冬をこえて

藤枝志野

1

 丘向こうの森には隠者が住み、魔法のように怪我や病を癒し人々の願いに応える――そんな噂をルーカは信じることにした。


 疫病はルーカの住む村を、彼の両親と幼い妹ごと呑み込んだ。彼はわずかばかりの食べ物と金を持って故郷を飛び出し、乗り合い馬車で荷物の積み降ろしをしながら町にたどり着いた。そして町の路地裏で例の噂に出会い、魔法使いと呼ばれるその人に弟子入りすることを決めたのだった。


 葉の落ちた森の入り口には、煙突を生やした小さな建物が確かにあった。扉を叩くと、やせ気味の人が顔をのぞかせた。その人は琥珀色の瞳でじっとルーカを見た。えぐるように鋭く、それでいてゆっくり手探りをするような眼差しは、彼に村近くの林で見た蛇を思い出させた。


「ルーカといいます」


 彼は握りこぶしをつくって言った。


「あなたのお話を聞きました。どんな怪我や病気も治すことができるって……どうか、私を弟子にしてくれませんか?」


 その人は彼を見下ろして一言、断ると言った。驚くほど温もりのうすい声だった。ルーカは言葉を尽くして懇願した。


「私にはもう何もないんです。帰るところも、待っている人も」


 そう声をしぼり出した時、琥珀色がかすかに揺らめいた。


「何年かかってもかまいません。どんな大変なこともしますから、どうか」


 その人は何も言わなかった。数拍をおいて黒ずんだ木の扉が開けられ、薬草の香りがルーカを包んだ。


 部屋の中は小さな暖炉のおかげでわずかに暖かかった。三方の壁はほぼ棚で覆い隠され、棚には大きさも中身も様々なガラスの瓶、巻物や重苦しい装丁の書物、さらには古ぼけた真鍮や木でできた箱が並んでいる。そして入りきらない分や走り書きされた紙の束、燭台やランプなどが、中央に置かれた机の上を占領していた。全ての物が、月日を経てしみついた、どこか怪しげな落ち着きをおびていた。


 椅子に座り、ルーカは右手のしもやけに目をやった。何気なく掻こうとした時、冷たい指がすでにその右手をとって薬を塗り込んでいた。机に置かれた瓶いっぱいのそれは焦げたような黒で、しかし塗って伸ばされた途端に透きとおり、肌に溶けてゆく。ルーカは息をのみ、細い指が自分の手の甲をすべるのを見た。それから暗い枯れ葉色の頭に目を移した。


「……えっと、」

「なんとでも呼べ」

「では……先生でよろしいですか?」


 その人はゆっくりとした足取りで薬の瓶を棚に戻し、


「塗りすぎると毒だ。他の薬と混ぜてもいけない」


 呟くようにそう言った。



     ×



 先生を訪れる客は日に四、五人ほどだった。ほとんどの薬は一時間も経たないうちに完成し、渡すなりその場で患者に与えるなりされた。婚礼や狩りにふさわしい日取りを聞きに来る者もいる。先生は暦や羅針盤を眺めながら、羽根ペンで紙いっぱいに書きつけて答えを導き出した。こちらもやはり長い時間は必要なかった。


 客にはルーカのような村人もいれば身なりのよい者もいたが、先生は誰でもおかまいなしに無愛想を通した。ルーカに対しては口数こそわずかに増えたが、目もろくに合わせず、必要なことを淡々と伝えるに留まっている。この人は笑ったことがあるのだろうかと、ルーカは時々思う。


 また、彼は様々な作業を任された。乾燥した薬草を刻んだり、獣の角や爪を砕いたり、彼はどれも熱心に取り組んだ。先生は部屋の隅で書物に目を通したり、客の依頼を受けたりしているかと思えば、例の呟くような声でルーカに短く注意を与えるのだった。


 一週間近くが経ったある日、ルーカは先生に木箱を三つ渡された。二つにはそれぞれ違う種類の薬草が、残りには粒の大きな黄色い粉が入っていた。薬草からはちくちくと鼻を刺すようなにおいがした。


「気付け薬をつくれ」


 続けて手順や個数を告げ、先生は椅子に戻った。ゆっくりとした歩調に合わせて、着古した衣の裾が気だるげに波打った。


 ルーカは言われたとおりに手を動かしはじめた。原料を銀の匙ですくって鉢に入れ、混ぜた物を薄い紙に移して、人差し指ほどの大きさの細い瓶に流し込む。薬をこぼしたり瓶を倒したりしないかとひやひやする一方で楽しくもあった。


 半分ほど終えたところで、背後で書物を閉じる音がした。ルーカはどきりとして、粉末をすくう手を止めた。


「生まれた年は」

「……生まれた年、ですか?」


 無言がそれに応えた。


「たぶん、新暦の――年だと思います」


 再び沈黙が部屋にしみ出してゆく。


 ルーカは匙が陶器の鉢に触れないよう薬を混ぜた。ささやかで乾いた音が鳴る。


「そうか」


 こぼれる息に託すようにして先生が言った。


「――新暦か」


 一瞬ののち、書物をめくる音がした。


 ルーカは混ぜ終えた薬を紙にのせ、瓶へ流し込んだ。薬は砂時計の砂のように流れ、わずかににごったガラスの中に積もっていった。



     ×



 目を覚ましたルーカは、遠くで先生の声がするのを聞いた。部屋には昨日の気付け薬がかぼそく香っている。窓からのぞいてみると、先生は玄関先で男と話していた。格好を見るに、男は聖堂の者のようだった。穏やかな微笑みを浮かべて相槌を打っている。


 その時、先生がおもむろに頭を下げた。うつむいた顔が暗い枯れ葉色の髪で隠れた。数秒を数えてから相手に向き直り、いつもの無表情が現れる。


 思わず瞬きをしたルーカは、先生が建物に入ってくるのを見てあわてて身を潜めた。先生は気付け薬の詰められた箱を持つと、再び外に出て男に渡した。それからもう一度、男に軽くお辞儀をした。微笑んだままうなずいた男は、後ろに控える従者に箱を預け、小さな袋を先生に渡した。そして別れと祝福の印を結び、ルーカの視界から去った。


「気付け薬はいつ納めるんですか?」


 朝食の席でルーカは尋ねた。


 先生はスープの器に伸ばした手を一瞬さまよわせた。


「もう済ませた。だが渡しそびれた物がある。後で町に届けろ」

「分かりました」


 ルーカは堅いパンをかじりながら先生の顔に目をやった。心もち伏せられた瞳が、スープの湯気ごしに揺らいでいた。


 渡しそびれたというのは粉末の詰められた革袋だった。ルーカは袋の口が閉まっているのを確かめて大きな鞄にしまった。それから先生が、思い出したように棚から小箱を取った。


 布の張られた中には質素な腕飾りが入っていた。黒い革紐の通された銀の板が一枚、小さな石と、それを囲む透かし彫りで飾られている。


「災いを退けるお守りだ」


 先生がルーカの右腕に腕飾りを通した。礼を言おうと顔を上げた時、ルーカは先生の琥珀色の瞳から、眼差しが体へ流れ込んでくるような感覚に襲われた。部屋に満ちた薬草の香りが霧となって視界を塞ぎ、稲妻が体の隅々まで走った。琥珀色の蛇が頭の中の何かを奪い取る。ルーカが思わず叫びそうになった時、視線は先生の瞳に収まった。霧は跡形もなく消えていた。


「聖堂に行け。青い屋根の鐘楼を目印にするといい」


 言うが早いか、先生は書物をつかんで椅子にかけた。


 ルーカは少しの間その場に立ちつくしていたが、我に返って玄関に向かった。扉を開けてちらりと振り返ると、先生はうつむくようにして書物を読んでいて、表情をうかがうことはできなかった。


 頭の一点ががらんとしたような感覚をおぼえつつ、ルーカはひたすらに歩いた。日が暮れる前に町に着くかもしれないと思った。風のすべってゆく音とすれ違い、追い越されるたびに、草と土の乾いた軽やかなにおいが彼を包んだ。


 なだらかな丘をじわじわとのぼって頂上に立つと、麓のさらに向こうに、塀に抱かれた屋根の群れが見晴らせた。風が一つ丘をくだり、ルーカはふと、右の手首に冷たいものが触れるのを感じた。目をやるとそこには腕飾りが通されていた。小さな黄色い石がぽつんと銀の板に輝く。彼は見覚えのないそれをしげしげと眺めていたが、ほどなく顔を上げた。そして、また吹き抜ける澄んだにおいのなかで、若葉の萌える頃を待ち遠しく思った。




 終

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冬をこえて 藤枝志野 @shino_fjed

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