第8話 墓と手がかりと
ラジオ体操の音楽が聞こえる。
窓が全開になった部屋に入るのは、涼しくもなんともない夏の風だけで、蚊取り線香が夏風に煽られていつもより赤かった。
「やっぱり、すごい埃」
口を押さえながら、窓からの光では物足りない部屋に明かりを灯す。
薄い白に染まった畳。薄い光が透ける障子は破けていて、手入れされていなかった和室は荒れ果てて散々な状態だ。
それでも荷物は綺麗に整頓されていて、以前ここにいた人物が几帳面な性格ということがうかがえる。
掃除機の電源を入れ、毎年恒例のおばあちゃんの部屋掃除を始める。
恒例と言ってもおばあちゃんの命日になったら僕が自主的に行っているだけで、掃除をするのも墓参りをするのも僕だけだ。
僕は埃を被ったタンスや畳を隅々まで綺麗にし、虫に食われた障子を取り外す。
ギシギシとなるタンスの上の汚れも、僕は雑巾で綺麗に拭き取っていった。
「おばあちゃん……」
飾ってあった数々の写真立て。写真はどれもかれも笑顔いっぱいで、兄と僕が一緒に入った珍しい写真も飾ってあった。
「上を向いてばっかり歩かなくてもいい、曇りの日くらい下を向け」
飾られた写真の裏には、そういった言葉がびっしりと書かれていた。
それはおばあちゃんがよく口にしていた言葉の数々で、必要以上に聞かされていた僕だったが、当時は小さい子供だったので、難しい言葉をたくさん喋っていてすごいなあ、という感想しかなかった。
ただただ懐かしい。昔は何もかも好きだった。新鮮で汚れたものなんて見えていなかったあの頃がとても愛おしい。
「行くか」
童心には戻れない。色々な物が僕を邪魔している。劣悪な汚物が純粋な心を蝕んで行く。
汚い心の闇は、昔の僕が考えていた意地悪で悪戯をするような軽いものではなかった。
生きていけば、心の底に溜まって行くだけのこの感情は、もう、誰の手にも掘り返すことはできないだろう。
僕はおばあちゃんの部屋の電気を消した。
もう、ここに来る事はないだろう。来るとしたら、多分それは遺影として飾られる写真立てに入った僕だ。
僕は寂れたバスの中で大きなあくびをした。
見ている人なんて誰もいない。黄ばんだクーラーが雑音を奏でる田舎のバスなんて、大体こんな感じだ。
誰も乗らないのは会社としては苦しいところがあるかもしれないが、一人で独占できる僕だけの特等車のようで、こんなボロ車でも少し優越感に浸れて好きだった。
僕は次で降りるために降車ボタンを押した。
しかし押して押しても反応はない。
「あの、次で降ります」
手を上げて運転手に向かって言った。
「あいよ。この先にあるのは、ああ、いいねぇ兄ちゃん今時の若いもんはそういうのしないもんだと思ってたよ」
「まぁ、僕くらいしか行かないんで、寂しいかなって」
「くー、俺も死んだら毎年来て欲しいねぇ、とりあえずそこまで乗せてってやるよ」
「いや、悪いですよ」
「いいって、いいって、どうせ通る道なんだから構いやしねーよ!」
「じゃあ、お願いします」
僕は財布の中から小銭を出しながらそう言った。
こういうのも、田舎特有だと思う。道端で手をあげればバスが止まってくれたりしてくれるのは、都会とかじゃあ考えられないだろうな。
「ありがとうございました」
僕は一礼してバスを降りた。
運転手のおじさんは「おう」といって、手を振っていた。
走り出すバスの風に押され、僕の貧弱な体は目の前に広がる殺風景な景色と、蒸し上がりそうな暑さの前に突き出された。
どこまでも続く田舎道。有名な絵画にでもなりそうなその景色は、陽炎がかかって僕の行く手を塞いでいた。
「一年ぶりか」
乾いた土を踏みしめて、僕は目的地へと足を進めた。
最果てのようなバス駅からだと結構時間のかかるところだが、運転手のおじさんが優しいおかげで、そこにらだいぶ早くついた。
「おばあちゃん。久しぶり」
暮石に手を合わし、久しぶりの再会の挨拶を交わす。
僕が昨日、夏田さんに言った手がかりの見つかりそうな場所というのはここのことだ。
誰もいない墓。おばあちゃんが眠っている場所。
僕が手がかりを得られそうなところはここくらいしかなかった。
おばあちゃんと会えば何か分かる気がしたんだ。
だけど、まぁ、ここに来たからってポンと頭に何か浮かぶわけでもないよな。
そんな簡単に物語は前に進んだりしないもんだ。
「とりあえず、やるか」
このままじっとしても何にもならない。僕は例年通り墓石とその周りの掃除をすることにした。
見渡せば周りは雑草だらけ、墓石には苔が付いていて水洗いしないと取れない汚れがいっぱいあった。これは大分手強そうだ。
僕は持って来たリュックサックの中から軍手を取り出し、気合を入れながらそれを手にはめた。
「あっつ……」
流れ出る汗は止まらない。首に巻いたタオルはびっしょりだ。
これなら帽子を被ってくるべきだったか……。
日陰がないここは太陽が直接僕の体力を吸い取っていく。
進捗はようやく終盤といったところだろうか。
あとはこの汲んできた水を上から流すだけで、結局僕はただの墓参りと掃除をしにきただけになってしまった。
「あ、あの。すみません」
尺でバケツからすくった水をかけている時だ。
ボソッとして篭った男の声が聞こえてきた。
「相沢さんのご親族の方でしょうか」
そういって僕の目の前に現れたのは、美容院に行ってないのが分かるボサボサの髪の毛で、お世辞でも清潔とは言えない作業着をきた中年の男性だった。
「そうですけど……なにかようですか?」
「いや、あの、その」
上手く言葉が出ないのだろうか、言葉が詰まって上手く聞き取れない。
随分と焦っているようで、ボサボサの髪の毛を掻きむしっている。
風呂に入っていないのか、髪の毛をかく度にフケが地面へと落ちていく。
「あの、本当にすみませんでした」
数秒ほど沈黙が続いた後、彼は深く頭を下げた。
そして、それから何回も何回も頭を下げ、謝り続けた。
彼の顔には謝罪の文字だけが浮かび上がる。
まるで壊れた人形のように。
「え、あのどうしたんですかいきなり。とりあえず頭を上げてください」
「い、いや。謝らないといけない。本当にすまないことをしたんだ俺は……取り返しのつかないことをしてしまった……」
困惑した僕だったが、彼のその言葉を聞いてやっと理解した。
容姿は変わっていても、彼が纏う雰囲気でなんとなくわかった。
昔、僕は彼とあったことがある。ぼんやりとした記憶の中、はっきりと覚えていなかった顔が浮かび上がってくる。
彼の言葉はそれを肯定するものだった。それに、ここに自分の過ちを悔いて来る者は1人しかいないだろう。相沢家の墓で謝罪をする者など一人しかいないだろう。
「もしかして、野田昭夫さんですか」
彼の謝罪を止めようとしていた僕の体は一歩後ろへと下がった。
「その、通りです。先月、刑務所から、出てきたんです」
彼はそう言って頭を下げた。
野田昭夫。あの日、あの時、僕の目の前から去っていった男だ。
おばあちゃんを殺して、全てを奪っていったあの男だ。
顔をあげた彼は、随分と変わり果てたものだった。
髭は伸びっぱなしで、当時のサラリーマン顔とは全く違う別人とも思える変わりようだ。
まるで人生のどん底にいるような、落ちたまま空を見上げることもできずに絶望して飢えた小鳥のようだ。
「もしかして、君はあの時一緒にいた」
「孫ですよ当時は小学二年生でした」
それを聞いた彼は涙ぐんで言った。
「そうか……そうか……」
大泣きしながら彼は汚い作業着を涙で濡らしていた。それからまた何回も何回も謝り続けた。
やめてくださいと言っても聞こうとしないので、彼の気がすむまで僕はずっと彼の謝罪を聞き続けた。ずっとずっと、何回も何回も聞き続けた。
二十数回。彼のすみませんを聞き終わり、涙がようやく止まった時。
彼の懺悔とも言える告白を僕は聞くことになった。
「あの時は……本当にどうすればいいかわからなかった。長年勤めた会社をリストラされてさ、妻と娘に愛想をつかされ出ていかれて、少ない貯金もなにもかも無くなった。借金もローンもある。その日生きてくのが精一杯の俺にはどうすることもできなかったよ。それで思い立ったのが盗みだったんだ。自分でもバカだと思うよ。だけど当時はそれが最善だと思ったんだ。狙ったのは田舎の大きい家だ。鍵なんてかかってないし、そういう家は決まって地主だったりするし、金があるもんだ。それで、盗みに入ったのが君の家だった。家に入って金目のものは全部とった。物音何一つしない不気味な家だと思ったが、家の人は全員いないもんだと踏んでたし、予定通りだって安心したんだ。だけど、最後の最後で出会ってしまった。どうすればいいか頭の中が真っ白になった。そして、気づいたら手が真っ赤に染まっていたんだ……本当に後悔しかない。どれだけ謝っても許してもらえないことはわかってる。それでも謝らしてくれ……本当にすまなかった」
僕は彼の話を黙々と聞き続けた。嘘はついていない。全部本当のことで、彼はずっと悔やみ続けて生きてきた。
それは彼の本音であり、変わることのない彼の意思だ。
だけど、どんな理由であっても、それは言い訳に過ぎない。彼の言っているのは、自分はこんなに苦しかった、それで盗みに入って、見つかって、どうすればいいかわからなくなって人を殺してしまったというただの言い訳だ。
僕はそんな彼の言葉に腹が立った。
言い訳という表面に見える言葉というよりも、彼の本性に腹が立った。
どうしてもみえてしまうんだ。過ちを悔やんでいる本音に隠された彼の本性が。
「とりあえず顔をあげてください。おばあちゃんも見てます」
これ以上彼の謝罪を聞いても意味がなかった。
彼の過ちを悔いる意思は確かなものだ。だけど彼の言葉は全て謝罪のための言葉ではない。許しを乞うための言葉ではない。
そう、彼の言った言葉の通り、彼は許してもらおうと思っていない。
建前ではなく、本気で許してもらえないと思い、そして許してもらおうと思っていないんだ。
彼はただ目の前に現れた被害者の親族である僕に対して、自分が犯してしまった罪とその経緯について告白したいだけだった。
つまりこの謝罪と彼の言い訳は自己満足のための行為。
彼の欲求を満たすための自慰行為に過ぎない。
そんなのいくら聞いたって無駄だ。
物を盗み、人を殺し、その罪の経緯を僕に告げる自分がカッコいいと彼は思っているんだ。
そんな奴の謝罪なんて……自分の過ちを他人に告白することによって快楽を得る人間の言葉なんて……どれだけ聞いたって無駄だ。
僕が本音を読む力を持っていなければ、素直に彼の謝罪を受けれていただろう。過ちを悔いて前向きに生きようとしていると思っただろう。
そう考えると、寒気がする。吐き気がする。この力が無ければ目の前に映る人物の印象が百八十度も変わってしまう、その真実が何よりも気持ち悪かった。
「そうだ。手を合わせてもいいかい? まだ挨拶をしていないんだ」
顔をあげた彼はそう言うと、墓の前でしゃがみこみ、手を合わせた。
「本当にすみませんでした。これからは、いや、もう先がありませんが……最後にあなたに謝りたかった……本当に、すみませんでした」
合わせた手と手がくっついてしまいそうなほど彼は長く謝っていた。
「ありがとう。最後に自分の犯した過ちについて謝罪することができて嬉しく思うよ」
いやったらしい笑みが目にこびりつきそうだ。
「あの、一つ聞いていいですか」
タバコの火をつけた彼に僕は自分の怒りを抑えながらそう言った。
「なんだい? 俺に答えられることだったらなんでも答えるよ」
タバコの火は勢いよく進み、言葉と共に溢れ出る煙は彼の顔を曇らした。
「あの時、おばあちゃんがあなたに刺された後、何か起こりませんでしたか? どんな些細なことでもいいんです。何か、ありませんか?」
僕が今一番番欲しいもの、聞きたいこと。それは欠けたものの正体に繋がる手がかりで、手段も何も持っていない僕にとって彼の存在はとても大きい。
どんなに憎たらしくても、彼は僕の目の前に突然現れた最後の頼りの綱なんだ。
「何か起こらなかったか、か。そういえば……いや、これは言っても信じてもらえないと思うよ。警察にも散々言ったんだが全く信じてもらえなかったんだ。自分でもその時は気が動転していたし、きっと見間違いだと」
「なんでもいいんです。どんなに可笑しくても奇妙でも、教えてください」
それが妄言以外であれば、なんでも良かった。手がかりになるならどんなことでも僕は知りたい。
「本当か? じゃあ言うけどさ……あの時、君以外にもう一人居たんだよ」
「もう一人? 確か、僕とおばあちゃんと野田さんだけだったはずじゃ」
そうだ。あの時は僕と野田さん、そしておばあちゃんの三人だけで他には誰も居なかったはずだ。記憶が曖昧だとしても、それは確かな事実だ。
「君だよ。もう一人の君が、笑って俺を見てたんだ」
彼の口が発した音は、蝉が泣き止んだ夏の空気に触れた。
まるで時間が止まったような不思議な感覚。真実に一歩近づくような、奇妙な現象。
神が世界から隠してしまった物に手をかけたような、そんな感覚が僕を襲った。
「不気味だった。右手には祭りの屋台で売っていそうな古いお面をもってて、服装は現代じゃ考えられないような汚い和服だった。真っ赤になった俺の手を見て綺麗だなって顔をしてたよ。もう一人は泣きじゃくってるのに、そいつは笑って俺に近づいてきたんだ。人を殺したっていうのに笑ってやがった。怖かったよ。あれは近付いたらいけないって本能が察した。だから俺は慌てて逃げたんだ……もしそいつがいなかったら俺は、きっとそのまま君を」
殺していた。
俯いた彼はその先の言葉を言うことはなかった。
言い切れなかった言葉は喉にかかり、タバコの火は地面へと落ちて行く。
「な、信じられねーだろ。頭が逝かれてるって思われても、仕方ないさ」
泥だらけの靴でタバコの火を踏みつけた。
「僕は……信じますよ」
信じる他なかった。信じたくなくても、信じるしかなかった。
もちろん何の証拠もない言葉だけでは僕は彼のことをまだ信じられなかっただろう。
けど見えてしまった。本音というやつが。そして、その先にある彼の見た当時の景色が。
おばあちゃんが映っていた。
生々しい苦痛を訴える表情。僕が持っているのは真っ赤に染まった包丁。
手は血に濡れ、夏の湿気と太陽の熱が加わり血の匂いで吐きそうになった。
奥には泣きじゃくる子供がいた。
見てすぐに分かった。あれは僕だと、そして、これは野田さんだと。
野田さんは、息を荒くして、倒れ込んだおばあちゃんを突き飛ばした。
ぬるぬるになった包丁を握り直し、深く構える。
野田さんが見つめた先は当時の僕だった。
一歩一歩足を前へと出す。逃げないように、そっと、そっと。
その時だ。不思議な感覚が彼を襲った。
誰かに見られているような奇妙で不気味な感覚。
焦っていた彼は誰か他にも目撃者がいたのだと焦っていた。
彼は振り返った。その正体を明かすために。目撃者の口を封じるために。
だがそこにいたのは、僕だった。兄でもない、他の誰でもない、僕だった。
祭りで売っていそうなお面。ひょっとこのお面を右手に持ち、昔の服に身を包んだ僕は、彼の手を見て笑っていた。綺麗だねって笑っていた。
吐きそうになる。気持ちが悪い。もう一方は泣きじゃくり、一般的な常識のある子供の現実的な反応を示すのに対し、あいつはニタァっと笑ってみせた。
彼は包丁を落とした。何をどうしたらいいのか分からなくなって、そのまま走り続けた。
捕まるまで、一休みもせずに、ずっと、ずっと。
彼の本音とともに見えた映像はそこで終わった。
誰しもが彼の言葉を妄言だといい、頭のおかしい人だと決めつけるだろう。
注目を浴びたいだけの人だとか、精神異常者だとか。彼に投げ掛けられる言葉が数多くの罵声で終わるような話だ。この話はきっと夏田さんもそう言うかもしれない。
だけどそれは違う。彼の見た物は現実であり、僕が見たものは真実である。
それは彼の言葉の文字が証明しているし、嘘じゃないと僕の能力が教えてくれた。
正直今でも信じられない。そんな非現実的な現象が現実に起こりうるのか、と。
けど映像を目の当たりにした時、彼の言葉を聞いた時、能力が言った「これは真実だよ」と。
だったら信じるしかないじゃないか。今までがそうであったように、能力はその真実と本音を嫌でも見せ続けるんだから。僕は今更こいつを否定することなんて僕にはできないんだ。
「どうせ、心の中で笑ってるんだろ」
「そんなことないですよ。だって、貴方は本当のことを言ってるんですから」
常人では信じることのできないような話だ。それでも僕は信じる以外のことができない。
それが真実と分かるから。その当時の状況を彼の心を通して見てしまったから。
「変なことを言うな、君は。俺の心の中でも読んだのかい?」
彼は頭のおかしい奴を見るような目で僕を見た。
「まあ、そんな……感じですかね」
「面白い冗談だ」
彼はハハハと笑った。
信じていない、僕を小馬鹿にしたような笑いだった。
「それで、何かの役には立てそうかな」
「ええ、だいぶ」
記憶が曖昧だった当時を明確に覚えている人間。それがおばあちゃんを殺した憎い犯人であっても、情報を聞き出せたことはかなり大きい。
もう一人の僕。祭りのお面。汚い和服。
繋がらないこと、分からないことは多々あるが、手がかりが何もなかった今までよりかは遥かにましだ。
「そりゃー良かった。こんな俺でも、この世のものに対して役に立てることがあったとは神様はまだ俺を見捨ててないみたいだ」
今思えばあの時の彼の焦りは、僕が泣き叫んだことによるものではなく、きっともう一人の僕と言う奇妙な存在が彼の目に映り込んだからだ。
そうでなければ子供の一人くらい、簡単に殺せてしまうだろう。
「もう、行くんですか」
「長居は申し訳ないよ。それに僕がいても居心地が悪いだろう?」
腕時計の針を確認した彼は、タバコの火を消しながらそう言った。
「本当に、すまなかった」
彼の後ろ姿は、まるで向上心がなく生きることを諦めた屍、または誰かに言われるがまま歩き続ける傀儡のようだった。何に生きたらいいのか見失った、そんな人に僕は見えた。
「あの、野田さん」
僕はそんな背中を見てどうしても言わなければならないことがあった。
「なんだい」
振り返った彼のやつれた顔。
傾きかかった太陽の赤い光が彼の顔に影を演出して、どこか不気味だった。
「もう、誰にも迷惑をかけないでくださいね……お願いします」
僕は彼の背中に軽く頭を下げた。
「ああ、当たり前さ。分かってるよ……分かってる」
再び謝るように何回も彼は繰り返した。自分に言い聞かせるように呟いたそれは、何回言っても彼の芯には届いていないように僕には思えた。
蝉が再び鳴き出した墓地は、彼を見送るように手を振っている。みんながみんな、手を振ってる。空も風も、草木も、この夏さえも。
僕も、そんな彼の背中をただただその場に立ち尽くして見るしかできなかった。
「やめてくれよ。お願いだから」
そう言って祈ることしかできなかった。
翌日の朝。僕はなんとなくスマホでネットニュースを流し読みしていた。
どこかでテロが起こったとか、新しい兵器の実験に成功しただとか、現実味のないどこか遠くの国の話ばかり目に入った。
そんな中でも、彼の名前を見つけるのは簡単だった。
野田昭夫48歳、無職。不法侵入、窃盗の罪で逮捕。
その文字を見たとき、僕はどうしようもない苛立ちが腹の中で渦巻いた。もっと強く言えば良かったのか? 殴ってでも、止めればよかったのか?
いいや、違う。違うんだ。彼にはもうこの生き方しか残されていないんだ。彼の顔は、本音は、もうまともな人生を選ぶ気のない諦めたような顔で、そんな彼に僕が何を言っても心の中には決して届きはしないだろう。だって、彼自身の言葉すら自分の芯に届かないんだから。
彼の心は変わりようのないものなんだ。言葉では決して揺るがない、きっとそんな心なんだ。
「なんだよ。ほんとに……」
朝食はクソみたいに不味かった。
汚い言葉だが、本当にそれくらい味を感じなかった。
スポンジをずっと口にくわえてるみたいで、この日の朝食は何も喉を通らなかった。
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