ホーフレアにて

藤枝志野

1

 乗り合いの馬車から降りて、ヨアンは周りを見回した。広場は故郷の村のものよりも大きく、様々な看板を下げた建物に囲まれている。見上げると北と東に小高い山が連なっていて、その山の真ん中あたりまで建物がちらほらと並んでいた。


 背後から声がして振り返ると、馭者が荷物の入った袋を放り投げてきた。ヨアンは抱え込むようにしてそれを受け取り、ありがとうございますと頭を下げた。そして馬の蹄の音を聞きながら駆けだした。目的の場所については、母からちゃんと目印を聞いている。広場の聖堂の脇にある通りで、酒を飲む猫の看板を探せと。


 扉を開けると、席についていた男たちが一斉に振り向いた。そして彼らの誰よりも早く、カウンターの中から甲高い歓声が響いた。


「ヨアン!」

「こんにちは、おばさん」


 おばさんはヨアンに駆け寄るなり、彼を荷物ごと抱きしめてキスをした。


「よく来たね。おばさんのこと覚えてるかい?」

「はい、ちょっとだけですけど」

「本当! 嬉しいねえ。ここまで一人で寂しくなかったかい?」

「大丈夫です。僕もう子どもじゃありません」


 それを聞くとおばさんは口を大きく開けて笑った。客の男たちも肩を揺すって声をあげ、ジョッキだのコップだのを傾けて、それからまたひとしきり笑った。


 ヨアンは二階にある部屋の一つに通された。今は手が離せないこと、話は夕食の時にたっぷり聞くことを伝えると、おばさんは彼の頭をぐしゃぐしゃとなでて店に戻っていった。入れ替わるように小間使いが現れて、おばさんが忙しい時は自分になんでも言いつけるようにと告げた。


 窓からは人々が話しながら歩いていくのが見えた。向かいは宿屋らしく、建物の脇にロバや馬が繋がれている。部屋の中にはベッド、机と椅子、そして箪笥が置かれていて、どれも家のものより少し上等に見えた。


 ここで少しの間寝起きすると思うと、ヨアンは口元がにこっと崩れてしまうのを感じた。というのも、村で読み書きを教えている者が病気のため都に帰ることになった。そして、代わりが来るまで時間がかかるというのを母がおばさんに手紙で伝えたところ、ホーフレアの町に遊びに来ないかとの誘いが返ってきたのだ。ヨアンは声をあげて喜んだ。今まで村の外へ出ること自体あまりなかったし、おばさんとは小さな頃に一度顔を合わせたきりで、また会いたいと思っていたからだ。


 ヨアンはベッドに仰向けになり、ふかふかとした感触を楽しんだ。それから何度か寝返りを打ち、小さな袋を持って部屋を出た。


 物音のする方へ廊下を歩くと、思ったとおり小間使いがいた。


「僕、ちょっと散歩してきます。日が暮れる頃に戻ってきますから、おばさんに言っておいてください」

「分かりました。くれぐれも気をつけて、西のはずれに崖がありますから」


 小間使いが微笑むと、頭巾の隙間からこぼれた巻き毛がふわりと揺れた。



     ×



 ヨアンは広場に立って再び町を眺めた。長方形の広場からは大きな道が四つ伸びていて、二つは北と東それぞれの山の方へ、一つは西へ通じ、そして最後の一つは先ほど馬車が通ってきた道につながっている。ヨアンはひとまず北に続く道を選んだ。クリーム色や赤茶色の建物はどれも村のものより立派で、行き来する人々も楽しげに見える。屋台に並んだ野菜や花のなかには彼の知らないものも交じっていた。


 ゆるやかな坂の後、明るいざわめきは小さくしぼんでいった。道は小川にかかる橋に続いている。その橋に、というよりもそこにあった一つの影に、ヨアンの目は吸い寄せられた。影は蜂蜜色の石でできた低い欄干に腰を下ろし、誰かを待っているようにも見えた。下を向いているせいで表情が分からない。しかし、ヨアンはなんとなく、視線が自分に注がれているように感じた。


 道は橋へとまっすぐ続いている。なぜか引き返す気にもならなかった。そして橋に一歩踏み入れた時、


「こんにちは。何してるの?」


 影がするりと橋に降り立った。はっとしてヨアンは足を止めた。


 少しかすれたその声は涼しげで、どこかに幼さを宿していた。口や頬の辺りにもあどけなさがあって、自分と同じくらいの歳かもしれないとヨアンは思った。しかし、何より彼の心に焼きついたのはその瞳だった。見ていると吸い込まれそうな、深く暗い緑色をしている。


「散歩だよ」

「散歩?」

「うん。ちょっとの間、ここのおばさんの家に泊まるんだ」

「そうなんだ」


 声が華やかに弾んだ。


「それなら町を案内してあげるよ」

「いいの? 仕事とか、勉強は?」

「大丈夫、ちゃんと仕事してるから」

「ありがとう」


 ヨアンはぱっと笑みを浮かべた。


「僕はヨアン。君は?」

「リッケ」

「よろしく、リッケ」


 ヨアンが右手を差し伸べると、リッケは目をしばたたかせたが、すぐに笑顔になってそれに応じた。


 リッケは町のことをよく知っていた。どこにどんな建物があって、なんの木が生えていて、どんな猫や馬がいるといったことを、休むことなく教えてくれた。どうしてこんなに知っているのだろうと、ヨアンは不思議にさえ思った。そして些細な話の一つも聞き漏らしてはならない気がして、耳をそばだててリッケについていった。噴水のある小さな広場を横切り、おしゃれな服の並んだ窓をのぞき、菓子の店の前で甘い香りをめいっぱい吸い込んだ。


 銀細工の店を通り過ぎた時、鐘が町をすっぽりと包むように響いてきた。


「あっ」


 ヨアンが立ち止まると、リッケも足を止めて振り向いた。

 優しいその音は四度鳴らされ、建物や石畳に溶けていった。


「僕、日が暮れる前に帰らなきゃ」

「行っちゃうの?」

「うん……。今日はありがとう。とっても楽しかったよ」

「ほんと?」


 リッケはくすりと笑い、ヨアンの顔をのぞき込んだ。あまりにもまっすぐリッケの眼差しが刺さってきて、ヨアンは少しどきりとした。


「だったらまた会おうよ。あの橋にいるから、いつでも来て。ね?」


 ヨアンは深くうなずいた。



     ×



 明くる日、仕込みを途中で小間使いに任せたおばさんが、ヨアンに町について聞かせてくれた。二つの広場のこと、細工師ばかりが集まった通りのこと、聖堂の壁のあちこちに彫られた星の飾りこと。どれもリッケが教えてくれた話だったが、ヨアンは何度もうなずいて、時々質問しながら聞いた。おばさんの話し方は聞いていて飽きなかったし、おばさんの言ったこととリッケの言ったことを比べて、リッケは本当に物知りなのだと確信した。


 昼近くになっておばさんがカウンターの中に入ってしまうと、ヨアンは店を飛び出した。人々の間をすり抜けて坂を上がると、橋のたもとに立っている影が見えた。


「やっぱり来てくれたんだね」


 ふふふ、とリッケが笑った。


「今日はね、まだ見てない方に行こうと思うんだ」


 ふたりはいったん広場に戻り、西へ向かう通りに入った。昨日見て回ったところより道が狭く、人通りも少ないように見えた。


 説明が途切れたところでヨアンは、


「ねえ」


と口を開いた。


「なあに?」

「リッケはいつからこの町に住んでるの?」

「うーん……」


 リッケは足元に視線をさまよわせた。


「生まれはここじゃないけど、長いこといるよ」

「そうなんだ、引っ越してきたんだね。もしかして都から?」

「ううん。都よりも遠くから」

「へえ」


 ヨアンは都に行ったこともなければ、それより向こうを見たこともなかった。どんなところなのと聞こうとしたところで、リッケの横顔を暗いものがよぎったように感じられて、彼はのどまで出ていた言葉を抑えた。


 やがて建物が途切れがちになった。石畳も消え、土の露わになった道が、背の低い草の間を走っていた。


「ここを下ると崖があるんだよ」


 リッケが白い指で示した先には確かに坂があって、途中から地面がなくなっているように見えた。ヨアンは少し尻込みした。そして、なんでもない様子で進んでゆくリッケの背中にあわてて叫んだ。


「危ないよ」

「大丈夫だよ、おいで」


 ヨアンは少しためらったが、かたつむりのようにゆっくり進みはじめた。一歩踏み出すごとに、頭の中では不運な自分が足をすべらせ、傷だらけになって転げ落ちてゆく。その幻を必死に振り払いながら、ようやくリッケに追いついた。


「ほら」


 促されておっかなびっくりのぞいてみると、草のちらほら生えた急な岩肌がずっと続いていた。底の方は木が茂っているようで、黒に近い緑が広がっている。


「や、やっぱり怖いよ」

「大丈夫だって。見たことない? 家の近くにないの?」

「うん、平たいところだから」

「そっか。ここはね、むかし疫病で死んだ人を捨てたり、殺しや火付けをした人を突き落として殺した場所なんだ。それ以外にも何年かにいっぺん、かわいそうな子どもだとか犬だとかが落っこちる……ずっと昔から、今でもね」


 リッケはいたずらっ子のように微笑んだ。ふわりと歪んだ唇が、楽しげで無邪気で恐ろしい。目が鋭く細められ、矢のようにまっすぐヨアンを捕らえた。


「ねえ」 


 ヨアンは、先ほどから騒がしかった心臓がいっそう高く、何かを訴えるように響くのを聞いていた。


「ねえ、僕もう十分見たよ」 

「ヨアンが言うならしょうがないなあ」


 ふたりは来た坂を戻った。そして草の上に座り、少し話をしてから別れた。


 その夜、おばさん特製のご飯をたらふく食べたヨアンは、おばさんと小間使いにお休みなさいを言ってベッドに寝転がった。布団は相変わらずふかふかで、かすかにラベンダーが香っていた。


 ヨアンは胸いっぱいにそのにおいを吸って、重たくなった瞼を閉じた。そしてぐっすり眠ることができそうだと思った時、あるものがふと彼の脳裏をよぎった。それはリッケの射抜くような瞳だった。その深緑の中へ、油断するとすべり落ちてしまいそうになる。ヨアンはベッドに体を押しつけて、嵐の過ぎるのを待つように縮こまっていた。しかし少しすると寝返りを打って窓を見やった。外では静かな影が広場も聖堂も呑み込んで、藍色の空が鎌にも似た鋭い月を迎えていた。ヨアンはやはり恐ろしくなって布団をかぶり、そしていつの間にか眠ってしまった。



     ×



 ヨアンが駆けてゆくと、橋の真ん中にいたリッケが彼の方へ歩み寄ってきた。


「昨日は来られなくてごめんね」


 なんとか息を整えてヨアンは言った。彼は昨日おばさんの仕事を手伝っていた。自分から申し出たのだ。手が足りていると断られたが食い下がり、卓の掃除や皿洗いの仕事を手に入れた。おばさんにはたいそう感謝されたし、客からは褒められたり冗談を言われたりした。そして小間使いは彼の様子をにこにこしながら眺めた後、奥に引っ込んでいつもより念入りに部屋を掃除することができたのだった。


 弁明が途切れたところで、リッケは首を振った。


「気にしてないよ。……でもね、明日から仕事が忙しくなっちゃうんだ。だから会えるのは今日が最後」

「そうなんだ」


 ヨアンも肩を落とした。しかし自分の中に、かすかな、それでいて確かな安堵が芽生えるのを感じた。


 それからふたりは町の中をあてもなく歩き回った。前の探険で見落としていた通りや店をリッケが指差して教えてくれた。そして大きな広場に出た時、ヨアンはあることを思い出した。おばさんに司祭への言付けを頼まれていたのだ。


「聖堂に寄ってもいい?」

「いいけど……外で待ってるね」

「どうして?」


 ヨアンが尋ねると、リッケは黙り込んだ。しかしそれは少しの間で、つとめて明るい口調で答えた。


「この間ね、司祭さまにひどく怒られちゃったんだ……会うとまた何か言われるかもしれないもん。だから待ってる。ね?」

「うん、分かった」


 一人で聖堂に入り、燭台の様子を確かめていた人に声をかけると、その人が司祭だった。おばさんからの伝言を聞くと、司祭は見ている方がほっとするような笑みでうなずいた。そして出てゆくヨアンを丁寧に見送った。この人を怒らせるなんてリッケは何をしたんだろう、とヨアンは心の中で首を傾げた。


 リッケは聖堂の裏手の糸杉にもたれかかっていた。軽くうつむき、木陰もあって表情は分からなかったが、ヨアンが手を振ると顔を上げて歩み寄ってきた。


 それからしばらく歩き、小さい広場にさしかかったところで、ヨアンは肩にかけている袋の口を開けた。そこには何枚かの硬貨の他に、紙にくるまれた拳ほどの大きさの物が入っていた。


 ふたりは近くの噴水の縁に腰を下ろした。


「いっぱい歩いたからお腹すいちゃった」


 紙を取り払うと、昨日の夕食の残りである蒸した芋が現れた。もう冷めてはいるが、振りかけられたパプリカの香りがかすかに鼻をくすぐった。


「なあに、それ?」

「仕事のご褒美におばさんがくれたんだ」


 ヨアンは芋を同じ大きさになるよう慎重に割り、片方を紙と一緒にリッケに渡した。リッケはそれを受け取り、まじまじと見つめた。


 ヨアンは心の中で短く祈ってから芋を頬張った。リッケも彼に続いて小さくかじりついた。


「おいしい?」

「うん」


 リッケがこくこくとうなずいた。


「おいしい。とってもおいしい」

「そんなに喜んでくれるなんて思ってなかったよ」


 ふたりは競うようにして平らげ、ふうと息をついた。そして座ったまま、人々が通り過ぎるのをぼんやりと見ていた。女たちの抱える籠からはパンのにおいがただよい、荷物を積まれたロバの蹄が石畳を鳴らした。


「僕ここに住みたいな」


 ヨアンは飛んできた小鳥たちを眺めながら言った。三羽の白い小鳥はちまちまと地面をつついていたが、リッケがちらりと視線を投げると逃げるように飛び去ってしまった。


「リッケもいるし、おばさんは明るくてお手伝いさんは優しくて……それに歩いてるだけでわくわくするよ」

「ほんと? 嬉しいな」


 リッケは笑った。しかしヨアンはその顔のどこかに、何かをごまかしているようなぎこちなさを見た。


「お父さんもお母さんも厳しいし……勉強はちょっと楽しいけど、次の先生が怖い人だったらどうしよう」

「ヨアンなら大丈夫」


 リッケは再び笑顔になった。今度はまじり気のない笑みだった。


「がんばるよ。ねえ、次いつ来れるか分からないけど、きっとまた会おうね。そうだ、今度は僕の村に来てよ! 何もないとこだけど、ちょっとなら案内できるから。リッケ、会えてほんとによかった」


 ヨアンはリッケの肩に手を回して抱きしめた。耳のすぐ隣でリッケが息をのむ音が聞こえ、それから自分の背中におずおずと添えられる手を感じた。



     ×



 村に帰ったヨアンは夕食の席で、おばさんや町のことについて思い出すままに話した。ただ、リッケのことには一言も触れなかった。両親は時々うなずきながら耳を傾け、それが終わると明日の仕事について彼に聞かせた。家を空けていた分、たくさんのことをこなさなければならないと告げた。


 虫のついた葉を取り除きながら、彼は時々リッケのことを考えた。仕事はうまくいっているだろうか。また叱られてやしないだろうか。それから、そのまっすぐな瞳を懐かしく、そして恐ろしいような気持ちで思い出した。


 町で疫病が出たという知らせが村に届いたのは、帰ってきてから何日も経たない時のことだった。




 終

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ホーフレアにて 藤枝志野 @shino_fjed

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