第10話 おじいちゃんとお面

 みーちゃんの家は僕の家から比較的に近いところにある。

 近所とは言えないが、そこまで遠くもない。歩いて数分もかからないそんな距離だ。

 蝉がうるさい神社を通り、名前があるかも分からない小さな川を渡れば、田舎特有の大きな家が見えて来る。

 ここら辺一帯の土地を占める大きな地主の家、それがみーちゃんの家だ。

「はあ……」

 結局来てしまったと大きなため息が思わずこぼれ出る。

 僕の目の前には浅田と書かれた立派な表札。その表札の横には黄ばんだインターホンがあった。玄関の前には綺麗なアサガオが小さな植木鉢の上で咲いていて、思わず小学生の夏休みを思い出してしまう。

 あの頃は、親や大人たちの嫌いな本音がどうしても見えてしまうから、逃げるようにみーちゃんと遊んでいた。夏休みの宿題だったアサガオの観察も二人で一つのアサガオを観察していたのを今でもよく覚えている。

 無邪気だったあの頃は、自分で思ったことを口にして、やりたいことをやっていた。

 今思えば、人間社会という檻の中で一番自由なのは子供達なのかもしれない。

 無邪気で無知故の幸福というのもきっと存在するのだ。

 そんな昔のことを思い出している僕だったが、家の前まで来たというのにインターホンの前で未だ突っ立ったままだ。

 みーちゃんが出て来たらどうしようとか、両親と顔を合わせた時どういう言葉をかけてどういう反応をすればいいのだろうとか、そういう無駄なことばかり頭に浮かんで、僕の手はそのボタンを押せないでいた。


「おい、そこのお前。うち家の前で何やっとる」

「うわっ」

 思わず上げてしまったその失礼な言葉。急いで僕は口をふさいだ。

 突然声がかかって驚いたのもあるが、それは振り返ったその先にいた人物に対しての言葉といったほうが正しいだろう。

「お、お久しぶりです。おじいさん」

 僕はかしこまって挨拶をした。いきなりのことでびっくりしたというのもあるが、子供の時のような接し方を忘れていたからだ。きっと空白の数年間がそれを更に強くしていたのだろう。

「なんや、相沢のところのかいな……不審者や殴ろうかとおもたで」

 手に持った雑草刈りをし終わったであろう釜がその言葉の強さを何倍も強めていた。

「ほんで、何しに来たんや。えらい久しぶりに来て」

「ちょっと、聞きたいことがありまして」

 そういった僕をおじいさんは睨んだ。

 額の汗が頬を伝う。

「変な喋り方やめや、きしょくわるいで」

 おじいさんは玄関先まで歩いていた後、僕にそういって玄関の扉を開けた。

 僕はやっぱりか、と思った。妙に緊張した僕の言葉は、小さい頃から見て素の僕を知っているおじいさんから見たら、かしこまった僕は奇妙で気持ちの悪い物だろう。

 だから少し胸が痛くなった。

 昔のようにこのまま話せなかったらどうしようって、不安が心の中で溢れてくる。

「まあ、いいわ……大人になったいうことやろ」

 腰を低くしたおじいさんはそのまま家の中へと入ってしまう。

 僕はその先どうしたらいいのか分からなくなって困惑した。

 溢れ出した不安がそうさせた。

「なにしてる。入りや、なんか用あるんやろ」

 おじいさんはそう言うも、振り返ることはなく玄関で道具を漁っていた。

 僕とおじいさんの間には妙に気持ちの悪い雰囲気があった。

 長年の空白がこの空気を作り上げていることは明白だ。

 接し方を忘れてしまったんだ。昔のように、と言っても大人になってしまった僕は普通に話しかけることすらためらってしまう。

 どういう風に話しかければいいのか、それがイマイチよく分からないまま僕はここに立っていた。

「お邪魔します……」

 広い玄関中に入ると、昔と何も変わらない景色がそこにはあった。

 古いクマの置物に、土産物のマトリョーシカが靴箱の上にポツンと置かれている。

 傘立てには釣竿がいくつも刺さっていて、「触るなby父」と書かれていた。

 みーちゃんと短い子供用の釣竿で勇者ごっこをしていたのを思い出す。

 どこもかしこも、数年前から時が止まったような景観で、僕は少しホッとした。

「ほら、これもて」

「え?」

 ホッとしたのもつかの間、おじいさんにそう言って渡されたのは軍手と鎌だった。

「え、いや」

 戸惑いの声が隠せない僕は、軍手と鎌、そしておじいさんを交互に見た。

 家に上がる気でいた僕は、もう半分ほど靴を脱ぎかけている。

 けれど、そんなことは御構い無しでおじいさんは言った。

「まず手伝え、坊主。話はそれからや」




「もう腰が痛くて、しんどいんや。ちょうど手が増えてよかったわ」

 畑の隅でしゃがみながら、おじいさんは笑いながらそう言った。

 手に持ったのは鎌。流されたまま断ることのできなかった僕は、結局雑草取りをしていた。

 嫌ではない。

 別に断る気なんてなかったし、あのままの微妙な空気は僕も嫌だったのでちょうど良かったというのが僕の本音だ。

 それに、昔もみーちゃんと二人でこうやっていたのを思い出すと、少し子供の頃に戻れたような気がして、おじいさんとも話しやすいかもしれないと、そう感じていた。

「次はここや、坊主」

 僕がやっているところの雑草を刈り終わったのをみると、おじいさんは次の場所を指差した。

 僕は分かりましたと言い、他には何も言わずに撮った雑草をビニール袋に入れた。

「ほんま……大きなって」

 立ち上がった僕を見上げたおじいさん。

 中学の頃には何回かあっていたはずだけど、それでもやっぱり数年も合わなくなると忘れてしまうのだろうか。

 おじいさんの中の僕は、まだ昔のままなんだと感じた。

 まだ、僕が無邪気なあの頃なんだ。

「そりゃ、もう高校二年生ですから」

「もう、そんな歳かいな……昔はこんな小さかったのに、ほんま早いもんや」

 昔を懐かしむようなおじいさんの表情。

 ただそれでも、作業の手は決して止まることなく雑草を借り続けていた。

「もう、いろいろ変わってしもたんやな……」

 残念そうに語るおじいさんのその言葉から、おじいさんの昔話は始まった。

 手を緩めることはない。僕はただひたすら、どうすることもなくその話を聞くしかできなかった。

「お前んとこのばあさんとは昔からの中でな、小学校も中学校もなんも全部おんなじやったんや。坊主は知らんやろうけど、あれでもあいつはえらい美人やったんや……ようモテててなわしもその一人やったわ」

 はははと笑うおじいさんに、僕はどういった態度を取ればいいのか分からなかった。

 おばあちゃんの昔の写真なんて見たことないし、うまく想像もできない。

 それに、また変に敬語になっておじいさんの機嫌が悪くなったりでもしたらと考えると、うまく喋れなかった。

 まだ僕には昔に戻る勇気がないんだ。

 僕はその現実を自覚する。

「ただ、話したいだけや、黙って聞いといてくれればええで」

 僕の微妙な表情を見たおじいさんは、そう言って話を続けた。

 まだどういった接し方がいいか曖昧な僕にとって、おじいさんのそれは救いだった。

 僕はありがたく感謝しながら、耳をおじいさんの方へと向ける。

「小さい時からよう話しててなあ……仲ようやってたわ。お互いのことが好きやとずっと思うてたわ」

 せやけど、違ごうた。

「あいつは、別のやつが好きやったみたいでな……それを知った時はほんまにショックやった。それは今でも変わらん。あいつが死んだ時も変わらんかった。好きやったのはもう、過去のことやけどなあ……言えんまま終わるとは思わなんだ」

 一コマの空白。音のないそれはおじいさんの心を表したようだった。

「坊主も、美咲と何があったかは知らんが……自分の思いってやつはちゃんと言わなあかんで……後悔はしんようにな」

「…………はい」

 曖昧な返事。

 その言葉を聞いて僕は胸が痛くなっていた。

 おじいさんはみーちゃんと僕の関係がこじれたことを案じてこの話をしたのだろう。

 みーちゃんは多分。僕が振ったって言うのを言ってないんだ。

 昔はあんなに仲が良かったのに、ある日突然悪くなれば、それを知っているおじいさんは不安になるだろう。男をコロコロと変えては遊ぶ彼女を見て、僕にこんな話をしたんだ。

 だから僕は心が痛くなった。 もうみーちゃんとの関係が元通りになんてならないという現実を知っているからだ。

 どうしようもない、変えることのできない現状。それを知らないおじいさんの気持ちに答えることができない僕はただその話を黙って聞くしかできなかった。

 さっきと変わりなく、ただ耳を向けることしかできなかった。

「余計なお節介やな。自分語りが過ぎたわ」

 硬い鉛のような空気を打ち砕くように、おじいさんはわははと笑ってみせた。

 つまらん話をした。そう言った風に、気が晴れるまで笑い続けた。

 痛々しいほどに、笑い続けた。



「それで、なんやったか……なにか用があるんやろ?」

 笑い疲れたおじいさんは、大きな根が太い雑草を引き抜きながらそう言った。

 本題を引き出させるおじいさんのそれは、自分で話した内容を忘れたいが為の行動に見えた。

 それは、顔を見なくても分かった。

「あの、夏祭りに出してるお面について少し聞きたくて」

「なに? お面? そんなこと聞いてどないすんねん。確かに駅前の祭りでお面屋やっとるけどやな」

 なにあほな。そんな顔で僕を見た。

「まあ、いいわ。ちょうど終わったところや。ついてき」

 雑草が大量に入ったビニール袋を持ち上げると、おじいさんはそう言った。

 どこに行くのかと思ったが、あまり深く考えずに僕は言われた通りおじいさんの後をつけた。



「ほら、はいりや」

 重そうな扉が鈍い金具の擦れる音を立てながら開いた。

 案内されたのは古い木でできた倉庫で、中は薄暗くて埃っぽい。雨漏りでくしゃくしゃになったダンボールがいくつも積み上げらられていて、小さな衝撃でも崩れてしまそうな程やわに見えた。

「埃がすごいわ。坊主、窓開け」

「わかりました」

 電気を付ければ埃が宙を待っているのがよく見え、それは僕の目に落ちる光を濁らせた。

 僕はおじいさんに言われた通りに窓を開ける。何年開け閉めしたか分からないような曇った窓は軽い力ではうんともすんとも言わない。

「それやったか……ちゃうな」

 積み重なったダンボールを次から次へと下ろしながら、独り言のように黙々とそれを続けていた。僕はその用済みになったダンボールを邪魔にならないように隅へとまた積み上げて行く。

 そんな言葉のない作業が続いた。

「坊主、なんで祭りにお面が売りに出されたか知ってるか?」

 僕の積み上げたダンボールと元から積み上げられていたダンボールが同じような高さになった時、おじいさんはようやく独り言以外の言葉を発した。

「そういえば、昔からずっとあったから」

 そう言われてみれば考えたこともなかった。

 というより仮面に限らずいつからとかなんでとか、生まれた時からあるものに対して何でと疑問を持ったことがなかった。

「昔は目鬘って言ってなあ。茶番狂言じゃそれをつけるのが約束事になってたんや。それが人の集まる祭り事に出されるようになってな、それが祭りにお面を出すようになった始まりって言われてるんや」

 自慢げに少し笑顔で語り出すおじいさん。

 それでも手は止まらずにしっかりと何かを探していた。

 僕はただその話に「なるほど」と思い、あまり深いことは考えずに納得していた。

「ここでも夏祭りあるやろ、丁度明後日か」

「駅前の、やつですか」

「そやそや、けどなあの祭り、昔はあの山の麓でやってたんや、わしの家は昔からそこに屋台をだしてたんやで」

「山、ですか」

「なにぼけーーっと分からんて顔しとるんや。お前もよう知っとる。子供の時、遊んだやろうに。その歳でボケたんかいな」

 僕を煽るようなおじいさんの笑い声と言葉。僕はそこでようやく理解した。

 あの山とは、僕が死のうとした山のことだ。彼女がいつもいる、あの山のことだ。

 こんな田舎の小さな山であの駅前の祭りをやってたなんて、僕は何も知らなかった。

 廃れた田舎の遊び場という印象しかなかったから、意外だ。

「もともとあの山でやる理由かなんかがあったはずなんやけどな……市が観光地にするために外から来やすいように駅前に移したんや、丁度わしがお前と同じような歳の頃やな。当時はよう揉めてたけど結局それが変わることはなかったわ。まあ結果それで人が増えて、ぎょうさん金が入るようになったから、町や市ににとってはよかったのかもしれん。理由なんて後からでもついて来るもんやし、もうこの町一番のイベントになったもんやから、そんな些細なこと誰も気にせんやろけど。わしの爺さんはあかんあかんいうとったなー。ボケてた癖に祭りの話になるとようけ喋るよう分からん人やったわ。お、あったあった。これやこれ」

 ダンボールの山がもう残り数個になった頃、1番古そうでぞんざいに扱われたであろうダンボール箱が姿を現した。

 おいしい和歌山のみかん。側面には昭和な掠れた古臭いフォントでみかんの絵と共にそう書かれていた。擦り切れて殆ど見えなくなったその上には、丁寧な文字でお面と書かれていた。

「割れてへんやろか……大丈夫そうやな案外丈夫なもんやわ」

 そう言っておじいさんが箱から取り出したのは、古いお面だった。

 軽そうに持ち上げたそれは木でできているようで、裏面は木の模様が浮き出ていた。

「ほら、これや、昔の祭りで出してたやつやで」

 表向きに出された仮面。

 僕はそれに見覚えがあった。

 そのまんまなんだ。

 僕が見た。そのままなんだ。

「アホみたいな顔してどうしたんや」

 僕がどんな顔をしているのか分からないが、おじいさんは僕の顔を見て嘲笑った。

「ちょっと、見覚えがあって」

「見覚え? これを? アホ抜かせ、何年前のもんやとおもてんねん……ああ、けどまあ、ここに住んでる奴やったらまだ持っとる家もかもしれんなあ。ここら辺は大昔の祭りをやってた村人の子孫ばっかしやし、蔵の中に眠ってる家も少なないやろ」

 おじいさんの言葉で、僕は確信を持った。野田さんが見たあの少年、あれはきっとこの村の大昔の人物なんだって。

 それがどうして僕に似てるだとか、僕を守るようにして現れただとか、そういうのはまだ全く分からないけど、きっと、それには意味があるんだ。

 だとしたら、やっぱり……。

 僕に似た少年、ボロボロの昔の服、そして祭りのお面、どれも共通点は昔の夏祭りだ。

 そしてその少年が僕を守るように現れ、それと同時にこの力と、欠けた感覚が僕に宿った。

 これはきっと偶然なんかじゃない。

 不思議な僕のこの力、そして欠けた何かともきっと何か関係があるんだ。僕を守る形で現れた理由も、僕に似ている理由も、きっとそこにあるんだ。僕はそんな気がしてならなかった。もっと酷く言うならそう胸が疼いていたんだ。欠けた感覚が僕を襲ったんだ。早く見つけてって、叫んでいるんだ。

 彼女と初めてあったあの時にように、何かに近づいたようなもどかしい物が僕の体の中にはあった。

 夏祭りが関係している。不思議と欠けたものがそう言った気がした。


「それで、坊主。お面のことで聞きたいこと言うのはなんなんや」

「その、お面を出してた昔のお祭りがなんで行われてたとか、理由ってわかりますか?」

「なんや、もう面のことはええんか」


 それはあからさまにつまらなさそうな表情だった。


「さっきも言うたけどやな……もう、覚え取らへんのや。最近の祭りにもめっきり顔出さへんようになったしなあ」

「そう、ですか」


 肩が落ちる。おじいさんが知らなかったことを残念がったわけではなく、あの学校で見た祭りを特集した本の内容を、見ておけばと言う僕の後悔からきたものだ。

 あの時、変な感情で本を閉じなければ、今からでも何か行動が起こせたのではないか。

 そんな考えが、後悔という文字を描く。


「まあ、そんな落ち込むなや。祭りは丁度明後日やし、実行委員会くらいなら知っとる奴もおるやろ。心配せんでもええて、そこで直接聞けばええ」


 そうか、もう、そんな日なんだ。もう、そんなに日が経ってたんだ。

 夏休みも、夏も、もうすぐ。


「そう、ですね。おじいさんの言う通り、そうしてみます」

「そうせえ、そうせえ。ああ、そう言えば、美咲も行くいうとったかー、どこかで鉢合わせするかもなあ」


 あからさまなそのセリフに僕は思わず苦笑いする。

 おじいさんもそんな僕を見てわははと笑った。

 なんだかそれが昔に戻ったみたいで、何も考えずにみーちゃんと馬鹿なことをしておじいさんに叱られながらも笑っていたあの頃を思い出す。


「あの、おじいさん」


 そんな一瞬の出来事が僕に勇気をくれた。


「ん? なんや、どうした」

「あ、ありがとう……じい、ちゃん」


 もう、子供の僕じゃないけれど、形だけはせめて昔のように、無邪気で楽しかった昔のように、戻りたかった。そんな思いが僕の言葉に乗った。


「ああ、それでええ」


 じいちゃんはニコッと笑った。

 なんの曇りもない、真っ直ぐな顔。それはさっきから見え隠れしていた暗いもの消え去ったものだった。昔のままのじいちゃんだった。

 僕はホッとした。それは見えていたじいちゃんの本音に対して答えることのできた安心感と達成感によるものだ。

 じいちゃんの僕とまた昔のように接し、話したいという本音がはじめっから見えていた僕は、勇気を出せずにいた。昔という僕を殺してしまった力が、心の中を覆ってしまっていたからだ。

 それでも僕が言えたのは、きっともう会えないかも知れないという現実が、勇気をくれたからだと思う。

 じいちゃんの言葉が、表情が、僕の背中を押した気がしたんだ。

 頑張れよって、言われた気がしたんだ。

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