第12話 自転車
それからの一日というのは、酷く退屈で、それでいて平凡で、まるで去年の夏に戻ったかのような非常につまらない一日だった。明日着る服を考えて見たり、夏祭りについて色々調べてみたり、夏祭りの前日だからか妙に体がムズムズしてイライラした。
まあ、それも今日のためと思えば少しはマシに思える。
僕が今日ほど緊張した日は、これから先、きっと訪れることはないだろう。
昨日のイライラも、ムズムズする焦れったい気持ちも、今日できっと終わるのだ。今日できっと、分かるはずなのだ。
電車の到着ベルが鳴った。
駅の階段から、エスカレーターから、エレベーターから次々と人が滝のように流れてくる。普段、ベッドタウンならではの通勤ラッシュと帰宅ラッシュ以外込むことのない駅が、見たこともないような人の数であふれかえった。
浴衣に身を包んだ女性、サンダルで走り回る子供、それらを先導する人々、全てが熱く、そして激しかった。
目眩がしそうなほど人の匂いがして、人の声がして、人の本音が見えた。
「だるい」
「うざい」
「足痛い」
「人多い」
「帰りたい」
「楽しい」
「好き」
「嫌い」
「恥ずかしい」
「手をつなぎたい」
「早く来ないかな」
目につく本音はどれもうざったらしい。まるで今の僕の心情を露わしているかのようで、思わず僕はその本音たちを前に目をそらした。
時計は約束の六時に近づこうとしてる。待ち合わせの駅前は大勢の人で溢れかえっていた。
青が深くなった空に黒い鳥が飛んでいて、鳴き声もないその鳥は何の鳥かも分からない。
人も皆同じだ。黒い文字で覆い尽くされた顔は個人を特定できる代物ではなかった。悍ましい狂気の劇場風景。夏祭りが奏でる陽気な音楽がより一層僕の怖心を煽っていた。
人ごみのに酔いそうで、僕は思わず口をふさぐ。
時間が過ぎるのが遅かった。ちょうど六時を過ぎたくらいから、一秒というのが手で掴めるほど現実的な物へと変わっていくのを実感する。
しかしそれとは異なり人の歩く速度というのは速くなっていく。速くなって、速くなって、全てが残像に見えるほど僕を取り巻く時間というのはデタラメで、夏が僕を置いてどこかへ行ってしまったのかと錯覚してしまう。
透明なビニール袋に入った金魚が僕を見つめる。それは少年の手にガッチリと紐付けされた袋に入った少量の水の中で、苦しそうにしていた。それをブンブンと振り回す少年の姿がとても印象的で、ちょっとだけ昔の自分を思い出す。
無邪気という世界の残酷さに振り回される小さな命が燃える瞬間を僕はただ見つめていた。
萎んだヨーヨーは道に捨てられ、フランクフルトの串は音もなく地面に落ちる。男女は手を繋ぎ、そして人混みの中へと消えていく。子供がお母さんと泣いていた。
その子供を無残にも見て見ぬふりをする大人たち。
なんて残酷なんだと僕は遠目で見ていたが、自分もあの大人たちと足しして変わらないことに気がつき、思わず下を向いてしまう。
僕の目に映る物全てが夏だった。汚い物も残酷な物も、綺麗で美しい物も、全てが現実で、それが夏だった。
時間はまだ過ぎて行く。決して止まることのないその足は、もういくら進んだだろうか。
時計の針という時間の足はまだ動き続ける。
彼もまた待ち合わせをしていて、誰かを探しながら歩いているのではないかと思うと少しロマンチックに感じた。
駅前の古びた時計は、植えられた木々によって見え隠れし、その短針は確認できず、正確な時間というのは分からなかった。ただ長針が天を貫くように真っ直ぐ上に向いていることは、誰がどこから見ても同じだった。
しばらく経つとアナウンスが流れた。八時半、予定通り花火を打ち上げます、と。
不安と期待が混じり合っていた感情は約束の時間が過ぎるごとに乖離していく。
心の中のドキドキした期待感というのは、やがて不安や恐怖で形作られた坩堝によって燃やし、溶かされ、かけら一つ残さずに消えていくような気がした。
それでも時計の針は進む。もうどれくらい時間が進んだのか、携帯を確認することすらためらってしまう。
不安で不安で、たまらなくなった。滲むような冷たい汗が出る。体の熱が一気に冷め、それは今まで味わったことのないような寒気だった。
期待や希望、基本的にプラスになりうる要素が消え去った僕の頭の中は、汚染された思考が一人歩きする。
もしかして、あれは全部嘘だったんじゃないのか。僕の言葉を信じたのも、僕と笑ったのも、僕と一緒に考えたあの時間も、全部彼女の演技で、裏で友達と笑ってたんじゃないのか。病気かと疑うような僕の言動を、陰で笑ってたんじゃないのか。
彼女が約束の時間を大幅に過ぎていく現状を見れば、段々とその考えが現実味を帯びて、僕の血液の中へと混じっていく。
見えないからこその恐怖だった。見えたらこんなに戸惑ったり、考えたり、悩んだりもしなかった。
怖い、怖いんだ。見えないことが、怖いんだ。彼女のあれが嘘なのだとしたら、僕は今日までなんのために生きてきたのか分からない。それ以外の理由というのはあるはずなのに、それすらも霞んで消えてしまうほどその恐怖は大きかった。
やがて頭の中は真っ白になり、視界のピントは合わなくなる。
遅刻にしては長過ぎる時間が、その選択肢を葬り去った。鈍器で頭を殴られたような、そんな痛みが更に追い討ちをかけた。
「ゆーちゃん?」
そんな時だった。優くん、ではなく、ゆーちゃん、とどこからか声がした。
ふと我に返り、絶望の淵から周りを見渡した。
「あ、やっぱりゆーちゃんだ!」
そこにいたのはみーちゃんだった。紫色の浴衣。綺麗なアサガオ咲いていた。小さい時にしか見なかったみーちゃんの浴衣姿は、不意を突かれたようでとても綺麗に見えた。
「ゆーちゃんが夏祭りなんて、珍しいね。なんかあった?」
ニヤニヤといやらしく笑いながら、みーちゃんは僕の元へと駆け寄ってきた。
「関係ないだろ」
突き放したような言葉を言っても、そんなことはお構いなしに、彼女は僕の隣にあったベンチに座った。
「……多田先輩は?」
「ん? あー、向こうのかき氷の屋台に並んでるよ。でも、なんで?」
「面倒だろ。見られたら」
正直みーちゃんにも会いたくなかった。そこに多田先輩が加わるとなればまたあの劇場が繰り広げられることになる。今の僕では耐え切れる自信がない。
「ああ、そういうこと」
みーちゃんは納得した表情でかき氷屋の屋台を見た。
「ねえ、ゆーちゃんはさ。誰か待ってるの?」
「関係ないだろ」
「待ってるんだ……。あ、もしかして彼女とか?」
「そういうのじゃない」
「ふーんそっか、彼女じゃないんだね」
僕の反応を見て、何故か彼女は自分の言葉に確信を持った。
「女の人なの?」
「だったら、どうだっていうんだ」
「意外だなーと思って」
みーちゃんは下を向く僕の顔を覗き込んだ。
「意外で悪かったな、僕でも友達付き合いくらいするんだ。」
強がりだと分かっていても、みーちゃんの前では少し強がってしまう。
「いやいや、そうじゃなくてさ。ゆーちゃんも噂とかそういうの信じるタイプなんだなーってことだよ?」
「噂? 何のことだ」
「あれ違った? え、もしかして知らないの?」
みーちゃんは自分の思惑が外れたような表情をする。
「知らないんだったら、教えてあげる。この夏祭りには恋の噂ってやつがあってね。それは夏祭りの待ち合わせで長く待てば待つほどその人の恋が実る確率が高くなるらしいんだー」
「なんだそれ」
バカにした言葉だったが、結局、彼女の言葉というのは止まることがなかった。
「そんなこといったらおしまいだよ。こういうのは雰囲気が大事なの、雰囲気が! それに夏祭りの由来にだって関係してるんだし」
「夏祭りの……由来にも」
僕は思わずその言葉に反応してしまう。
その反応は彼女の予想を根本から覆すものだった。
「え、もしかしてあれ読んでないの? 図書室にあったやつ」
「いや……読んでないけど」
「ああ、どうりで噂話も知らないわけだ。なーんだ」
「一体何の話なんだよ。全然話が見えてこない」
彼女の顔の文字はこういう時に限って、残念な彼女の心情だけが浮かび上がって僕の知りたいその先は真っ暗で何も見えてこない。
焦らす彼女の言動や表情は、僕の不安定な心を揺さぶって行く。
「仕方ないなー。それじゃ、夏祭りの由来、教えてあげる。小さい時におじいちゃんに散々聞かされた癖に、ゆーちゃんはすぐ忘れるんだから」
そうして僕の知りたかった夏祭りの由来の話が思いもよらない中、唐突に始まった。
「昔、滋賀に夏が来ない時期があったんだって、作物は凍って、あの大きな琵琶湖も凍って、近江に住んでた人はみんな困り果ててたらしいの。そこで、ある村の人たちが言ったんだって」
電車のベルが鳴り、夏祭りの人口密度は更に濃いものとなる。匂いも声も、顔の文字も、色濃くなり、僕の五感を逆撫でる。
「神様に生贄を捧げようって、そうすればきっと夏が来るって。それで、生贄には村の中の男女が選ばれたんだけど、その二人はお互い愛し合ってたんだって」
繰り返される音楽に耳が痛くなる。段々と音がでかくなり、まるでみーちゃんの話をかき消そうとしているようだった。
「それで、確か、その二人の意思は関係なく生贄の話は進んでいって……あ、そうそう、その男女二人にも意見のすれ違いがあったんだよ。女の人の方は生贄として男の人と死ぬのは良かったんだけど、男の人の方は死ぬのを怖がってて。で、当日まで男の人は打ち明けられないまま生贄として捧げられることになって、神様に死を恐れているってことがバレて男の人はただ殺されて、女の人だけが生贄として近江に夏を呼ぶ神様の使いになったんだって」
それで。
「その女の子は今も待ち続けてるらしいんだよ。あの山で、長い間ずっと」
だから。
「噂というか、あの迷信ができたんだよ。その女の人のような強い意志を持って愛する人を待ち続けていれば、きっと恋は実るってね。いやー、ロマンチックだよね」
羨ましいよね。そんな恋愛。
「なあ」
うるさかった音楽がやんだ。周りの声もそれと同じように止んだ。
全てが僕のために静まり返った中で、長い間沈黙していた僕の口から溢れた声は、震えていて、酷く動揺したようなものだった。
一方的な彼女の言葉を断ち切るような、恐怖が入り混じったものだった。
「どうしたの? ゆーちゃん」
みーちゃんは首をかしげる。その表情というのは、僕のお願いならなんでも聞いてくれそうな、そういった表情だった。
「あの山って、どの山だ」
僕は思わずベンチに座っていたみーちゃんの肩を掴んだ。なぜ僕がそうしたのか分からない。普段なら絶対にしないはずのその行動は、どこからか来たのか分からない焦りからなのかもしれない。もしかしたらという恐怖から、なのかもしれない。
「え、ちょっと……どうしたの、ゆーちゃん。らしくないよ? それにそんなこと聞いて、どうするの?」
唐突とも言える僕の豹変っぷりにみーちゃんは困惑した。
その引きつった笑みが僕に刺さる。
らしくない。その通りだ。自分でもなんでこんなに必死になっているのか分からない。
「あの山って……どの山だ」
声は自然と大きくなった。周囲の目は痛くなる。周りから見れば女の子に対して脅迫しているようにしか見えない光景だった。
普段なら気にした人の目線、声、表情は、異常なほど全く気にならなかった。
「昔、よくいってた山だよ……ここの花火がよく見えるあの山。ゆーちゃんのおばあちゃんと三人で行ってたでしょ」
「みーちゃん……ありがとう。それで、ごめん」
気が付けば僕の体というのは動いていた。もう既に、みーちゃんの肩から手が離れ、足は駅と正反対の方向を向いていた。
そして僕は謝っていた。
それは反射的に彼女の頭の中で思い描かれていた理想を裏切るような行動を取ってしまったからだ。
「え、ちょっと、ゆーちゃん! どこ行くん!」
自分でも、何故そうしたのかよく理解していなかった。
僕がこんなに必死になっている理由も、ただ頭の中で自問自答を繰り返すのみだ。
確証もない。それを裏付ける証拠もない。だけど僕の足は、こんなにも必死になって叫んでいた。
必死になって、必死になって、ただ一歩も止まることなく、それが永遠に続くかのように走り続けた。
そんな僕を、人混みの草木は当然のように睨んだ。
「なにこいつ」
「うざい」
「きもい」
「走んなよ」
そんなどうでもいい文字を払いのけるように、ただがむしゃらに走った。
僕は今、逃げている。そうこれは……僕にとっての逃げた選択肢なんだ。
彼女に、夏田さんに、裏切られたくないという意思が、この確証のない不安定な物に縋りついているんだ。彼女と過ごした時間が何よりも大切だから、僕を受け入れてくれる彼女が何より嬉しかったから、彼女が僕を騙していたという現実的な可能をどこかに捨てたいが為に、彼女が僕との待ち合わせに来なかった理由として信じようとしている。
彼女がその物語のヒロインだと。
けれど、それでも、なんの根拠もなく信じているわけではない。どこか人間離れした魅力というのが彼女にはあって、それが結果的に僕の逃げという選択肢に繋がり、僕を直感的に走らせている。
それに、みーちゃんの話を聞いて一つ思い出した話があった。
思い出したのは夏田さんとの会話。僕が奇抜な夏田さんの思考からくる気まぐれのような疑問だと勝手に片付けていた「夏はどこからくるのか」という話だ。
彼女が考え込むようにして唐突にそんな話を始めたのは、もしかしたら、自分しか知らないその真実を、現実を、改めて己に言い聞かせていたのかもしれない。
自分は、人間ではないと……そう、言い聞かせていたのかもしれない。
人間の海に溺れかけながらも足を動かした。平泳ぎも、クロールも、バタフライも通じない、泥のような汚い海を泳いだ。遠くに見えた見すぼらしいあの山を目指した。
駅前から、町の商店街まで続く祭りの通りの人の匂い。
鼻に刺さる汗の匂いや、香水の香りが複雑に混じり合う。
商店街道を抜ければ、そこはいつも通りの田舎風景だった。
薄くなった人混みに安堵するが、山の麓までいくバス便がないことに途中で気がついた。
仕方なく錆び付いたバス停を過ぎ、擦り切れそうな靴でそのまま山まで僕は走る。
転けて、踠いて、血が出ても、足が痛んでも、僕は走り続けた。
自販機に群がる虫が容赦なく僕の顔にぶち当たる。
気にしている暇なんてなかった。そんなことよりも未だ微かに聞こえる祭りの賑やかな音楽の方がイライラする。
田舎道、街灯が点々とした中をただひたすらに走った。
誰にも見られない、誰もいない、この世界に僕一人しかいないんじゃないかという錯覚すら覚えてしまうほど、その孤独感というのはなによりも濃かった。
置き売りの野菜に虫が集っていた。錆びて廃れたバス停の屋根は空いていて、まるで空から何かが降ってきたみたいだった。田舎だから見える夏の夜の空模様。どれがどれかわからない無数の星が、掠れた月よりも強く輝いていた。
電気柵危険という看板が蛍光灯に照らされる。自販機の淡い光が僕の乾ききった喉を誘った。
草むらに何かいるのか、カサカサと動き回る音が常に僕につきまとう。
コンクリートから土に変わった道は凸凹で、疲労の溜まった僕の足を沼のように拐おうとする。やがてそれに耐えきれなくなった僕の足は地球の中に飛び込んでしまうかのように崩れ、僕は田んぼの溝へと転げ落ちた。
「くそっ!」
僕はうまくいかない現状にムカついて拳を泥の塊に叩きつけた。
暗くてよく見えなかったそれは硬い岩で、僕の拳に激痛が走る。
「くそ……」
早くいかなくちゃ、確かめなくちゃ。
走れと体が言った。急げと頭が言っていた。
だが現実はそう上手くはいかない。
こんなことしてる暇ないんだと思えば思うほど、体はいうことを聞かなくなって行くような気がした。
「バカだろホント」
激痛に耐えてようやく立ち上がっても笑ってしまう膝に僕は罵倒する。
思うように足が動かなかった。日頃運動しないせいで体に負担がかかりすぎたのか斜面を登ろうにも二歩目がずり落ちてどうしようもなかった。
気持ちだけが前のめりになって、肝心の体はどこか遠くに行ったっきり戻ってくる気配は無い。
街灯が照らす泥水に映った僕は自分でも見たことのない酷い顔で、こお世の全てに対して憎しみを抱いているようで更に自分が惨めに思えた。
「お前、ここで何やってんの」
そんな時だ。足が竦んで動けなくなった僕に向かって、何処かで聞いたような声が頭の上を叩いた。
「多田先輩……」
通学用の自転車を横に多田先輩が、上から僕を見下ろすように立っていた。
「泥だらけじゃねーかよ、お前」
いつもよりきっちりとセットされた髪型に、田舎モンには少々奇抜すぎるがそれでも多田先輩にしっかり似合った服。
それらを見て彼がいまからみーちゃんに会いに行くのだろうということは容易に想像できた。
「何してんの」
「えっと、これは……」
多田先輩にそう言われ、僕は改めて自分自身を見つめ直した。
泥の付いた服に擦り切れた膝。まともに歩けない体とそれでも前に進もうとする心。
客観的に見ただけじゃ、僕は田んぼの溝に転げ落ちて上がろうにもひ弱で上がれない人間でしかなかった。
「……」
そんな僕を見下ろす多田先輩が怖かった。本音というものを見るのが怖かった。
「手、だせよ」
そんな僕に差し出されたのは、多田先輩の僕より少し大きな手だった。
「え、でも」
「なんか知らないけどさ、急いでんだろ。ほら、早く」
思わず顔を上げた僕に有無を言わさず掴んだその手は僕を優しく抱くかのように田んぼの溝から引っ張り上げた。
「立てるか」
「だ、大丈夫です」
少しフラついた足を、地面から浮いてしまわないようにしっかり地面につけながら僕は答えた。
自分の足が大丈夫だと信じて。
「どこがだよ」
しっかりと地面にくっつけたはずの足は僕の気づかぬうちに膝からゆっくりと崩れ落ちていたようで、いつのまにか多田先輩の顔が僕の目の前にまで迫っていた。
「救急車とか呼ぶか?」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
自分で立てます。
僕はそう言いつつも多田先輩の腕を掴みながら、立ち上がってしまう。
「おい、お前」
「大丈夫なんです。これで、大丈夫なんです」
それは側から見れば到底大丈夫と言えるような姿ではないはずだ。
それでも僕は大丈夫だと言い続ける。僕の目の前にいる男とそして僕自身に。
一生懸命にならねばならないのだ。
今彼女に会うために、確かめるために。
「はあ、本当に……どいつもこいつも」
そんな僕を横目に、多田先輩は後ろ髪を掻きながら僕と他の誰かを加えてそう言った。
「これ、使えよ」
そう言って多田先輩は自分の横に止めてあった自転車を引きながら、ハンドルを僕の方へと向けた。
面倒臭いとあからさまな態度をとりながらも、仕方ないと思いながら。
「いや、でも」
「いいから、あん時の礼だよ。別に誰に言われたとか頼まれたとかじゃねーから」
多田先輩は渋る僕の手を取ると自分の自転車のハンドルを固く握らせた。
「それとも大丈夫って言っておきながらチャリすら漕げないって言うんじゃ無いだろーな」
わかりやすい言葉と被せられた僕を煽るような言葉に先輩のスマホがバイブ音を鳴らす。
「本当にいいんですか、これ」
「いいって言ったらいいんだよ。その代わり、ちゃんと返せよ」
僕はハンドルをぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます!」
「あん時のお礼だって言ったろ。礼はいいよ」
そう言いながら見せる僕が初めて見る彼の笑顔。
跨った自転車の座高は高い。
「あの……」
「なんだ」
「みーちゃんにも、ありがとうって伝えといてくれませんか」
「はは、お見通しかよ」
多田先輩は乾いた声で軽く笑った。
「行けよ。急いでんだろ」
ありがとうございますと頭を下げた。
ボロボロになった両足で自転車の硬いペダルを漕ぐまでにありがとうございますと何回思っただろうか。
先行する気持ちを必死に追いかける僕にはその言葉を数える暇すらもうなかった。
頭にあるのはあの山を目指すことと、多田先輩とみーちゃんのスマホで行っていたトーク内容だけだ。
ただ、少しだけ見えた多田先輩の気持ちに僕は体が軽くなった気がした。
自転車を必死で漕ぎ続ける僕を見つめる彼の姿は「頑張れよ」と言っている気がした。
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