第7話 惹かれているのか引っ張られているのか

 図書室の件からの三日間、僕は課題だけをやり続ける人形と化していた。

 夏田さんに毎回会いに行くのも気が引けたので、その三日間はずっと家にこもりっぱなしだ。

 お陰げで課題はすっかり無くなり、外出を頻繁に行っていたせいで感じていた母さんの疑う様な視線も無くなったようだが、こうして外に出るのは随分と久しぶりな気がして、慣れたはずの夏の暑さは再び僕に牙を剥いて襲いかかってきた。

 だけどこの暑さが懐かしく、どこか恋しかった。この暑さを感じる度に、生きてる実感が湧き、そして僕は今彼女に会いに言っているんだと言うことをわからせてくれる。

 しかし猛暑は文字通り猛暑である。

 日に当たる体はジリジリと熱くなり、手に持っているビニール袋は今にも溶けてしまいそうだ。

 こういう日は暑すぎて寄るつもりのなかったコンビニについつい寄ってしまう。コンビニはズルい。夏は冷たいものを、冬は温かいものを確実に提供してくれる。このビニール袋はその時のもので、買ったのはお茶のペットボトル二本と、アイスが二本。 それと粒あんのどら焼きとこしあんのどら焼きが一個ずつだ。



「あ、優くん。やっほーー」


 階段を上った先にはいつもの景色と彼女がいた。

 木の下のいつものベンチで足をバタバタとさせながら僕に向かって手を振っている。

 彼女も夏休みの間は暇らしく、好きでここにきていると言っていたが、まあよくもこの暑さの中を平気でいられるものだ。

 真夏に外に出たがるなんて物好きな奴だな、と思ったが僕も大して変わらないことに気づくのはそう時間のかかるものではなかった。

 近付けば彼女の元気そうな顔がハッキリと見えてきた。

 まるで暑さを知らないような涼しさを放っている。


「暑くないのか?」


 そんな僕の質問に彼女は少し顔を悩ませる。


「うーーん。まぁ、平気かな。夏って好きだし、夏って暑いものでしょ? だったら暑いのも苦に感じないよ。優くんは嫌いなの? 夏」

「嫌いってほどじゃないけど……消極的に考えたら一番マシかな。暑いのは結局、家から出なけりゃいいんだから」


 春は花粉症がすごいし、秋も寒いのが苦手なぼくにとっては耐えきれないような寒さと同等だし……冬はもってのほかだ。

 まあどれもこれもあまり積極的に外出しない僕にとってはあまり関係ないことだけど。


「いま、優くん外にいるけど? 大丈夫なの?」


 矛盾してるよと彼女は首をかしげる。


「それは、まあ、いろいろあるんだよ。ほら、これ」


 僕は言葉を濁しながら、コンビニのビニール袋を彼女に渡した。


「なに? これ」

「コンビニに寄ったついで、いらないなら別に食べなくてもいいけどさ」

「コンビニ?」

「暑かったんだよ。ちょっと涼しむために寄ったんだけど何も買わずに出るのは申し訳なかったんだ」

「あ、アイスだ! 優しい、優くん!」


 保険をかけた僕の言葉に被せるような彼女の声。

 ビニール袋から取り出すと、アイスのパッケージを開けて小さな口でちびちびと食べ始めた。

 なんとも微笑ましいその笑顔と食べ方を横目に、僕も彼女と同じようにアイスを開ける。

 この暑さで溶けていないか心配だったが、大丈夫のようだ。

 袋から出したアイスは冷んやりとした冷気をまとってその顔を出す。一口食べれば口の中に冷たい食感が広がり、まさにこの暑さを忘れさせてくれるクーラーのようだ。

 にしても……この暑さで食べるアイスっていうのは最高だ。溶け出した僕の体はどんどん蘇っていくのを感じる。


「おいしいね!」

「ああ、おいしい」


 彼女のまっすぐな顔を直視できない僕は、詰まった言葉で答えてしまう。裏表のないような彼女の表情は僕にとっても眩しいものだ。それでも彼女が真剣にアイスを食べ始めると、僕はその表情をチラチラと見てしまう。

 興味がある。多分、そういうことだと思う。

 彼女の本音が見えないからこそ、彼女の表情や言葉に興味が湧く。彼女が僕の現状に興味を抱くのと同じで、僕もまた彼女の本音を知りたがっているんだ。だからこうして大嫌いな暑さの中、何の進展もない話をしに僕はこの山にやってくるのだろう。

 半分ほど食べ終わった頃、ソーダの水滴はポタポタと地面に落ちた。

 溶けて全て落ちてしまわないように気をつけながら、僕は急いでアイスを口に入れる。彼女も全く同じように急いで口に放り入れていたようで、お互いが顔を見合わせ何か言いたくても何も言えないもどかしい、そんな時間が続いた。


「んーー頭がキンキンする!」

「一気に食べなきゃよかった」


 食べ終わった僕らは、急いで食べた事に後悔する。

 冷たいものを一気に摂取した代償を受け、僕らはお互いに頭を抱えた。

 夏の風物詩であるかき氷を食べた時になる、あれだ。


「はあ、やっと治った……」

「痛いけど、夏って感じだね!」


 僕の言葉にそう返した彼女は、この痛みを嬉しく思っているようだった。

 これも、夏が好きだから苦にならないという考えが、彼女をそうしているのだろう。


「あれ? どら焼きも買ってきたんだ」

「一応、つぶあんとこしあんを分けてね」

「ちゃんと覚えててくれてたんだね」


 嬉しそうに笑う彼女に、僕はこしあんのどら焼きを渡す。


「うーん。やっぱりこしあんだよねぇ。粒あんとは違うのだよ!」


 袋を開けて、一口目を大きく口を開けて食べた彼女はそう言った。


「いやいや、粒あんだって」


 遅れた一口目の後、彼女の言葉に僕は答える。


「ぜっっったいこしあん!」

「いやいやいや、粒あんだから」

「こしあん!」

「粒あん」

「こしあん!」

「粒あん」

 終わりのない言い合。まるで子供の喧嘩のようなそれは、呆れる程続いた。


「はぁ……結局、粒あん派とは分かり合えない運命なんだね。こんなに美味しんだけどなぁ」


 二口目を頬張る彼女はもぐもぐと口を動かす。


「そんなこと言ったって、こしあんより粒あんの方が好きなんだから、仕方ないよ」


 顔を悩ませる彼女に僕はそう言った。

「そうだ。一口だけ食べて見て? そしたらわかるから! こしあんの滑らかな食感の良さが!」


 閃いた彼女は食べかけのどら焼きを僕の口に押し付けるように差し出した。

 僕は突然のことで困惑する。

 だけど彼女がどうしてもこしあん正義論を僕に押し付けるというのなら、僕は粒あん絶対主義を彼女に押し付け返す他に選択肢はない。

 正面から受けて立とう。僕は逃げない。

「だったら、夏田さんも一口」

 お互いに口の前に出されたどら焼き。

 一つは彼女が僕の口の前に差し出したこしあん。

 もう一つは僕が彼女の口の前に差し出した粒あん。

 お互いの手は僕たちの間で交差してお互いの口の前にあった。


「じゃあ、せーので食べよ?」

「いいけど、自分だけ食べないなんてズルはしないよな」

「当たり前だよ! じゃあ、いくよ?」


 彼女は息を飲む。僕は「うん」と返事をした。

「せーーの」


 その瞬間お互いが笑った。


「食べてよー!」

「そっちこそ」


 お互いが食べずにお互いの顔を見合わせながら笑い合った。


「あ、じゃあさ」


 彼女が何か名案を思いついたのか、僕のどら焼きを持つ右手を彼女の左手が掴んだ。


「お互い自分で食べよ?」

「なら、普通に食べた方が」

「分かってないなー優くん。分かってない!」


 そんな彼女の言葉とともに、僕の左手は強制的に彼女の右手に添えられた。


「食べよ?」


 無邪気に笑う彼女。

 目の前に嫌いなどら焼きが無ければ素直に最高だと思えただろう。


「あー分かったよ。食べるよ食べる」

「じゃあ、せーので」

「わかった」


 お互いに息を飲んだ。

 僕の手首に入り込む彼女の手が強まって、それに反応して僕の左手にも自然と力が入った。


「一緒に……」

「せーーのっ」


 彼女の小さな口が粒あんを食らう。僕は遠慮気味に彼女の差し出したどら焼きを齧った。

 それはほぼ同時のことで、お互いがなんとも言えない微妙な顔になったのもそのすぐ後のことだ。


「な、何だろう。食感がすごく微妙っていうか……ざらざらした皮の食感が」

「滑らかな食感が……どうしてもダメなんだよな。やっぱり粒あんの食感が」

「やっぱり、分かり合えないね」

「……痛み分けかな」


 僕らはお互いの顔を見合わせながら、クスっと笑う。


「美味しいって言うまで無理やり食べさせたら怒る?」

「やり返すけど、それでもいいならね」


 苦い顔をした彼女は「なら絶対にしないでおく」と言って笑った。



 僕たちは喋り尽くして枯らしてしまった喉を潤すために水分を補給し、一息ついた。

 夏の日差しは強まる一方で、おやつの時間が過ぎた今でも地面から上がる熱気で頭がやられそうだ。

 鳴き疲れた蝉が木々から飛び立ってどこか遠くに飛んでいく。そんな姿を僕はずっと眺めていた。


「んー! いい天気だね。やっぱり」


 彼女だけまるでぽかぽかした陽気な季節にいるかのように天を仰ぎながら大きく伸びをした。

 元気というか、疲れを知らないというか、座りっぱなしで痛くなったお尻を払いながら、散歩のように木の周りを彼女はトコトコと歩き出す。


「それで、何か分かった?」


 しばらく周りをウロウロして満足した様子の彼女は、僕の隣に座ってそう言った。


「相変わらず、かな」

「そっか」


 少しつまらなさそうな顔で彼女は空を仰ぎ、足をバタバタと揺らして風を感じている。


「けど、ちょうど明日手がかりを掴めそうな場所にいってみようと思うんだ。それでも手がかりがつかめるか不確かだけど、現状それしかやれることがないし、もしかしたら何か見つかるかも」

「本当? じゃあ、期待してるね」


 彼女が手に取ったペットボトルについた水滴が腕をするりと伝う。

 そこにいったら何か分かるなんて事はない。ただ何か思い出せそうなだけで、あの日と関係している場所なだけだ。

 手がかりが見つかる確証なんてどこにもない。

 そんな現状なのに、僕は期待に胸を膨らます彼女の顔を見たら「期待しないでくれ」なんて言う事はできなかった。


「けどさ、その欠けた物って凄いよね」

 空っぽのペットボトルを軽くベンチに打ち付ける音が蝉の声と混ざり合う中で、彼女の声だけが鮮明に聞こえた。


「凄いって?」

「それが世界にとってどうでも良かったものだったとしても、みんな忘れてしまうなんて只事じゃないよね。それに優くん以外知らないんだよ? 欠けたって認識すらみんなしてない。それってとても不思議で凄く興味がそそられる話だと思わない?」

「まあ、そう、だな。只事じゃないよ。そんな只事じゃないことを認識している僕にとっては興味どころかただ鬱陶しいだけだけどね」

「そう、だよね……穴の空いた感覚ってものを私が知らないから興味がそそられるだけで、優くんにとってはそれで自殺しようとするくらい嫌なものなんだもんね……。けど、それを優くんだけが知ってるって奇跡だよ。欠けてしまった物はきっと嬉しいと思ってるんじゃないかな。覚えてくれる人がいてくれて」

「そうだといいんだけど」


 飲み干したペッドボトルをビニール袋に入れながら、僕は周りを鬱陶しく飛び回る蚊を手で追い払う。


「もしかしたら優くんのそれは罰なのかもね」

「罰?」

「そう、罰。死ぬほど苦しい虚無感と存在が薄れるほどの孤独感。これってきっと罰なんだよ。君が世界から何かが欠けてしまったと認識してしまっているから、きっと神様が意地悪してるんだ。神様が隠してしまった物を知ろうとしてるんだよ。優くんは」

「これが、罰か。けどまあ、こんなに不思議なことが起こってるんだから、神様くらいいてもおかしくないよな」


 なぜそうしたのか、なぜそうなったのか、それはどれだけ考えても分からない話だが、この痛みが罰で覚えていることが罪になるという彼女の独特な考えは十分納得のいく話だった。


「だから、私ね。思うんだけど……それを、忘れたらいいんじゃないかな。忘れたらきっとその感覚って奴もどこかへ消えてしまうと思うんだ。そしたら、死ななくてもすむんじゃない?」

「忘れることができるなら、今すぐにだって放り出して忘れたいよ。けど、できないんだ。多分それは許されないんだ」

「なんで? 忘れたらきっとその感覚って奴も消えるんだよ? そしたら死ななくていいんだよ?」

「もし、もしだよ。夏田さんが言ったことを本当に起こったことだとするなら、僕だけが覚えてるってことは、きっと意味があることなんじゃないかって思うんだ。みんなにはどうでもよくて、神様が簡単に消してしまえるようなことだったとしても、僕にとってはこんな死にたくなるような痛みが残るくらい重要なことなんだと思う。だからきっと忘れようとしても忘れられないんだ。今までがそうであったように」

「その行為が神に反する行為だとしても、思い続けて死ぬって言うの?」

「無神論者だから、神って信じないけど、もし本当にそんな意地悪な神様が本当にいたとしたら、一矢報いて僕は死ぬよ」


 意気揚々と言葉を並べる僕だったが、こんなこと以前なら反吐がでるほど嫌っていた言葉だ。どうでもいいこの世界に愛想を尽かし、僕は誰にも知られぬまま死のうとしていた。

 意味のわからない理不尽な能力によって作られた人間関係と空に押し潰されそうな孤独感の狭間で、なす術なくただこの世界から死という形で逃げようとしていた。なのに今はその欠けたものを見つけられると思っている。信じている。そして、僕は少なからず今という時間と向き合い、穴の空いた僕の人生を生きている。

 あれもこれも、夏田夏来という人物に出会ってからだ。

 不思議な思考、不思議な言葉、不思議な雰囲気。

 そして読むことの出来ない彼女の本音。

 僕の言葉を真剣に聞き、奇妙ではあるが人らしい会話をすることができる唯一の人物。

 欠けたものは分からない。手掛かりすらない。

 なのに今は彼女と話しているだけで、それが分かってしまいそうな気がするんだ。期待しているんだ。彼女と出会ったあの日からずっと。


「そっか。なら、なにか手がかりを掴まないとね。その弱っちそうな体じゃいつまでも耐えきれなさそうだし」


 彼女は笑いながら、筋肉のあまり付いていない僕の腕を見た。


「夏休みの終わりまでになんとか突き詰めたいかな」

「思ったより短い! そんなに打たれ弱いか平成男子!」

「平成も何も……。まあ、一応、頑張ってみるよ」

 そんな僕の言葉を聞いた彼女はクスッと笑った。

「あー、やっぱり優くんらしいよ」

「僕らしい?」

「うん。優くんらしい……とっても、優くんらしいよ」


 出会って間もない彼女の言葉に僕はどうしてか今までずっと隣に彼女がいたような気がした。

 夏休み、それもまだ短い間。それだけのはずなのにそう感じてしまうのは今までの人との会話が余りにも無意味で興味のないものだったのだろう。

 彼女との短い時間というのは、今までの人生を凝縮したような、そんな時間なのかもしれない。

 やっぱり彼女はどこか不思議だ。不思議で、おかしくて、それに……特別だ。

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