第206.5話 グッドブラザー(後編)


 それから数日後――。


 風麻が学校から帰ると、家の中から泣き声がしていた。


 一瞬、赤ん坊の冬麻の泣き声かと思った風麻だが、泣いてる声に「いだい~っ!」と言葉が混じっていたので、秋麻だと気付く。


「ただいま……」

 風麻がランドセルを下ろしながらリビングに入ると、「あ、ちょうどよかった……」と、秋麻のこめかみを押さえる伊織と、わぁわぁ泣いている秋麻がいて、手や服に血がついている。


「秋麻が転んで頭を切っちゃったの……。傷口が結構大きくて、心配だから病院に連れて行こうと思うんだけど、冬麻が今お昼寝中なの」

「う、ん……」

「だから風麻、お留守番して冬麻のこと見ててくれない……?」

 伊織の視線に合わせてリビング横の和室を見ると、冬麻は秋麻の泣き声が響く中でもすやすやと眠っている。


「え~っ、お母さん冬麻も連れてってよ……。俺、ゲームの続きやりたいし、赤ん坊の面倒なんか見たくな……」

「こんな時に何言ってるのっ!!」

 伊織が怒って声を張り上げる。


「……病院が終わったらすぐ帰るから、今日ぐらい弟の世話してやってちょうだい。冬麻が寝てる間はゲームしててもいいし、起きた時にあやしてくれればいいから……」

「……わかったよ」

 風麻が渋々返事をすると、「ミルクの作り方は、この間何度も教えたからわかるわね?」と、伊織が立ち上がりながら言った。


「うん……」

「お湯の温度は設定してるし、哺乳瓶はここにあるから……」

「わかった……」

 伊織は、「頼んだわよ」と風麻に言うと、秋麻に自分で頭を押さえさせ、病院に行く準備を始めた。


 *


「はぁ~あ、なんで俺が……」


 伊織が秋麻を連れて病院に行った後、風麻は手を洗い、おやつとゲーム機を手にしてリビングのソファーに寝そべる。


 赤ん坊の世話なんてダサい。

 見て、遊んでいるだけなら可愛いけれど、オムツ替えの時は辺りが臭くなるし、泣き声はうるさくてテレビの音が聞こえにくくなるし、鬱陶しく感じることばかり。


 おまけに、先日から母はやたらと「お兄ちゃんなんだから」と、今まで以上に言うようになり、粉ミルクの作り方をしつこく教えてくるし、更にはオムツ替えまでやらせようとする。


「緑依風ちゃんは、優菜ちゃんのおしめ取り変えれるのよ。風麻もこのくらいできるようにならなきゃ!」


 ――と、同い年の緑依風の例を挙げてくるが……。


「(あんな汚いやつやりたくねぇーよ……。緑依風は女だからできて当然じゃん)」

 父の和麻は男であっても、家にいれば積極的に育児に参加している。


 しかし、風麻の友人の殆どは、母親が主軸になっている家庭の方が多く、“うちが変わってるんだ”と思い込んでいた。


 風麻がゲームに夢中になっていると、プルルルルル――と、家の電話が鳴りだした。


「おかーさーん、電話~……って、今いないんだった……」

 風麻が重い腰を上げ、電話に出ると、「あ、風麻……」と伊織の声がした。


「なんだ、お母さんか……。冬麻ならまだ寝てるけど?」

 風麻が和室を覗き込みながら言うと、伊織は「そう……」と返事をした後、「あのね、病院ちょっと長引きそうなの」と歯切れ悪そうに言う。


「え~っ……」

 伊織が言うには、秋麻の傷の手当は二針縫ってもらって済んだのだが、派手に転んで頭を強打しているため、一応CT検査なども受けた方がいいと勧められたらしい。


「だから、あと二時間くらいかかっちゃうかも……。もし何かあったら、ちょっとのことでもお母さんの携帯に電話してくれたらいいから……」

「…………」

 冬麻はまだ眠っており、起きる気配はない。


「わかった……。でも、終わったら早く帰ってきて……」

 風麻は電話を切ると、再びゲームを手に取り、続きを楽しもうとする――が。


「……っ、ぅえぇぇぇ~っ!」

「あ~あ、起きちった……」

 再開した途端、冬麻の泣き声が聞こえて、風麻はため息をつく。


「はいはい、お母さんならいないぞ~……」

 風麻はそう言いながら末弟の元へ行き、泣いてる冬麻の体を優しくさすって再び寝かしつけようとする――しかし、冬麻の泣き声はどんどん大きくなるばかりで、もう一度夢の世界へ戻ろうとはしてくれなかった。


「びゃぁぁぁぁぁ~~っ!」

「なんだよ~……腹減ったのか?」

 風麻は「しょうがないな~」と、台所に行き、粉ミルクを用意する。


「え~っと、お湯はこれくらいだったっけ?……あちちっ、確か人肌って言ってたけど……」

 振りながら冷ましていては、時間がかかる。


 風麻はボウルに氷水を用意し、その中に哺乳瓶を入れて早く冷まそうとした。


「びゃあぁぁぁぁん、わぁぁぁぁんっ!」

「うるさいぞ~……今冷ましてんだから待てよぉ~……」

 風麻は冬麻を抱き上げ、けたたましい泣き声だけでもなんとかしたいと思うが、冬麻の声のボリュームはちっとも小さくならない。


 そろそろ飲み頃かと思い、氷水から哺乳瓶を取り出し、水滴をTシャツで拭き取った風麻は、「ほら、飲め……」と、母に教えてもらった通りの体勢で、冬麻にミルクを与えようとする――が。


「うぇぇぇぇっ、えぇぇぇぇ~ん!」

「飲まない……」

 それどころか、口に咥えようともせず、冬麻は手足を伸ばして仰け反りながら「いらない」と拒否する。


「なんだよ……せっかく用意したのに~っ!いいから飲めって……!」

 風麻は冬麻を抱え直し、もう一度ミルクを与えようと試みる。


 だが、冬麻は「ぎゃあぁぁぁん」と激しく泣くばかりで、哺乳瓶を手で払いのけた。


「~~~~っ、あ~もうっ、知らねっ!」

 風麻は冬麻を和室に敷いてある布団に戻し、「お母さん帰ってくるまで我慢しろ!」と添い寝しながら、冬麻の体をトン、トンと、一定のリズムを作って叩く。


 きっとそのうち泣き疲れて寝てくれるだろう。


 ミルクはあげてみた。でも飲まなかったし、ほったらかしにはしていない。


 ずーっとそばで響き続ける冬麻の泣き声に苛立ちが募りつつも、やるだけやった。


 これ以上はどうしようもないんだと、風麻が自分に言い聞かせている時だった。


「びゃあぁぁっ……げぼっ、げ……っ、ふっ、ぇ……」

「え……?」

 突然、冬麻が嘔吐してしまい、「けほっ、けほ……」と咳をし始めた。


「……っ、ふっ……えぇぇぇん!えぇぇぇぇん!」

「あっ……えっ、ど、どうした!?冬麻?冬麻……?」

 風麻は、吐いたもので顔や服が汚れてしまった冬麻を抱き上げ、話しかけてみる。


 しかし、相手はまだ生まれて三か月ちょっとしか経っていない赤ちゃんだ。


 兄の質問に答えられるはずもなく、顔を真っ赤にして泣くだけだった。


「お……おかあ、さん……っ!」

 風麻は慌てて伊織に電話を掛けるが、秋麻の診察中なのか、母は出てくれない。


「どうしようっ、おかあさんっ、でてくれよぉ……っ!」

 その間にも、冬麻は延々と泣き続けるばかり。


「えぇぇぇっ……ぇぇぇん……っ」

 しかも、あれほど静かになればいいと思っていたはずなのに、段々弱々しくなってくる泣き声に、風麻の焦りは一気に加速する。


「……っ」

 不安の波が最高潮に達した風麻は、受話器を放り投げ、冬麻の元へと駆け寄った。


 そして――。


「だ、だいじょうぶだ!俺が……兄ちゃんが、なんとかするから!」

 そう言って、冬麻を抱き上げた風麻は裸足のまま家を飛び出し、隣の松山家に向かって走る。


 ピンポン、ピンポン――!と、風麻が松山家の呼び出しボタンを連打すると、「ちょっと、そんなに何度も押さないで!」と、スピーカーから緑依風の怒った声が聞こえた。


「……っ、たすけてくれっ!」

「えっ?」

 風麻の慌てた声と言葉にただ事じゃないと察した緑依風が、急いでドアを開ける。


「りいふっ、と、冬麻が――!」

「冬麻……?」

「冬麻が……ぜんぜんっ、泣き止まないんだ……っ!お母さんっ、いまいなくてっ!ミルクもっ、のんでくれっ、なくてっ……ひっく、ゲロ……はくし、っ……元気も、なくなって……きてっ!」

「お、落ち着いて風麻……っ」

 ボロボロと涙を流し、鼻水も垂らして助けを求める風麻を宥め、緑依風は泣き止まぬ冬麻を抱っこする。


「もしかしてっ、びょうき……かもっ!でもどうしようっ、おかあさん、まだ帰れないしっ……!お、おれもうっ、どうしたらいいのかっ、わかんね……っ!」

「…………」

 緑依風は冬麻の顔をじっと観察しながら、彼のお尻の辺りを触る。


 そして、顔をそっと冬麻の腰元に近付けると、「くさい……」と、呟いた。


「え……?」

「……これ、オムツ替えて欲しいって、訴えてたんじゃない?」

「えっ……?」

「あんた、ミルクだけじゃなくてオムツもチェックした?」

「…………」

 風麻はピタッと涙を止めると、ジトッとした目つきで睨む緑依風から視線を逸らした。


 *


「まったくもうっ、信じらんないっ!オムツ替え一回もやったことないなんて!」

 緑依風はそう言って、風麻からオムツとおしりふき、ぬるま湯入りのボトルを持ってきてもらい、その間にウェットティッシュで冬麻の汚れた顔を拭いている。


「服も持ってきて」

「へいへい……」

「冬麻~っ、ちょっとごめんね~」

 緑依風は冬麻に優しく声を掛けながら汚れた服を脱がし、オムツも外していく。


「うっ、くっせ……」

「鼻摘まんで逃げてんじゃないの!……あんたの弟でしょ!あぁ~……両方してるし、お尻赤くなっちゃってる……これは気持ち悪かったね~……」

 緑依風は「すぐキレイキレイにするからね~」と、冬麻に話しかけ、彼の汚れた部分をおしりふきやぬるま湯を使って拭き取りながら、「風麻もちゃんと見て覚えて」と逃げ腰の幼馴染に言った。


「え~っ、だってそういうのって、母親の仕事だろ」

「何言ってんの……家族みんなでするものでしょ!」

「え?」

「お母さんとお父さんだけじゃなくて、できる人みんなでするの!」

「だって、俺……できな――」

 風麻がそう言おうとすると、「だーかーら、覚えてできるようになるの!」と、緑依風は言って、汚れたオムツを避けた。


「……私だって、最初は上手くできなくて失敗したよ。でも、やってるうちに絶対できるようになるから」

「…………」

「……はい、終わり!冬麻~っ、頑張りました~っ!」

「あ~ぅ、ぅぅ~ぃ!」

 不快だったオムツの感覚が無くなった冬麻は、にへっと笑い、緑依風に何かを語りかけている。


「ほら、私オムツ片付けちゃうから、冬麻の服着させてあげて」

「お、おれ……服もわから……」

「え~っ、じゃあ手洗ったら一緒にやるから、冷えないように抱っこしてて」

「うん……」

 風麻は冬麻を抱っこしながら、テキパキと片付けをする緑依風を眺める。


 同い年だというのに、まるで小さなお母さんだ。

 風麻の瞳に、緑依風の姿がかっこよく映る。


「――あ、そういえば!さっき吐いたのに、冬麻何ともなさそうだな?なんだったんだ?」

 すっかり安心しきっていた風麻は、先程冬麻が吐き戻した時のことを思い出す。


「あぁ、多分……泣き過ぎたせいだよ。夜泣きが酷い時とか、不機嫌な時にたまーにあるよ。でも一応、おばちゃんが帰ってきたら言った方がいいよ。そうじゃないこともあるし、熱とかは無いから……今のところは大丈夫な気がするけど」

「詳しいな、お前……」

 風麻があまりに詳しすぎる緑依風に、少々引き気味に言うと、「優菜のおかげかな……」と、緑依風は手を洗いながら言った。


「私だって、ちょっと前まで赤ちゃんのこと、全く知らなかったもん。千草とは年が近いから、お世話なんてしたことなかったし、ケンカばかりだし。だからきっと、優菜が私をお姉ちゃんにしてくれたんだと思う……」

 手を洗い終えた緑依風が、「貸して」と風麻から冬麻を抱っこすると、冬麻は実の兄である風麻より、嬉しそうな表情で緑依風を見上げていた。


 今までは気にならなかったのに、なんだか悔しい感情が、風麻の心に芽生える。


「……俺、今からでも冬麻に“兄ちゃん”って思ってもらえるかな?」

 風麻が不安そうに言うと、緑依風は「もちろん!」とにっこりしながら頷いた。


「風麻がたくさん冬麻に優しくしてあげたら、冬麻は風麻のことが大好きになるよ」

「うん……」


 *


 それからというもの、風麻は心を入れ替え、これまで絶対にやりたくないと思っていた冬麻のオムツ替えを伊織に教わり、平日の日中、母のワンオペ状態だった冬麻の世話を手伝うようになった。


 すると、だんだん今までの風麻には無かった、『自分より年下の者への気配り』が自然とできるようになり、坂下夫妻は風麻の心の成長を喜ばしく感じた。


 そして、現在は――。


「お兄ちゃん、緑依風ちゃん!べんきょ、おわった?」

 風麻と緑依風が一階に下りてくる音を聞き、冬麻が駆けてきた。


「おう、終わったぞ」

「じゃあ、あそぼ!ヒーローごっこ!さっきのつづき!」

「おっし、いいぞ~!変身ベルトつけてこい!」

「うん!」

 現在、幼稚園の年長組になった冬麻は、すっかりお兄ちゃんっ子になっている。


 風麻も、冬麻のことを『溺愛』とまではいかずとも、とても可愛がっており、思春期に入った今も邪険に扱うことなく、遊び相手を務めていた。


「風麻って、いいお兄ちゃんですよね……」

 緑依風が言うと、伊織は「ふふっ、ありがとう」と嬉しそうにお礼を言った。


「でもそれは、きっと緑依風ちゃんのおかげかな?」

「え、私……?」

「緑依風ちゃんが、優菜ちゃん達のお世話するのを身近に見てたから。風麻は緑依風ちゃんにライバル意識持ってるし、大人っぽいって言われる緑依風ちゃんへの、対抗心を燃やしたんでしょうね」

「あ、なるほど……」

 緑依風がこれまでの風麻の態度を振り返り、納得すると、「でも、それだけじゃないよ」と伊織は更に付け加えた。


「緑依風ちゃんのことを、風麻はすごく信頼してるの」

「え……?」

「そのせいで、緑依風ちゃんに迷惑かけちゃうことは申し訳ないんだけど……おばさんは、緑依風ちゃんがずっと風麻のそばにいてくれると嬉しいな!」

「……っ、それは、風麻が嫌でなければ、私は……っ」

 緑依風が照れ臭そうに答えると、伊織は「ふふっ」と声を漏らして、愛しそうな笑顔を向ける。


「……私、そろそろ帰りますね。お邪魔しました」

「はぁい。また来てね!」

 伊織が緑依風を見送り、息子達のはしゃぐ声がするリビングへ戻ると、風麻は怪人役になり切り、冬麻の攻撃を受け止めたり、時には大げさに痛がってみたりして、弟を楽しませていた。


「(自分の良さを知り尽くして、そのうえ成長させてまでさせてくれる人なんて、大人になっても滅多に巡り合えない、貴重な存在よ……)」


『兄としての自覚』だけでなく、その他の面でも、緑依風の存在は風麻にとってとても大きく、良い影響を与えてくれていると、伊織は考える。


「(……緑依風ちゃんに愛想尽かされないうちに、早く気持ちが固まるといいわね)」

 伊織はそんなことを思いながら、息子達を温かい瞳で見守っていた。


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マジックストーリー~Short collection~ 夏穂 @natsuho0715

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