第9話 炎天下と沼
「あっつーい!」
彼女のはそういって手を伸ばした。
真夏の空に浮かぶのは二つ。
一つは大空を走る大きな大きな入道雲。
もう一つは僕たちに夏を感じさせてくれる眩しい太陽。
そんな太陽を覆い隠そうとした彼女の手は、太陽そのものを世界から隠してしまいそうだった。
「それにしても、今日は一段と暑いよね」
服をパタパタと扇ぐ。
「そりゃまあ、夏だし。仕方ないんじゃないかな」
「そうだよねー。夏だもんねー」
彼女はそんな当たり前のことをいいながら、彼女は頂上に吹く夏風に揺られた木の葉を眺めていた。
「そうだよ。夏は、暑いもんだから」
僕はそんな当たり前のことをいいながら、日常化されてしまったこの景色を眺めていた。
気付けば、僕はここに来ている。
ここに来るのが当たり前ような感覚で、彼女とこうやって喋っているのがもうすっかり僕の日常になりつつあった。本音が見えない彼女との会話が僕の普通になっていた。
それでも死にたくなるような感覚は相変わらず僕を襲う。心臓をナイフで突き刺したような痛みが毎日の様にやってくる。
でも前みたいな絶望だけの日々とは違った。希望があるのだ。楽しみがあるのだ。
彼女という、僕の今までにいなかった存在が、今はこうして隣にいるのだ。
「それで、なにか分かった? この前、言ってたよね。手がかりが見つかりそうなところに行ってみるって」
「ああ、まあ、色々とね。信じられない話かもしれないけど、手がかりになりそうな話が聞けたよ」
「本当にっ?」
新展開に胸を脹めせた彼女は瞳を輝かせ、体は前のめりになった。
顔が近い。彼女の香りが鼻先に当たる。勢いのある彼女の喜び方に僕は体を少し引いた。
「信じてもらえないような、話だけどね」
思わず顔を反らした僕は言った。
その言葉は、僕の中にあつた不安からくるものだった。
あの時もう一人僕がいたなんてバカみたいな話、彼女が本当に信じてくれるだろうか、と不安になる。さすがの彼女でも、僕の言葉をバカにしてどこかへ行ってしまうんじゃないのか。
そんな考えが僕の言葉を濁らせ、保険をかけるための様な言葉が次々と口から溢れ出る。
「はあ……」
彼女は僕を見て、呆れた表情で大きなため息をついた
「君がそれを言うの? もう散々信じられないような話を話して、私はそれを信じてきたのに君はまだ自分の言葉に保険をかけるの? 私はあなたのことを信じてるのに、あなたは私を信じてないの?」
僕の考えを一瞬で打ち砕くような彼女の言葉は、体に響いて痛かった。
彼女は、僕を信じてくれている。それでも僕は一方的に信じてもらえないと無意識に思い込んでいた。だってこれは、普通の人なら誰も信じてくれないような話だから……。
けれどそれは違った。夏田夏来という人物は、僕の言葉を本当に信じてくれているんだ。
彼女がどこか可笑しく不思議な子だということを僕は忘れていた。
僕が普通に会話できる人が、僕の言葉を信じてくれる人が、普通なわけないじゃないか。
悪口なんかじゃない。彼女はきっと、何か特別なんだ。
世界にとってではなく、僕の人生にとって。
「別に、そういうつもりじゃなかったんだ……ごめん」
「いいだよ? 分かってくれれば!」
なんでもないように彼女は笑う。
「じゃあ、教えて? 君の見てきたもの、聞いてきたもの、感じてきたもの。全部、私に」
彼女の詰め寄った強い言葉から、僕の昨日の話は始まった。
「もう一人の、優くんか……」
僕が見たものすべてを彼女に伝え終わった後、彼女はそう言って悩みだした。
僕の言葉に引くこともなく、それがまるで当たり前のように、不思議なことがむしろ普通のことのように、彼女は僕の言葉を聞き入れた。
「正直言って、結構ホラーだよね。もう一人の自分がいるって、それも血を見て笑ってるなんて、不気味だよ」
「僕も聞いた時は、怖かったよ。背筋が凍るくらいね」
正しくは見た時だが、それは彼女に言えないので誤魔化した。
「重要なのはさ、なんでそんな物を見たのかってところだよね。見えてしまったのか、それとも何かによって見させられたのか」
「どういうこと?」
「一見ホラーに見えるその現象って、誰の為のものってことだよ」
聞き返した僕に彼女は丁寧に答えた。
「今の話を聞いているとさ、まるでもう一人の君は優くんを守るためにその犯人の前に出てきたみたいだよね。それが何でお面を持って、昔の服なんかを着ているのかは分からないけど」
「そういう、見方もあるか」
彼女のいう通り、野田さんの当時の思考だと、この奇妙で不思議な現象がなければ、僕もおばあちゃんと同じようにあの包丁で刺されて殺されていたはずだ。
不気味で気持ちの悪い話だが、僕は結果的にこうやって今も生きている。
「でも、なんで僕を助けるためにそんなことが起きたんだ? なんで……僕だけなんだよ」
おばあちゃんだって助けてよ。素直に僕はそう思った。
「それは、分からないけど……ごめん。嫌だよねこの話」
僕の言葉の意味を察したのか、彼女はすこし暗い顔をした。
「いや、いいんだ。大丈夫」
自然と出た言葉に気を遣わせてしまった。
確かに、この話をする度に当時の記憶が脳内に流れるのは嫌だ。
それでも何か前に進めるのなら、欠けたものについて分かるのなら、僕はこれを克服しなければいけない。今は、すこしでも前を向かないといけない時なんだと、僕は思う。 彼女は「それなら……いいんだけど」と話を続けた。
「まあ、なんで優くんを助けるように現れたのか、なんで優くんだけなのか、そしてもう一人の優くんの存在は何なのか、今どれを考えたって全部私たちの妄想だよね。結局」
「繋げられるものが何もないからな。欠けたものについても、きっと何か関係してるんだろうけど……」
何も分からない。何も変わらない。それが今の現状だった。
これが初めての手がかりなんだ。全てが僕らの想像の話で、あれはただの幽霊でたまたま現れただけかもしれない。都合が良いように解釈している明けであって、ただ助けたような形になってしまっただけかもしれないんだ。
今は、何か関係している。それくらいしか話が進まない。
せっかく掴んだ当時の情報なだけにもどかしかった。
「この前した神様の話と繋げて見たら、面白いかもね」
彼女が言ったもしもの話。僕が欠けたという認識を持っていることが罪で、この死にたくなる感覚が罰という例え話だ。
「あ! もしかして神様がもう一人の優くんを犯人に見せたのかも!」
「どうしてそんなことするんだよ。この前の話だと、神様は僕を嫌ってるっていう話だったろ?」
神様が隠そうとしたものを僕が知ってるから、神様は僕に罰を与えたんじゃなかったのか。
「んー、その時に死なれたら困ることでもあったのかな? 罰を長く受けてもらうためとかだったりして」
「ずいぶんとひどい神様がいたもんだな」
人が苦しむ姿を見て、楽しむなんて悪い趣味だ。
「優くんが言った通り……本当に、意地悪な神様だよ」
僕の言葉を聞いた彼女はそう言って笑った。
「あーー自分から言っといてなんだけど……すっごい、恥ずかしくなってきた。なんだよ神様って」
しばらく経って顔を真っ赤にさせた彼女は、手で自分の顔を隠した。
「今更?」
僕の揶揄うような口調が更に彼女の顔を赤くする。
「忘れて忘れて! お願いだから今の全部忘れて!」
彼女はそう言ってポカポカと軽い拳をがむしゃらに僕にぶつける。
「はい、はい、わかったから、叩くのやめて、やめて」
数十秒ほど叩き続けた後、荒くなった息を整えている彼女の顔はいつも通りで、冷静さを取り戻せたようだった。
「まあ、どれだけ話したって、結局は私の妄想の中の話で終わっちゃうし、ちゃんと分かるところから潰していかないと欠けたものについては辿りつけなさそうだよね」
彼女はゴホン、と話を切り替える。
「ちゃんと分かるところか……お面とか?」
「まあ、そうなるかなー。ひょっとこ、か。確か昔から続くお祭りってここら辺にあったよね?」
「駅前の夏祭りのこと?」
「ああ、うん。そうそう、それ! 昔からやってるしさ、もう一人の優くんの格好も昔っぽい服装だったんだし、まずはそうゆう所から、当たって見るのが良いかもね」
「となると、あの昔からやってる模擬店か……」
「見当はついてるんだ。でもなんか嫌そうだね。何かあったの?」
「ちょっとね……」
ずっと、ずっと、昔からお面屋さんをやってることを自慢している爺さんのことを僕は知っている。
知っているけど……あのお面屋の爺さん。みーちゃんのお爺ちゃんなんだよな。
昔はよく遊んでもらってたけど、中学三年のあの時以来会ってないし、みーちゃんから僕の話を聞いてるだろうし……。
正直言うと結構気不味い。
「けどまあ、仕方ないよなあ……」
期待に胸を膨らませる彼女の顔。それに、この手がかりたちと欠けたものの繋がりを見つけないと、妄想の先の話に進むことができない。あの日、世界から何が欠けたのか、何が世界で起こったのか、この能力との関係性はなんなのか、それを突き止めるにはどれだけ嫌でも仕方ない……。
「取り敢えず明日行ってみるよ。何か得られるかはわかんないけどさ」
「そう、なら期待して待ってる」
彼女は笑顔でそう言うが、僕の体は震えていた。
いきなり殴られたらどうしよう。
そんな不安が僕の周りで渦巻いていた。
「あ、ね、ねぇ優くん見て見て、あれ」
僕がどうしようか悩んでいた時、彼女は僕の肩を叩いた。
「あれって?」
「ほら、あれ、猫」
彼女が指差したのは階段で寝転んでいる野良猫だった。
体は大きめで、柄は黒と白のぶち。
愛想のいい顔とはいえないが、憎めないそんな顔だ。
「優くんってさ、犬派? 猫派?」
彼女は僕に質問しているのに、猫に向ける輝かしい視線は外さなかった。
猫と目が合っているのか、お互いがお互いの顔を見ながら何を思っているのか割って入りたくなるような衝動にかられる。
「んー、どっちかっていうと猫派かな。小さい時、犬に噛まれた思い出があるし、何と無く苦手」
「やっぱり、同じだね。私も猫が好き。自由気ままに街を散歩してるところを見るとさ、憧れるよ。本当に」
そう言った彼女の目は猫を捉えているはずなのに、その先のどこか遠くを見ているようだった。
「ああ、いっちゃった……」
ふっと視線を逸らした猫は、僕の顔をチラ見しながらそっけない態度をとって階段を降りていく。下の民家に餌をもらいにいくのか、何処からか他の猫も出てきてその猫に続いて降りていった。
彼女はもう少し眺めていたかったと言いながら、森の中へと消えて行ってしまう猫たち悲しそうに見つめていた。
「そんなに猫好きなんだ」
悲しそうな彼女。
「うん。結構昔から好きなんだよね。小さい時とかよく野良の猫を追いかけ回してたし、まぁ家で飼えなかったからそうするしかなかったんだけど」
「追いかけ回してたんだ」
「これでも猫とどうやって仲良くなるか考えてたんだよ? でも餌を持っていっても近寄ってこないし……近くに来ても早く触りたくて、それを察知するのかすぐ手前まで来て逃げちゃうんだよね」
「あ、それじゃあさ」
僕はポケットの中からスマホを取り出して、彼女に見せた。
「気休めかもしれないけど、結構可愛いのが多いんだ」
そう言って見せたのは、SNSや動画投稿サイトなどで見られる猫の可愛い動画だ。
「あ! なにこれ可愛い!」
わざとらしいほどの反応だったが、本当に嬉しそうな顔をした彼女はスマホの映像に夢中になった。
「これなんか、どう?」
スライドして、次々に動画や画像を彼女に見せた。
「これも可愛い! あ、これも!」
一つ一つに違った表情をする彼女。
いちいち楽しそうな彼女を見て、僕も自然と楽しくなった。彼女といるのが、楽しくなった。こうやって、ただ喋ってるだけなのに、それが不思議でたまらなかった。
「いつまでもこの楽しい時間が続けばいいのにね」
猫の可愛い動画がまだ半分の頃に彼女はそう言った。 猫の動画が終わる頃、そうだね、と僕は返す。
純粋にそう思った。この時間がいつまでも続いたらいいって。
欠けたものなんてどうでもよくなってしまう。本当はそんなことないんだけど、彼女と会話をしているとそんなことをふと思ってしまうんだ。
相変わらず僕を殺すような欠けた感覚。それも彼女といると不思議と満たされる気がした。僕が死ぬ日、それが遠くなっていくような気がした。
こんなこと思ったの、生まれて初めてだ。こんなに思ったの、初めてだ。
彼女が本音を読む力を持ってなくて本当に良かったと、彼女の嬉しそうな顔を見ながら、僕は思った。
「ねぇ、連理の枝って言葉知ってる?」
彼女の唐突な質問が始まったのは猫の動画や写真ににだんだん飽き始めた頃だ。
「なに、それ」
話すのが好きな彼女は、僕の知らないことを話してくれる。
そんな彼女を声や彼女自信が選んだ言葉で感じるのが、いつしか心地よくなっていた。
「中華民国の古いお話が由来なんだよ。知らない?」
「存じ上げないですね」
「ほんとにー?」
疑うような視線に僕は目をそらす。
「じゃあ、話してしんぜようか」
「まってました」
お互い改まった態度でそう言うと、顔を向き合わせながらお互いの役割を果たした。
「連理の枝だって言うのはね、韓凭という男の人とその奥さんの何氏という人のお話なの」
本当は知っている。連理の枝という話を。
それでも僕は彼女の選んだ言葉で彼女の声を聞きたかった。
僕は誰に共感するわけでも無いが、それをただ楽しそうに僕に話してくれる彼女を見る。
戦国時代の宋の国の大臣だった韓凭の夫人だった何氏はそれはそれは美しい美貌の持ち主だったらしい。それに目をつけた当時の国王である康王はその何氏の美貌を気に入り、韓凭を監禁して彼女を奪ってしまった。
夫に会おうにも術がない何氏は密かに手紙を書き、そこに「雨が降り続き、川が深くなっています。出かける際は気をつけてください」と書き記した。
しかし、この手紙は韓凭に届く前に康王の手に渡り夫の元へと届くことはなかった。
だがこの手紙の気をつけてくださいは韓凭に宛てた言葉ではなく、自らの死を覚悟した言葉だった。
その後、何氏は康王の付き添いで外に出ると高台から身を投じてその命を絶った。
それを知った夫の韓凭も、愛する妻のためその命を落とした。
その一連に激怒した康王は、韓凭と何氏を同じ墓に入れず、別々の墓に埋葬することにした。わざとすぐ側に埋葬し、すぐそばにいるのにいつまでたっても寄り添えない一緒になれない苦痛を味あわせるためだった。
ところが数日後、その二つの墓から木が生え、枝と葉がお互いの手を取り合うように、根と根が抱き合うように絡みながら大きく成長した。
これが連理の枝の由来話しである。
彼女は大きなため息をつきながら言った。
「いいよねえ」
彼女もこういうロマンチックな話に憧れでもあるのだろうか。
死んでも尚その愛する意思が二人を結びつける。そんなこと実際にあり得るのだろうか。
「まあ確かに、ロマンチックではある」
「だよね! だよね!」
共感を得られて喜ぶ彼女を見ながら僕は言った。
「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん。僕は比翼の鳥の方も好きかな」
「分かる! 互いの翼が無いと飛ぶことのできない鳥!」
天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん。
有名な唐時代の詩人が詠った一節だ。
ここに出てくる比翼の鳥とは一眼一翼の伝説上の鳥で、地上では別々に歩く二羽だが空を飛ぶときはお互いペアになって助け合わなければならない鳥の事だ。
連理の枝と合わせて比翼連理と言われている。主にこれは男女や夫婦間の仲睦まじいことのたとえとして用いられている。
「ていうか、知ってるんじゃん。嘘つき」
少しふざけながら僕の肩を押す彼女に僕はそんなこと言ったっけ、とシラを切る。
そんな中、僕はいまだに耳に残る彼女が語った連理の枝について考えていた。
いつも楽しげに話す彼女の声となんら変わりないはずなのに、それはどこか重苦しい空気を纏いながら僕の耳へと空気を通して伝わってきたのだ。
僕の考えすぎなのだろうか。ただ単にロマンチックだが悲しげのある話に合わせ、僕がそう感じているだけなのだろうか。
比翼の鳥と連理の枝を背に、僕の心はズブズブと彼女という沼にハマっていく気がした。
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