第11話 動悸と夏祭り

 空には真っ黒な雲が空を覆っていた。

 じいちゃんと会っていた朝はあんなに晴れて暑かったのに、僕があの山に近づくにつれて雲がどんどん空を覆い、どこからか運ばれて来た冷たい風が強まって行くような気がした。いつもとは違う夏の日がすごく奇妙に感じた。

 さっき買ったアイスも溶ける気配はなくて、少し肌寒くなった夏の空を見上げる。晴れろと願いながらいつもよりゆっくり歩いた。階段もいつもより長く感じた。

 全てがいつもとは違った何かに思えた。内心は早く伝えたくてうずうずしているはずなのに、どうも身体が優れない。重苦しい空気とともに感じるそれがちょっとだけ不思議に感じた。

 階段を上がりきったそこは、空がすぐそこにあった。

 地面と空を覆う雲の狭間にいる僕は、地面と空がお互いを押し合う力で浮いているような、少し力の入った空気を感じた。


「優くん、来てたんだ。今、来たところ?」


 僕に気づかなかったのか、ベンチに座っていた彼女は両手を背中に回しながら言った。


「丁度今来たところ」

「そう、なんだ」


 どこか慌てた様子の彼女。相変わらずの元気で見惚れてしまうような笑顔だったが、今日のそれは何故かいつもより暗く見えた。空が曇っているからか、僕はそんな風に感じた。


「これ、食べる?」

「アイス?」

「それと、どら焼き」

「食べる、食べる!」


 食いつくようなその表情は僕の目の前にまでやってくる。


「そんなに好きなんだ」

「うん。氷菓子もいいけど、やっぱりどら焼きが一番好きかな」

「じゃあ、はい、これ」

「ありがとう、ってなんでアイス?」

「溶けるから」

「ああ、そっか……」


 流れ的にどら焼きをくれるもんだと思っていた彼女がむくれる姿は、少し可哀想ではあったが、それよりも可愛かった。


「まあ、どら焼きはいつでも食べられるし、早く食べないと溶けるよ」

「そう、だね。いつでも食べられるし」


 彼女はそう言って、アイスの袋を開けた。乱暴というか、雑っぽいというか、彼女らしくない力の入った白い手が、すごく印象的だった。僕はそんな彼女から目が離せないでいた。

 結局、アイスは溶けることなく食べ終わった。

 雲は厚さを増し、今にも雨が降りそうな黒へと変わる。いつもと違ったそれに、僕は見惚れていた。こんな夏もあるんだなって、改めて実感する。いつもの明るい元気な夏の、違った表情というのがまた美しく思えた。

 そんな冷たい空気が山の広場に吹く中、本題を切り出したのは珍しくも僕からだった。


「欠けたもの、少し分かりそうな気がしてきた」


 粒あん、こしあん、どっちがいいかという鉄が真っ赤になるほどの熱いバトルが少し冷め、まだ微かに熱が残る淡い赤色の鉄に変わった頃、僕は蝉が泣き止んだ広場に向かって言った。


「てことは、何か聞けたんだ」


 どら焼きの袋をビニール袋に片付ける彼女は言った。


「まあ、ね。僕自身の考察だけど、やっぱり夏祭りが関係してると思うんだ。じいちゃんの話だと、昔の夏祭りってこの山の麓でやってたみたいなんだけど、犯人、野田さんが見た少年ってこの祭りに来てた村の人なんじゃないかなって。じいちゃんの家は昔からその祭りにお面を出してたみたいだし、多分そうかなって思うんだ。どうして僕に似てるだとか、僕を守るようにして現れたのかとか、そういうのは全然分からないけど、その少年が現れたと同時に何かが欠けた感覚が僕に宿ったんだ。僕は、無関係だとは思えない……そんな気がするんだ」


 そうやって僕は、ありのまま包み隠さず全てを話し、そして根拠のない話を続けた。

 そう、この僕の考察というのは根拠というか、理屈というか、それがそうである証拠が何一つないのだ。

 十分に理解している。だって、これはただ僕がそうであって欲しいと願う一種の願望に過ぎない、妄想に過ぎない、創作に過ぎない。欠けた感覚と少年が同時に現れたからと言って、それが、その二つが、絶対に関係しているという証拠は何もないのだ。

 ただ、そんな気がする。

 僕の持つ願望の根源とは、そんな何の説明にもならない感覚的な言葉だった。

 それでも、これが僕の想像上の願望で、なんの説得力も無い僕の感覚が理由であっても、僕が自信を持って彼女に話をすることができたのは、彼女なら全てを受け止めてくれる確信があったからだ。不安定で理屈ない話だとしても、きっと僕を理解してくれる。この「そんな気がする」感覚を共有することができる唯一の人物だから……だと思う。


「夏祭り、か」


 僕が全て話終わった後、彼女は一言だけそう呟いた。


「うん。そうだね。私も、そう思う。私も、きっと偶然なんかじゃないと思う」


 そうして彼女は僕を肯定した。受け入れてくれた。信じてくれた。そんな些細なことなのに僕はなんだか嬉しくなった。ただただ、安心した。


「けど、夏祭りかー」


 安堵の先にあったその言葉は、夏祭りになにか思い入れのありそうな雰囲気を醸し出し、そして結果的にそれは僕の「どうしたの?」と言う言葉を誘った。


「あ、いや、そういえば夏祭りってここ最近行ってないなーって思ってさ」

「僕も中学に上がってから、一回も行ってないよ。行く友達もいないし、それにもう家族と行くような歳じゃないし」

「なら、私と同じだね」


 そう言って、彼女は初めて出会ったあの時のように笑ってみせた。


「そういえばさ、ここって見えるよね」

「見えるって何が?」


 彼女の言葉に僕は続いた。


「花火、大きな音がここまで聞こえてくるんだよ。遠くで光る炎と一緒に、飛んでくるの」

「ああ、花火か」と僕は言った。

「僕も、昔ここでみてたよ。おばあちゃんと幼馴染の3人で、ここにはよく来てたから」


 言葉と共に、僕の頭中では当時の記憶が蘇る。

 祭り会場から離れた静かな広場。聞こえるのは虫の声だけで、いつもうるさいと感じていたそれも、人混みの後だと妙に心地良かった。みーちゃんとおばあちゃん、そして僕の3人で見た夏の夜空が燃え上がったあの姿は、綺麗な記憶がうざったるい今でも感動的と思えるほど素晴らしかった。


「そうなんだ! じゃあ、私たち、どこかで会ってるかもね」


 大空に広がる雲は裂け、その割れ目からは眩しいほどの光が僕らの町を照らしていた。

 ミネラルウォーターが入ったペッドボトルは、太陽に照らされて神々しく光る。そしてそれを飲む彼女もまた美しくて、そんな彼女の言葉というのは、まるでこの僕らを照らす光その物、夏その物の様に思えた。


「なあ」


 僕の乾いた声が虫の声をかき消した。

 どうしたのって彼女は首を傾げた。


「あの、さ。夏祭りのことなんだけど、開催が明後日なんだ。学校とか図書館とかにも夏祭りの事とか書いてあると思うんだけど、明後日だろ?あんまり気乗りしなくてさ、当日そのまま会場に行って実行委員に掛け合ってみようと思うんだ」

「それでさ」僕は続ける。時間が止まってしまったような空間で、大きく息を吸った。心臓の鼓動が早すぎて、整えないと死んでしまいそうだった。

「一緒に、行かないか。夏祭り」


 雲がなくなった空。夏の暑さが僕を顔を赤く染めた。

 それは羞恥心ではなく、夏のせいだと、僕はそう勝手に解釈した。


「下手、だね。誘ってるの?」

「下手で悪かったな……慣れてないんだよこういうの」


 僕の気持ちや表情とは対照的な彼女の反応に、胸が苦しくなった。

 彼女が今何を考えて、何を思って、その言葉を発しているのか、その本音が見えないことがもどかしかった。


「まあ、けど、夏も……もうそろそろ、終わりだからね、最後の思い出作りには丁度いいのかも」


 夏も終わり。そんな言葉が嘘に思えるほど、うるさい蝉の声が彼女の言葉の邪魔をする。


「いいよ。付き合ってあげる。行こ、夏祭り」


 僕の手を取るような彼女の笑顔は、僕の不安がっていたであろう固まった表情を軽く緩めた。


「そう、か……」


 ホッとしたような、よく分からない間が空いて、安心故の言葉が繰り返された。

 そして、僕は結果が出て初めて考えた。どうして、彼女を誘ったんだろうって。別に、僕一人でも聞けるはずなんだ。そっちの方が断然効率的でスマートだ。こんなこと、以前の僕なら絶対になかったはずだ。

 それなのに、僕が彼女を誘ってしまったのは、きっと、僕の中にあるこのよく分からないものを確かめたいんだと思う。散々見て来たはずなのに、実際に持ったことも感じたこともない、この感情的な心の正体を。


「何その反応、嬉しくないの?」

「嬉しいよ。ただ、安心したってだけだ」

「そう、ならいいけど」


 彼女はそう言って、考え深いような、悩ましい表情をした。

 傾きかけた太陽が、彼女の顔に影を作る。それはまるで彼女自身の気持ちを表しているかのようで、顔には決して出ることのない彼女の本音のように思えてしまった。

 僕の気持ちとはまるで正反対。悲しいような、心の苦しいような、彼女の内に秘めた葛藤というのが、その影に現れているように、僕は感じた。


「ねえ」


 彼女のその表情は変わることなく口だけが動いた。


「夏って、どこから来るのかな。誰が、運んで来るのかな」


 彼女は僕の目を見つめた。重なり合った視線は一瞬の間を作る。


「そんなこと…言われてもな」


 夏は四季の一つに過ぎない。それは太陽が長く地球を照らしているだけで、地球のどこからか運ばれて来るようなものではない。その事実を伝えず僕が言葉を濁したのは、きっと彼女はそんなちっぽけな回答を望んでいるわけではないと感じたからだ。もっと違った彼女自身に秘められた何かを問いただしているかのように、僕は見えた。


「そう、だよね」


 彼女は遠くを見つめていた。ずっと、ずっと、遠くの夏を見つめていた。いつ来るかも分からない、終わるかも分からない、その先にある永遠とも呼べる夏を見ている気がした。

 結局、彼女の奇妙な発言はなんとなくうやむやになって、蟻や神様といった奇抜な例え話をする彼女だから、また奇想天外な閃きからくる気まぐれで、なんの予兆もない唐突な疑問のようなものだという、僕の勝手な解釈で終わった。

 その後は、またどうでもいいような話や、この前見せた可愛い動物の動画の続きなんかを見て、長い夏の、とても短い時間を潰した。

 これが続いて欲しいと、僕は純粋に思った。

 勿論、死にたいという、この世界から逃げ出したい意思というのは僕の中に根強く残っている。これは決して消えることのない僕の呪いだ。だけど、その意思も彼女といれば薄まっていくんだ。気のせいではなく、不快な胸のざわつきが、少しワクワクしたような好奇心へと変わっていくのを今も僕は実感している。

 彼女に会うと思うんだ。まだこの世界にいてもいいかもって。けれど、それは一種の現実逃避にすぎない。彼女という薬を僕の中に打ち込んでいるだけであって、それは一時的な快楽を得る麻薬のようなものだ。

 それを含め、僕は改めて思う。あの日、声をかけられて以来、僕は彼女に生かされているという事を。彼女と会う度、死ぬ日というのが曖昧になって先延ばしになっている事を。




 家に帰っても、まだ熱は冷めなかった。あの心臓の高鳴りは今も尚、僕の血液を激しいほど燃やしていた。エアコンの効いた部屋にいても、蒸し暑い夏の夜が、さらに僕をそうさせた。

 母さんの声も何処か遠くの物のようで、どこいってたの、何してたの、勉強はどうした、大学は、進路は決めたのか、そんないつもの言葉は僕の体を通り抜けて消えてしまう。

 うん、決めたよ、分かってる、そんな力の入っていない受け答えが永遠に続いた。

 熱いお風呂に入って汗を流しても、ご飯をお腹いっぱい食べても、頭の中に何も入ってこないような、ぼーっとした感覚が僕の中に存在し続けた。

 それはベッドに入っても、寝ようとしても変わらなかった。それに加えていつもより苦しい欠けた感覚と、曖昧でよく分からない感覚が僕を襲った。それは不安で、ムズムズして、何だかもどかしい、だけど、それでも、ワクワクしている。よく分からない、感覚だった。

 不思議だった。こんな感覚初めてだった。

 ただ明後日、いつもと変わりなく彼女と会うだけなのに、それが妙に緊張して僕の心拍数を上げている。それが不思議で不思議で、たまらないのだ。

 なんとなく考えすぎた僕は寝れなくなって、仕方なく携帯の電源ボタンを押した。突然発せられた真っ白な光で目が痛くなる。

 画面には、さっきまで見ていた「夏祭りの回り方」というウェブサイトが表示されていて、ちょっとだけ恥ずかしくなった僕はそれを慌てて消した。

 ホームボタンを押して、動画アプリを開いた僕は、リラックスできる雨音を聴きながら、明後日のために瞳を閉じた。 今なら、僕の「人間関係は少なからず自分の持つ損得感情によって左右される」という考えが間違いだと、そう思える。

 こんなにも、人を思う気持ちというのは理屈どうのこうので表す事ができないことだと実感した。友達関係然り、恋人関係然り、そこには損得勘定などない人の計り知れない何かがあるのだ。なんでこんな奴と仲がいいんだろ、なんでこんな奴が好きなんだろ、そこには言葉にできない何かがあるのだ。その当事者同士にしか分からない何かが。

 きっと、僕は今、それを知ろうとしている。


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