り返す言葉の通り、楽しそうなことばかりが描かれていた。一緒に釣りをしたりだとか、畑仕事を一緒にしただとか、そんなことを楽しそうに語る彼女がとても好きだった。

「けどね、楽しいことばかりじゃないんだよ。見えないって、良いことばかりじゃない。お互いの本音が見えないからこそ、普通の人みたいにすれ違うことだってあった。そんな初めてのすれ違いが、よりにもよって生贄の時だった。私はもっと貴方といたかった。一緒に楽しいことや、辛いことを経験して、普通に生きたかった。幸せな家庭、裕福じゃなくても、農民として普通の家庭を貴方と築きたかった。おばあちゃんとおじちゃんになっても、ずっと一緒にいたかった。だけど、貴方は君となら死ねるって、生贄になることを承諾していた。勇ましくて、頼もしかったその背中が、その時はちょっと怖く見えた。周りの圧が、私の頭を掴んでいうことを聞かせようとしてるみたいだった。私の意見なんて言えるはずなかった。貴方の真剣な姿と、期待に胸を膨らませる周囲の目を、言葉を、本音を見ていたら……到底言い出せるはずがなかった」

 楽しそうに語っていた彼女の声も、やがてその物語の終局に近づくに連れ、重く、そして苦しく辛い物へと変わって行った。

「だけど、当日まで隠し通してきた私の本音も神様の前では、全部お見通しだったみたい。結果、私の弱みに付け込むような意地悪な神様は、私に呪いをかけた。それが、今の私。夏田夏来」

 虫の声が彼女の言葉の邪魔をする。僕はただ黙ってそれを聞いていることしかできなかった。

 その暇がなかった。

 僕の目の前には、彼女の言葉が綴る過去の物語が鮮明に投影されていた。幻覚といえるそれは、やがて彼女の見てきた過去がそのまま投影されたように、同じく過去を過ごしていた僕の記憶というのもそこに合わさってるような気がした。

 僕の言葉を挟む暇なんてなかった。その真実というのが、現実というのが、知りたくて、無意識に僕は口を塞いでいた。

 やがて、彼女の物語は僕と出会ったところへと移り変わる。それは僕が実際に体験したことであり、彼女の口から語られる物語は、僕と彼女の間にある何かを揺すぶっていた。

 それと比例して彼女の隠していた本音や感情というものが、だんだんと爆発して行くのを、僕は肌で感じていた。

「ここで出会った時、私すごく嬉しかったんだよ? 本音が見えないから直ぐに貴方だとわかった。本当に偶然で、奇跡だと思って、思わず声をかけてしまうほど、すっごくすっごく嬉しかった。今までは、ずっと苦しんで、欠けたものを背負って死んで行く所しか見てこなかったから……。だから、私はまたあの時みたいに戻りたかったんだと思う。それが、一時的で、一瞬であっても、愚かな私はそれを求めてしまった。どら焼きなんて、昔のまんまだった。お互い譲らないで食べさせ合いながら、絶対に終わらない議論を続けていつまでもはしゃいでた。貴方が嘘をついて、私が嘘をついて、それを信じ切ってしまうお互いが好きだった。そんな自分が嬉しかった。本当に……昔に戻ったみたいだったよ。だからさ、ちょっと怖かったの。欠けたものについての話も、本当はね、進展して行って欲しくなかった。私を知って行く貴方が怖かったから、欠けたものに触れて行く貴方が恐ろしかったから。いつかこの幸せに終わりが来るんだって、現実を突きつけられてるみたいで、考えるだけでも震えた。でも……それでも、私と貴方を繋ぐものはそれしかなかったから、当時の事を思い出しながら、頑張って演技もしたんだよ? 騙してるって罪悪感もあって、とっても辛かった。もう全部喋ってしまおうと思った時もあった。だけど頑張って耐えて、耐えて、生きてきた。けどね、それも、結局最後の最後で耐えられなくなった。罪悪感もそうだけど、何より酷く醜い自分を私自身が受け入れられなかった。だんだん消えて行って、幸せの終着点を直視しなくちゃいけなくなった私の体が嫌いだった。そんな私を貴方に見られたくなかった。知って欲しくなかった。だって、優くんが私の弱さを知ればきっと私は簡単に全てを話してしまうから。だから、嘘をついた。夏祭りに行くって……。私、馬鹿だよね。後でこんなに辛くなるって、分かってたはずなのに、別れる日が来るって、知ってたはずなのに、話しかけちゃうなんて、馬鹿だよ私。本当に馬鹿だ。最後は一人でいようって勝手に決めて。あーあ、何で……優くん来ちゃうかなー……絶対に、過去のことは言わないって、決めてたのにさあ、優くんの顔見たら、なんか吹っ切れて全部話しちゃうし……本当、馬鹿だ。身勝手だよ私……優くんにも、辛い思いさせちゃうって分かってるはずなのに……なのに」

 上手く言葉にできない、えずいた声。

 その上で語られる今にも泣き出してしまいそうな言葉の数々は、彼女の深刻そうで悲しげな顔に似合わず、僕の耳をそっと撫でた。それは掴みたくても、掴めない。脆くて、柔で、危なっかしいそれを僕はただ黙って聞くしかなかった。

 その声は熱いはずなのに、彼女の体というのは、考えられない程冷たくなっていく。

 彼女の言葉の通り、このまま消えて行ってしまいそうで、今にもすり抜けてなくなってしまいそうだった。

 学習しない僕は、焦り故に再び、携帯を取り出した。

 それは彼女の苦しむような姿に耐えられなくなったからだ。今まで隠していた事が、言葉が、思いが、爆発してしまった彼女の現状を直視できないからだ。

 そんな弱い自分が露呈してしまっても良かった。今のこの現状が、どうにか良い方向へ変わってくれるのならば、今の僕ならきっと、何でもするだろう。

「やっぱり……誰か呼ばないと」

 僕の手に添えられた彼女の冷たい手が、震えていた。

「いいんだ……もう、いいんだ」

 ダメだから。

「ダメって…………そんなこと、きっと」

 何か出来るはずだ。そう願った。そう祈った。

 もう彼女の言動で大体の予想というのは出来ているはずだ。だけど諦めの悪い僕はどうしてもその現実というのを見たくなかった。

 もう、散々苦しんだだろ。もう散々罰を受けただろ。そんな彼女に、これ以上何をしようってん言うんだ。罰を受けて、苦しんで来た彼女の最後がこんな形で終わってしまうだなんて、そんなこと……あっていいはずないじゃないか。

「もう、動かないの。もう、生贄としての力も、何もないの……」

 強くなった言葉が夏の空気を含んで大きくなった。

 僕はただそんな声を出す彼女に呆気を取られた。

「薄々、気付いてたんだよ。賑やかな村の人たちの声が、祭りの音が段々遠くなっていくのを。それが遠ざかるにつれて無くなっていく自分にも。だからもう、終わるの。私に課せられた呪いの期限が、罰の期限が今日という今、終わるんだよ。けど別にいいんだ。いつかこういう日が来るって分かってたし、これでようやく解放されるって考えたらさ……なんて事ないよ」

 口元は、優しく笑っていた。

「だから君と会えたのは、本当に最後の最後の奇跡。私の最後のわがまま。もう神様はとっくの昔に死んじゃってるかもしれないけど、これは神様からのご褒美かもしれないね」

 何でそんなに笑っていられるんだ。何でそんなに平気な顔していられるんだ。

 僕は彼女の平気そうに振る舞う姿が気に食わなかった。

 悲しいはずなのに、そうじゃない風に装っている彼女の幼稚な心の仮面。それを恰も自分だと言い張る、そんな彼女に苛立ちすら覚えた。本音を聞きたいが故のその思考は、彼女の見えない内側へと踏み込みたい僕の願望が大きく関わっているんだと思う。知りたいんだ。触れたいんだ。彼女の本音を、夏田夏来を。

「本当は、こんな姿でお別れなんて、いやだよ……でも結果的に、君と話せたから良かったのかもね。自殺を止めた時もそうだし、今この時もそう。昔みたいに戻れて幸せだよ。今まで遠くで見てるだけだったのに、今はこんなに近くにいるんだもん。触れられるんだもん。だから……ちゃんと謝りたい。嘘ついてごめん。ずっと、ずっと騙しててごめん」

「そんなこと、言わないでよ。せっかく、分かったのに。君がそこにいるのに」

 僕の手に添えられた彼女の手を、上から覆うようにして握った。

 そうしないと今にも彼女が目の前から消えてしまいそうだった。

 僕から遠ざかっていく気持ちを、どうしても捕まえたかった。

 彼女はそこにいるのに、彼女の本音というやつは僕の手をすり抜けるように逃げて行く。

 もどかしい。そんな彼女に対する僕の感情はもがけばもがくほど泡立って膨らんでいった。

「ねえ、優くん。私の本音、見えてる?」

 重い、暑苦しい空気。それを嫌ってか、彼女の表情はいつも元気なものへと変わる。

 さっきとは立場が逆になってしまった僕たちを包む夏の音が、また静かに空へと上がる。それは今まで見て来た夏のように感じた。

「見えないよ…………何も」

「教えて欲しい?」

 意地悪な顔だ。引き込まれるその表情に僕は見惚れてしまう。

「思いってね。気持ちってね……当たり前だけど、言わないと伝えられないものなの。けどさ、優くんのことだから、きっと自分の気持ちを相手に伝えてないでしょ? 見えてしまった他人の気持ちは、どうせ何も変わらないって決めつけて、自分から距離をとって、自分の気持ちを伝えないまま生きて来たんでしょ。相手に自分の気持ちを伝えたら、相手の考えや自分に対する評価が変わるかもしれないっていう可能性を、捨てて来たんでしょ」

 彼女の核心を突く言葉は、深く僕の内側を抉った。

 それは、全部……彼女の言う通りだったからだ。

 自分の今までを振り返れば、当てはまることだ。

 母さんに対して、僕の心情を伝えていれば、僕に対する態度や理解も変わっていたかもしれない。

 兄さんも僕が辛いという気持ちを伝えていれば、お互いに話し合い、助け合うこともできたかもしれない。

 みーちゃんだって、僕は嫌いだから振ったわけじゃないと真剣に伝えれば良かったんだ。どれだけウザがられても、どれだけ嫌がられても、能力のことが話せなくても、その時の葛藤をありのまま伝えれば良かったんだ。

 野田さんの時だってそうだ。あの時、僕がもっと強く言えば、結果は変わっていたかもしれない。彼の人生が少しでも良い方向へと向いていたかもしれない。

 全部見えているから、その人の見たくない本音を知ってしまうから、人間関係に対して自然と消極的になり、自ら近づくことをやめ、分厚い心の壁を作って僕は逃げていたんだ。僕という一人の意思を、感情を、考えを、伝えぬまま、どうせ相手の意見や思考は変わらないと逃げていたんだ。

 放棄していた。自分の思いを伝えれば、相手の何かが変わるかもしれないという可能性を。

 決めつけていた。何も変わりはしないと……僕の言葉は誰にも届くことはないと。

「その顔、やっぱりね」

 呆れた物言いだったが、それはどことなく嬉しそうだった。

「優くんは昔と変わらないや。昔も、村の人と勝手に距離をとって、どうせ自分の意見を伝えたところで相手の気持ちは変わらないって決めつけてた。私も……優くんと出会うまでは似たようなものだったから、よく分かる。見えてしまうから、自分の気持ちってやつを伝えるのが下手なんだよ私たち。普通の人たちがするような、気持ちを伝え合う会話っていうのがどうしてもできない。どうしようもなく見えてしまう相手の本音に対して、距離をとってしまうから、相手と面と向かって会話をしているはずなのに、自分だけどこか遠くに、別の世界から会話してるような、そんな感覚。相手とは違う、自分は普通じゃないっていう壁をつくつて、悲観的な目で必ず自分を見てしまうんだよ。でもね、やつぱりね、思いや考えを伝えないと、わからないんだよ。伝えないと……相手の心も動かない。嫌って気持ちも、好きって気持ちも、相手は私たちのように見えていないから」

「だから」彼女はそう言って溢れ出る感情をぎゅっと握りしめた。

「もう一回、聞いて良い? 優くんは……私の本音。見える?」

「何も……見えない。見えないよ」

 俯いた僕の顔は、彼女の目を見れなかった。

「じゃあ……教えてあげる」

 彼女は僕の腕を引っ張り、倒れ込んだ自分の方へと僕を引き寄せた。

 顔と顔は近づく。お互いの息が当たりそうで、僕は息を飲んだ。

 そうして、彼女は僕の耳元で囁いた。酷く掠れた泣きそうな声で。弱々しく、抱きしめたら簡単に潰れてしまいそうなほど小さな声で。

「好き」

 それは文字ではなかった。言葉が胸の中に飛び込んでくるのを肌で感じた。

 それは熱かった。焼け焦げてしまいそうなほど胸が苦しくなる。

 それは夏よりも、太陽の光もよりも、僕にとって暖かいものだった。

「ほら、言わないと、分かんないでしょ?」

 握り直した彼女の手は、言葉に宿る温もりとはかけ離れていた。

「だから、伝えることを忘れないで……そうじゃないと、相手も自分も何もわからないままだから」

 気付けばベンチには、ポタポタと涙が落ち始める。

「泣かないでよ……私まで、泣けてくるでしょ」

「夏田さんが、泣くから、釣られて泣いてるんだよ」

 それは誰の涙か定かではなかったが、お互いが自分のだと言い張れるほど、お互いが同じ状況に陥ってた。

「言い訳ばっか、モテないよ」

「モテて欲しいの?」

「ずっと昔から優くんはモテてたよ。一番モテてたのは昭和初期くらいかな」

「ヤキモチ?」

「かもね」

 お互いに、僕らは苦しい言い訳を重ね合った。体と体がくっついて同じ一つの体へと変わってしまうほど、僕らの壁というのは薄くなっていた。

 恥ずかしさというのはそこにはなかった。

 僕たちはただ、ここから何処かへ行ってしまわないように、消えてしまわないように、ずっと、ずっと、時間が溶けてなくなってしまいそうなほど長い間お互いの心を握り合っていた。

「優くん…………」

 彼女の抱き締める力が強くなるのを感じた。

 離してしまえば、消えて無くなってしまう。僕もそんな気がして自然と力が強くなる。

「離れたくない、私も離れたくないよ。けど、それはきっと叶わないから……優くんの気持ち。優くんの本音。言わないと誰にも伝わらない、その言葉」

 吸い込まれるような夏の空は、暗い青色を微かに光らせていた。

 そんな下にいる彼女の声は、僕の胸に直接入り込んでくる。

 僕の本音。もう長い間誰にも伝えてこなかった僕の思い。どうせダメだって、伝えても変わらないって、諦めていた僕の感情。

「好きだ。夏来のことが……好きだ」

 頬に流れる水滴には、彼女の笑顔が写った。

「なら、同じだね」

 真夏の空に上がった化学反応によって発せられる色取り取りの火の粉が僕らを燃やした。

 命の燃える音がした。夏が燃える音がした。

 暗く底のない青に咲く綺麗な花たち。

 彼女の瞳に写ったそれは直接それを見るよりも綺麗だ。

 僕はそんな光を僕の腕から逃げ出してしまわないように抱きしめた。

 消えてしまわないように、彼女がくれた笑顔や思い出を手放してしまわないように、ぎゅっと、力強く。

 彼女の体が、擦り切れて無くなってしまうまで、ずっと。夏が終わるまでずっと。




 あれからもう十七年が経とうとしている。と言っても景観は大して何も変わっていないのが現状で、何年経っても変わらないこの山はあの日の夏の出来事を鮮明に思い出させてくれた。

 肌が感じる夏の空気、それは当時のままでこんな僕でもまだ感じられることに感動してしまう。

 ただしかし唯一あの時と違うのは、駅前の夏祭りが元の山の麓で開催されるようになったということだろうか。

 これは夏田夏来という人物と最後に出会った後に知ったことだが、十七年前のあの祭りで大規模な花火事故が起きたらしい。誤った操作で大爆発を起こしたようだが、幸い怪我人は無く大した被害はなかったようだ。だけどそれが原因で駅前は混乱し、交通網がパニックになり、そのことが理由で地元民が元の山の麓で祭りを開催しようという意見が強まり、色々考え抜かれた結果現在に至る。

 僕があの時から何も変わらずこうして生きていられるのも、きっと、そのせいなのだろう。

 しばらくベンチに座って、代わり映えしない夏の空を見上げていると、奥の茂みが何やらゴソゴソと揺れ始めた。

 風にしてはやけに騒がしかった。

 僕は何だか妙に気になって、草木を掻き分けながら木々が並ぶ山の奥へと進んで行く。

 一歩一歩確かめながら、音のする方へと確実に。

 しばらくしてたどり着いた場所は、十七年前に見たあの景色とと全く同じものだった。

 空気も匂いも、五感で感じられるもの全てがあの時と酷似していた。

 空を覆う木々を縫って僕を照らす太陽の光。

 暑いという言葉以外では言い表せられない夏の空気。

 いつもうざったるいと感じている蝉の声。

 そして、そのどれよりも印象深い物があった。

 僕は思わず声を出してしまう。それは十七年前に僕が聞いた言葉だった。

「本当に死ぬの?」

 ああ、夏が来た。

 頬に当たる風に僕は夏感じた。


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夏は透かした方が美しい 近江涼 @oumi7

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