レニングラード

フカイ

掌編(読み切り)




 ヴィクターは1944年の春に生まれた。

 その頃、この街はレニングラードと呼ばれ、その前には、ペトログラードと呼ばれた。

 そしていまはサンクトペテルブルクと呼ばれている。

 最初の名前は、ヴィクターの祖国・大ロシアをヨーロッパの列強に引き上げたピョートル大帝にちなんでつけられた(ペテロ=ピョートル、グラードは「街」)。そしてレニングラードとはいうまでもなく、あの長き冬の時代、ソビエト社会主義共和国連邦時代にあっては、その建国の父「レーニン」の名を冠した。

 冬が開け、ソビエト連邦が崩壊した時、市民は自らの街を、ロシア正教がこの街を加護していた時代の、いにしえの呼称に戻した。すなわち、サンクトペテルペテロブルグというわけだ。

 ヴィクターは、レニングラードに生まれ、サンクトペテルブルグの墓に入ることになったというわけだ。

 ソヴィエト連邦がこの街を支配していた時代に生まれ、そして青春時代をすごした街。母なる大ロシアの文化を一身にまとい、ナチス・ドイツの猛攻にも耐えた誇り高き街、レニングラード。


 私とヴィクターが1987年に出会ったときも、もちろんこの街はレニングラードと呼ばれていた。ソヴィエト連邦の社会主義制度下でのこの街の印象は暗く、冷たいものだった。

 エルミタージュ、エカテリーナ宮といった欧州の歴史に深く名を残す豪華絢爛な建造物を擁してさえもなお、あの時のレニングラードの印象は明るくない。

 もちろん私がライブ・パフォーマンスを行ったオクチャーブリ大ホールでのオーディエンスは、熱狂的に私を迎え入れ、私のキャリアの中でも忘れがたい一夜になったのだけれども。

 それほど、ソヴィエト連邦は厳しい節制と硬い態度を市民に強いた。行列。沈黙。従順。

 北緯60度、真冬には氷点下30度まで気温の下がるこの街での社会主義体制は、人々に生き残るためのルールを与えた。希望の代わりに。


「ビリーさん」、とあの日彼は言った。

「あたしはね、こんな寒い街でも、ここが好きなんですよ」

 言って、彼はのままのウォッカのグラスを煽った。もし良かったら、一緒にワールド・ツアーを回らないか、などと差し出がましいことを言った私に、彼が微笑んで返した言葉だ。

 私はその頃、北米を中心に活動する、商業的音楽家ポピュラー・ミュージシャンだった。ロックやポップ音楽を作ってはレコードに吹き込み、コンサートをして回った。テレビやラジオに出演し、レコードを売り上げ、レコード会社を初めとして私の音楽を暮らしの糧とするスタッフを養った。コンサートでは私の故国であるアメリカを中心に、ヨーロッパ、オセアニア、アジアというワールドツアーを何度もこなした。時の大統領はロナルド・レーガン。ヴィクターの国の共産党書記長はミハイル・ゴルバチョフ。そしてヴィクターは、私の初の共産圏コンサートである、ソヴィエト・ツアーのステージの一幕で、ピエロを演じる道化師だった。


 ヴィクターは義務教育の年月を終了すると徴兵制度によって、しばらくの間赤軍にいた。

 ちょうど、フルシチョフとJFKが頭から湯気を出しながら、キューバに接岸しようとしている貨物船をどうこうしようとしていた頃の話だ。

 ヴィクターが、三杯目のウォッカを空けながら語った言葉によれば、その時彼の所属していたソヴィエト軍、レニングラード軍管区における高射ミサイル旅団は、第三次世界大戦、すなわち欧州での全面戦争を想定して、防空演習を繰り返していたとのことだった。

 後年、ロナルド・レーガンはソヴィエトを「悪の帝国」と呼んだが、ヴィクター自身もその頃、我々の故国を非道な極悪人の国家であると信じたという。南米に生まれたばかりの若い共産政権を、その強大な軍事力で蹂躙じゅうりんしようとする悪魔だ、というわけだ。

「上官や党はね、あなたの国がいかに世界を堕落させ、浪費させたかを説き続けていたよ。あたしもそれを信じたし、いざ事が起きれば、あたしの祖父がヒトラーと戦ったように勇敢に、西側の戦闘機に向かってミサイルを発射する気でいたよ。満足にパンさえ食べることができなかったというのに、基地の設備だけは常に精気にあふれていたからね」


 その頃小学生だった私は、ヴィクターとは対照的な防空訓練に明け暮れていた。

 教壇に立つ教師が我々生徒に笛を吹くと、我々はすかさず、自分の机の下にもぐりこむ、という練習だ。

 その30年後、映画館でターミネーター2を見て、ロサンジェルスが核攻撃で吹き飛ぶCG映像を見たとき、私は笑ってしまった。その恐ろしさに、ではない。あの頃の防空訓練の無意味さと、無邪気さに、だ。

 ビルを吹き飛ばし、立っている人間の皮膚を吹き飛ばし、骨を一瞬で粉にする核爆弾の威力を映像で見たとき、いったい教室の机の下に入ることにどんな意味があったろう?


 ミサイルを磨いていたヴィクターと、机の下に隠れていた私。我々は互いに、その牧歌的な恐怖心を笑い、世界が誤った方向にスイッチを押さなかったことに感謝して、もう一杯のウォッカをかかげた。


 「―――軍を辞めてからはね、いろんなことがあった。いろんなことがあって結局、あたしはサーカスのピエロになったんですよ」


 人民には節制と服従を求めたソヴィエト政府だったが、アイス・ホッケーと美しい交響曲、そして子ども達にはサーカスという娯楽を許した。その中でヴィクターは、高射ミサイルの次に入れ込める対象を見つけた。子ども達の笑顔だ。

 舞台の上で道化師は、言葉を話さぬ代わりに、ユーモラスなしぐさでおどけてみせ、バナナの皮に滑って転んでみせた。ジャグリングの妙技を披露しながら、軽妙なダンスだって踊った。それを見る子ども達は、口をポカンと開けたまま、彼の妙技に見入り、そしておどけた仕草に声を出して笑った。子ども達の笑顔と笑い声は、ソヴィエト政府が最後まで彼に支給してくれなかったものを与えた。生きる気力だ。

 彼は子ども達の笑顔のために生きた。共産主義を憎むことはしなかった。何故ならそれ以外の世界を知らなかったから。共産党の指導に従ってつつましく暮らし、ステージの上で子ども達に笑われることで、活力をもらってきた。


 私のコンサートに出演した時、彼はもはや、ロックンロールに心を動かされる年齢ではなかった。けれども私と同じようにステージの上でオーディエンスに向かってパフォーマンスをするという人間として、ロックンロールが若者に与える力を実感し、そして楽天的でほがらかな西側の文化を受け入れ、認めた。従順で寡黙な東側の市民でありながら、道化師という職業が彼にそういった明朗さを本能的に理解させたのだと思う。


 ツアーの最初のリハーサルの時と、最後のパフォーマンスの後のパーティーでは、彼の顔は全く違う輝きをしていた。

 彼は年若い私に言った。

 「あなたは素晴らしい」と。覚えたての英語で。

 私は彼に右手を差し出した。同じパフォーマーとして、彼の芸当に私も敬意を表した。私たちは握手し、そしてそれは抱擁になった。そして我々は杯を合わせ、互いに憎しみあってきた相手が、ただの人間であったことを“発見”した。

 東西が雪解けし、それぞれの国への訪問が自由になり、インターネットが国境を越えた今、ヴィクターの国の若者は、わが国の若手ミュージシャンの音楽を、YouTubeで視聴し、感想をコメント欄に書き込むことができるようになった。国は違っても、同じ音楽に胸を熱くすることが当たり前になった。

 しかしその時の我々は、ついこの間まで銃口を突きつけあい、悪魔だと喧伝けんでんされていた相手が、ただのロックンローラーとピエロだったことを、“発見”し、拍子抜けしたのだった。

 ツアーの間、私たちは時間を見つけては対話を繰り返した。互いに片言のロシア語と英語で。冷戦を生き延びた同世代の男として。あの時に互いが何をし、何を思っていたかを語り合った。


 コンサートパフォーマンスの最終日の翌朝、私を訪ねてニューヨークから幼い娘がやってきた。彼女の前で、普段着のヴィクターはちいさな道化芝居をしてくれた。おどけた表情でユーモラスに歩くだけで、娘はケタケタと笑った。そして背広のポケットから出したハンカチーフを器用に折りたたんでは、花や鳥を作って見せてくれた。娘の瞳は好奇心に輝き、言葉を越えたあたたかな交流がそこに生まれた。私の娘を笑わせるこの共産主義者の道化師を、私は心の底から尊敬し、愛した。

 私たちは別れ際、再会を誓い、いま一度固い抱擁を繰り返した。

 レニングラードに来るまで、私たちは互いに、真の友だちとは何たるかを知らずにいた気がした。


 あれからまた、長い年月が経った。

 私は商業音楽家としては一線を離れ、年老いた一人の男として、静かに暮らしている。あの時の娘は成人し、私と同じショービジネスの世界に入った。そしてヴィクターは、私に黙ってこの世に別れを告げた。

 サンクトペテルブルグと名前の変わった街から届いた、一通の手紙によって、私はその事実を知った。


 そして私はアエロフロートに乗る。

 10年ぶりに降り立ったこの北の、水の都は、やはり美しかった。

 春。

 何もかもが氷の世界から目覚め、キラキラと輝く一番素晴らしい季節に、ヴィクターは帰らぬ人となったようだ。

 空港でハイヤーを雇い、郊外にある墓地へと私は向かった。途中で花を買い、別れた友を想った。


 芝生の生い茂る印象的な墓地だった。白い石碑の下に、彼は眠っていた。

 私はそこに花を手向け、そして目を閉じた。

 ヴィクターと、ソヴィエト連邦と、冷戦と、防空訓練が、その石の下に眠っていた。やがて私も、自らの故国で土になる日のことを想った。その時は、天国でヴィクターとまたキツいウォッカを酌み交わそう。笑わせられてばかりだった道化師に、ロシア語のジョークを覚えていって、笑わせよう。そう思った時、自然に笑みがこぼれた。


 さよなら、友よ。


 私は外套のポケットから、ブルースハープを取り出した。

 私にできることはこれしかない。

 彼を思って作った歌を、鎮魂の思いをこめて、私は歌った。


 さよなら、同志、ヴィクター。


 西からの風が、温かな息吹を運んだ。

 私のブルースハープの音色は、かつてのレニングラードの空へ、消えていった。






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レニングラード フカイ @fukai

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