ダイナマイトは夢を見る

綾川知也

Ensueño , Chaos Club Says

 静謐な時間に相生あいおい香織かおりは美術室にあるキャンバスの前に座っていた。


 部屋に伸びる人影は二つだけしかない。

 香織かおりと、窓際に石膏でできた彫像メディチ


 ルネサンス期に咲き誇った文化人メディチの眉根は暗く、物思いに沈んでいるように見えた。

 巻き毛の相貌が陰って見えるのは、曇り空のせいなんかじゃない。

 



 —— それは自分の心がそうさせている。



 香織かおりはパレットを置いた。筆には油彩絵具には油彩絵具が絡まったままだ。

 油壷から漂うシンナーの匂いは強く、黒のエプロンには原色が飛び跳ねている。


 視線を床に落とすと、焦茶の木目は落とした絵具が斑に散り、呼吸が止まっているかのようだった。


 意識はこの前の時間に吸い寄せされた。



 教室は賑わっていた。

 クリスマスイブに開かれる文化祭の準備。

 秋風に寒気が乗っていて、生徒達が喧噪は潮騒にも似ていて、幾重にも重ねられた会話は騒音に近かった。


 それを切り裂いたのは綾川あやかわ知子ともこの声だった。


「だったら青ざめた馬でいいじゃねえかよ。七面倒しちめんどうくせえ!」

 彼女の髪は黒色で、声を荒げた余波で、ばらけた横毛が頬にかかっている。

 切れ長の目は鋭く、白い頬は激情で朱を落としていた。

 

「それだと絵のモチーフとして不吉なものになるでしょう?」

 知子の言葉を受けた香織は一歩も退かず、むしろ会話を覆い被せる。

 律と伸ばされた背中は直線的で、揃えられた前髪は彼女の心の有り様を写していた。


「だったら他にあるのかよ?」

 両手を組む知子。傲慢を人に押しつける知子はクラスでの嫌われ者。

 クラスに生えた鋭角に、触れる者は誰もいない。

 ただ、一人香織を除いて。


青い馬 IBlaues Pferd Iが、あるじゃないの」

 香織の言葉に、知子の片眉が動き、訝しげな表情になった。


「何だそりゃ? 聞いたことねえ」

「ドイツの画家、フランツ・マルクが描いた絵よ」

 香織の言葉を聞いて、知子は少しばかり顎を上げた。

 彼女の眉間からは怒気が散り、空気の密度に隙が生じた。開き欠けた唇からは白い歯が見えた。


 驚きで上がった知子の顎の角度が、香織には心地よかった。

 クラスの鋭角が仰け反る喜悦は、ラピスラズリが奏でる青よりも心に染みる。


「あっ、ひょっとして知子って、知らないの?」

 それでなくとも知子はバイクに乗っているなど噂もあり素行が良くない。

 進学校ではあるまじき言動を平気でする。


 ———— 香織は羨ましかったのだ。


「知子って名前なのにね。知らないんだ」


 悔しそうに白い歯を見せた知子。それを見ていると心が頬を緩ませる。


 ネットの世界では香織と知子は悉く、衝突を繰り返してきたものだった。

 —— だが、それが問題なのではない。


 知子が膝を屈することで、香織の嗜虐心は満たされた。

 心のグラスに満たされる豊穣な赤ワインは程よい酔いをもたらす。

 苦痛にさいなまれる、ここ数日間の苛立ちは、こんなことでは拭えない。


「知らねえものは、知らねえ」

 知子はそう言って、背を見せた。

 こうしてみると彼女の背はそれほど高くないことに気付いた。


 ドアを閉める音がした後、教室には喧噪が戻ってきた。

 まだ、香織から煩いは去りそうもない。






 香織がトイレへ行き、新しいナプキンを封を破った時、隣に聞こえないか心を震わせた。

 ここの所、心は荒波に揺られ、心底参っている。

 感情のハンドルは手元にはなく、何もかもがコントロールできない。


 細い腰に重圧が伸し掛かり、胃には鉛を注がれたようだ。

 目にする刺激が痛く、耳に届く全てが刺さる日々が終わるのは遠い。

 頭の中に住み着いた重しは意識を地中へと誘う。


 経血の色を見て、香織は自分の性を改めて呪った。



 キャンバスに描かれた絵では青い馬は疾走していた。

 いつか観た夢を絵にしてみたのだ。


 既に密林の日々は過去のもの。

 シンナーの匂いが頭の軸を揺さぶるが、それすら不快感はない。


 窓際に行って、窓ガラスを開けると寒々しい空気が入ってきた。

 思っていたよりも風が強く、香織の髪を攫った。


 頬を掠める風は凍てつくほどに冷たい。

 だが、校舎に沈んでゆく赤い日は沈み、空は青みを帯びていた。

 それを見ていると、淀んだ空気が浄化されるようで、心地よかった。


 全てを洗って流したい。


 描き上げた絵を眺めた後、香織は遠くでバイクの音が聞こえてきた。

 知子は光速を超えただろうか?



 そう言えば、昨日知子から聞いたタンゴをしてみようかと思い立つ。

 同性である彼女は、謝罪の言葉を聞いて笑いながら言ったものだった。


「女はつれえよな。それよか香織。タンゴやってみな。パートナーが居なくてヘコんでる奴が居るんだよな。いいダンサーなんだけど。気が向いたら、この住所の所に行ってやんな」

「いいの?」

「いいんじゃね?」

 知子は屈託のない笑顔を見せて、データを送った。


 手元のスマホには住所がある。

 今度の休日にでも行ってみよう。


 窓辺に寄りかかり、一番星が輝いているのを見付けた。


<Ending Music>

 https://www.youtube.com/watch?v=t_OTnmUs834

</Ending Music>

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