第206.5話 グッドブラザー(前編)


 これは、物語が始まる数年前の出来事――。


 真っ白な雪が降る、一月二十八日の夜。

 坂下家に三人目の男の赤ちゃんが生まれた。


 坂下家の子供は、父の和麻から『麻』という文字をとって、兄弟で最後の文字を揃えるようにしている。


 長男の風麻は、母親の伊織が『風』の文字を入れたいという希望から、そう決めた。


 次男の秋麻は、紅葉が美しい十一月に生まれたため、『秋』の文字と組み合わせた。


 そして、三人目の子供には――。


「安直かもしれないけど、『冬麻とうま』かしらね!冬生まれってわかりやすいし、冬の雪みたいに真っ白で綺麗な心を持って育ってねってことで!」

「いいんじゃないか?冬麻……。うん、しっくりくる!」

 仕事終わりに見舞いに来た和麻は、妻の腕に抱かれている小さな息子の頬を、指で優しく触れながら言った。


「お隣の松山さんちの優菜ちゃんと同い年ね!……あ、でも干支は違うか」

「それでも、一月生まれだ。同じ学年で幼稚園にも通えるし、仲良くなれるといいな!」

 夫婦はそんな話をしながら、生まれたばかりの息子の寝顔を眺めていた。


 *


 それから約三ヶ月。

 もともと賑やかだった坂下家は、家族が増えたことで更に騒がしくなっていた。


 なにせ、やんちゃ盛りの小学三年生と一年生の男の子が既に二人プラス、手のかかる生後三ヶ月の赤子の世話まで。


 伊織の負担はとても大きく、まさに猫の手も借りたいくらいだ。


「おい、これ俺のだぞ!勝手に使うなって言っただろ!」

「いいじゃんか!兄ちゃんだって、俺のおもちゃ勝手に使うくせに!」

「それは元々、俺のだったのを秋麻にあげたんだろ!」

「あんたらいい加減にせぇへんと、おもちゃ全部捨てるで!」

 イライラのピークを迎えた伊織は、普段は封印している故郷の方言を使い、息子達を叱る。


「ご、ごめんなさいっ!」

 聞きなれない言葉で怒られるのは、いつもの倍怖く感じる。


 わんぱく坊主もたちまち静かになり、おもちゃを仲良く譲り合って使い始めた。


「……っ、うえぇぇぇ~っ!!」

「あら、小さな王子がお呼びだわ」

 伊織はリビング横の和室に敷いたお布団の上で泣いている、三男坊の元へと急いだ。


「はいは〜い!何かなぁ?」

 伊織は冬麻を抱っこして、ご要望は何かと確認する。


「ふむ……これはオムツね?よしよし、綺麗にしようね〜!」

 伊織がオムツやおしりふき、ぬるま湯を入れたボトルなどを用意して、冬麻の元に戻ると、兄二人もそのそばにやってきて、オムツ替えを眺めている。


 ペリッとマジックテープを外してみると、どうやら大きい方だったようだ。


「うわっ、くっせ〜!」

「きったね!吐きそう‼︎」

 風麻と秋麻は、鼻と口を塞いで吐く真似をする。


「あのねぇ、あんた達もこうだったのよ……」

 伊織はため息混じりに言いながら、手際よくオムツを交換した。


「俺、赤ちゃんのオムツ替えるのなんてぜーったい無理!」

 風麻が鼻を摘みながら言うと、秋麻も「俺もやだ」と言った。


「そんなこと言ってると、結婚して子供ができた時困るわよ!」

「じゃあ俺、子供産まない奥さんもらう!」

「まぁっ!」

 風麻の願望を聞いた伊織は、息子の物言いに呆れるように叫んだ。


 ――ピーンポーン……。


「あらあら……今、手が汚れてるからインターホンの受話器に触れないわ。風麻、出てちょうだい!」

「へいへい……。って、緑依風と千草じゃん」

 風麻が見たモニターの中には、隣の家に住む松山家の長女緑依風と、次女の千草、それと――。


「あ、優菜も連れてるな」

 緑依風の腕に抱っこされているのは、もうすぐ一歳になる、三女の優菜だった。


「あら、みんな揃ってどうしたのかしらね?」

 伊織が手を洗い終わって、タオルで水気を拭いていると、「――あ、そうだ!うちでみんなで遊ぶって約束したんだった」と、風麻が思い出したように言う。


「ちょっと……そういうことは早く言ってちょうだいって、いつも言ってるでしょ!お菓子何にも無いわよ」

 伊織が眉間にシワを寄せると、風麻はそれから逃げるように、玄関のドアを開けに行った。


「いらっしゃーい。お菓子持ってきて」

「ドア開けて突然言うことがそれ⁉︎」

 風麻と同じ小学三年生だが、見た目だけなら四年生に見えなくも無いくらい、背の高い緑依風は、幼馴染の出迎えの挨拶に、声を裏返した。


「お菓子は一応持ってきたよ。小さいクッキーだけど」

 緑依風が千草に視線をやると、彼女の手には袋詰めになったクッキーがある。


 クッキーの袋は、姉妹の両親が経営するお店のロゴが入っていた。


「やった〜!木の葉のクッキーじゃん!」

「いぇーい!」

 風麻と秋麻が喜んでいると、伊織は「ごめんね二人とも……」と、緑依風と千草に謝った。


 *


 リビングに入ると、緑依風は風麻達の元に行く前に、優菜を抱っこしたまま、お茶を用意する伊織の元へと向かう。


「おばちゃんごめんね。お母さん急にお店行かなきゃいけなくなって、優菜も連れて来ちゃった」

 緑依風が申し訳なさそうに言うと、伊織は「いいのよ、気にしないで」と言って、緑依風の目線に合わせて背を丸めた。


「ありがとう。オムツとミルクは持って来たの。もし優菜がうんちとかおしっこしちゃったら、ここで取り替えてもいい?」

「もちろんよ!……緑依風ちゃんは、優菜ちゃんのオムツ替えできるの?」

「うん、できるよ。優菜が生まれてすぐお母さんに教えてもらってね!ミルクも作れる!オムツ替えるの最初は難しかったけど、今はすぐできちゃうよ」

「すごいわね〜!」

 同い年でもこうも違うのは、自分の子が男の子で、緑依風が女の子だからだろうか……と、伊織はテレビゲームで遊び始める風麻を見て思う。


「ねぇおばちゃん。冬麻抱っこしてもいい?」

「うん、抱いてあげて」

 緑依風は優菜をカーペットの上にそっと降ろすと、布団の上で、手足をいもいもと動かしている冬麻を抱き上げた。


「もう首座ってるから、立って抱っこしても大丈夫よ」

 伊織は安全のため、首が安定するまでは、座ったままの抱っこをお願いしていたが、緑依風はそれでも慣れた手つきで冬麻を抱き上げ、まるで本当のお姉ちゃんのように接していた。


「わぁ、この間よりも重いね!あとなんだろう……?優菜の方が大きいけど、なんか男の子の方が体がしっかりしてる気がする」

 緑依風はそう言って、ゆらゆらと体を動かし、「冬麻〜可愛いね」と、話しかける。


 冬麻も、緑依風に抱っこされるといつもご機嫌な顔になり、今もフニャフニャと柔らかな微笑みを浮かべながら、緑依風を見上げている。


「赤ちゃんってすぐに大きくなるね。優菜もついこの間まで冬麻くらいだったのに、今は歩いてあちこちに行きたがるの」

 優菜は、よちよちと歩いては時々座り込み、「あ〜」とか「うぅ〜」などと言いながら、窓の外にいる何かを指差している。


「そうねぇ、あっという間よ。緑依風ちゃん達が大人になるのも、きっとすぐだわ」

「えぇ〜っ、遠いよぉ~!」

「うん、きっと今はね」

「――私も大人になったら、赤ちゃん産むのかなぁ?」

 緑依風は、冬麻の顔を見ながらぼんやりとした声で言った。


「緑依風ちゃんは、お母さんになりたい?」

 伊織が聞くと、緑依風は「うん!」と答えた。


「すっごくお腹痛いみたいだし、お母さんがあんなに苦しんで叫んでるの見て、怖かったんだけどね。優菜が生まれた時、なんだかすごく感動して……私も、そうなりたいなって……」

「緑依風ちゃんなら、優しいお母さんになれるわね!」

「そ、そうかな……?」

 きっとまだ、緑依風は子供の作り方なんて知らないであろう。


 だが、純粋に『母になる』ことを願い、幼くとも母性に目覚めつつある緑依風の気持ちに、伊織は愛おしさを感じる。


「おい〜……早く遊ぼうぜ!」

 しびれを切らした風麻が、少し苛立った口調で言った。


「三人じゃこのゲーム物足りないんだよ!」

「え〜っ……もうちょっとだけ、冬麻抱っこしてたい!」

 緑依風はそう言って、遊びより冬麻の相手を優先したがる。


「赤ん坊ばっか構ってると、おばさんみたいだぞ」

「おばさんっ⁉︎」

「こら、風麻っ!」

 緑依風がショックを受けたように声を上げると、すかさず伊織が風麻を叱る。


「ごめんね緑依風ちゃん。失礼なことばっか言って」

 伊織が謝ると、緑依風は「ううん、いいよ」と言って、風麻の背中を見つめる。


 怒って睨みつけているのではない。

 もどかしそうな、ちょっぴり熱を感じるような視線。


 伊織は、この幼い少女が自分の息子に夢中だということは知っている。

 ……というか、緑依風は覚えていないが、彼女の口から聞いたのだ。


「おばちゃん、あのね……ふうまくんのことすきになっちゃったけど、どうしたらいいかなぁ〜……?」

 モジモジとしながら、小さな頬をりんごのように染め上げて相談する緑依風。


 伊織はこれを聞いた時、胸が跳ね上がりそうなくらい、とても嬉しく思った。


「特別なことはしなくていいわ。緑依風ちゃんが緑依風ちゃんらしく、ずっと優しくいてくれて、風麻の良い所を覚えててくれたら」

 伊織の答えに、緑依風は赤い顔を手で覆いながら頷いていた。


「……さてと、おばちゃん二階で冬麻をお昼寝させてくるから、緑依風ちゃんは風麻の相手してあげて」

「うん!冬麻、またね……」

 緑依風は伊織に冬麻を返すと、風麻の隣に座ってゲームのコントローラーを手にする。


「(風麻が、緑依風ちゃんの気持ちに気付ける日はくるのかしら……)」

 伊織はそう思いながら、風麻と緑依風の後ろ姿を眺めた。


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