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マルムス

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「一週間くらいは腫れるし、違和感も有ると思うけど、大丈夫ですから。洗顔は普通にしてもらって構いませんよ。傷口に抗生剤を塗るのは忘れないで下さいね。」


 美容外科医として、朝比奈誠二の腕は優秀だった。更に、よくCMで宣伝をしている大手の美容整形外科に比べ、料金が破格的に安い。朝比奈がその気になれば、経営するこのクリニックを大きくし、既存のクリニックに対抗するのは十二分に可能な事である。しかし朝比奈は、他に人を雇い入れず、独りこの神戸で、ささやかで目立たない営業を続けていた。


「最後の方、どうぞ」


 単独で営業している為、朝比奈クリニックは完全な予約制であり、日に三~四人程度の患者しか診ない。その日、最後の予約は、去年から朝比奈の元で整形を始めた遠藤彩音だった。


 彩音は岡山県でも随分と北部の美作市から高校を卒業した後、両親の反対を押し切り、憧れていた神戸で独り暮らしを始める。しかし神戸とはいっても彩音の就職先は、街から遠く離れた田舎の工場で、普段は男性に混じり、ライン作業をただ黙々とこなすだけの毎日だった。


 工場勤務は福利厚生が充実しているが、単純労働の繰り返しで、彩音は直ぐに仕事に飽きてしまう。四日働いたら休日が来る。友達もいない神戸で、彩音は休日を持て余すようになって行った。


 土曜の夜は三宮の繁華街に出掛けたりした。出会い系サイトに登録して男性との出会いを探してもみる。しかし、彩音に素敵な出会いは訪れなかった。何故なら、彩音は容姿が特別に醜いからである。


 くっきり出張った頬骨に、更に肉厚で脂ぎった皮膚が乗っている。その肉厚な皮膚は、瞼にも重くのしかかり、腫れ浮腫んでいる様にさえ見える彩音の瞼は、彼女の醜さの象徴だった。


 独り暮らしが一年を過ぎたお盆休みの前日、彩音は有る決心を実行に移す。それは美容整形外科に行き、この重く腫れ浮腫んだ瞼を、綺麗な二重瞼に整形する事だった。


 大きなクリニックに行くのは気が引けた。大勢の患者が待つ待ち合いに行くことに気後れしてしまう。彩音は色々と調べた結果、朝比奈クリニックに辿り着く。そして、初めて切開法による瞼の整形手術を体験したのだ。


 十日間あった盆休みは買い込んだ食料で過ごし、一歩も部屋を出なかった。最初は見るも無残に腫れた瞼だったが、五日もすると腫れも引き、朝比奈が言う通り、一週間で完全に腫れは無くなった。鏡の前の自分を見る。瞼だけでどうこうなる顔立ちではなかったが、それでも、今迄に比べると、随分と綺麗になった気がする。そしていよいよ、お盆休みが明けて出勤の日が来た。


 その日は何時もより一時間早く起きだし、念入りにメイクをした。綺麗に見せると云うよりは寧ろ(むしろ)、整形が暴露(ばれ)ないよう、カモフラージュするのが目的だ。そして会社に行き、タイムカードを押した時から、小さく、それは極めて、小さく、彩音の世界に変化が訪れた。


 男性社員の態度が、以前より変わった。何がどう変わったのか、具体的に表現するのは難しい、しかし、整形をする以前の彼女が居た世界には無い、居心地の良さが、新しい世界には存在した。そうなると・・・


・・・もっと、綺麗になりたい・・・


 それは必然的な心の変化だろう。彩音は次の正月休みを狙い、醜く横に拡がった鼻の整形を朝比奈に依頼した。鼻の整形はダウンタイムが長いと聞いていたが、朝比奈は前回同様、一週間で人前に出られると確約をしてくれた。


 お盆休みと同様に過ごした正月休みが終わり、出勤の日が来た。彩音は暫く(しばらく)風邪を装いマスクを着用して出勤していたが、徐々にマスクを外す時間を増やし、周りの反応を確認してみる。 


 また、世界が少し変わった。最初は自分に見向きもしなかった男性社員たちから、飲み会に誘われるようになった。居心地の良さはまた広がり、それが自信となって、性格までもが明るく変化していくのを顕著(けんちょ)に感じる。


 ・・・整形って、なんて素晴らしいんだろう・・・


 それはもう自分の中で止める事の出来ない美への憧れだった。その想いに、彩音は部分的にではなく、全体的な整形を、数か月の入院を念頭に入れ決心した。


 朝比奈に自分の希望を伝えると、彼の算出した見積もりは350万円。時給980円で一日12時間の作業をし、手当てを含めても彩音の手取りは月額にして17万円に満たない。家賃、光熱費を支払い、食費を切りつめてみても手に残る現金はわずかに5万円ほど。


「先生、ローンは出来ないんですか」


「生憎と、小さなクリニックなので、ローンの取り扱いは、でも、ひとつ、良い方法があります」


「良い、方法?」


「ええ、私の所で、働きませんか」


「え、でも、私、何の資格も」


「いえいえ、ここのクリニックで働くのではなく、人探しを手伝って欲しいのです」


「人探しって、私なんかに」


「遠藤さんは今、どれくらいのお給料を」


「手取りで17万円くらいです」


「遠藤さんが希望する整形をしたとして、その顔を維持するのに掛かる月々のランニングコストが、ちょうど、それくらいの金額です」


「ええ!」


「暫くのあ間だけ夢を見る、プチ整形で良い。と云うのであればメンテナンスはしなくても構いません、しかし、整形手術は恒久的ではありません。肉体は年齢と共に老いますし、それに伴い、整形した箇所も随時、メンテナンスを必要とします」


 彩音は朝比奈の言葉に消沈する。やはり自分の様な田舎者には、過ぎた夢なのかと。


「遠藤さん、どうです、整形の費用350万円、メンテナンス費用、そして生活費の17万円を私が保証します」


「ほ、本当ですか」


「ええ、その代り、手術を行う前に、会社を退職し、今住んでいるアパートも解約し、私の所有する物件に移って下さい。携帯電話も私が用意するものを使用し、暫くは失踪の形で、ご家族との連絡も控えて頂きたい」


 朝比奈の要求は、何か怪しい匂いがする。彩音はもちろん躊躇いを感じ、朝比奈の申し出を断ろうとした。


「そうですか、残念です」


 しかし朝比奈はそれ以上深追いすることなく、そこで言葉を切る。


「先生はどうして他の人ではなく、私なんかに」


「親から貰った顔を変えると云う事は、少し勇気の要る事です。でも、ほんの少しの勇気で、遠藤さん、貴女の世界は、その勇気の分だけ、変わった筈です」


 朝比奈の言う事はもっともだった。顔が美に傾いた分だけ、確実に彩音の世界は明るさを増している。


「顔が美しくなるだけで、自分の世界が光り輝きだす実感をしたからこそ、遠藤さんは次の大きな決心をした。違いますか」


「はい、その通りです」


「私はその遠藤さんの勇気を評価した。私は事情が有って、自分で興信所に依頼したり探したりする事が出来ない。だからと言って、誰でもいいと云う訳でもない。私には、勇気のある理解者が必要なのです。もし、遠藤さんにもう一歩、先に進む勇気が芽生えたら、またお知らせください、私は、自分が認めた、勇気ある貴女に、私の依頼を引き受けて頂きたい」


 朝比奈はそう言うと、封筒に入った錠剤を彩音に渡す。


「これは」


「肥満を防止する薬です。美容整形の大敵は肥満ですから。太らないように充分、食事には気を付けて下さい」


 彩音は帰宅し、朝比奈の言葉を反芻した。二度の整形で調子に乗り、少し気を抜いて太ってしまぅた自分を朝比奈は的確に見抜いていた。そして朝比奈の言葉はやはり間違いなく自分の心の琴線に触れて来るのだ。


 ・・・先生は、私を良く理解して、こんな私を必要としてくれている・・・


 入院を覚悟した時に、今の会社を退職する覚悟は出来ていた。それ以前に、別人のようになった自分を、親はもちろん、過去の自分を知る人に見せる事など出来はしない。


・・・その代り、手術を行う前に、会社を退職し、今住んでいるアパートも解約し、私の所有する物件に移って下さい。携帯電話も私が用意するものを使用し、暫くは失踪の形で、ご家族との連絡も控えて頂きたい・・・


 殆ど喧嘩同然で郷里を飛び出して来た彩音は親に連絡などしていない。考えてみれば、朝比奈の出す条件は、彩音にとって何一つ不利益をもたらすことは無いのだ。考えながら彩音は無意識に冷蔵庫を開き、そこでふと我に返る。


・・・肥満は美容整形の大敵・・・


 彩音は水のペットボトルだけを冷蔵庫から取り出し扉を閉める。そしてついさっき、朝比奈に処方された錠剤を封筒から取り出した。「1回2錠、12時間の間隔を空けて服用」そう説明書きされた白い錠剤はセルロイドの袋に一回分ずつ小分けされて三回分入っていた。彩音はそれを開封し、水で喉に流し込んだ。


 暫くすると、それまで感じていた空腹をまるで感じなくなる。それどころか、何だか今までには無いほど、気持ちが前向きになって来るのだ。それまで心にのしかかっていた朝比奈に対する不安がことごとく晴れて行くのを感じる。朝比奈の整形で別人のように美しくなった自分を夢想するともう、そこにネガティブな自分は消えて無くなっていた。


 何も悩むことは無くなった。彩音は携帯を取り出し、朝比奈クリニックのホームページにアクセスし、翌日の予約を入れ浮き浮きとして布団に入る。ところが、まるで眠れない。美しくなった理想の自分が頭の中でエンドレスに浮かび、嬉々として一向に眠れないのである。


 生まれた時から女性でありながら、醜い容姿ゆえに、女を意識しないように生きて来た。普通の女の子達の様に恋をしたり、オシャレに気を使ったり、そんな事からは遠く離れて地味に生きて来た。自分の様な醜い女は、一生、男に抱かれる事も無いと諦めて生きて来た。思えば醜いが故に多くのものを諦めて、自分は生きて来たのだ。しかし、整形で美しい外見を手に入れれば、今まで諦めて来たそんな総てが手に入るのかもしれない。


 抱かれてみたい、自分が恋する相手に、思い切り、潰れるくらい抱かれてみたい。やがて彩音の両手は、彩音の敏感な部分に延び、彩音は自慰に至る。激しく動く自分の指先が、これまで押し込んでいた欲求を次々に剥いで行くと、そこには剥き出しの自分が存在していた。


・・・本当の自分は、こんなに、こんなに・・・あぁ・・・欲している・・・


 そして翌日の夕方・・・


「最後の方、どうぞ」


 朝比奈に呼ばれた彩音が診察室に入る。


「先生、昨日、戴いた話ですが」


「お受けになりますか」


「はい、でも」


「でも」


「事情をもう少し話しては貰えませんか」


「引き受けて頂けるなら、お話しますが」


「分りました、お引き受けいたします」


 些末な不安が頭を過ったものの、彩音は朝比奈の乞いを受ける確約をした。


「ありがとうございます遠藤さん、私は、ある男性を探しているのです」


              Vagabond


「引き戻し」


「そうや、引き戻しの調べをやる。お前、起訴されてない、引っ張って来たばっかりの容疑者、ちゃんと調べる自信、あるんか」


 本来ならここ四課ではなく、二課が相当だろう才気走った霧島淳司の視線が菅原健一を見据える。


「それは・・・」


「まぁ、そうやろなぁ。そやからや、もう拘置所に送致されて刑も確定している既決の者を、余罪の可能性があると云う事で、留置所に逆送致して、調べ直しをするんや、お前がな」


「え、僕がですか、あの、余罪って」


「シャブに決まっとるやろ。シャブの連中は、叩けばいくらでも余罪は出て来る、心配すんな」


「でも、そんな重要でもない事を、敢えてやる必要が・・・」


「だからぁ、お前の練習用や言うてるやろ。ええか、検察が起訴したい被疑者を相手にお前が下手を打ったらどうなる、検察の顔に泥を塗ることになる、そうやろ」


「それは、そうですが」


「こいつはもう刑が確定しとるから、お前が下手を打っても、検察にも裁判所にも害が及ぶことは無い。これは研修や。リラックスして、調べの練習してこい」


 煙草を吸わない菅原は、刑事部屋を出ると喫煙室を通り越し、飲料水の自動販売機へと向かう。彼がここの販売機で飲み物を買うのには訳がある。甘いものが大好物な彼が好んで飲む、不二家のピーチネクターが置かれているからだ。小銭を入れ、何時ものボタンを押すと、彼の好物がガチャンと受け口に転げ落ちてくる。


 ・・・もう罪を認めて裁判も済んでいる者を引き戻しなんて・・・ここの人は、本当に、犯罪者を人間と思っていない・・・


 視線をどこか遠くに於いたままプルタブを開け、その甘すぎる程に甘い液体を口に含むと、その甘さは何時ものように、菅原の脳を刺激してセロトニンを分泌してくれた。


 ・・・失敗した・・・大阪府警なんて、警察なんて受けるんじゃなかった・・・でも公務員たって・・・教師だけは・・・なりたくなかったしなぁ・・・


 菅原は教師にだけはなりたくなかった。それは彼の両親が、二人とも教師だったからである。


 清廉潔白な彼の両親は、自由と平等の名の元、酷く左寄りの思想を持ち、自分達の教え子に、国家を歌う必要はないと、常日頃から教育を敷いているような人物だった。幼い頃から軍隊、銃器、ミリタリー系が異常に好きだった菅原は、そんな両親が苦手で仕様がなかったのだ。勿論、人として嫌いと云う訳ではないし、左翼思想を否定するものでもない。世の中に左翼思想が無くなる事は危険な事である。共産主義国に利用されてばかりの左翼政治家は嫌いだが、しかし、左翼主義の両親を嫌いと思った事は一度も無い。


 そんな菅原が防衛大学を受験したいと告白した時、父は卒倒し救急車で運ばれ、母は自分の村を焼いた山賊に向ける様な目で彼を睨んだ。その母の目に気押されて、彼は仕方なく、夢だった海上自衛隊を諦め、せめて銃器を手に出来る、この警察と云う職場を選んだのだ。


 成績の良かった彼は、地元の神奈川県警にも合格の内定を受けていた。しかし、彼は敢えて、両親の元を離れたいがために、この大阪府警を選んだのである。そしてそれが間違いだったと、彼は今、この瞬間、その想いに打ちひしがれている。


「おい、行くぞ」


 菅原がネクターを飲み終える頃、霧島が喫煙室で煙草を吸い終え、菅原に声を掛けて来る。だいたいこれが、このバディの出動に於ける暗黙の了解だった。菅原は心得て空き缶をごみ箱に捨て、霧島に順い、覆面パトカーに乗り込んだ。


                 2

「これから神戸拘置所に容疑者を逮捕に行く。容疑者の名は藤井春樹、ニ十八歳。確定している罪名は覚せい剤の使用、判決は一年と七か月や」


「引き戻しの調べで余罪が出たら、この男の刑はどれくらい伸びるんです」


「知るかいそんなもん、プラス半年ぐらいやろ。つか、それは裁判官の仕事や、お前は調べの練習に専念したらええねん」


「覚醒剤を使うだけで、一年七か月か、厳しいですね」


「覚醒剤はな、犯罪のだしの素なんじゃ。どんな犯罪でも創り出す素じゃ。もし覚醒剤がこの世から無くなったら、犯罪の三分の一は消えて無くなる。覚醒剤ってだしの素の所為で起こる犯罪がどれほど多いか。だから、他人に危害を加えていなくとも、覚せい剤事犯の量刑は重くなっているんや。つかな、シャブなんかやる奴は死刑でええねん、死刑で」


 神戸拘置所は、大正7年(1918年)4月 現在の神戸市中央区橘通に「神戸監獄橘通出張所」として設立され、現在の神戸市北区ひよどり北町に、昭和53年(1978年)12月に移転し現在に至る。この古びた施設は、外観からして、もはや廃墟の佇まいさえ思わせる。そんな施設のかび臭い待ち合いで、藤井は彼らが到着するのを待っていた。


「ご苦労様です」


 霧島は待機していた刑務官に短い挨拶をし、藤井を一瞥するだけで菅原に顎をしゃくる。


「あの、藤井春樹さん、ですね、貴方にですね、少し聞きたい事があるので、ご同行願えますか」


 それを横で聞いていた霧島が呆れ顔で菅原の後を続ける。


「おい藤井、お前、まだ喋っていないことがあるやろ」


 藤井は菅原から霧島に視線を向けるが、動じる事の無い沈黙を保っている。


「なんやお前、黙秘権の積りかい、まあぁええ、今からきっちり締め上げたるさかいなぁ、大阪府警なめんなよこら」


 藤井はしかし、まだ動じた様子もなく再び菅原に視線を向ける。


「さ、さぁ、行こうか」


 菅原は藤井に手錠を嵌めると、三人は覆面パトカーに乗り込み、一路、東大阪署を目指す。大阪までの車内で会話はなく、その重たい空気は、被疑者の藤井より、むしろ菅原のメンタルを蝕んだ。


「さぁ、着いた、お前はこいつを留置管理に預けて来い。おい、藤井、調べは明日からじゃ、覚悟しとけよ、今日のうちに、自分が吐いてない悪事を、ちゃんと頭の中で整理しとけ!」


 菅原はこれが苦手だった。それは人権主義を貫いて来た両親の教育の所為もあるのだろうが、この東署の、人を人と思わぬ扱いが菅原の心を暗くするのである。どんな人間でも、生まれた時は真っ白なのだ。人を犯罪者に仕立て上げて行くのは、概ね、本人の意思ではなく、環境に原因があるのだと菅原は考えている。しかしここでは、犯罪者に人権は無い。否、犯罪者と疑われた時点で、罪を犯していなくとも、その人の人権はなくなるのである。


 ここの刑事は皆、小説家の様だった。現存する事実と事実を空想でつなぎ合わせ、自分達の都合の良いストーリーを描き、否、調書を捏造し、犯罪者を生産している。こんな事で犯罪を検挙したと言えるのだろうか。そもそも、犯罪検挙に、暗黙のもとノルマが存在しているということ自体、それを正義と言えるのだろうか。


 菅原は藤井を留置管理に連れて行き、身ガラを引き渡すと霧島の元に戻る。霧島は喫煙所で一課の木村と話をしていた。


「木村、なんや、エライてこずってるみたいやなぁ」


「あぁ、監視カメラの映像で犯人の面も割れてるんやが、どないしても身元が洗えん」


「不法入国者は」


「一応アジア系の不法滞在者は全部調べてるけど、無いなぁ、どない見たかって、この女、日本人やろ」


「そうやなぁ、中国でも韓国でも、なんぼ整形しても隠せんお国柄があるからなぁ、この女は間違いなく日本人や」


 五分ほど外で霧島を待っていると、それに気が付いた霧島が木村に小さく礼をして喫煙所から出て来る。


「おい、菅原、ここは関東やない、大阪や」


「はい」


「藤井春樹さん、彼方にお尋ねしたい事があるので、ご同行ってお前、あれなんや!」


「すいません」


「すいませんやあらへん、大阪の犯罪者はなぁ、こすいんや」


「こすい?」


「狡賢いって事や。お前、あんなんじゃ、万引きも立件でけんぞ」


「はぁ・・・」


「犯罪者はな、最初が肝心なんや、最初にガツンとかましとかな、なーんにも吐きよらへん。関東には関東の、大阪には大阪のやり方が有る。大阪に馴染めんなら神奈川県警を受け直せ」


 霧島は悪辣な顔でそう言うと、また喫煙室に戻って行った。


 警察官と云う職業になんの価値観も持たず、ただ銃器に触れたいだけでこの世界に入り、両親から離れたい一心で大阪府警を選んだ自分の愚かさに、菅原は消沈するばかりである。 


 自分が思う誠実さや正義とはかけ離れた場所で、うしろめたいと感じながら仕事を続ける毎日。それに疑問を持つ事を許さない環境。誠実さも正義も捨てて、その事に何の疑問もさしはさむことなく、このまま何十年も生きて行く。それを想像すると菅原は無期懲役の囚人であるかのような錯覚に陥る。


 菅原はデスクに戻る前に自販機でネクターを買い、プルタブを開けそれを一気に飲み干す。何が変わる訳でもないが、その甘さが齎す脳内物質の作用に少し癒された。


菅原はデスクに座ると藤井に関する資料を読み始める。取り調べとは、事件に関する情報だけを入れておけば良いと云うのではない。被疑者の共感や信頼感を引き出すために、被疑者の生い立ちまで一応、情報を入れておかねばならない。それは誠実とは遠く乖離した詐欺行為だ。


・・・せめてこの被疑者に対して、出来るだけの事をしてあげよう・・・


菅原は真摯に被疑者の生い立ちについての資料を捲った。


 この藤井春樹と云う男にこれといった非行歴は無かった。両親は共に健在で敬虔なクリスチャンであり、不誠実さや犯罪因子の誘発とはかけ離れた家庭環境で育っている。


兄弟は無くひとりっ子。公立高校を卒業するまでは、どこにでもいる平凡な子供だった様だ。


 大学には進学せず、理容美容の専門学校に入学。美容室にインターンとして就職をし、働きながら学校に通っていた。藤井に変化が訪れたのは、親元を離れ一人で暮らすようになってからである。


 独り暮らしを始めた藤井が最初に犯した犯罪は、万引きだった。美容室からの給料があり、更に親からの仕送りも有った彼が金に困って物を盗むと云う事は無い。


彼が店頭から盗んだ物、それは女性用の下着だった。何故そんなものを盗んだのか。本人は頑なに口を噤んで動機を話さなかった。


 店舗に対する謝罪、弁済も行われ、店舗側が被害届を出さなかった為、事件は立件されないまま起訴猶予となり事なきを得た。そこから、藤井の奇妙な転落が始まって行く。


 この事件をきっかけに、藤井は資格習得もしないまま中途で学校を退学し、契約していたアパートからも夜逃げ同然で行方をくらませている。住所不定になった彼は、西成区の路上で職務質問にあい、覚醒剤の陽性反応が確認され逮捕されていた。


「なんやお前、まだおったんかい」


 刑事部屋に戻った霧島は、熱心に資料に目を通している菅原にそう声を掛けた。


「お疲れ様です。霧島さん、この藤井って男」


「内容、理解したか。そいつは、単なる、変態。変態仮面や」


「そう、でしょうか・・・」


「なんや、女もんのパンツ盗む奴が変態以外の何者や言うねん」


「確かに、何か屈折した部分はあるのでしょうが、変態と云うなら、例えば、家の軒先から盗むだとか、コインランドリーで盗むだとか、何故、新品の下着なんでしょう。別にこのご時世、欲しければ通信販売で購入する事が出来る筈なのに」


「あっはっはっ、ポン中の変態男が考える事なんか判るかい、疑問に思うなら、明日からじっくり、本人に訊いたらええけんどな、そんな事をいちいち疑問に思てたら、仕事にならんわい。まぁ、その内に解って来るけどな。人間のクズは、人間のクズ以外の何者でもない。クズに肩入れなんかしたら身を亡ぼすだけや。ほなら、わしは帰るからな」


「あ、はい、お疲れ様でした」


                 3

 翌朝、菅原が出勤すると、もう霧島は木村と喫煙室に居た。意を決した菅原は喫煙室の扉を開く。


「おはようございます」


「おう、おはようさん、お前か、神奈川県警を蹴って大阪府警に来たアホな関東もんて」


「おい木村、それは無いやろ、これでも四課のホープやで、ホープ」


 どうにもフォローにならない霧島の言い様に、菅原は愛想笑いを浮かべ、二人の前に腰かける。


「なんや、珍しい、一本吸うか」


 木村が意地悪気に自分の煙草を菅原に差し出すと、菅原は黙って小さく礼をしながら木村の煙草を一本抜き取る。。


「おいおいおい、菅原、何を意地になっとんねん、煙草なんか吸わんに越したことない、やめとけ」


 菅原が抜き取った煙草を、今度は菅原の手から霧島が抜き取る。木村はそんな菅原を見て口角を上げ菅原に質問する。


「菅原、今、一課が追っている殺人事件、知ってるな」


「はい」


「概要は」


 木村たちが追っているこの事件は、非常に猟奇性の高い連続殺人事件だった。この度の被害者女性は二十代前半、大阪南の繁華街にある風俗店に勤務していた。被害者は帰宅後、彼女を訪ねて来た女を部屋に入れている事が監視カメラの映像から判明している。そして、三時間後、その女は部屋から立ち去っており、その後に被害者の無残な遺体が発見されている。


 殺された女性たちに接点は無く、ただ風俗嬢と云う点と、麻薬の陽性反応が出たと云う点んだけが共通していた。


女性の遺体は殺された後、身体の前面、顔から太股辺りまでの皮が慎重な作業で剥ぎ取られている。それは包丁やナイフではなく、もっと鋭利な、カッターナイフ、或は、手術用のメスで行われていた形跡がある。


 そして同様の手口で十代後半から二十代前半の女性が過去、一年に一度、合計三名が殺されているのだ。


監視カメラが捉えた映像から必死の捜査がなされたが、全く同一人物らしき人間を特定出来ない。そして犯行が余りに男性的である事。女が一人で行った犯行にしては物理的に無理がある犯行だった。かなり体力のある女でも難しい犯行内容。もしかしたら共犯の男が存在するのか。それにより捜査は難航し、一課は未だ犯人を特定出来ずにいた。


「菅原、この手口、犯人の意図はなんやと思う」


「犯罪心理学で言うところの、サイコパスの類・・・ですかね・・・」


「サイコパスてなんや、説明してみい」


「あ、はい、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアの定義によると、良心が異常に欠如している。他者に冷淡で共感しない。慢性的に平然と嘘をつく。行動に対する責任が全く取れない。罪悪感が皆無。自尊心が過大で自己中心的。口が達者で表面は魅力的。だった様に思います」


「頭ええのぅ菅原。凄いやないかお前、流石は神奈川県警にうかるだけのことはあるやないか。そやけどな、そんなもん、何の役にも立たへんわい。わしから言わせたら、麻薬に手を出してる時点で、皆そいつらはサイコパスみたいなもんや。麻薬の為なら平気で嘘を吐く、人を売る、他人を陥れる事にも、他人を殺す事にも、何の躊躇いも無い。麻薬中毒はなぁ、全員サイコパスなんじゃ!」


 木村はそう言うと、野良猫を追い払う様な手つきで菅原を喫煙室の外に追い出す。


「おい、霧島」


「なんや」


「俺らも、入りたての頃て、あんなんやったんかいな」


「アホか、あそこまで酷ないわい。あいつは刑事には、向いてない。まぁ、一年と持たんやろ」


「そうやなぁ・・・」


                 4

 木村に喫煙室を追い出された菅原は、そのまま留置管理に足を向けた。しかし取り調べの時間は9時からであり、まだ藤井を取り調べに出すには1時間以上ある。


「昨日はよく眠れましたか」


 菅原は鉄格子の向こうで静かに目をつぶる藤井にそう声を掛けた。


「ええ、お蔭さまで。あの、菅原さん、でしたっけ」


「ええ」


「彼方は、関東の人、なんですか」


「はい、実家は神奈川です、それが何か」


「いえ、大阪の警察官はみんな、ヤクザみたに柄が悪いのに、菅原さんはとても紳士的だから」


 藤井の話す声の質は、高品質のオーディオの様に発音の粒立ちが明瞭で耳に心地よい。菅原は、初めて話すこの藤井と云う青年に、その声の質から少なからず好感を持った。


「取り調べは9時からです、準備、しておいてください」


「分かりました、あの、菅原さん、ひとつお願いをしてもいいですか」


「なんでしょう」


「ここの留置管理の購買日が昨日で、煙草を買えなかったんですが、何とかなりませんかね」


「あぁ・・・分りました、煙草ですね、考えておきます」


 警察署によって様々ではあるが、留置されている被疑者は所持金さえあれば、コンビニで販売されている程度の物品なら、購入することが出来る。多くは菓子や煙草等の嗜好品を被疑者は購入する。しかし、気が向いた時に注文が出来ると云うのではなく、週に二回、ないしは一回、購買日があり、その時にしか物品の購入は出来ない。


 菅原は留置管理から出ると、藤井の煙草を買いに署の西側に在るコンビニに足を運んだ。本来なら購買日以外での物品購入は禁止である。それを押してまで何故、自腹で被疑者の煙草を購入する必要があるのか、菅原は自分でもよく理解出来ていなかった。


初めて単独で取り調べをする事に対する緊張だろうか。得体の知れない罪悪感の所為だろうか。まぁ、話が途切れた時のつなぎにでもなれば。そんな軽い気持ちで、菅原は煙草とライターを買い、署に戻った。


 そして8時55分、菅原は再び留置管理に行く。逃亡防止用の腰縄を打たれ、手錠を填められた藤井は、静かに菅原が来るのをその姿で待っていた。


菅原は留置管理の係員に一礼をすると、藤井を連れて取調室ではなく、先ず、刑事部屋へと足を運ぶ。


「さぁ、入って」


 菅原に促され藤井が部屋に足を踏み入れる。すると、そこに待機していた刑事の全員が、親の仇の様な目で藤井を睨みつけるた。


「おい藤井、あいさつは!」


 入り口に一番近い場所に座っている刑事が、直ぐにでも殺人を犯せそうなほど冷たい目で藤井にそう言う。しかし藤井はそれに臆する様子もなく、その刑事の求めに応じ挨拶をする。


「おはようございます」


「おい、藤井、ここは会社ちゃうねんぞこら、何がおはようございますや、これより取り調べ、よろしくお願いしますやろ!、言うてみぃ!」


 完全なる威圧だった。別に挨拶の文言など何でも良いのである。しかし、被疑者を先ずは口汚く罵り、否定的にねじ伏せるところから、ここ東署の取り調べは始まるのである。


「これより取り調べよろしくお願いします」


 藤井は感情を表すことなく冷静に、その刑事の指示に従いそう言う。


「なんや、その蚊の鳴くような声は!声が小さい!もっと大きな声で言わんかい!」


 藤井はしかし、それでも冷静な顔のまま、息を大きく吸い込み、渾身の大声でその文言を繰り返して言った。


「これより!取り調べ!よろしくお願いします!」


 藤井の声には恐ろしいばかりの音圧があった。まるで真空管アンプから叩き出される様な、ウォームで太く、それでいて粒立ちの明瞭(はっきり)としたエッジの利いた高い声。その響き渡る声に、威圧していた刑事が逆にたじろいだ。


「そ、そうや、それでええねん、菅原、霧島さんに最初は見てもらえ」


 その刑事が着席するのと同時に、霧島が藤井から少しも目線を逸らすことなく席を立つ。


「ほな行こか、藤井君よ」


 霧島は二人の先に立ち刑事部屋を出て、取調室へと向かった。


「余裕やのぉ、藤井君」


 比較的に新しいこの署の取調室は痛みも無く清掃も行き届いていて清潔だった。室内には大通りを見下ろす窓があり、窓の反対側にスチール製の机が置かれ、パイプ椅子が二つ体面に据えられている。霧島はその椅子には腰掛けず、奥に収納してある別のパイプ椅子を取り出し、それに腰かけた。


「まぁ、座りんかい、藤井君」


 藤井は霧島に従がい、パイプ椅子に腰かけようとする。


「待たんかいこら、誰が腰掛けてええ言うた、おお、椅子の上に正座や、正座したらんかい」


「き、霧島さん」


「菅原、お前は黙っとれ!」


 霧島は床ではなく、パイプ椅子の座面に正座する様、藤井に要求する。


江戸時代、十露盤板(そろばんいた)と呼ばれる三角形の木を並べた台の上に罪人を正座させ、そこに石を乗せる石責めと云う拷問が有ったが、パイプ椅子の座面は小さな正方形で簡易的なクッションはあるが、正座すれば丁度、脛が座面の枠となっているパイプに当たり、簡易的な拷問になる。


しかし藤井は、それでも尚、冷静な表情のまま霧島の指示に従い、パイプ椅子の座面に正座した。


「て、手錠、外しますね」


 菅原は藤井の手首から手錠を外す。


「菅原、その外した手錠、後ろ手にもう一回、填(は)めたらんかい」


 パイプ椅子の座面に正座した状態で後ろ手に手錠を填められたら、藤井の全体重が脛に掛かる。それは最早、簡易的どころではなく、完全な拷問に値する。


「ちょっと、霧島さん、そんな」


「お前は黙って言う通りにしたらええんじゃ」


「で、出来ません」


「なんやとこら!手錠かさんかい!」


 霧島は青ざめた顔で指示を拒否する菅原から手錠を取り上げ、乱暴に藤井を後ろ手に手錠を掛ける。さすがの藤井もその途端、苦悶を露わにし、歯を食いしばった。


「どないや、藤井君よ、まだ余裕か、おお」


 霧島は菅原を無視したまま、藤井の左後方のパイプ椅子に再び腰掛ける。


「ここは、大阪府警、東大阪署や。昨日、言うたよなぁ、大阪府警舐めんなよて」


 しかし藤井は、それでも霧島の言葉に反応をしない。


「お前、勘違いすんなよ。お前はもう、判決の出た犯罪者や、未決の被疑者やない、と云う事はや、お前は、人間ではなく、虫けらって事や。そこ間違えるなよ、ああ」


 虫けらと霧島に口汚く罵られた時、藤井の口角が惨めに歪み、彼の目に一瞬の涙が浮かんだのを、菅原は見た。


「菅原、後は任せたぞ」


「は、はい」


 霧島は立ち上がり、もう藤井に一瞥もくれることなく、否、お前など見るにも値しないと云う態度で、取調室を出て行った。


「大丈夫かい」


 霧島が出て行くと直ぐに菅原は席を立ち、藤井の手錠を外し、正座を解く。藤井はパイプ椅子に座り直したが、項垂れたままで何も言わない。


 ・・・こんな事が、日々、繰り返されているのか・・・


 菅原は改めてこの現状について考えてみる。彼はもう裁判を受け、刑も確定しているのだ。それを適当な理由を付けてまた警察に逆送致し、新人警察官の取り調べの練習用に使うと云う事が、果たして許される事なのだろうか。


更に酷いのは、霧島の藤井に対する扱いである。自分たちの都合で、生きた人間を、この様に酷い扱いで利用し、終わった事を蒸し返し、必要のない余罪を捲り、罪を重くして刑務所に打ち込む。


 勿論、彼が罪を犯した事に変わりはない。しかし、彼は他人に危害を加えたわけではない。自分は、彼の何を憎めば、霧島の様な振る舞いに及べるのだろう。どの様に考え、どの様にすれば、彼を虫けらとして扱えるのだろう。


 菅原は、図らずしも自分のしている事に対する罪の意識で藤井に声を掛けることが出来なくなり、そこで自分のポケットに仕舞われている煙草とライターの存在に気付く。


「あの、これ、良かったら」


 菅原は項垂れたままの藤井の前に、煙草とライター、そして机の引き出しから取り出した灰皿を置く。すると、藤井は漸く顔を上げ、菅原に視線を向けた。


「覚えていてくれたんですね、もう当分吸えないと思っていたから、嬉しいです」


 藤井はそう言うと、菅原が差し出したそれに手を伸ばす。未決であっても、拘置所に移送されれば、煙草は買うことが出来なくなる。つまり、強制的に禁煙するより他ないのだ。


「ごめんね、僕は煙草を吸わないから、銘柄、適当に選んだんだけれど、それで良かったのかな」


 藤井は煙草の筒先にライターで火を点け、思い切りよく煙を吸い込むとそれを吐きだしながら言う。


「煙が出れば何でもいいですよ、旨い。ありがとうございます」


 吐き出した煙の向こうに在る藤井の顔に、菅原が初めて見る彼の笑顔があった。


「藤井君って、ジャニーズに居そうだよね」


 藤井は身長が160センチ有るか無いかの小柄な男だった。撫肩で痩せていて、ふとした角度から見ると女性にも見えるほど線が細い。卵型の輪郭に高い鼻梁が通り、張りのある白い肌と涼しげな二重瞼は、更に彼の女性的な印象を際立たせている。


「あはは、よく言われます、それ。僕も菅原さんの印象、言ってもいいですか」


「あ、うん、僕は他人から、どう見えてるいのかな」


「甘いものが好きでしょ」


 藤井は自由になった右手の人差し指で菅原の下腹を指さした。


「あはは、バレたか」


 藤井のその指摘に、菅原が自分の下腹を摩りながら道化(おどけ)て見せると、先程の緊迫した空気は、藤井が菅原のそれを笑いながら吐き出す煙草の煙に溶けて行った。


「ところで、僕は何の容疑でここに連れてこられたんですか」


 藤井のそれに、和んだ空気の中、菅原の顔が陰る。


「それは・・・」


「いいんですよ、よくあるんでしょ、こういう事。拘置所で同じ部屋に居た懲役太郎が教えてくれました。僕、菅原さんの練習用に、引き戻されたんですよね」


「藤井君・・・」


「刑期は少し伸びるけど、もう一度煙草が吸えるって言われて、それを楽しみにしていたんです」


 ・・・知っていたんだね、藤井君・・・


「なので、もう一本、戴いてもいいですか」


「もちろん、好きなだけ吸ってくれて構わない、そうだ、藤井君は、甘い物、好きなの」


「大好きですよ、菅原さんと同じで」


「僕はね、不二家のピーチネクターが、大好きなんだ」


「あぁ、それ、僕も大好きです、売っている販売機が少なくて、買うのに困りますよね」


「そうなんだ、でもね、ここの署の販売機、珍しく置いてあるんだよ」


「そうかぁ、じゃ、その下腹は、不二家のピーチネクター太りなんですね」


屈託のない藤井の笑顔と心地よい声に、菅原は改めてこの男が何故、覚醒剤になど手を出したのか、それに疑問を覚える。


「藤井君、仕事だから、君の情状、少し調べさせてもらったけど、君はご両親も健在で、美容専門学校に入学し、独り暮らしを始めるまでは非行歴も無く、至って真面目な人生を送っている。そんな君がどうして覚醒剤なんかに。こうして話しをしていても、僕は君に悪い印象を持つどころか、良い印象さえを受けている」


 菅原は自分の思うところを、包み隠さず藤井に話す。


「菅原さん、彼方みたいな人がどうして警察官になんかに・・・良いんですか話しても、長くなりますよ」


「大丈夫、是非、話して欲しい」


 藤井は建前ではなく、本気で自分に興味を示す、この稀有な新人警察官を前に、とても複雑な笑顔を見せ、自分を語り始めた。


「菅原さん、LGBTを御存じですか」


 藤井のその唐突な質問に菅原が応えるのには、一瞬の間を要した。


「あ、あぁ、知ってるよ、確か」


 LGBTとは、「Lesbian(レズビアン)」、「Gay(ゲイ)」、「Bisexual(バイセクシュアル)」、「Transgender(トランスジェンダー)」の4つのセクシュアル・マイノリティを表す言葉である。レズビアンは女性の同性愛者、ゲイは男性の同性愛者、バイセクシュアルは同性愛者を意味していて、また、ゲイという言葉は同性愛者全般を意味する場合もある。


「藤井君、君は・・・」


「僕は、LGBTじゃない」


菅原も複雑な顔で藤井を見る。


「LGBTをご存知なら、性同一性障害とトランスジェンダーの違いもご存知ですよね」


「いや、そこまで詳しくはないんだけれど」


「そうですか」


 Transgenderはラテン語で「乗り越える・逆側に行く」を意味する「Trans」という言葉と、英語で「性別」を意味する「Gender」という語の複合語であり、つまりトランスジェンダー(Transgender)とは、身体の性と心の性が一致しないが、外科的手術は望まない、つまり心と身体の性別を一致させたいとは考えていない人のことであり、性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)のひとつである。


 性同一性障害は医学用語であり、性同一性(心の性)と身体的性別(身体の性、解剖学的性別)が一致しない状態。LGBTの知識のない相手に説明をしたり、公的な手続きをする場面では、こちらの言葉が用いられる。


 そのため、トランスジェンダーと性同一性障害は同じものであるという認識が生まれてしまうのだが、実はこの二つは少し違いがある。性同一性障害は、性自認と異なる自身の身体に対する違和感や嫌悪が強い状態であるのに対して、トランスジェンダーはその逆で、性自認と異なる身体に対する違和感がそれほど強くない、または全くないと感じている状態を表している。要するに両者の違いは、心と身体の性別を一致させたいと願っているかどうかということになる。


 藤井は俯き加減に顔の筋肉だけで笑顔を作って見せると、おもむろに語り始めた。


「初めて女性の下着を身に着けたのは、小学一年の時でした」


「あぁ、その、えっと、それは以前、起訴猶予になった時のように、何処かの店舗で万引きをした、ということかな」


「いえ、違います。あの時の下着は、小さな溝川の真ん中に転がる転倒した朽ち木の枝に、引っ掛っていたベージュのブラジャーでした」


 藤井は子供の頃から体格に恵まれず、背が小さかった。故に身体能力も同世代の子供より劣りがちで、いじめられることが多かった藤井はいじめを避ける為に、放課後、同級生とは極力かかわることなく、一人で行動した。


 藤井が両親と暮していたアパートは、彼の部屋の窓を開くと直ぐ、向かいの建物との間に小さな溝川があり、その溝川は普段は踝(くるぶし)にも満たない程しか水位は無く、生活用水が排出されるため富栄養化した川面は、アオミドロに埋め尽くされていた。


 それは台風が続けて到来した後に訪れた、青天の日の事だった。


 藤井は学校からの帰り道、ふと自分の部屋の前の溝川に何かが転がっているのを発見する。それはこの台風で、どこからか流れて来た朽ち木だった。


 朽ち木には数本だけ枝が残っており、その枝の先に何かが引っ掛かっている事に藤井は気付く。彼は出来るだけ近づくと、目を凝らしてそれを見た。それはベージュ色の布製の何かだったがしかし、角度が悪く、それが何なのか藤井には分らない。


 帰宅した藤井は自分の部屋の窓からも溝川を見下ろしてみた。しかしそこからでは、今度は距離が遠く、枝に掛かったそれが何であるのか、矢張り確認することが出来なかった。


 それから暫くは、晴天が空を支配していた。藤井は学校の帰り毎日、枝に掛かるそれを見続けていたが、ある日、終に雨が訪れた。


「もう、それが何なのか、気になって、気になって、仕様がなかったんです。もしこのままにすれば、あの朽ち木がこの雨で流されてしまうかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなくなりました」


 ランドセルを投げ出し、溝川の川面に降りた藤井は、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、川に足を踏み入れた。小雨とはいえ雨の降る川の水位は少し上がっていて、川面は彼の太股を没するほどになっている。しかし彼は慎重に朽ち木に近づき、そして、ベージュ色のそれに手を伸ばし、掴み取った。その時点で、彼はそれが何なのかと云う認識を持たない。それであるにもかかわらず、彼は人目を忍ぶように掴んだそれを自分の懐に隠した。


「内側から誰かが打ち鳴らしているかのような心臓の鼓動に、驚き、否、興奮を覚えました」


 藤井は家に帰ると、懐に抱え込んで持ち帰ったそれを、机の引き出しを開け、そこに詰まったあらゆる物の奥に仕舞いこんだ。だが、藤井は、この時点でも、自分が拾い、隠して持ち込んで来たそれが何なのか、理解していない。


「自分でも全く分からないんです。何故あの時、あの布切れに、あんな異常ともいえる興味を持ち、危険を冒してまでそれを拾い、部屋に隠したのか」


 彼の両親は共働きだった。母親はパート勤務で彼が学校から戻る頃には家に居たが、時々、遅く帰る事もある。藤井は、その日が来るのを待った。


 数日後、それは訪れた。藤井が何時ものように帰宅すると、ダイニングテーブルの上に母のメモがあった。


【今日は遅くなるので、おやつは冷蔵庫に入れてあるのを食べなさい】


 それを読んだ途端、藤井の心臓が大きくひとつ波打ち、次の瞬間から怒涛のごとき血流がこめかみの動脈を煩わしい程に打ち鳴らす。


「おやつどころではありませんでした」


 物を食べるどころか、鬱陶しい程の鼓動で吐き気すら覚える。


藤井は一目散に部屋に駆け込み、乱暴に机の引き出しを開いた。そしてあの、ベージュ色の何かを取り出し、目の前で広げて見る。それは、女性が胸に身に着ける下着だった。浴室で母の物を見た事が有る藤井は、漸くそれを理解した。そしてそれを理解した途端、興奮からなる全身の震えを感じながら、見様(みよう)見(み)真似(まね)でそれを服の上から身につけてみる。すると、意識は現実から遠く遠ざかって、彼は最早、桃源郷に居た。


順序立った思考、論理的な思考ではない、それは最初から彼の中に在り、彼の中から世界を見ていた別の何か、或は本当の自分の意思だったのかも知れない。


「あの時、僕は、自分が人とは違う、何かである事を知ったんです」


「人とは違う何か」


「はい。僕は、生まれた時から性的マイノリティであり、それに気付いたあの時、自分が、トランスセクシャルだと云う事を、感覚として理解しました」


 性転換手術とは、肉体的な性の異常である半陰陽と,精神的な性の異常である性転換願望者(トランスセクシュアルtranssexual)が対象として考えられる。半陰陽には真性半陰陽と仮性半陰陽があるが,前者では睾丸あるいは卵巣を摘出し外陰部を形成する手術を行う。


(世界大百科事典内のトランスセクシュアルの言及)


「トランスセクシャル・・・」


「はい」


 藤井の告白は、菅原が自身の経験や知識で対応で来る範疇を遥かに超えていた。彼にどう言葉を掛ければよいのか。彼の苦悩を考えると、簡単な相槌ですら迂闊にいれることが躊躇(ためら)われる。菅原は沈黙のまま俯いてしまった。


「菅原さんの御両親は、どんな方なんですか」


 重い沈黙を余儀なくされた菅原にとって藤井のその質問は、助けに船だった。


「僕の両親は、神奈川で二人とも教師をしています」


「菅原さんは、教師になれば良かったのに」


「両親は勿論、僕に教師を勧めました。でも、僕は教師にはなりたくなかった」


「どうして」


「僕の両親は、所謂、左翼主義でね、軍国主義を憎み、もうこの国に天皇陛下は必要ない、君が代なんて歌うな、自衛隊は違憲だと、子供たちにいつも教えています。でも、僕は、なんだろう・・・藤井君の、何だか分らないと云うのに、似ているのかも知れない」


「僕に、似ている」


「そう、自分でも、よく分からないんだけれど、僕は、軍隊が、好きなんだ」


「漠然としていますね、銃器や、兵器のマニアとか」


「そうだね、それも好きだけれど、なんと云うか、男の世界って感じが、好きなのかな」


 菅原は藤井との会話の中でそう発言した自分に少し驚く。「男の世界が好き」そんな事を今まで具体的に考えた事も、感じた事もなかったからだ。


「菅原さん、ご結婚は」


「独身です」


「彼女は」


「居ません」


 質問を繰り返す藤井の目が、探る様な目になっている。


「藤井君、これじゃどっちが刑事か分からないよ」


「あはは、すいません、つい、興味がわいてしまって。そうだ、菅原さん、僕の押収された携帯電話を、ここに持って来れますか」


「どうして」


「菅原さんになら売ってもいい、そう思ったから」


「売るって?」


「菅原さんは警官として、これが初めての取り調べなんですよね」


「ええ」


「それなら、大きな手柄を菅原さんに立ててもらいたい。僕の知っている情報を、菅原さんの取り調べで、僕が全部話す。菅原さんがどれほど優れた刑事であるかを、僕が証明したい」


「藤井君・・・」


 この空間には立場と云うのがある。藤井は既に確定した刑期を持つ囚人であり、菅原は警察官。それはこの法治国家の日本に於いて、乗り越える事の出来ない壁である。しかし、菅原は、藤井と話せば話す程、藤井への好感が高まって行く自分の感情に抗えず、それに躊躇った。


「藤井君、煙草、もう一本吸っておこうか、今日はこれで終わる。明日、藤井君の携帯、準備しておくから」


「分りました」


 菅原のそれに藤井はニコリと微笑み、菅原が差し出す煙草に手を伸ばした。


「留置管理にお願いして、そっちにも煙草、入れとくよ。朝の運動の時に、吸って」


「わぁ、本当ですか、助かるなぁ、ありがとうございます」


 留置所の朝は七時に始まり、朝食の後に運動の時間が設けられている。それは署によって様々だが、概ね、太陽の光を浴びる事の出来る屋外(多くは屋上)で身体を動かし、本数は二本と制限されているものの、その時間だけ、被疑者は喫煙を許されるのだ。


 ここの留置所の購買日にはまだ5日あった。つまり、本来なら煙草を購入できない藤井はこの5日間、運動の時間に喫煙する事が出来ない。しかし、菅原が差し入れとして藤井に煙草を入れてやれば、藤井は明日の朝、早速、運動の時間に喫煙することが出来るのである。


 藤井は嬉しそうに菅原に礼を言い、最後の一本を吸い終えると、両手を前に揃えそれを菅原に差し出す。菅原は藤井の両手に再び手錠を填め、取り調べの終了を伝えに刑事部屋へと藤井を連行する。


「藤井君、不条理な事だけれど」


「大丈夫です、菅原さん、なんて言えばいいんですか」


「取り調べ、ありがとうございました。で、いいと思う」


「はい」


 菅原は藤井を朝と同じ様に部屋に招き入れ、入り口の前に立たせる。藤井は心得て姿勢を正し、あの優れた声を大にして、菅原に教えられた通り「取り調べありがとうございました」と言った。


 列席している刑事達の態度は朝と少しも変わらない。しかし、霧島だけは、諦めていた持病が恢復(かいふく)した人の様な顔になる。


 留置管理に藤井を送り、刑事部屋に戻った菅原に霧島が声を掛けた。


「菅原、もう調べ終わりか」


「あ、はい、続きは明日にしようかと」


 霧島は菅原の顔から腕時計に目を落とした後、再び菅原の目を見て言う。


「藤井の昼飯が終わったら、昼からもう一回出して来い」


「え、あの、いいんですか」


「鉄は熱いうちに打てや。」


「霧島さん、取り調べ、見ていたんですか」


「お前の調べなんか見る訳ないやろ、しょーもない」


「でも」


「アホか、わしが何年刑事してる思うんや。藤井の顔見たら判るわい、あいつの顔は、完全に落ちた人間の顔じゃ、やるやないか、優等生の菅原く~ん」


 普段、滅多に褒める事の無い霧島に褒められた事は嬉しかった。しかし、それ以上に、昼からまた藤井と話せる事に対するこの期待感は何なのか・・・


「ありがとうございます」


 菅原は霧島の言葉に溌剌(はつらつ)としてそう答え、藤井の押収された携帯電話の貸し出しに押収品管理へと向かった。



              Transform


「ある男性?」


「ええ、彼は長年、私が探し求めていた、理想の男性なのです」


「先生、あの・・・」


「あはは、誤解しないでください、私はゲイじゃない」


 朝比奈は彩音の狼狽を笑い飛ばし、遠い場所に在る記憶が映る架空の画面を見る様な目になる。


「私は子供の頃、仮面ライダーが大好きでした」


 朝比奈の幼少期、巷の少年たちの間では、変身ヒーローが全盛を極めていた。少年たちは変身する事で、超人的力や、異次元の造形美を得ることが出来るヒーローを神の様に崇拝し、朝比奈も例に漏れず、そんな変身ヒーローに憧れを抱く一人の少年だった。


「人は皆、能力、容姿など、今の自分に満足をしていない生き物です。もっと強い何かになりたい、もっと美しい何かになりたい。遠藤さんも、今ならそれが理解できるでしょう」


「はい、理解できます。じゃあ、先生も・・・」


「いえ、私は、そうですね、最初は生まれ変わりたいと云う願望はあったのかも知れません、でも、今はそうではない」


 朝比奈は不意に彩音に視線を向けると、彩音の頬にそっと触れる。


「今の私は、美容外科医です。生まれ変わりたいではなく、生まれ変わらせてあげたい。何時の頃からか、そう願う様になっていた」


 そもそも、自分の全部を容認できる人など、この世にどれほど居るだろう。自分と云うものが持つ総ての属性の中で、嫌いな自分の無い人間。そんな人間は、一人でも存在するのだろうか。人は嫌悪を抱く自分の中の何かを、常に変えたいと願う。もっと良くなりたい、劣った部分をどうにか改善し、今より優れた肉体を手に入れたいと云う願望に突き動かされている。


 単に美しい肉体を手に入れたいなら、筋力トレーニングをすれば良い。何かのスポーツを極めたいのであれば、鍛錬を積めば良い。しかし、この世には、自分の努力では変えられない現実が有る。


「彼は性同一性障害、トランスセクシャルと云う、努力では変えられない事を、どうしても変えたい、否、変えねば、死ぬしかないと云う定めを背負った人でした。だから、私は、彼のその希望を、叶えてやりたいのです」


 彩音は自分の顔に触れる朝比奈を何故かうっとりと見ていた。


「皮膚は、個人により大きな差があります。人間の美的感覚にそぐわない皮膚を持って生まれる事は、とても不幸な事だと思いませんか」


 彩音は声に出さず頷き、頸だけで朝比奈の質問に答える。


「辛かった、そうでしょ」


 彩音はまた、頸だけで朝比奈のそれに答えた。


「人は、この薄い皮一枚の質と配置だけで、その人の本質を見失う。その人がどんなに優れた人間性を持っていても、やはり、この薄い皮一枚だけで人は他人を判断してしまうのです」


 朝比奈の言葉のひとつひとつが、彩音の記憶の中に眠っていた闇に触れる。それはいちいち、ひとつずつの言葉が全部、彩音自身が気付いていなかった暗い場所の感情、醜女(しこめ)として虐げられて来た悔しさを、具体的な怒りと悲しみに変化させてゆく。そしてその度に、心は朝比奈に惹かれ、その言葉がそれらの感情を癒す心地よさに、彩音はうっとりとしてしまうのだ。


「遠藤さん、勇気を持ってください。そんなつまらない人間の価値観から自由になりましょう。私が彼方を、生まれ変わらせてあげます」


 そう言い放った朝比奈の姿は、その瞬間から彩音にとって、全知全能の神と等しくなる。


「先生、私は先生のお役に立てるなら、どんな事でもします。必ず、その男性を、探し出して見せます」


「遠藤さん、ありがとうございます」


 翌日、彩音は、今日限りと云う期限を書いた退職届を携え会社に出勤した。そして上司にそれを手渡し、驚きの余り取り乱す上司を顧みることなく背中を向け、会社を後にした。


 もうこれで、薄汚い作業服とも、黒ずんだ油汚れとも、その油と汗の混じった臭い匂いともお別れだ。そう思うと、心は羽が生えた様に軽くなり、何処までも、何処までも、この青天の秋空に舞い上がってゆく。


 どこをどう通ってそこに辿り着いたのかも定かではない。彩音は空から舞い降りたような気持ちで借りているアパートを管理している不動産会社の扉を開いていた。そしてほんの小一時間、彩音はアパートの解約手続きを終え、朝比奈に電話を入れる。


「先生、退職と、アパートの解約が出来ました」


「分りました。では最小限の荷物だけをまとめて下さい。後の処理は僕が業者に依頼しておきます」


「先生、荷物をまとめた後は」


「タクシーを使ってください。私はクリニックで待っています」


 彩音は電話を切ると、浮き浮きとして自宅に戻り荷物をまとめる。朝比奈に言われた通り、必要のないものはここに全部置き去りにする。勿論、過去の醜い自分を写した写真も全部だ。


これで自由になれる、そう思った。自分を縛り付けていたこの世の全てから解放され、新しい人生を、今日、これから自分は、歩きだすのだ。


彩音は旅行用スーツケースひとつだけを持ち、住み慣れたアパートを出て、大通りでタクシーに乗り込んだ。


 クリニックに到着したのは昼過ぎだった。彩音はタクシーを降り、クリニックの入り口の前に立つ。すると入り口には一枚の紙が貼られていた。


【誠に勝手ながら、医師、体調不良の為、暫くお休み致します】


 その張り紙を見て、彩音の胸は大きくときめく。「暫く」それがどれ位の期間なのかは分からない。しかし、この「暫く」と云う時間を、自分は朝比奈と二人きりで過ごせるだ。彩音は張り紙を見ながら嬉々(きき)として扉を開くと中に入る。朝比奈は既に手術着に着替え、準備を整えて彩音を待っていた。


「先生」


「早かったですね、それでは早速、始めましょう」


 彩音は手渡された術着に着替え、手術台の上に身体を横たえる。血圧計や心電図のモニターを貼りつけられた後、酸素マスクを着用する。


「遠藤さん、この度の手術はかなり本格的なものになるので、全身麻酔を行います」


 腕に点滴が施されると、彩音の意識は徐々に遠ざかりそして無くなって行った。彼女の意識が無くなった事を確認すると、朝比奈はメスを取り上げる。


「どうにも骨格が悪い。まぁ仕方ない、一旦、骨を整えるところからか」


 彩音の全身麻酔後、口腔前庭切開を行い、朝比奈は頬骨にアプローチをする。また頬骨弓の後方を離断するため、耳前部を1.5㎝ほど切開。骨切りを行い、位置決めをしたところをチタン製プレートで固定。


術前のCTで確認していた骨の移動量を決め、移動方向が内側からやや頭側へ向かうように骨切りのデザインを行う。そして、たるみが可及的に出ないよう他の施術も一旦追加した。そこで本来ならこの施術は終わりだった。しかし朝比奈は彩音の麻酔を終わらせない。


 朝比奈はガラス水槽の中で培養液に浸かっている人工皮膚を運んで来た。


それは最近、京大が開発し、グンゼが製造を担当する、世界初の細胞成長因子を吸着し徐放することが確認された機能性人工皮膚。それを基に朝比奈が独自に手を加え培養したものだった。


「分厚い、醜い皮膚だ」


 朝比奈は鮮やかな手さばきで彩音の顔面、頸、胸部、そして更に太股辺りまでの不要な皮膚を綺麗にはぎ取った。そして今度は水槽の人工皮膚を、醜いと罵られた皮膚の代わりに彩音にあてがい、また鮮やかな手つきでそれを縫合して行く。


「これで良い」


 朝比奈は、術後の処理を行い、麻酔の点滴針を彩音の腕から抜いた。包帯で全身を巻かれた彩音は別室へと運び込まれ、暫くの後、意識を回復させる。


「せ、先生・・・」


「気が付きましたか、気分は悪くないですか」


「はい」


「包帯が取れるのに二か月ほどを要しますが、安心して下さい、手術は成功です」


「あ、ありがとう、ありがとうございます、先生」


「いいんです、遠藤さんの、勇気の賜物です。よく頑張りました。さぁ、無理が祟るといけない、今日はこのまま目を閉じて、ゆっくりと休んでください」


「はい、ありがとうございます」


 彩音は朝比奈の言葉に素直に頷くと、静かに目を閉じた。



           Homosexuality


 鳥の竜田揚げには手を付けず、焼き那須だけで米粒を腹に詰め込む。


「何やお前、揚げ物は嫌いか」


「いや、閉じ込められていると、殆ど運動が出来ないので、太りたくないんですよ」


「何を言うとんじゃお前、男のくせに、食わな元気出んぞ、まぁええわ」


 留置管理の職員はそう言うと藤井の食器を下げ、檻の鍵を開錠する。


「え?」


「昼からも調べやとさ、出ろ。良かったな藤井、食後の一服ができるやないか」


「菅原さんですか」


「そうや」


 どこの署でもそうだが、刑事と違って、留置管理の職員は誰も気さくな人間が多い。それはここ、東大阪署でも例外ではなかった。


「あの、お巡りさん」


「なんや」


「このメモ、持ち出したいんですけど」


 藤井は職員に自分が書いたメモを見せる。そのメモには、藤井自身の過去(これまで)が年代別に詳細に記されていた。


「何やこれ、こんなもん書いて、いったいどないすんねん」


「全部、話したいんです。何もかも全部、菅原さんになら、僕は、話してしまいたい」


 職員は暫く、藤井のその真剣な眼差しに目を合わせ、そして大きく頷いた。


「ええ心掛けや、ホンマは禁止やけどな、見んかったことにしとくわい。ただし、調べから持ち帰りはあかんで、菅原さんにも言うとくさかい」


「はい、ありがとうございます」 


 檻から出された藤井に手錠と腰縄が付けられる。


「大層やけんどなぁ、決まりやからなぁ、我慢してや」


「はい」


「藤井、全部吐き出して楽になって来い。お前は、ホンマは、こんな所に来る人間やないのは見てたら判る。間違いは正せばええ事やで。スタートラインは、何時でも、お前がその気になれば、お前の目の前にあるんやから」


「ありがとうございます、お巡りさん」


 職員が準備を整え終えた頃、菅原の姿が留置管理の入り口に見える。入り口に立った菅原はニコリと微笑み藤井に小さく手を振り、藤井もそれに応え、不自由な両手を少し上げて見せた。


 昼からの刑事部屋は閑散としていたが、しかしそれでも数人の刑事が難しい顔でパソコンの画面を見ている。藤井は部屋に入ると開口一番、元気な声で言った。


「これより取り調べ、よろしくお願いします」


 その声に刑事達はパソコンの画面から藤井に視線を向けるが、もう辛辣な言葉を吐く者は無く、彼らは無言でまたパソコンの画面に埋没して行った。


取調室に入ると、机の上には煙草とライターと灰皿、そして不二家のピーチネクターが二本用意されている。


「菅原さん」


「霧島さんは捜査に出ているし、時間はあるから、まぁ、飲んで」


 着席した藤井にネクターを勧めながら、菅原は自分のネクターのプルタブを開ける。それに習い藤井も嬉しそうにプルタブを開け、それを一口呑んだ。


「甘い!でも、ほんとこれ、旨いですよね」


「だよねぇ」


 そして和んだ空気の中、菅原の取り調べが始まった。


「藤井君、このメモだけど」


「一応、自分でも忘れないように、箇条書きにしておきました」


「西成区か、じゃあ、ここが初めて、君が覚醒剤を使用した時って事なのかな。藤井君、君は何故」


「待って、菅原さん、先にお仕事をしましょう、僕の携帯、有りますか」


「あぁ」


 菅原が押収品管理から借り受けて来た藤井の携帯を机上に置くと、藤井は電源を入れ、電話帳を開く。


「菅原さん、メモとボールペン、貸してください」


 菅原が手持ちのボールペンとメモを藤井に手渡すと、藤井は数人の名前と電話番号をメモに書き出し、それを携帯に登録されている番号と照らしながら菅原に見せた。


「これは」


「西成区で商売をしている売人たちの番号です」


 藤井は更に売人の潜んでいる場所の住所、そして売人を束ねるその地区の仲買人の電話番号、住所、そして、この組織が使用する飛ばし携帯の入手先まで詳細にメモに書いて見せる。それは携帯電話に記録されている情報ではなく、全て、藤井の記憶だけで綴られたものだった。


「これ、全部、覚えていたの」


「はい、こう見えて記憶力だけはいいんです。ふふ、今日はこれくらいで、このメモの裏を後で取ってみてください。少々古いので生きている番号は少ないかもしれませんが、飛ばしの携帯を売っているこの業者に辿り着ければ、芋ずる式で挙げられると思いますよ」


「ありがとう、藤井君」


「いえ、ネクターのお礼です。じゃあ、僕の話をしてもいいですか」


「もちろん」


 菅原は机上の煙草を一本抜き出すと、それを藤井に手渡し、自身でその筒先に火を点けてやる。藤井はそこから吸い込んだ煙を旨そうに吐き出し、そして今朝の続きを話し始めた。


「菅原さんは、両親の事をどう思っていますか」


「教師になって欲しいって期待が重くて、大阪に逃げ出したってのが、正直なところだけれど、決して嫌いと云うわけじゃないよ。真っ直ぐに差別や偏見と向き合う両親を、僕は誇りに思っている」


「僕もです。僕の両親はクリスチャンで、教会の慈善事業に尽力していました。だから貧乏だったけれど、僕はそんな両親を、心から尊敬しています。でも、だからこそ、自分が人とは違うおぞましい存在だと気付いたあの時、僕は、生きている事が後ろめたく、両親に対して本当の自分を偽りながら毎日を送る事に、死ぬほどの恥を感じながら生きていました」


 女性が身に着ける物を欲しいと云う欲求、それを身に着けたいと云う欲求、そして、そんな欲求を持つ自分に対する罪悪感、嫌悪感。藤井はそんなものに縛られ、振り回され、多感な中学、高校の学生時代を過ごした。


「もう、限界だったんです、両親と一緒に暮すのが」


「解るよ、藤井君・・・」


 菅原には、形は違えど、藤井の気持ちがとてもよく理解出来た。菅原も藤井と同じ気持ちで神奈川を後にしているからだ。


「美容師を目指したのは」


「髪を、伸ばしたかったんです、女性のように」


「それで、美容師に」


「はい」


 郷里を離れ一人暮らしを始めた藤井は、髪を伸ばし始めた。美容学校の生徒なら、それは不自然ではなく、ごくありふれた事と世間は認知するからだ。しかし、両親に対する罪悪感から、藤井は一人になっても尚、自分の欲求を押し殺し毎日を過ごしていた。ところが、髪が肩まで伸びた頃、藤井の中の欲求が突然として堰を切る。


藤井は買い物に訪れたショッピングモールで、無意識のうちに女性用の下着を万引きしてしまった。当時、未成年だった藤井は、当然、両親に万引きの事実を店側から連絡されてしまう。


「あの時、僕は両親に、秘めていた自分の全部を、告白しました」


「ご両親はなんて・・・」


「泣いていました。そして、自分達が悪いと、僕ではなく、二人ともが、自分を責めました。こんな風に育ててしまった自分たちが悪いのだと」


「なんて事を・・・」


「あの時、両親にとって、僕は恥なのだと知りました。やはり僕は、生きていてはいけない異端であり、おぞましき存在なのだと、思い知らされたんです」


「藤井君、自分をそんな風に言っちゃ駄目だ」


「そんな風になんて菅原さん、それは綺麗ごとですよ。僕は男性でありながら、女装したがる変態なんです。そう社会は見る。僕たちの様なマイノリティーに対して、社会は、変態だと、異常者だと決めつけ軽蔑の目で見る、それが現実なんです」


 それは藤井の言う通りだった。LGBTと云う言葉が認知され、社会がこの問題に対して理解を深めつつあるのは確かだが、まだまだ、もし身近にそう言ったマイノリティーの人が居たとしたら、多くの人が、好奇の目で見るか、異端として扱い、拒絶する姿勢になってしまうかのどちらかだろう。


「両親とは、それから一度も会っていません。学校も退学し、アパートも引き払い、ネットカフェ難民になり、もう、僕には、どこにも居場所が無くなったんです。どこにも居場所がなくなったあの時、死のう、僕はそう思いました」


「藤井君・・・」


「そんなどん底で、僕はある人と出逢いました」


 藤井がそこまで話した時、突然、菅原の携帯に着信が入る。画面には霧島の文字が浮かんでいた。


「藤井君、霧島さんが戻ったみたいだ、続き、明日、聞かせてくれるかい」


「はい。菅原さん、聞いてくれて、ありがとう」


 藤井はそう言ってまた、自分の両手を前で合わし、それを菅原に差し出す。菅原は藤井のそれに手錠を填め、腰縄を持ち取調室を出て、留置管理に藤井を送り届けた。


                 2

「霧島さん、これ」


 藤井を留置管理に送り届けた後、菅原は霧島に藤井のメモを見せる。


「おいおいおい、菅原、ようやったのぉこれ。裏が取れたら捜査はこっちでやる、お前は藤井からもっと情報とれ」


「え、僕は捜査に加えてもらえないんですか」


「アホか、拘留期間を考えんかい、お前が捜査に参加するんは、藤井の拘留が終わって情報を全部搾り取ってからじゃ」


「はぁ・・・」


「菅原」


「はい・・・」


「必要やったら実地検証で藤井を連れ出してもかまへん、明日あいつを検察に連れて行って拘留延長してこい。これはええ玉を拾たかもしれへんぞ、搾れるだけあいつから情報搾りとったれ、分ったな」


「あぁ・・・はい・・・わかり・・・ました」


 霧島は覆面の鍵を菅原に手渡すと、藤井のメモを握り四課の刑事部屋に戻って行く。菅原はその背中を見送りながら複雑な気持ちになった。


 この度の引き戻しは藤井の余罪を捲ると云う理由で、自分が取り調べの練習をするのがそもそもの趣旨。ところが、藤井から余罪は出ないのに、捜査協力をしてくれた藤井を拘留延長まですれば、藤井ばかりがいわれのない害を被る。


拘留期間は、その半分は懲役刑の刑期から差し引かれるが、半分は無駄に拘束を受ける事になる。受刑者なら、一日でも早く刑期を満了したいのは当然の心理。菅原は藤井に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 翌日、菅原は藤井の為に少し早く家を出てスタバに寄り、チョコレートチャンクスコーンを四つ買ってから出勤した。藤井が自分に向けてくれる誠実さに対し菅原が出来る事と云えば、懲役に行く前に、好きなだけ煙草を吸わせてやる事と、何か美味しい物を食べさせてやるぐらいしかないからだ。


 留置管理に行くと、今日も藤井は手錠で不自由な両手を少し上げ、菅原に微笑んだ。


屈託のない、優しい笑顔である。藤井の心が女性なのは、藤井には何の罪もない。その、人とは違う部分を社会が拒絶し、誹謗するから、居場所の無くなった藤井はここに居るのではないか。


彼は、人を騙したり、人の物を盗んだり、人を傷つけたり、増して人を殺したわけでもない。神様の悪戯で女性の心を持った、それだけだ。その所為で、社会に居場所のない彼は手錠を填められ、あの鉄格子の中に居る。


「菅原さん、おはよう」


「おはよう、藤井君」


 ・・・僕のやっている事は、本当に正義なんだろうか・・・


「藤井君、チョコレートチャンクスコーン知ってる」


「スタバの?」


「うん」


「知ってます、あれ、旨いですよね」


 取調室に入ると、机の上にはチョコレートチャンクスコーンとコーヒー、そしてネクターが置かれている。


「菅原さん、これ、経費で落ちるんですか」


「まさか、そんなに甘くないよ」


「煙草だって入れてもらっているのに、こんな、毎日、僕の為にお金使って」


「大丈夫、僕は彼女も居ないし、金のかかる趣味も無いしね」


 藤井は突然、菅原の右手を、その手錠が填められたままの両手で包むように掴んだ。


「ありがとう、菅原さん」


 藤井の掌は殊のほか温かく、まるで幼児のそれの様だった。そんな温かい掌の温もりと、心地よいあの声と、優しい笑顔が、今、菅原の前にある。まるで見当もつかない菅原の中の見えない場所で、何かが動いた気がした。


「良いんだ。それより藤井君、君に謝らなければならない事が有る」


「どうしたんですか」


「正直に言うよ、霧島さんに、君を拘留延長して調べろと、そう言われたんだ。あの、知っていると思うけど、拘留延長したら、君は」


「なーんだ、そんな事か、いいですよ、全然」


「でも、刑期が」


「刑期なんてどうでもいい、拘留延長すれば、菅原さんとこうして毎日会えるんでしょ」


「藤井君・・・」


「だったらその方がいい。少しでも長く、僕は菅原さんと一緒に居たいから」


 菅原の中でまた何かが、今度は先程より、もっと大きく、確実に動く。


 ・・・なんだ、これ・・・


 菅原は少しそれに躊躇いながら、しかし平静を装い、藤井を椅子に座らせ、椅子の後ろに腰縄を括り、手錠の鍵を外そうと藤井の手を持つ。するとまた、あの何かが動く。


「どうしたんです、菅原さん」


 手錠を外したところで動きが止まった菅原に藤井がそう声を掛ける。菅原は少し素っ頓狂な声でそれに応える。


「い、いや、なんでもない、なんでもないよ」


 そんな菅原を見て、藤井は何かを確信したような笑いを頬に浮かべた。


「菅原さん、軍隊が好きなんですよね」


「え、あぁ、うん。特に軍艦、アメリカの海兵隊とか、海自が好きなんだ」


「へぇ~じゃあ、海上自衛隊の海軍カレーって、食べたことあります」


「いや、無いよ、一度食べてみたいけれど」


「僕もです、僕、甘い物の次に、カレーが大好きなんです」


 藤井はそう言いながら、持参して来ていたメモを、今日は手ずから菅原に渡す。


「菅原さんも知っているでしょ、日本海側、特に京都の舞鶴や島根県の沿岸は、北朝鮮から覚醒剤が多く密輸される」


 菅原は手渡されたメモに目を落とし驚愕の顔になる。メモに書かれているのは数字だけで、一見、なんの事か分からない。しかしそれを緯度と経度に置き換えると、海上に、ある基点となる場所が示される。そして、その基点となる場所から、毎回、更に緯度と経度が指定され、その場所で、密輸で運ばれた覚醒剤が取引されていると云う内容がそのメモには書かれていた。


「これは、藤井君、君は、まさか」


「菅原さん、僕は覚醒剤を密輸したり、売ったりはしていません、本当です」


「本当だね」


「はい、本当です」


「じゃあ何故、こんな情報を」


「それは、僕があの時に出会った、ある男が持っていた情報です」


「藤井君、そのある男って」


「彼は、ずっと探していたんです。恐らく、昔から、ずっと」


「何を探していたの」


「僕です」


「それは、その男が、昔から藤井君を知っていると云う事なの」


「違います、正確には、僕ではなく、彼の理想が、僕の中に有った、と云うことになるのかな」


 藤井はそう言うと遠い目になった。


「彼は、僕とはまた違ったマイノリティです」


 菅原は藤井の言葉が何を意味するのかが掴めず、ただ藤井の話に耳を傾けていた。


「性的嗜好のマイノリティは複雑怪奇に数多のバリエーションがある、例えばサディズムやマゾヒズム、汚物愛好、ネクロマニア・・・でも、彼のそれは性的なものではなく、もっと人間に在る根源的な部分での欲求なんです」


「根源的な・・・欲求・・・」


「あぁ、そうだ、菅原さん、その基点になる場所から取引が行われて来た場所を詳しく教えます、グーグルのマップを開いてもらってもいいですか」


 藤井に言われ、菅原はパソコンを開こうとして手を止める。


「行こう」


「え?」


「藤井君、舞鶴に行こうよ。地図ではなく、実際に行って、君に確認してもらって、場所を教えて欲しい」


「ほ、本当に」


「あぁ。そして、そのついでに、海軍カレーを御馳走するよ。霧島さんに許可は得ているから、明日の朝一番で出発しよう」


藤井は菅原の提案に無言で大きくガッツポーズをする。


「嬉しいなぁ、菅原さんとデートですね、フフ」


 実地検証の為、容疑者を現地に連れて行く。職務として考えれば至って普通の事であり、何の面白味も無い。しかし藤井にデートと言われ、また得体の知れない菅原の中の感情が動く。その感情は、分類するなら、期待とか、楽しみとか、そういった類の感情である。


 ・・・僕は・・・何を考えている・・・


 自分でも理解できない自分のその感情に菅原は狼狽を覚える。


 ・・・僕は何を・・・期待している・・・


 呆然としながら藤井を留置管理に戻し、取り調べを終えた菅原は、直ぐにメモを持って霧島の元に走った。


「おいおいおい、ほんまかい、クラゲに骨やないかいこれ、えらい当たり引いたのぉ菅原」


「霧島さん、明日の朝一番で、彼を連れて舞鶴に行ってきます」


「そうやなぁ、実際の場所をあいつが知ってるんなら、現地は見て確認した方がええ、よし、わしも付いて行こう」


「ま、待って下さい、霧島さん、それだと、藤井がしゃべらなくなる可能性があります」


「何やお前、えらい自信やのぉ、ふふん、まぁそうか、そうやのぉ、ええわ、かまへん、よし、二人で行かしたる、その代りお前、分っとるやろうなぁ、もし逃亡とか、問題なったら」


「大丈夫です、絶対に大丈夫ですから、僕に任せて下さい」


 菅原は自信たっぷりにそう言うと、明日の準備に取り掛かるため、踵を返して走り出し、署を後にする。


「大丈夫やないなぁ、あれ」


 霧島がその声に振り向くと、一課の木村が後ろに立っていた。


「おい、木村、明日ひとり、貸してくれんか」


「あぁ、かまへん、ひとり尾行つけたる、詳細が分かったらライン入れてくれ」


「分った」


「霧島、お前、菅原の調べ」


「あぁ、録画でちゃんと確認してるで。あいつは刑事に向かん、残念やけんどな」


「なんでや」


「優し過ぎるんや。この商売、優しい奴は、懲戒免職になるか、命を落とすかのどっちかや。そうなる前に、あいつは警察官を辞めるべきなんや。あんなポン中の変態、信用しやがって」


 霧島は吐き捨てる様にそう言うと、背中越しに木村へ手を上げ、廊下の向こうに消えて行った。



                Female


「痛みは」


「ありません。でも、少し違和感は」


「歯の治療の後の違和感、それと同じです。時間と共に、馴染んできますから心配いりません。それでは、包帯をとりますよ」


「はい」


 朝比奈はそう言うと、この二か月余り、彩音を包んでいた包帯に鋏を入れ、少しずつ取り除いていく。それは、アゲハチョウが羽化する様(さま)にとてもよく似た光景だった。


 取り払われた抜け殻は、もう、なんの意味も必要も無い、ただの抜け殻でしかない。アゲハ蝶がそれを足蹴に飛び立つように、足元の包帯を踏んだ彩音は椅子から飛び上がる様に立ち、姿見の前に近寄った。


「信じられない、これが、私・・・」


 姿見の前に立つ自分には最早、過去は無かった。こんな風に生まれたら、どんなに楽しい人生だろうと夢想した、理想的な美がそこには映し出されている。


「先生・・・」


「美しい。我ながら、渾身の仕上がりです」


 まだ馴染み切らない顔の皮膚は、彩音の今の感情を上手く表現は出来ていないのかもしれない。しかし、それでも、彩音がどれほど、この鏡に映る自分の美しさに感激しているか、それは嫌と云う程に朝比奈に伝わって来る。


「ありがとうございます、先生、私、先生の為なら、もう、死んでもいい」


「死ぬなんて物騒な。遠藤さん、これからは二人三脚ですよ。この美しさを保つために二人で、頑張りましょう」


「はい」


 朝比奈はそう言うと手に持った封筒から携帯電話とマンションの鍵を取り出し彩音に手渡す。


「これが遠藤さんの新しい、この社会に於ける、属性です」


「属性」


「この携帯電話を使い、そのマンションに住んで、新しい自分を体験してください。それは、新しい門出を迎えた遠藤さんに贈る、私からのプレゼントです」


 彩音は朝比奈から差し出されたそれを、壊れそうに脆い何かを、大切に、用心深く包み込むような手つきで受け取る。


「今日から貴女は遠藤彩音ではなく、月島聡美です。その携帯の名義も、マンションの名義も、全て、月島聡美の名義にしてあります。もちろん、戸籍も」


 朝比奈が最後に封筒から取り出した物は、月島聡美と云う女性の戸籍謄本だった。


「先生、これ、本物なんですか」


「はい、私が裏の業界から買い取った物です、彼の為に」


「彼の?」


「ええ、彼が、女性として生きる為の、謂わば、パスポートの様なものです。遠藤さんには暫く、彼の代わりに月島聡美で居て欲しいのです。彼が見つかれば、遠藤さんは元の戸籍に戻るも良し、また、別人になりたいと言うのであれば、違う戸籍を私が用意してあげます。」


「そんな事、本当に出来るんですか」


「ええ、この国では、年間に8万人の失踪者が出ます。その中には家族から捜索届すら出されえない人も大勢いる。そういった人の戸籍を裏で取引する業者から手に入れる事は、実は、比較的簡単な事なんですよ」


「そう、なんですね、分りました。いいですよ。私は先生の為なら何でもします。でも先生は、その彼に、どうしてそこまで」


「前にも言った様に、彼の中に、私の理想が有るからです」


「理想?」


「ええ、理想です。完璧な美しさを持った、完全なる変身をさせる、それが、私の理想とする整形手術です」


「完璧な美しさを持った、完全なる、変身・・・先生の完璧って、いったい・・・」


「彼は、他のどんな人とも違う」


「あの、先生は、先生は、彼を愛しているのですか」


 彩音は朝比奈のそれを聞いた途端、競争心剥き出しの語尾で朝比奈を問い質す。しかし朝比奈はそれに動じることなく言葉を続ける。


「愛という概念は、人それぞれだから、愛と云う言葉が適切かどうか、それは分かりませんが、彼が私の人生を大きく変えた事は確かであり、それが愛と呼ばれるものであるなら、私は彼を、愛している」


「先生の人生を大きく変えるって」


「私の父は医師で、私の将来には医師と云う選択肢しか無かった。でも私は、医師になりたいなど、一度も思った事が無かった、トランスセクシャルに出会うまではね」


「先生は、何になりたかったのですか」


「特殊メイクアーティスト」


「え、あの、シリコン製のマスクを製作する様な」


「ええ、父に反発した私は、特殊メイクの勉強をしに、ロサンゼルスに留学していました。少しここで待っていてください、面白いものを見せましょう」


 朝比奈はそう言うと部屋を出て行った。彩音は扉の向こうに朝比奈を見送ると、戸籍謄本に目を落とす。そこに記載されている月島聡美は滋賀県に本籍がある自分と同年齢の女性だった。この女性は何故、自分の戸籍を闇の業者に売ったのか。売ったのでなければ、奪われたのか。そしてこの月島聡美と云う女性本人は、今どこでどうしているのか。生きているのか。もしかしたら・・・


 そんな事を考えていると、三十分ほどして朝比奈が戻って来た。彩音は朝比奈の姿を見て驚愕する。


「せ、先生、いったい、それは、先生、あなたは、先生なんですよね」


「驚きましたか。これは女装用のフィメールマスクと云うものです」


「フィメール・・・マスク・・・」


 朝比奈はそう言うと、纏っていたガウンを脱ぎ、全裸になった。否、全裸になったかに思われただけで、実はシリコン製の、女性の裸体を模したスーツを身に着けていたのだ。


「これが、フィメールスーツと呼ばれるものです」


 彩音は立ち上がり、朝比奈に近づき、それらをじっくりと観察する。


「一般に販売されている様なラテックスやシリコン製の物ではなく、もっとリアルで上質な、人工皮膚を使用して製作しています」


「凄い、本当に近くまで来てよく見ないと、判別できないくらい、リアルです、これ」


「トランスセクシャルの方々にも、社会的地位やその他、諸々の事情で、女性の心を持ちながら、男性として生きるしかない人も居ます。そんな人達は、この様な物を利用して、社会では男性として振る舞い、プライベートでは女性として密やかな日常を送っているのです。これも、トランスセクシャルに悩む人の、ひとつの生き方である事に、変わりはない、しかし」


「しかし?」


「こんな物は、変身とは言えない」


 朝比奈はマスクを剥ぎ取ると、それを無造作に床に落とした。


「私は、トランスセクシャルに苦しむ人達の為に、特殊メイクでは造れない、本物のメイクを造りたい、そう考え、日本に戻り、美容外科医になったのです」


 帰国した朝比奈は、これも循環器の専門医である父の反対に臆することなく、形成外科医の専門医を習得した。法律上、形成外科医の専門医ではなくとも美容外科診療は行える。しかし、美容外科の多くの手技は形成外科で学ぶべき手技の基に成り立っている。技術的にも倫理的にも優れた美容外科医は、同時に優れた形成外科医である場合が殆どだからだ。


朝比奈には天分と云うのが有った。彼は瞬く間に優秀な形成外科医となり、そして美容外科の世界に飛び込んで行った。


 それは朝比奈が、終に自分のクリニックの開業に至ろうとした直前の事だった。車で開業する為の物件を下見した帰り、朝比奈は神戸駅の南に有るネットカフェ前の赤信号で停止した。その時、ネットカフェの入り口から、店員と思われる男に追い出される者がいるのを目にする。追い出されたのは女性。確かに朝比奈の目には、自然な感覚としてそう映っていた。


「いい加減にしろ!このおかま野郎!今度来たら警察に通報するぞ!」


「うるせぇ!二度と来るか!こんな店!何時か火を点けて燃やしてやるからな!」


 信号が青に変わる。朝比奈はこのやり取りを聞いていなかったら、そのままアクセルを踏んで通り過ぎていたに違いない。それは朝比奈にとって、自分には何の関係も無いイザコザであり、普通なら気にも留めない街の喧騒の一部でしかない。しかし朝比奈は、信号が変わると同時にハザードランプを焚き、交差点を越えてすぐ車を左に寄せ車外に出た。


「うるせぇ!二度と来るか!こんな店!何時か火を点けて燃やしてやるからな!」


 朝比奈の足を留めたのは、この物騒なセリフの内容ではない。その台詞が朝比奈の耳に伝えた、声のトーンだった。


 真空管アンプから放たれた様な高音でありながら太く芯のあるその声は、女性のものでもなく、また男性のものでもない。また、幼児の黄色いそれでもなければ、老人の嗄れ声でもなかった。


「君、大丈夫かい」


 朝比奈は、悔しさからかネットカフェの看板を力一杯に蹴り飛ばしているその者に声を掛けた。


「なんだよ!通報するなら勝手に通報しやがれ!」


「私は通報しない積りだけれど、君は、男性・・・」


 朝比奈が話し終わらない内に、パトカーのサイレンが聞こえて来る。


「とにかく、ここは不味い、僕の車に乗って」



           not a coincidence


「さぁ、乗って」


 菅原がドアを開くと、藤井は笑顔で助手席に乗り込む。


「晴れて良かったですね」


「そうだね」


 シティーポリスである東署は、郊外の様に駐車スペースが確保できない為、署の地下に駐車場がある。菅原は地下のスロープを登り外に出た。


高層の建物に切り取られた空は、早朝の所為か青く澄んでいて雲ひとつない。菅原は本町通を直進し、四つ橋筋から北区の 阪神高速11号池田線に入る。道は順調に空いていたが、意外にも彼はその間、ずっと笑顔を見せることなく終始無言だった。


「菅原さんは車を運転すると無口になるんですか」


 そう質問する藤井に、菅原はまだ無言で少し口角を上げ、人差し指を口に当てると、藤井に沈黙を求めた。池田線から中国自動車道に入った菅原は、西宮名塩のPAに車を滑り込ませる。そしてそこで初めて藤井に対し口を開いた。


「やっと管轄を出た。もう話していいよ、藤井君。管轄内だと、誰が見ているか分からないし、会話を傍受されている可能性もあるから話さなかったんだ」


「な、なんか菅原さん、それ、刑事みたいですよ」


「いやいや、藤井君、僕は刑事ですから」


 そのノリ突っ込みで笑う藤井に、菅原は鞄から取り出した包みを手渡す。


「お腹空いたでしょ」


「わぁ、凄い」


「一人暮らしが長いと、こんな事は得意になる」


 菅原から手渡された包みの中には、彼が手作りしたサンドイッチが入っていた。


「食べてもいいんですか」


「もちろん」


 菅原はお決まりのネクターのプルタブを開き、藤井の為にドリンクホルダーへそれを置いてやる。そして、藤井の手に掛けられている手錠を取り外してやった。


捜査車両内で被疑者の手錠を外すなどもってのほかであり、暴露(ばれ)たら懲戒処分だ。そんな事は十二分に承知している筈なのに・・・


「美味い!めっちゃ美味い!凄いなぁ、菅原さん」


 心地よいのだ。粒立ちの良い独特の声でそう言いながら、屈託ない笑顔で自分を見る藤井と云う存在が、限りなく心地よいと感じる。


この男は、本当に普通の人とは何かが違っている。それは決して悪い意味ではなく、むしろ、人を魅了してやまない藤井のそれは、俳優などが持つ一種独特なオーラの様なものなのかもしれないと菅原は思う。


「藤井君、トイレは大丈夫」


「はい、まだ大丈夫です。美味かった、菅原さん、本当に、何時も、何時も、ありがとうございます」


 藤井は右手を菅原の肩に添え、左手を、シフトレバーにある菅原の手に添える。そしてもう一度、上目使いで見上げる様に菅原に礼を言った。


「ありがとう、菅原さん」


 こんなに近くで人の体温を感じた事が無かった。もしあるとするなら、それは母に抱かれていた、幼少のころ以来かもしれない。彼の体温と息使いを間近で感じた時、菅原は自分の異常に気付く。菅原は股間に、熱いものが漲るのを感じたのだ。


「じゃ、そ、そろそろ、行こうか」


 菅原はスタンガンで撃たれた人のように体を硬直させ、藤井から身体を離すとハンドルを握りエンジンを掛ける。藤井は何事も無かったかのように助手席のシートを少し倒し、くつろぐ姿勢になった。


「菅原さん、好きな人が居るでしょ」


「ええっ!」


 必要以上に大きなリアクションをした菅原に、藤井はクスリと笑い、また話題を変える。


「両親も、アパートも仕事も捨てて、ネットカフェを転々として、とうとうお金が無くなったある日の夜、僕はネットカフェから追い出された。その時、目の前の交差点で信号待ちをしていた一台の乗用車の中から、彼は僕を見ていた」


 中国道、吉川JCTから車は舞鶴若狭自動車道へと進んで行く。


「その彼って、あの」


「はい、それが、あの時に出会った人。名は、朝比奈誠二と言います」


「朝比奈・・・誠二・・・」


 菅原が朝比奈の名を口にした刹那、突然また藤井が自分の右手を菅原の左手に添える。


「菅原さん、僕の手、温かいでしょ」


「あ、うん、そ、そうだね」


 菅原は藤井の手の温もりより、ジンジンと股間に湧き上がる熱の方を気にした。


「生きている人間は、体温を持っている。だから温かい。その温かさと触れ合うことは、人が生きて行くうえで、とても大切な事です、特に、異性の温もりに触れる事で、人間は心の平静、心の憩い、そんなものを得ながら、生きる力を、この温もりから貰ってい生きている」


 藤井の話には脈略がなく、菅原は彼が言わんとする事をまるで理解出来ないまま、自分の意思とは裏腹に膨らんでくる股間にばかり気をとられている。


「彼は、僕の声が好きだった・・・菅原さんは、僕の声、好きですか」


「う、うん、それは、分る気がする。藤井君の声は、なんて言うのかな、上手く言葉には出来ないんだけれど、とても耳に心地よくて、魅力的、だと思う、僕も好感を持っているよ」


 やがて車は舞鶴市に入り、高速舞鶴東ICで舞鶴若狭自動車道を出ると、菅原は北吸の府道28号線を進み、街中に入った。しばらく行くと小倉と云う信号が見えて来る。そこで藤井は突然、菅原の手を離し彼に指示をする。


「菅原さん、ここ、右に曲がって下さい」


 急に手を離された菅原はそれに驚き、不必要なくらいの急ハンドルになる。


「わぁ!危ない!大丈夫ですか、菅原さん」


「大丈夫、大丈夫、あはは、ごめん、ごめん」


 しかし、その急ハンドルで、菅原はルームミラーに映った異変に気付いた。菅原の急ハンドルに釣られ、後方の車が同じ様に急ハンドルを切ったからだ。


菅原はミラーで後方の車を観察する。しかし、後方の車を運転しているのは女性で、同乗者は無く、そして警察車両でも無い。


 ・・・気のせいかな・・・


「どうしたんですか」


「いや、何でもないよ、次はどっち」


「コノママシバラクチョクシンデス」


 藤井がナビの音声を真似て道化(おちょけ)ると、さっき感じた嫌な緊張がほぐれた菅原は、その頭で今を考える。


もう疑問を差し挟む余地は無かった。自分がゲイである事、そして藤井に好意を持ってしまった事、それは紛れもない事実として、今、菅原の前に鎮座している。そして、菅原は更に、朝比奈誠二と云う男に嫉妬すら感じているのである。


「藤井君、君はその朝比奈と云う男を」


「お金の無かった僕は、彼に言われるまま、彼の車に乗りました」


                  2

 藤井が助手席に乗り込むと、朝比奈が操る2.5リッターターボエンジン(450馬力)を搭載したアウディRS5は、瞬く間にパトカーのサイレンが聞こえない場所まで二人を運んだ。


「私は朝比奈誠二、君、名前は」


「僕は、あの、藤井、藤井春樹です」


朝比奈は藤井の、その声を間近に聞き、何かを確信したようにオーディオを起動させ音楽を流す。曲は、The Roseだった。


「この曲、知っているかい」


「はい」


「少しでいい、歌ってくれないか」


 藤井はオーディオから流れる曲に合わせてそれを口ずさんだ。


Some say love, it is a river

誰かが言う 愛は川だと。

That drowns the tender reed

それはかよわい葦を沈めてしまうような。

Some say love, it is a razor

誰かが言う 愛は刃だと。

That leaves your soul to bleed

それは魂を切り裂いてしまうような。

Some say love, it is a hunger

誰かが言う 愛は飢えだと。

An endless aching need

それは終わりの無い、うずくような欲求。

I say love, it is a flower

私は言う 愛とは花だと。

And you, its only seed

そしてあなたは そのたったひとつの種。


It's the heart, afraid of breaking

それは心、傷つくことを恐れて

That never learns to dance

踊ることを学べない

It's the dream, afraid of waking

それは夢、目覚めるのを恐れて

That never takes the chance

チャンスを掴めないそれは誰か 取らせまいとして

It's the one who won't be taken

与えることを知ることが出来ない人

Who cannot seem to give

そしてそれは魂

And the soul, afraid of dying

死を恐れて

That never learns to live

生きることを学べない


When the night has been too lonely夜がとても孤独で

And the road has been too long

道がとても長くて

And you think that love is only

愛は幸運や強さだけにあると考えるなら

For the lucky and the strong

ただ思い出して

Just remember in the winter

冬には厳しい雪のはるか深くに

Far beneath the bitter snows

横たわる種も 

Lies the seed that with the sun's love

やがて太陽の光を浴びて

In the spring becomes the rose

春にはバラを咲かせることを


 曲が終わると朝比奈はオーディオを終了させ、改めて藤井の顔を見る。藤井は少し涙を溜めた瞳で、朝比奈が向けるその視線に自分の視線を絡めた。


「君は、ずっと独りで傷ついて来た、そして傷ついている事を誰にも隠して生きて来た、そうだね」


「はい」


「随分と長い時間、孤独と死について、考えて来たんだね」


「はい」


「生まれ変われるものならば生まれ変わりたい、女性として生きたいと、君はそう」


「朝比奈さん、少し触れても、いいですか」


 藤井は朝比奈が話し終えるのを待たず朝比奈の肩に縋りついた。


凍えていたのだと気付いた。ずっと独りで、誰にも自分を晒せぬ、凍り付いた独りぼっちの世界の中で、寒くて、寂しくて、自分は凍えていたのだと。


 朝比奈の温もりを得て初めて、藤井は自分のそれに気付いた。


人は独りでは生きてい行けないもの。誰かに愛され、温めてもらわなければ凍え死んでしまうもの。藤井の心が、彼の体温と共に朝比奈に伝わって行く。切なくて、寂しい、冷え切った心とは対照的な温かい藤井の温もりは、やがて朝比奈の手を動かし、縋る藤井の肩を抱かせた。


「居場所がないなら、私が君の居場所になろう」


 朝比奈のその言葉で、藤井は自分の生きる苦しさの根底を改めて理解した。


どんな場所に於いても蔑視される自分には何処にも居場所が無い。


社会で居場所を失わない為に、自分にも、他人にも、嘘を吐いて生きて来た。隠して、閉じ込めて、まるで古代の忌まわしき悪霊でもあるかのように、本当の自分を忌んで、封じて生きるしかなかった。


「私はアメリカで、君と同じ悩みを抱える人を大勢見て来た。彼らは君と同じ様に、苦しんで、苦しんで、今日を生きている。でも、もうすぐ、それも終わりだ。私が終わらせてみせる。藤井君」


「え・・・」


「行こう。僕の研究所に、そこに君の居場所がある」


 3

「僕はあの日、彼の車に乗って、この道を走っていました。とても楽しい気持ちで、菅原さんと居る、この気持ちと同じ気持ちで、今と同じ景色を見ていたんです」


「藤井君・・・」


 菅原は、そう言いながら車窓に流れる景色を目で追う藤井の横顔に視線を向ける。


神様は残酷だと思う。居場所がないなら、どうしてこの世に生を受けたのか。何の為に生まれ、引け目を感じ、自分の存在を恥に思い生きねばならないのか。心無い人の誹謗中傷に曝され、自らを忍んで生きる事に、いったい何の意味があると云うのか。


それは、図らずも自分の属性を理解してしまった今の菅原にとっても切実な問題だった。


 それ故、藤井が生きて来た時間の中に在る苦しさ、悲しさは想像できる。しかし、社会は誰か一人の苦しみの為に他人が犠牲になる事を許さない。それが法治国家の法治国家たる所以である。


一人のマイノリティを救うために麻薬の使用を許容すれば、罪なき多くの人が、麻薬を乱用する者の被害を受ける。これまでどれだけ多くの人が、あの悪魔の薬物の所為で人生を狂わせ、命を落として来た事か。


麻薬は悪である。それは人類全部が降した決断であり、約束なのだ。それを曲げる事は出来ない。どんなに苦しくとも、受け入れるべきは受け入れねばならない。


そこに考えが至って、初めて菅原は、藤井の中に有る「死にたい」の意味を理解した。


 ・・・死ぬしか・・・道は無いじゃないか・・・死ぬより他に無いじゃないか・・・どうしろというんだ・・・彼の居場所は、どこにも無い・・・


  憤り、悲しみ、疲労感、絶望感、言葉にすれば、そんなものが綯交(ないま)ぜになった様な気持ちが菅原の心を支配する。


 ・・・僕は・・・彼の為に・・・何が出来るだろう・・・


              Emerging


「もしもし、霧島か、俺や」


 1階に在る署の食堂で昼食を摂っていた霧島の携帯が鳴った


「えっ木村か、お前、なにしとんねん、こんな時間に」


「何しとるはないやろ、尾行を頼んだんはお前やろが」


「おいおいおい、お前が直々に尾行しとるんかい、それはそれは、ご苦労なこっちゃで、すまんなぁ」


「いやいや、礼を言うのはこっちかもしれんで」


「どう云うことや」


「例の防犯カメラの女や」


「あの身元不明の女か」


「あぁ」


「なんや、あの女がどないしてん」


「あの女が、わしと菅原の車の間に挟まって、何故か、菅原の車を尾行しとる」


「な!なんやとぉぉ!」


「霧島、お前、もう一回、藤井春樹を洗い直してくれ、あの事件、藤井の線から何か出て来るかもしれん。俺はこのまま前の二台を追う、頼んだぞ」


「分った」


                  2

「遠藤さん、貴女は、生まれる以前の事を、覚えていますか」


 朝比奈は唐突に彩音にそう質問した。


「いえ、そんな事、考えた事もありません」


「では、もし、生まれる前に、自分がどんな両親の元に、どんな容姿で、どんな属性を持って産まれるかを選べるとしたら、貴女は、今の両親を選びますか。以前のあの容姿で生まれ、容姿の醜さを誹謗され、中傷され、それに悩み、傷つきながら生きる人生を、選びましたか」


「いえ、絶対に、選ばないと思います」


「人は、自分がどのような属性で、どの様な人生を生きるかを選べません。そんな不条理な事を、虐げられる側の人達は、何の根拠が有って受け入れねばならないのでしょう。運が悪かったから、神様が決めた事だからでしょうか。遠藤さん、もし神様が居るとしたら、あなたが望まない不幸を、不条理に押し付けてくる神様を、あなたは崇拝しますか」


「いえ、私なら、きっと恨むと思います」


「宗教は、それを興した人物の考え方に過ぎない。イスラム教は預言者と呼ばれるムハンマドの教えであり、キリスト教はナザレのイエスが考えた自由の概念、仏教は、釈迦がギリシャ哲学を基に考えた自分なりの哲学、否、物理学の存在しない時代の旧式な科学の様なものかもしれない」


「先生は、神様を信じないのですか」


「遠藤さん、断言します。神様なんて居ません。くだらない宗教家どもが、自分の言葉だけでは足りない部分を、自分より強い、否、人間より強く優れた架空の存在、神等と云うのを創り出し、偶像化し、その架空の力で足りない部分を補ったに過ぎない。あいつらは、全員、嘘吐きだ。あいつらが生前に吐いた嘘の所為で、どれだけ多くの人が血を流し、その嘘を信じて死んで行った事か。もしも地獄があるのなら、奴らの様な宗教家こそが、地獄に堕ちている筈です」


 朝比奈の目は何時しか血走り、その充血した瞳は、ここに存在しない何かを憎み抜いていた。


「遠藤さん、雌雄同体と云うのを御存じですか」


「雌雄、同体?」


「雌雄同体とは、ひとつの個体が、雄になる事も、雌になる事も可能な生き物の事です」


 雌雄同体には、同時的雌雄同体と、機能的雌雄同体と云う2種類、1匹(自分自身で)で受精できるタイプ(自家受精)と、2匹が交尾してお互いに受精できるタイプがある。


 自家受精でふえていくのはアメーバの単性生殖と同じで、1匹でも増殖できるが故に、進化上、効率が良い、しかし、環境が変化したり、遺伝子に傷がついたりすると、絶滅してしまう危険がある。


 これに対して、2匹が交尾してお互いに受精できるタイプ(カタツムリなど)では、これは性別があるのと同じで、遺伝子を多様に残せ、環境の変化などにも対応でき、更に、「異性」を探さなくてもいいので、近くに同じカタツムリが居れば個体の性別に関係なく、子孫を残すことが出来る。


 因みに、人間も副雌雄同体と云って、本来、両性の性質を備えている。しかし、一方の性になる段階で、他方の性的特徴が後退してしまうのだ。


「つまり先生、人間は本来、雄でもあり、雌でもあると云う事、ですか」


「そうです。本来、人間は、雄であっても、雌であっても構わない。なのに、生物学や科学を持たなかった頃の、浅はかな宗教家どもは、性別に於ける差別の概念を作った」


 朝比奈は、性差別、容姿に於ける差別を憎んでいた。そして、そんなくだらない概念を生み出した古(いにしえ)の宗教家を、心から憎んでいた。


「生まれる前に選べないなら、生まれてから選べばいい、美しい理想の自分があるのなら、理想の自分に成って何が悪い。自分の心の性別が、自らの肉体と相反しているのなら、成りたい性別を選んで何が悪い。人間は元々、両方の性を持った生き物なのだから」


「先生・・・」


「私はそう思い、私に出来る事をやろうとした。しかし、それには、莫大な費用が必要でした。因みに、遠藤さんが今、纏っているその皮膚の値段、幾らだと思いますか」


「350万円じゃ、ないのですか」


「大学や企業からの技術提供費、開発費用を含めると、遠藤さんのその姿を現実のものとするのに、私は100億に近い金を使っています」


「100億円って、先生、いったいそんなお金」


「覚醒剤の密輸です」


 朝比奈は、少しの躊躇もなく彩音にそう言った。


「覚醒剤って、そんな、先生、それは犯罪じゃないですか!」


「遠藤さん、アンフェタミンは薬品です。そして私は医師です。医師が必用に応じて薬を処方する。それの何処が犯罪なんです」


「でも、先生は今、密輸をしていると」


「それはこの国の法律が間違っているからです。私が行う特別な治療には、アンフェタミンが必要です、しかしこの国の法律では、患者にアンフェタミンを簡単に処方できない。だから、密輸をする。そして密輸をすれば、そこから潤沢な資金も調達できる。遠藤さん、貴女に処方している肥満防止薬も実はアンフェタミンがベースになっています」


「そ、そんな!先生は、先生はいったい何をしようとしているんです」


「考えて下さい、遠藤さん」


 朝比奈は一切の悪意がない、澄み切った瞳で彩音を見る。


この国では、覚醒剤は違法であり、法的にも社会的にも厳しく罰せられる。しかし、覚醒剤を使用しただけで、刑務所に入れ拘禁すると云うのは、本当に正しい事なのだろうか。


 警察が取締りを行うための莫大な費用。留置場や拘置所、刑務所に逮捕した人を留め置き、衣食住を賄う費用。国は莫大な国費を投じて、彼らに無償でそれらを提供するが、その金は全て国民の税金である。


 覚醒剤事犯は重罪である為、いったん送検されれば、検察は犯人を裁判にかけなければならない。裁判所は国選弁護人をつけて裁判を開き、審理を行ない、判決を下す。その間の検察官や裁判官の人件費はもちろん、国選弁護人の費用、それもすべてが税金で賄われる。


 犯人を刑務所に送ると、何年にもわたって税金で面倒を見なければならなくなる。囚人を拘束し、一年間留め置く費用は、実に一人頭、400万円から500万円と言われている。


「馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい、そう思いませんか、遠藤さん。ノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のゲーリー・ベッカー教授は、麻薬合法化論を唱えました。その内容はこうです」


 ベッカー教授によれば、合法な麻薬である酒や煙草と、違法な麻薬とを区別する医学的根拠はどこにもないと言う。


 酒や煙草の中毒性が一部の麻薬より強力なことはよく知られている事実だ。酒はアルツハイマー病と、煙草は肺ガンとの因果関係が指摘されている。更に、依存性の高さでは、覚醒剤をはるかに凌いぐと言われている。


 教授の指摘するように、アルコール乱用は、コカインとマリファナとヘロインをすべて合わせたものよりはるかに社会的に有害であるし、酔っ払い運転、および職場や家庭での酔っ払いから被害を受ける罪のない人びとのほうが、麻薬の影響下で運転したり、仕事をしている人たちから被害を受ける者よりはるかに多い。


 覚醒剤を合法化すれば末端価格が下がり、覚醒剤の使用は拡がるだろうが、その一方で麻薬がらみの犯罪は大幅に減ると予想される。

一杯の酒や一箱の煙草のために強盗や殺人に手を染める中毒者はいない。麻薬が犯罪と結びつくのはその中毒性に理由があるのではなく、値段が高価で入手が困難だからだ。


 麻薬中毒者の数が増えることを心配する人もいるだろう。しかし病的な依存症の原因は精神的外傷や過度のストレスであり、彼らは麻薬が手に入らなければ、深酒などの他の有害な行動に走るだけだ。麻薬を合法化すれば他の依存症が減り、結果として、社会全体の中毒者数に大きな変化はないとの予測もある。


 酒や煙草と同様に麻薬に課税すれば、国の税収は大幅に増える。その一部を使って、中毒者の治療施設を充実させることもできるだろう。


 現在は、禁酒法時代と同じく、本来ならば国庫に収まるべき麻薬取引の莫大な利益が非合法組織の手に渡っている。麻薬合法化によってその利益を国が取り戻し、無駄な社会的コストを抜本的に削減すべしというのがノーベル経済学賞受賞者の主張である。


「遠藤さんが油にまみれて働いたお金が、こんな無駄な事に使われている」


 彩音は憤りを覚えた。毎日、毎日、油に塗れて働いた自分の金から多くの税金を払って来た。その金が、こんな無駄な事に使われている。朝比奈の言う事が本当なら、こんな馬鹿馬鹿しい事は無い。


「薬物解禁前のポルトガルは、ヨーロッパ諸国の中でもとても大きな麻薬問題を抱えていました」


 当時、ポルトガルでは、国民の約1%がヘロイン中毒だった。ポルトガルでも以前は、世界各国と同じように薬物を厳しく取り締まり、依存症患者を犯罪者として刑罰を科し、刑務所に拘禁していたが、事態は一向に改善されない。


 これ以上の薬物依存症患者の増加という事態だけは回避したい。そう考えたポルトガル政府は、より良い政策を実施するために学者や医師などで構成する有識者委員会を作り、討論を繰り返した。そしてそこで彼らが下した決断は、ベッカー教授と同じ、すべての薬物を解禁するという思い切った発想だった。


 そしてこれまでの麻薬対策費の全額を、依存症患者を社会に復帰させるための財源として使うことにしたのである。


 それは有識者委員会にいた優秀な医師の発想だった。薬物依存症とは、薬物そのものが原因ではなく、薬物に依存しなければならなくなった環境に原因があると彼は唱えた。彼らは、依存症患者を対象に大規模な就業プログラムを組んだり、依存症患者がビジネスを始めることが出来るように少額貸付制度などの、非常に前向きな政策を実行したのである。


 薬物は一度利用してしまったら依存症になるという話はまことしやかに信じられているが、実は、それは嘘である。


 病院では、モルヒネなどのとても純度の高い麻薬が、疼痛の強い患者などに用いられるが、しかし、それで薬物依存症になって退院したという話を聞いたことがあるだろうか。


 ひとつの薬物依存について行われた臨床を紹介したい。マウスを二つの群に分け、一つは、水を飲ませる群。もう一つは、コカインやヘロインといった麻薬を混ぜた水を飲ませる群。この二群を、ケース内で個別に飼育する。すると薬物摂取群は、依存症が確認されたとの見解が出た。だが、この実験にカナダのある心理学者が疑問を持った。


 この実験は、閉鎖されたケースの中で動物としての自由が与えられていない環境、つまり、大きなストレス下に於いての実験だったからである。そこで彼は、マウスの環境に自由を与えて同じ実験をしてみる。仲間と交流でき、トンネルや隠れ家などの遊び場があり、美味しい食べ物もある。そんなストレスフリーの環境で、水と麻薬入りの水の二つを用意し、実験をした。すると、マウスたちは麻薬入りの水には手を出さなくなり水だけを好んで飲むようになったのである。これは人間でも同じことが証明されている。


 ベトナム戦争に行った米国人兵士の20%がヘロインを常用していた。帰国後、95%の兵士が、そのままヘロインを止めることが出来た。ベトナムの過酷な環境下ではヘロインを使用しても、米国で元通りの楽しい生活にもどれば、彼らにヘロインは必要なかったと云うことだ。


マウスも、人間であっても、薬物依存は、薬物ではなく、環境の方に問題があったのだ。


 誰でも、どんなに明るく元気な人であっても、心の支えは必要だ。動物たちも、過酷な環境では心の支えが必要だった。孤独を感じたり、大きなプレッシャーを背負っていたり、日常で暴力を振るわれていたり、不条理な差別を受けていたり、そんな環境下では、誰だって、そこに酒があれば酒に依存し、薬物があれば薬物に依存してしまう。つまり薬物依存には、他に頼るものがない環境と、誰にも愛されないと云う寂しい心の状態が大きく関わっている。


 ポルトガルでは薬物を全面的に解禁することで、薬物禁止のために費やしていた予算と労力を依存症患者たちの生きがいを創ることに費やした。薬物が合法化されたことで依存症患者たちは刑務所に入れられなくなり、犯罪者として扱われる事が無くなった。そのため社会復帰しやすくなり、薬物を使用する人が激減したのである。実に、薬物解禁による薬物使用者は半分に減った。


「ポルトガルでは、もう昔のように薬物を厳しく取り締まるやり方には戻るつもりは全くないそうです。遠藤さん、貴女ならわかるでしょう、孤独の寂しさや、辛さが」


 日常を鑑みて頂きたい。毎日、煙草を吸う者、酒を飲む者、ギャンブルに散財する者、これらは、薬物依存症と何ら変わらない。


「人は誰かと言葉を交わし、労わりあい、その温かな体温で、お互いを癒し癒されたいもの。人には、心の拠り所が必要なのです。それが出来ないときに、人はお酒や薬物に走ってしまう。私たちは、ただ禁止すれば薬物汚染がなくなるという発想を転換すべき時に来ています。薬物を使わないように禁止するのではなく、薬物を必要としない社会を創ることに専念すれば、もっと、もっと、救われる者は増えるのではないでしょうか。私はポルトガルの薬物対策に痛く感銘を受けました。ポルトガル政府が麻薬依存者にしたように、この国が麻薬を合法化し、この国のすべての人が、居場所のないマイノリティと呼ばれる人々を温かく見守ってあげたなら。どうです、遠藤さん」


「先生、先生は、本当に、本当に、素晴らしい」


 彩音は思う。この人は何が正しく、何が間違っているのかを知っている人なのだと。それが喩え、現代社会に於いては法に触れ、悪と位置つけられる事であっても、その物事の本質に正義があるのならば、それを見抜く事がこの人には出来る。彼のすることに間違いはない。彼の判断は、天使の判断と思って間違いはない。


「私は、先生に、先生に着いて行きます」



                 Drug


「朝比奈さん、これは・・・」


 藤井は、朝比奈の自宅兼研究所に招かれ、室内に足を踏み入れる。するとそこは、藤井にとって正に夢の様な世界が広がっていた。


「藤井君、君はもう自分を偽る必要はない。ここでなら、君は本当の自分でいられる。誰にも責められることなく、自由に、自分らしく生きていられる」


 ありとあらゆる女性用の着衣がそこには有った。勿論、メイク用品も。


「もっと驚かせてあげよう」


 朝比奈は別室の扉を開き照明を灯す。


「あぁぁぁ・・・・」


 声にならない藤井のうめき声の向こうには、あのフィメールマスクと、フィメールスーツが有った。


「さぁ、好きな物を選んで身に着ければいい。ここでは、どんな自分になるのも、君の自由だ」


 藤井は湧き上がる激情を感じていた。産まれた時から一度たりとも解放した事の無い秘めた気持ち。偽りの仮面の下に隠し、偽りの肉体の中で生きて来た本当の自分。朝比奈はそれを、もう我慢しなくても良いと言う。


しかし藤井は、朝比奈の言葉を素直に受け入れることが出来なかった。朝比奈の言葉を受け入れる事、それは今までの自分を、両親共々、殺す事になる。新しい自分を手に入れる代わりに、過去の自分の全てを、抹殺することになるのである。


 ・・・お父さん・・・お母さん・・・


 敬虔なクリスチャンである両親。こんな出来損ないの自分を育み、大切にしてくれた大好きな両親。朝比奈の言葉に遵う事、それは自分を育んでくれた両親に対する完全なる冒涜。藤井は余りの苦しさに過呼吸になり膝を付いてしまう。


「今まで必死で押し殺して来た感情だ。躊躇うのも無理はない」


 朝比奈はサイドボードの抽斗からセルロイドの袋に入った錠剤を取り出し、コップに水を汲み、それを藤井に手渡してやる。


「安定剤だ。これを飲むと少し楽になる」


 藤井はそれを言われるままに飲み干し、そして徐々に変化する自分の心に狼狽する。


薬を飲んで最初に感じたのは、社会に対する背徳感。それが嘘の様に消えて行くのを感じた。そして次に、両親に対する罪悪感。それまで浮かんでいた両親の顔も雨散霧消の彼方へと消える。後に残ったのは、純然たる性(さが)と、雁字搦めだった本当の自分が解放される瞬間の、完全なる開放感。


「うわぁぁぁぁーーーーー」


 絶叫しながら両手で顔を押さえしゃがみ込んだ藤井は、しばらくそのまま震えていた。


古い血液が腎臓に送られ、濾過されて送り出される工程に、何か特別な事が起こっている様に思う。濾過された血液が、今迄とは違い、鼓動が全身に血液を送る度に、新しい自分に生まれ変わる様な、そんな感覚さえ覚える。


全身に血液が流れる度に、女性を感じるのだ。敏感な部分も、毛細血管の至る所、小さな細胞のひとつひとつまでもが、自分の性別を女性だと認識出来ている。なんの罪悪感も、軽蔑もそこには存在していなかった。薬の力を借りた今、藤井は自分を初めて、完全に女性だと認識するに至ったのだ。


「朝比奈さん、私は・・・私は・・・」


 そして、変身を遂げた藤井の第一声を聞いた途端、朝比奈は踊る様な叫びを挙げた。


「成功だよ藤井君」


「成功って、なにが・・・」


「声だ」


「声?」


「あぁ、君の声だ。良く自分の声を聞いてごらん」


「私の声って・・・あ・・・」


 藤井の声は、確実に変化していた。それは、以前の彼の声ではなく、明らかに女性の声帯から発せられる女性らしい優しく高い声。


「どんなに外見を変えても、声帯を手術したとしても、声を完全に女性にする事は出来なかった。しかし、君は違う。君は奇跡の声帯を持っていた。私が開発したその薬を服用すれば、全てのしがらみから解放された君は本当の自分を躊躇う事無く晒せる。本当の自分を認識できた君は、これで完全な女性に変身できる」


「朝比奈さん、私は、女性になれるんですか」


「もちろん、これで君は、否、その声を持つ君だからこそ、君だけは、完全な女性に変身することが出来る。辛かったね。よくぞ今まで頑張った。ありがとう。私の技術は、後は臨床実験を行うだけだ」


「臨床、実験?」


「そうだ。声帯の問題は解決した。後は私が開発した人工皮膚を被験者に使用して、拒否反応が出ないかを試すだけだ。それが終われば、君は完全な女性として生まれ変わる。そうすれば・・・」


「そうすれば?」


「私は救世主になれる。外見と性別に悩む全ての人を救う救世主、そして終わりの無い、君の苦悩を救い続ける、救世主にね」


「朝比奈さん・・・」


「私の技術で本当の自分を手に入れた心優しい彼らマイノリティは次の行動を考えるだろう」


「次の行動って」


「子供だよ」


「子供?」


「そうだ。本当の自分を手にした彼らは本当の自分を愛してくれるパートナーと出会い考える、子供が欲しい、自分達の子供が欲しいとね。そして彼らは、数多の事情で施設に保護されている子供達を引き取り、愛を注ぎ、育むだろう。どうだい藤井君、その連鎖が、世界を変えて行くんだ。このくだらない世界を、愛に溢れえた世界へと変えて行くんだよ」


 狂気と歓喜の笑顔を浮かべた朝比奈が指さすその先には、ガラス水槽の中で培養されている、人工皮膚を使用した、フィメールマスクとフィメールスーツが浮かんでいた。


                  2

「でも、アンフェタミンは覚醒剤だ。君は朝比奈に騙されて覚醒剤を」


 藤井の口から経緯を聞いた菅原は、憤りを露わにそう言う。


「菅原さん、僕は確かに法を犯した。けれど、朝比奈さんを恨んだりしていません、寧ろ、感謝しています」


「か、感謝って!そんな!」


「じゃあ、いったい、あの時の僕を、誰が救えたと云うんです。あの時の僕には、本当に、何も無かった。本当に何もかもを失くして死のうとする人の気持ちを、菅原さんは考えた事がありますか。LGBTの人の中には、僕のように、自分を解放できない環境で、自分を封じ込め、そして自分で自分を忌むうちに、薬の力を使わなければ、自分を受け入れられない、自分を解放できない人たちが居ます。違法とは解っていても、苦しくて、苦しくて、そんな人達は、薬を使うんです。菅原さん、薬を使うぐらいなら、死んだ方がいいですか。僕みたいな人間は、死んだ方がいいですか」


 菅原は藤井のそれに、もはや返す言葉がなかった。トランスセクシャルと云う問題を身のうちに封じ込め、その圧力に耐えきれず、藤井は死を決意していた。しかし、その寸前で、朝比奈は、手段はどうあれ、藤井の中のそれを開放し、藤井に生きる選択をさせた事に変わりはない。


「それから暫くの生活は、とても楽しかった。何に対しても、誰に対しても、もう罪悪感を持たなくていい時間。隠していた自分に嫌悪を感じなくて良い日々。でも、そんな時間は、長くは続かなかった。彼の抱える問題は、僕と云う存在と出逢った事で、大きく歪んでしまった。それは全て、僕の責任です」


「藤井君、朝比奈の問題って、いったいなんなの」


「彼は、メサイアンコンプレックスです」


 メサイアコンプレックスとは、誰かの助けになりたい、困っている人を助けたい、周囲から感謝されたいという使命感を強く抱いている人のことを指す。

メサイアは「メシア(救世主)」の意味であり、自分を恰も世界を救う救世主のように感じ、誰かの為に尽くしたり、時には自分を犠牲にしてまで他人のため頑張ろうとする。


 彼らは、救世主として困っている人を助けることにアイデンティティを見出しているため、困っている人が常に居なければ、自分らしさや生きがいを失ってしまうのである。


 しかし、困っている人を助けることに成功した場合、もう困り事がなくなれば助けてくれる人は不要になる。誰かを助けることを生きがいにしている彼らは、常に困っている人が必要なのだ。そのため、メサイアコンプレックスの人は、自分の生きがいのために常に困っている人を探す。それは、困った人、問題を抱え自分に支援を求める人が居なければ、彼らは生きて行けないと云う性を背負っているからだ。


「彼は僕に依存した為に、道を踏み外した。他人を犠牲にしてでも、僕の中に眠る自らの理想を具現化しようとした。僕に対する歪んだ愛を、彼は貫こうとしたんです。だから僕は、彼の元を離れた」


 朝比奈の研究は最終段階になっていた。それはつまり、生きた皮膚と同化出来る人工の皮膚。この技術が完成すれば、顔面の骨格を整形するだけで美容整形の範疇を超える変身が可能になる。どんな美男美女にも、自分が望む顔を、根本的な部分から手に入れることが出来、更に、生殖能力以外は、性別も、自分がなりたい性別に変更する事が可能なのだ。


「北朝鮮から密輸する覚醒剤で巨万の富を得ていたにも拘らず、彼はクリニックの経営をしながら生贄を探し、実験をした。社会的に抹殺した女性に人工皮膚を移植し、その女性を、一年後、殺して皮を剥いだ。僕のスーツを作る為に、何人もの女性が、彼に殺されたんです」


 それを聞いた菅原は、一課の木村たちが追っている殺人事件の事を思い出す。考えるまでもない。あの事件の犯人は朝比奈誠二で間違いないだろう。


 菅原は木村に連絡をしようとして躊躇う。ここで連絡すれば事件解決の大きな糸口をつかめるだろうがしかし、藤井は自分を信用して全部を話してくれているのである。ここで木村に連絡をすれば、捜査の全てが自分の手から離れてしまう。それだけは避けたい。そう菅原は思った。


「君は、朝比奈の事を、愛しているの」


「あの日々の中で、彼の心の問題も含めて、僕は確かに彼を愛していました。本当に愛した人だからこそ、僕は彼を警察に売る。僕に彼は止められない。でも、菅原さんだったら、彼を止められるかもしれないと思いました。だから菅原さんになら、彼を売ってもいいと、そう思ったんです。菅原さん、彼を捕まえてあげてください。どうかこれ以上、彼に罪を重ねさせないで下さい」


「もしかして君は、その為に」


「違います。まさか菅原さんが僕をここに連れ出してくれるなんて思ってもいなかった、それは本当です。でもごめんなさい。僕の所為でこんな事になって、本当に、ごめんなさい」


 藤井は、自分の問題に菅原を巻き込んだことに対し、それが如何に奇跡的な偶然であれ、その所為で菅原に大きな迷惑を掛けている事に心から謝罪する。


「彼の暴走の原因は、全て、僕の所為です。だから僕は彼の元を逃げ出して、西成に身を沈めていました。西成区であんな風な暮らしをしていたら、いずれ逮捕される事は解っていました」


「あんな暮らしって」


「売る物のない僕がお金と薬を得るには・・・?」


「そ、そんな・・・」


「僕のお客は、皆、同じ苦しみを抱えた人ばかりです。骨柄の悪いのも中にはいるけれど、でも、それでも、気持ちは分かり合える。同じ苦しみを、ひと時、分かち合い、労わり合い、慰め合い、誰にも見せられない自分を掌の上に乗せて、ほんの少しの時間、掌の上の真実を理解し合い、體を重ね、ささやかな幸せを感じる。普通の人から見たら、きっとそれは吐き気をもよおす異常な変態的行為なのかもしれない、でも、それは罪と言えますか、それは犯罪と言えるんですか。僕らは、そんなに、悪い事をしているんですか」


 藤井は感極まり、大粒の涙を流す。その姿を見て菅原は大きく頷いて見せる。


「署に連絡をしなくてもいいんですか、菅原さん」


「連絡はしない、君の事は、最後まで僕が守る、必ず朝比奈を、僕が逮捕して見せる。安心してくれ」


 それを聞いた藤井は満足そうに菅原の手を握りしめる。


「さぁ、そろそろ着きますよ、菅原さん」


やがて車は県道二十八号を通り、竜宮浜漁港の近くに辿り着く。


「良い所でしょ」


「藤井君、こんな場所で、本当に覚醒剤の取引が行われているの」


「ここの沖に、冠島と沓島と云う無人島があるんですよ」


 藤井は菅原の質問を遮る様に、肉眼では何も見えない大海原を指さす。


「無人島って、そんな、まさか」


「そのまさかです、彼の研究所は、その無人島に在ります」



              Fallen Angel


「進捗状況については随時連絡をして欲しい、しかし、基本、遠藤さんは、自分の時間を、生まれ変わった自分の、新しい人生を楽しめばいい、月島聡美として」


「そんな、先生、私は先生の傍に」


「遠藤さん、改めて言いますが、私は藤井春樹を、どんなに歪んでいても、やはり愛しています」


「でも先生はゲイじゃないと」


「私はLGBTのどれでもない、しかし、私の性(さが)は、スタンダードでもない」


「先生はいったい」


「性別ではないのです、そして容姿でもない。愛情を感じるのに必要な要素が、私は人とは随分と違う」


「じゃあ、先生は彼の何に、何処に、心を惹かれるのですか、私、努力します、努力しますから」


「努力と云うのは、ポジティブに向かう行為であり、幸せを掴むためにする行いです。私は幸せになろうとする人、幸せになれる人に興味は無い。でも藤井春樹は違ったのです。彼の心の闇は本物です。彼は永遠に幸せになれない。そして、自分だけではなく、彼に関わると、関わる人は、本来知るべきではない自分の本性を剥き出しにされ、不幸になる」


「関わると・・・不幸になる・・・」


「はい。だからこれは忠告です。もし彼を見つけても、絶対、個人的な接触は避けて下さい。これは貴女の為に言っておきます。彼は悪魔です。永遠に幸福とは無縁の悪魔。どんなに他人を尊ぼうと、どんなに他人の幸福を願っても、彼は、自分の意思とは正反対に、他者を破滅へと導く」


「悪魔って、先生、藤井春樹はそんなに悪い人なんですか」


「悪意を持って人に近づき、自分の欲求の為に人を騙し、利用し、他人の金品を奪ったり、他人を犯したり、殺したり。遠藤さんが想起する悪魔とは、その様な人の事ではありませんか」


「はい、そうです。藤井春樹はそうじゃないんですか」


「遠藤さんが想うのは悪魔ではなく、悪人です。本物の悪魔はそうじゃない」


 朝比奈は書斎に入り、一冊の文庫本を手に取りそれを彩音に示す。


「悪魔とは、悲しい、悲しい存在なのです。悪魔の本当の姿を、かの芥川龍之介が短編に認めています。これを読んで見るといい」


 彩音は朝比奈に手渡された文庫本を開いた。すると目次に「悪魔」という表題があり、彩音はそのページを開きそれを読み始めた。


                 悪魔

                            芥川龍之介


 伴天連(ばてれん)うるがんの眼には、外(ほか)の人の見えないものまでも見えたそうである。殊に、人間を誘惑に来る地獄の悪魔の姿などは、ありありと形が見えたと云ふ。うるがんの青い瞳を見たものは、誰でもそう云う事を信じていたらしい。

少くとも、南蛮寺(なんばんじ)の泥烏須(でうす)如来(にょらい)を礼拝する奉教人の間には、それが疑う余地のない事実だったと云う事である。


 古写本の伝うる所によれば、うるがんは織田信長の前で、自分が京都の町で見た悪魔の容子を物語った。それは人間の顔と蝙蝠(こうもり)の翼と山羊(やぎ)の脚とを備へた、奇怪な小さい動物である。うるがんはこの悪魔が、或は塔の九輪の上に手を拍って踊り、或は四足門の屋根の下に日の光を恐れてうづくまる恐しい姿を度々たびたび見た。いやそればかりではない。ある時は山の法師の背にしがみつき、ある時は内の女房の髪にぶら下っているのを見たと云う。


 しかしそれらの悪魔の中で、最も我々に興味のあるものは、なにがしの姫君の輿の上に、あぐらをかいていたと云うそれであらう。古写本の作者は、この悪魔の話なるものをうるがんの諷諭(ふうゆ)だと解している。


信長がある時、その姫君に懸想(けそう)して、たって自分の意に従はせようとした。が、姫君も姫君の双親も、信長の望に応ずる事を喜ばない。そこでうるがんは姫君の為に、言を悪魔にかりて、信長の暴を諫さめたのであろうと云うのである。この解釈の当否は、元より今日に至っては、いづれとも決する事が容易でない。と同時に又我々にとっては、いづれにせよ差支えのない問題である。


 うるがんはある日の夕べ、南蛮寺の門前で、その姫君の輿の上に、一匹の悪魔が座っているのを見た。が、この悪魔は外のそれとは違って、玉のやうに美しい顔を持っている。しかもこまねいた両手と云い、うなだれた頭(かしら)と云い、あたかも何事かに深く思い悩んでいるらしい。


 うるがんは姫君の身を気づかった。双親と共に熱心な天主教の信者である姫君が、悪魔に魅入られていると云う事は、ただごとではないと思ったのである。そこでこの伴天連は、輿の側へ近づくと、たちまち尊い十字架の力によって難なく悪魔を捕えてしまった。そうしてそれを南蛮寺の内陣へ、襟がみをつかみながらつれて来た。


 内陣には御主、耶蘇キリストの画像の前に、蝋燭の火が煤りながら灯っている。うるがんはその前に悪魔をひき据えて、何故それが姫君の輿の上に乗っていたか、厳しく仔細を問い質した。


「私はあの姫君ひめぎみを堕落させようと思いました。が、それと同時に、堕落させたくないとも思いました。あの清らかな魂を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢す気がするでしょう。私はその魂をいやが上にも清らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、そうと思えば思う程、いよいよ堕落させたいと云う心もちもして来ます。その二つの心もちの間に迷いながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしそうでなかったとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、こう云う憂うき目に遇う事は逃れていた事でしょう。私たちは何時でもそうなのです。堕落させたくないもの程、ますます堕落させたいのです。これほど不思議な悲しさが又とほかにありましょうか。私はこの悲しさを味わう度に、昔見た天国のほがらかな光と、今見ている地獄の暗闇とが、私の小さな胸の中で一つになっているような気がします。どうかそう云う私を憐んで下さい。私は寂しくって仕方がありません。」


 美しい顔をした悪魔は、こう云って、涙を流した。


 古写本の伝説は、この悪魔のなり行きをつまびらかにしていない。が、それは我々に何の関りがあろう。我々はこれを読んだ時に、唯こう呼びかけたいような心もちを感じさえすれば好いのである。


 うるがんよ。悪魔と共に我々を憐れんでくれ。我々にもまた、それと同じような悲しさがある。


                          (大正七年六月)


「そもそも悪魔とは堕天使。天使がこの世に堕とされた姿を言います。つまり悪魔とは、天使の真逆。天使は存在するだけで人に幸せを与え、それにより自らも幸せを感じる。しかし堕天使は、存在するだけで人を不幸にし、自らもその不幸に苛まれ、永遠の不幸と闇の中で苦しむしかない存在。彼は堕天使です。愛すれば愛するほど、人を壊し、涙を流し、背徳の罪悪感に泣きながら人を破滅させてしまう。可哀想な堕天使。だからこそ私は、心の底から彼を愛せるのです」


「先生の性って、いったい、何なのですか」


「私は、メサイアンコンプレックスだから」


「メサイアン・・・コンプレックス・・・」


「私は不幸な人にしか興味がない。彼は永遠に幸福に縁がない堕天使、芥川龍之介が描いた悪魔そのもの。だからこそ、私にとって藤井春樹は、究極の恋愛対象なのです。私はこの身を滅ぼしても、最後まで彼を愛して続ける。ご理解、頂けましたか」


 常人には信じ難いそのロジックを、常人でしかいない彩音に理解する事など到底、不可能な事だった。どうしても理解することが出来ないのであるなら、その理解できない部分は排除するしかない。


「先生、私、頑張って彼を探し出します、そして」


 朝比奈は彩音が話し終わるのを待たずに名刺を一枚、彩音に手渡す。その名刺は朝比奈のものではなく、とある興信所の所長のもので、彩音は渡された名刺を手に取り疑問の顔を朝比奈に向ける。


「彼はアンダーグラウンドに精通した優秀な探偵ですが、私から彼に依頼する事は出来ない。だから遠藤さんが私の代わりに彼に依頼し、彼の調査報告を受け、それを私に伝えて下さい。それによりどう行動するか、最終的な判断は私が行います」


「そ、そうですよね、私みたいな素人、はい、分りました、早速、行ってきます」


「遠藤さん、これが現在までの藤井春樹の資料、そしてこれも」


 朝比奈はクリアファイルに入っている藤井の資料と車の鍵を彩音に渡す。


「これ、先生の車の鍵じゃ」


「私は暫く舞鶴の研究所に行きますので、この車は遠藤さんに差し上げます」


「さ、差し上げるって」


「ご心配なく、名義も月島聡美に変えてあります」


「そ、そんな、こんな高価な車、戴くわけには」


「いいんです。車なんて安いもんです。この世には、容姿端麗に生まれながら、それを良い事に他人を見下し、人を傷つけてもなんとも思わないクズが大勢いる。美しい容姿と女性の身体を天から恵まれながら、自堕落に風俗店で働き、金で身体を売る様な、殺しても構わないクズが沢山います。あんな女共に幸福は必要ない。でも貴女は違う。遠藤さん、幸せになって下さい。貴女は本当に心の美しい人だ。貴女の様な人こそ、幸せになるべきなのです」


「せ、先生・・・」


 彩音は朝比奈のその毅然とした倫理観と自分に対する好意に胸が熱くなるのを覚える。


「さぁ、遠藤さん、その扉の向こうに、貴女の未来が有る」


 彩音は頷くと、手渡された物を鞄に入れ、最後に一度、朝比奈の目を見た。本当に澄んだ美しい、黒い瞳だった。偽善を憎み、偽悪を憎む。そして真の善と、真の悪を純粋に愛する、深い、深い慈悲と、献身的な愛情に溢れた目だった。


彩音はその稀有の瞳を見て思う。本当の天使とは、この様な目をしているのではないのかと。裁くべきものは裁き、滅ぼすべきものは滅ぼし、育むべきものは育み、守るべきものは、命に代えても守り抜く。


 彼の前では法律も、言い訳も通用しない。どんな悪も、どんな善も、本当に純粋なもの以外は総て駆逐されてしまうのではないか。


「先生は、思いがけずこの汚い現世に落ちてしまった堕天使を、彼を、救いに天から降りて来られたのですね」


 朝比奈は、無神論者である自分に対し、自分を神に譬えた彩音のそれに無言で微笑んだ。しかしその微笑みは今までとはまるで違い、全てを託せる人に向ける、信頼と安心の笑顔。その笑顔を見て、彩音は力強く頷く。そして朝比奈に背を向けると、彼が示したクリニックの扉から出て、生まれ変わって初めての下界へと足を踏み入れた。


 外はまだ暗く、生きとし生けるもの全てが、静寂の中、太陽の降臨を待つ時間だった。


彩音はアウディに乗り込みエンジンを掛ける。自動的に点灯したヘッドライトと450馬力を宿したエキゾーストノートが辺りの闇と静寂を払拭する。


乗り込んで改めて思うが、自分には不釣り合いな高級外車である。この車の価格が千二百五十万円もするとは想像できなかった彩音だが、余りの高級感にハンドルを握ると震えを感じた。免許はあるが、田舎で軽自動車しか運転した事が無い彩音なのだ。


彩音は躊躇いがちにアクセルを踏む。アウディは滑るように走り始め、彩音は神戸を目指し阪神高速に乗った。


 朝比奈に提供されたマンションは、神戸北野坂の一等地で、恐らく数千万円程度では手に入らない豪華なマンションだった。彩音は地下の立体駐車場にアウディを置き、部屋を見学した後、早朝の三宮へ徒歩で出掛けて見る。


 殺気立った車の群れが車道を埋め尽くしていた。車を運転しているどの顔も月曜の朝の憂鬱に蒼褪めている様に見える。


横断歩道の前、赤信号。立ち止まった彩音はこれまでにない違和感を覚える。視線を感じるのだ。得体の知れない視線を、俄(にわか)に感じる。それは幾分、怖いと思う程、信号待ちで並ぶ自分の周り、そして対面で信号を待つ人々、特に男性の視線が、痛いほど突き刺さるのである。


 彩音はすぐ、その原因が自分の外見にあるのだと理解する。しかしそれは、彩音がまだ醜女だったころに羨望したような、そんな視線では断じてなかった。


男たちの目は、沈着に卑猥だった。彼らの視線は先ず、彩音の顔を見た瞬間、色めき立ち、次の瞬間、彼女の全身、特に肌の露出した部分を凝視した。それはまるで、人身売買の奴隷を品定めする業者のように、卑猥で卑屈な視線である。


そして、女性たちの視線もまた肌に痛かった。そう、心地よいなどとはかけ離れたその視線は、正に嫉妬と僻み(ひがみ)と敵意が綯交ぜになった恨みの視線。美しい外見を持つと云う事は、こんなに厭な注目を浴びるものなのか。彩音は思いもよらなかった他人の視線に圧倒された。


 町の何処を歩いていても、誰かが自分を見ている。美作の田舎で育ち、醜女として誰にも関心を持たれること無く生きてきた彩音にとって、街中で自分に向けられるその不特定多数の視線は、恐怖以外のなにものでもない。


彩音は朝比奈から受け取ったメモを手に、指定された興信所に電話を入れながらクシーを拾う。こんな気持ちの悪い視線を感じながら電車に乗る気はとうに失せていた。


 ・・・これが、こんな不快な視線を集める事が、私が求めていた幸せなの?・・・


 三宮から神戸駅前でタクシーを乗り捨てた。湊川神社と神戸裁判所の近辺に、朝比奈が指定したその興信所は存在した。


「モンテカルロ探偵事務所」


 築年数50年は下らない古いビルの階段を登ると、扉の擦りガラスに、比較的新しい塗装でそう書かれた黒い文字が目に入った。彩音はドアをノックする。


「どうぞ」


 中から男性の声が聞こえたのを確認して、彩音は扉を開いた。


「初めまして、私、月島と申します。あの、今日は行方不明になった従兄を探して欲しいと思いまして」


「警察に捜索願は」


「いえ、訳あって、それは」


 男はそれで察したのか、彩音にソファーへ座るよう促し、内ポケットから名刺を取り出すと、恭しい態度でそれを彩音に手渡す。


「所長の前川です」


 彩音は着席すると、早速持参した藤井春樹に関する資料を前川に手渡す。前川はそれを数分で一読すると彩音に視線を戻した。


「西成辺りの事ならお手の物です。一週間以内にご連絡を差し上げます」


 詳細を尋ねられたらどうしようかと緊張していた彩音だったが、前川は詳細に触れることなくそれだけを言うと着手金として百万を要求して来た。


彩音は前川の口座にその金額を振り込む約束を交わし、そのままモンテカルロ探偵事務所を出て、早速、朝比奈に連絡を入れる。


「遠藤さんご苦労様でした。あの前川なら、言葉通り一週間以内に情報をつかんでくるでしょう。藤井春樹の居場所が分かったら、彼の行方を追ってください」


「分りました」


 朝比奈は前川と面識があるのだろうか。いくつかの疑問を感じるが、彩音はそれを口にしなかった。踏み込んだ質問ばかりをして、もしも朝比奈に嫌われたらと思うからだ。彩音はもう、朝比奈の存在なしには生きられない自分を知っていた。


 ・・・どんな事をしても藤井春樹を見つけ出す、そして・・・


                  2

「もしもし、俺や、状況は」


 木村はヘッドセットのボタンを押し、霧島の問いかけに応じる。


「菅原は府道28号をずっと沿岸に向けて走っとる。このままやと、待てよ、竜宮浜漁港に出るな」


「あいつら、なんでそんな場所に」


「分らんのぉ、お前の方はどないやねん、なんか出たんか」


「今、西成の界隈で青テントを周っとるけんどの、ホームレスの中にあいつを知ってる人間が何人かおったわ。藤井の奴、この辺りで売しとったみたいやの」


「売て、シャブのか」


「違うなぁ、多分、あいつは気色の悪いゲイや。ケツの穴掘らして売春しとったみたいやで」


 霧島のそれを聞いて、木村はあからさまに顔をしかめる。LGBTについて何の理解も関心も無い人間の、それは当たり前のリアクションだった。


「下着泥棒に、シャブに、売春かい。ほんま人間のクズやのぉ、殺して埋めてもたろか、気色の悪い」


「木村、ひとつ判った事が有る」


「なんや」


「藤井は、朝比奈誠二っちゅう美容外科医と接点があったみたいや。あいつはその男から逃げて、西成の労働者用簡易ホテルを転々としてたみたいやで」


「逃げる・・・朝比奈誠二・・・美容外科医・・・つながらんのぅ」


「朝比奈クリニックは神戸に在る。わしは今から朝比奈誠二を追う、お前はそのまま菅原と藤井を頼むで」


「分った」


                  3

 それから、たったの三日で前川から連絡が入った。


「藤井春樹の居所が分かりましたよ」


「ありがとうございます、あの、直ぐに向かいたいので、その住所をメールでお知らせ願えませんか」


「御親族であれば、多分、お会いできると思いますが、ちょっと、会うのが難しい場所に彼は居るようです」


「会うのが難しい、場所って」


「彼は今、東大阪警察署の留置所に居るんですよ」


「え・・・警察の留置所・・・そ、そんな・・・」


「留置所から外部に出るとしたら、検察官の調べを受けに検察庁に行く時、拘留請求に行く時、そうですねぇ、後は、もし現場検証の必要性がある事件なら、現場検証に行く事はありますが、いずれにしても、二人きりで会うのは、不可能ですかねぇ」


「わ・・・分りました・・・ありがとうございます・・・」


「月島さん、彼の国選弁護人を調べて、その弁護士から情報を取りましょうか」


「そ、そんな事、出来るんでしょうか」


「まぁ、蛇の道は蛇、地獄の沙汰も金次第でね、少々、金額は嵩み(かさみ)ますがぁ」


「大丈夫です、お支払いしますので、どんな情報でも、知らせてください」


「畏まりました」


 彩音は電話を切ると東大阪署の場所を調べる。そしてそこから一番近い「からくさホテル難波」に部屋の空き状況を確認した。幸い部屋の確保は出来そうである。彩音はホテルの予約を取った後、直ぐに朝比奈に連絡を入れた。


「そうですか・・・なんて事だ、せっかく、せっかくここまで、研究もあと一歩だと云うのに・・・」


「先生、私、東大阪署の近くのホテルで張り込んでみます。彼の国選弁護人を調べて、彼が外に出るチャンスを、何とか調べてみます」


「遠藤さん、貴女と云う人は・・・」


「先生、私、頑張ります、だからその、あの」


「どうしたんです遠藤さん」


「私のお願いをひとつ、聞いてくれませんか」


「お願いとは、なんでしょうか」


「全部が終わった時に、お話します」


                  4

「菅原さんは、神様を信じますか」


 この唐突で、一見、何の脈略も無いかに見える藤井の質問に、菅原は少し慣れてきていた。


「神様って言っても、色々有るけど、どの神様だろう、イスラムの神、キリスト教、ヒンドゥー教の神々、日本には八百万の神々がいるし、仏教の如来や菩薩も、ある意味、神様だけれど」


「元をこしらえた神世の生き神」


「元を、拵(こしら)えた・・・神様?」


「昔、と言っても、そう遠くない昔、文字すら読めない文盲の老女に、ある日、艮(うしとら)の金神と云う神様が憑依した。その神様はね、この世界を創造した元の親神である国常立尊(くにとこたちのみこと)と云う神様なんだって」


 藤井は遠い水平線を見ながらそう言う。


「どうしてその国常立尊を艮の金神って言うの」


「その老婆が住んでいた綾部市から艮の方角が、あの向こうに在る冠島と沓島で、国常立尊は沓島におしこめられ、世に落ちて、そこで陰からこの世界を守っているって、その老婆は言ったそうですよ」


 藤井は菅原の方に向き直ると、にこやかに笑う。


「冠島と沓島の間の荒海は、竜宮の乙姫の住まいだったらしいよ、笑っちゃうよね。菅原さん、彼はね、神様や宗教が大嫌いだったんです」


 藤井は再び水平線に目を移し、菅原は藤井の背中を見ながら携帯で藤井の言葉にあった単語を検索した。


【その元の神が表面おもてに現われて、みだれくもったこの世界を立替え立直すときが迫っているから、これまで隠退していた神々は、いまや世にでなければならない。「立替えについては、もう化けてはおれんから」(明治33・8・6)表面にあらわれて世界を一つにしなければならない。このまことの元の神を世にだすことこそが、大元の使命であったから、「冠島・沓島開き」は、大元そのものの独自な展開の出発点をなすきわめて重要な神事】


「老婆って、大元教の教祖、出久地なおのこと・・・」


「そうそう、ふふふ。教団ではね、国常立尊は男神で、それが神懸かった出久地を「変性男子」、そして、豊雲野尊(とよくにぬしののみこと)(国常立尊の妻神)が懸かった旦那を「変性女子」って呼んだそうだよ。菅原さん、僕にはどんな女神が懸かったんだろうね」


 常人が異端を見る時、彼らの目には、時として異端が神と映る事がある。科学や物理の無い時代の人々は、そうやって、自分達の知識で判断が出来ない不思議を奇譚とし、そんな奇譚を積み重ねた結果、それを一括りに「神様」等と位置づけ、その「神様」を利用したのが、宗教家と呼ばれる詐欺師たちである。


 しかし、いにしえの人々が、時として異端を神と視る事を、菅原は責められないと思う。それは何故か。それは今、自分が目にしている目の前の藤井と云う人間が、菅原には、確かに、女神に見えるからである。


 沈む夕日に縁取られる彼の輪郭から、剥がされた薄い、一枚の皮が、ひらりと地面に落ちた。その薄皮の下から現れた藤井の本当の姿は、正に女神。そう言うより他に無い、なにものにも喩え得ない美しさが有った。


黄昏時の光が、魔法のように藤井を朧(おぼろ)げにすると、それは神秘としか言い様のないシルエットを藤井に与える。


「ふ・・・藤井・・・くん・・・その顔・・・」


 それは藤井が黄昏の魔力で変身を遂げた瞬間だった。


「もう・・・藤井君じゃない・・・私は・・・貴方のお陰で・・・」


 差し出された藤井の指先が菅原のうなじに周ったかと思うと、緩慢な時の流れとは裏腹に、一気に藤井と菅原の距離が縮まる。


言葉の数と同じ数だけ、藤井の吐息が菅原の唇辺りを漂った。そしてそれは吐息から、艶めかしい温もりを宿した体温に変わる。


藤井の唇が菅原の唇に重なり、それをこじ開け、唾液を注ぎ込みながら回る藤井の舌は、菅原の思考と理性を完全に停止させた。


心地よい温かさを含んだ藤井の唇が離れると、菅原は言い様の無い寂しさを覚える。


「ねぇ、私の事、好き」


「うん」


 躊躇いながらも素直に頷く菅原に、藤井は優しく微笑む。


「この顔は好き」


「うん」


「前の顔よりも」 


「前の顔も、今の顔も好きだよ」


「じゃあ、この声は?」


「うん、大好きだ」


「ふふふ、分かっていたの、最初から」


「何が、分っていたの」


「とっても純粋で、とっても優しい彼方になら、薬に頼らなくても、私が自分を開放できると云う事。そして、彼方も、私になら、自分を開放できると云う事」


 また藤井の吐息が菅原の唇に近づき漂う。


「彼方はゲイ。でも、私の心は男じゃない。女よ、彼方は私の、何が好きなの。身体、それとも」


「性別や外見じゃない。僕は、君が、君と云う人間が、大好きだ」


「ねぇ、もう一度、キスして」


 その言葉に、今度は菅原の唇が動き、藤井の唇を征服した。


                  5

「白川陽子弁護士、この方が春樹君の弁護を担当した国選弁護人です」


 前川は、再び呼び出した彩音に粗茶を出すのと同時に、クリアケースにまとめられた資料を手渡す。


「白川弁護士の話によると、春樹君、随分と酷い目に遭わされたようですね、彼、既に裁判で刑が確定して、拘置所で刑務所に移送される日を待っているところ、東大阪警察にもう一度、逮捕されている」


「それは、いったい、どう云う事なんでしょうか」


「大阪の警察ではよくある事です。新人警察官の取り調べの練習用に、彼は利用された」


「練習用?」


「ええ、薬物事犯の被疑者は、家族、友人と疎遠の場合が殆どです。つまり、何をしても異議を申し立てる者が娑婆にいない。加えて、一旦、起訴され、裁判で有罪判決を受けた被疑者なら、余罪があるとして警察に引き戻し、仮に余罪が出なくとも、被疑者は前の罪で刑務所に収容されます。そうなれば、検察庁も、裁判所も、厄介な問題を抱える心配はない。そんな人間を選定して、警察は新人が取り調べを学ぶ練習用にしたりするんです」


「酷い・・・」


「確かに酷い話ですが、別に珍しい話でもない。それからひとつ、情報です。彼、現場検証で明日、外部に出るそうですよ。多分、これが最後のチャンスになるでしょう」


 前川は小さな化粧瓶に入った液体を二つ、そして偽造された弁護士バッジを彩音の目の前に置く。


「これは?」


「取り戻しに行くんでしょ、彼を」


「前川さん・・・」


「蛇の道は蛇。朝比奈は思想的には敵ですが、現役の医師である彼は、我々にとって広義では同志になる。医師と云う肩書は、彼にとっても大きな隠れ蓑だが、我々にとっても隠れ蓑の役割をしてくれますから」


「彼の事を知っているんですね」


「間接的にね。彼は私の、大切なお客様です。月島さん、銃器は扱えないでしょ」


「は、はい」


「ならばそれをプレゼントします。非常に危険なガスが発生するので、使用する時は絶対に呼吸を止めて下さい。バッジは職質の時に使うといい。警察官は弁護士には弱いですからね。さぁ、もう行って下さい、月島さん、ご武運をお祈りいたします」


                  6

「木村、裏が取れた、朝比奈誠二は、北朝鮮絡みで近麻(近畿厚生局 麻薬取締部)が追ってるホシや」


「なるほどなぁ、それはちょっと、厄介な事になったのぉ」


 双眼鏡を覗きながらそう答える木村は、霧島の報告にまるで上の空の様子で対応をする。


「何や木村、その薄いリアクションは」


「おい、霧島、俺は夢でも見とるんかのぉ、監視カメラに写ってた女が、二人おるんや」


「木村!お前なにを言うとるんじゃ、寝言は寝てから抜かせ!」


「いや、寝言やない。確かにあの二人、同じ顔なんや」


「どう云う事や!」


「そんなもん、俺にも判るかい!藤井の顔が突然、監視カメラに写ってたあの女の顔に変わったんや」


「お前、どないかしとるぞ、葉っぱ(大麻)でも喰ろうてんちゃうんか!」


「アホかわれ!なんで俺が葉っぱ喰らう(大麻を吸う事)んじゃ!とにかくお前も直ぐに来い!赤橙回して一時間でここまで来い!」


 木村は自分でも双眼鏡の向こうで起こっている事態を呑み込めない。まるで手品でも見ているかのように、振り返った藤井の顔が別人になっていた。それも、木村たちが追っているあの女の顔にである。


一瞬、菅原の車を追っていたあの女がすり替わったのかと思う。しかし、木村の前を走っていた女の車は、遥か500メートル後方に停車したまま動きはなく、女も車内に潜んでいる。


「これは、いったい、どういう事や」


 木村は覚悟を決め車から降り、反対車線後方で停車している女の車に忍び寄り、女が乗る車の助手席を開こうと手を掛けた、しかしドアはロックされていて動かない。


「おい、窓、開けてくれ、わしはこういう者じゃ」


 木村は窓越しに警察手帳をかざし身構える。女は意外にも素直にロックを解除し、車から降りて来た。


「おい、お前!」


 木村はいつもの調子で彩音の胸倉に手を掛け、乱暴な職質をしようとして、急に手を止めた。


「べ、弁護士バッジ」


「どうも、弁護士の白川です。彼からの親書で、少し嫌な話を目にしまして」


「嫌な話やと」


「取り調べです。以前から東大阪署では暴力的な取り調べをすると問題になっていましたが、彼にも、酷い取り調べをしていたそうですね」


 木村は沈黙する。確かに東大阪署の調べは悪質であるとの噂は前々からあり、先日も東署警部補が脅迫罪で有罪判決を受けたばかり。


更に任意で取り調べを受けたある会社員がICレコーダーに取り調べ内容を録音し、それを基に東大阪署を告訴し、それがマスコミに大々的に取り上げられている最中でもあった。


(ICレコーダーに録音された内容)


「お前、警察なめたらあかんぞ、お前」(警部補・会見で披露された録音)

「知らんなんかで済まんぞ、お前」(警部補・会見で披露された録音)

「殴るぞ、お前」(警部補・会見で披露された録音)

「手ださへん思たら大まちがいやぞ、こるぁあ」(警部補・会見で披露された録音)

「お前、大まちがいやぞ、こるぁあ」(警部補・会見で披露された録音)

「座れ、こるぁあ」(警部補・会見で披露された録音)

「やめてください」(男性・会見で披露された録音)

「わからんのやったらわからんで勝負せいや、警察と」(警部補・会見で披露された録音)


【男性の弁護団によりますと、先月3日、大阪府警東署などで7時間にわたって行われた取り調べの一部で、疑いがもたれている男性がICレコーダーで録音しました。8日、大阪地検に提出する告訴状などによりますと、男性は会社員の女性が駅で落とした財布を

横領した疑いで警察の任意の取り調べを受けましたが、その際、刑事課の34歳の警部補ら2人から太ももなどをたたかれたり、「シャブ中以上の嘘つき」などと暴言をはかれたということです】

                          (産経新聞より)


「だから私は彼に面会しようと訪れたところ、偶然、彼を乗せたあの車を見掛け、後を追って来たのですが、今のあれ、いったいどう説明するお積りですか」


 タイミングが最悪である。不法な取り調べをマスコミに取り上げられ、ニュースにもなっている最中、刑事が一人で被疑者を連れ出し、夕焼けを見ながらキスをしていた等、もはや取り繕う余地も無い。しかも相手は弁護士バッジを付けているのだ。木村は彩音に掛けようとしていた手を降ろし沈黙する。しかし次の瞬間、木村は根本的な疑問に至る。


 ・・・おいおいおい、何で殺人犯が弁護士バッジを付けとるねん・・・


「おい、あんた、ホンマに弁護士」


 木村はそう言葉を発したがもう既に遅かった。彩音は呼吸を止め、所持していた化粧瓶の蓋を開けたかと思うと、中の液体を木村の頸辺りに散布する。


「うがぁぁあぁーーーー」


 木村は叫び声と共に崩れ落ちる。彩音はもう崩れ落ちた木村を見ていない。彩音が見ているのは、恍惚の中に浸る菅原と藤井だった。


「許さない、絶対に許さない、先生を裏切るなんて!殺してやる!」


                  7

 霧島は赤橙をまわし全開で覆面のアクセルを踏んでいた。スピードメーターは時速二百キロで前後している。


「どけどけどけぇぇ!」


 木村との電話の後、霧島は直ぐに覆面に乗り込み署を出た。しかし、あの電話以降、木村とも、菅原とも連絡が取れないのだ。それは明らかに現場で何かが起こっている証拠である。


「木村、菅原、何が起こったんや!」


 霧島を含む東署捜査四課には近畿厚生局麻薬取締部から正式に依頼が来ていた。朝比奈誠二に関する捜査はするなと云う依頼である。しかしもう、手遅れだった。現場の二人と連絡が取れなくなった以上、このまま放置はできない。


 北朝鮮事情が緊迫してから、北から密輸される覚醒剤が未曾有に増えている事は当然ながら霧島も知っていた。近畿厚生局麻薬部もその捜査の一環で浮上した朝比奈誠二を追っていたのだ。


 近畿厚生局麻薬部からの情報提供で幾つかの事が分かった。朝比奈は人工皮膚関連の研究をしている機関や企業に資金を提供し、その見返りに技術と人工皮膚を生産するための素材の提供を受けていた。しかし、美容外科医であり、クリニックを経営している朝比奈がそれら一連の事に関わっているのは別に不思議ではない。霧島が疑問に思うのは、朝比奈が関連各所に提供していたその提供額である。表に出ている資料だけでも40億円を超えているのだ。それはどう考えても朝比奈が経営するクリニックで得られる収益ではない。これ程の収益を得ることが出来るとすれば、それは覚せい剤の密輸以外にない。しかも、相当に大きな組織と朝比奈が関係している事は間違いないだろう。


これは一警察署の、一刑事が扱える規模の事件ではない。新人の練習用に引き戻したチンケなポン中のゲイ男が、まさかこれ程の事件の鍵になろうとは、霧島にとってそれは正に青天の霹靂だった。


 ・・・相手が悪かったかぁ、くっそぉ・・・


 時速二百キロを超えて走行していると、右側車線に出て来て百キロ前後で追い抜きを掛けている車がまるでパイロンのように止まって見える。その度に霧島はイライラと焦燥を募らせながらのフルブレーキを余儀なくされる。


「くっそぉぉぉ!交通機動隊のGTRを借りてくりゃよかったわい!」


 木村の携帯も菅原の携帯も電源は落ちていない。二つの携帯が示す位置をGPSで調べると、東西に僅か500メートルほどの差があるだけだ。つまり、二人は同じ場所の半径500メートル以内の地点でトラブルになった事に間違いない。


・・・菅原・・・木村・・・死ぬなよ・・・


                  8

 藤井と菅原は、お互いがお互いにとって何であるのかを確認する様に、何度も、何度も唇を重ねた。


「思った通り」


「何が」


「私は、菅原さんが傍に居てくれれば、もう薬の力なんかを借りなくても、女性のままで居られる」


「それは、本当なの」


「今まではこんな風にはならなかった。薬を使って変身していられる時間は本当に短い時間だけだった。でも、菅原さんが傍に居てくれたら、私は、本当の私で居られるの」


 藤井の体温を感じながら、菅原はその藤井の言葉で、郷里に住む両親の事を思い浮かべる。


心に問題の無い人であれば、生物として遺伝子を残すための繁殖を委ねる相手は、探せば幾らでも居るだろう。でも、自分にとって藤井は、そして藤井にとっても自分は、違う何かでは代用の出来ない特別な存在なのだと知った。しかし、自分は、曲がりなりにも警察官であり、彼は刑の確定している囚人なのである。


 単に確定している刑罰だけなら、藤井に罪を償わせ、自分がそれをサポートしながら待つことは可能だ。だが、藤井は、朝比奈と云う大罪人に関わってしまっている。人が三人も死んでいるのだ。更に、膨大な量の覚せい剤の密輸にも藤井は関わっている。藤井がどう言おうと、真実がどうであろうと、日本の腐った法廷で藤井の真実が通用する可能性はゼロに等しい。下手をすれば、死刑だってあり得るだろう。


 清廉潔白な心の正しい両親だった。厳しかったけれど、自分を大切に、大切に育ててくれた。正しいとは何かを身をもって実践する志の高い人達だった。彼らの反対を押し切り、教師には成らず、警察官となるため故郷を離れる時も、幾ばくかのお金と手弁当を握らせてくれた母である。連絡を寄こす代わりに、米や味噌を送ってくれる父である。そんな両親を、自分は。もし自分が、今、この胸の裡にある暴挙に及べば、両親は、社会的に破滅してしまう。藤井の両親の様に。


 優先順位を付けられぬ程の重大事が列挙した時、人は何を基準に物事を選び取るのだろう。その葛藤に囁く天使と悪魔の声の、どちらに耳を傾けるのだろう。


「うがぁぁあぁーーーー」


 深淵に辿り着きつつある海辺の暗闇を切り裂く様な悲鳴が聞こえ、蜜時の狭間を漂っていた二人は一瞬にして現実に引き戻され、二人は声の方を見た。悲鳴の後、硬質な靴音と共に誰かが走り迫る。菅原は藤井の手を握った。


「藤井君、逃げよう!」


「菅原さん!」


「もういい!何も言うな!僕が君を守る!たとえ、何もかもを失うことになっても!」


 藤井は千年の時を超えた想い人を見る様な目で菅原を見た。しかしその目には、同時に堕天使から決別すると云う強い意志が迸(ほとばし)っていた。


「さようなら、菅原さん、最後に彼方に出え敢えて、私は、幸せでした」


 藤井は固い意志で菅原の手を振り解く。そして迫り来る靴音に自ら走り出して行った。


「ふ、藤井君!」


 ズドンッ!!


 菅原の悲痛な叫びと銃声が重なるように闇に木霊した。藤井の背中はそのどちらにも躊躇う事無く遠ざかって行く。しかし、迫り来る靴音は銃声と共に途絶えた。菅原は車に乗り込みエンジンを掛け藤井の背中を追った。それが自分の破滅へのスタートラインと知りながら、その背中を追った。


「遠藤さん、怪我は有りませんか」


 放たれた銃弾は彩音の足を貫通していた。


「せ、先生」


 朝比奈は彩音を抱き起こし、怪我の状態を確認する。


「大丈夫、移植した皮膚にダメージはありません」


 彩音は朝比奈の手に握られた拳銃を見て、自分を銃撃したのが朝比奈だと知る。


「だから言ったでしょう、彼は堕天使なんです。彼に感情を向けた時から、その人は破滅に向かう」


「待って!朝比奈さん!」


 そこに藤井が息せき切って辿りき、同時に菅原の車のヘッドライトが三人の姿を闇から浮き上がらせる。その灯りの中で藤井を見た彼女は驚愕の顔になる。探し求めていた藤井春樹の外見は、寸分たがわぬ程、今、月島聡美を名乗る彩音自身と瓜二つなのである。


「藤井君、ど、どう云う事だ!君は収監されていて薬は使えない筈なのに、どうして、どうしてその姿に、変身している!」


「朝比奈さん、もう止めて下さい、これ以上、私の為に、罪を犯さないで」


 きっと定年まで射撃場以外で使用する事は無いだろうと考えていた拳銃を菅原は抜いた。


「朝比奈誠二、銃を捨てろ!」


 朝比奈は肩幅に足を開き射撃のスタンスになっている菅原に目を向ける。


「お前か!お前が藤井君に薬を渡したのか!」


「違う、朝比奈さん、そうじゃない!私は、薬に頼らなくても、女性の心のままで居られると知ったんです、彼と一緒なら、私は、女で居られる。もう、朝比奈さんの手を借りなくても、彼と一緒なら、私は生きて行けるんです!」


 藤井の言葉に、朝比奈は死刑宣告を受けた囚人の様な顔になる。


「そ、そんな事は、許さない。君は私が居なければ、生きてはいけないんだ。いくら心が女性のままだとしても、君を覆うその皮膚は、私でなければ維持できない、分っているのか!そのために、そのために私は、何人もの犠牲を出して、実験を続けて来たんだぞ」


 藤井は朝比奈のそれに答えず、朝比奈が抱く彩音に目を向ける。


「月島聡美さん、貴女の本当の名前は」


「遠藤・・・彩音です・・・」


「じゃあ彩音さん、彩音さんは知っているの?今、貴女を包んでいる私と同じ外見の皮膚は、私に移植するために貴女に人体培養されている事を」


「じ、人体・・・培養・・・」


「彼の造る人工皮膚によるフィメールマスクは、一年で崩壊してしまう。彼はその度に、人体培養を施していた被験者の女性から皮を剥ぎ、そしてその皮膚を私に移植してきた。皮を剥がれた女性は、証拠を消すために全員彼に殺された。貴女もその一人なのよ。外見も戸籍も持ち物も全部、月島聡美に変えられ、一年後には殺されて皮を剥がれる。私はもう、それに耐えられなかったのよ」


「違う!今まで殺して来た女共は、殺しても害の無い女ばかりだった。でも遠藤さん違う!私は本当に彼女に幸せになって欲しいと願っていた。だから彼女の外見を一生、私が維持すると彼女に約束した。そうでしょう、遠藤さん」


 彩音は自分に視線を向けた朝比奈を見る。確かにそうだった。朝比奈の言う事に間違いはない。


「彩音さん、騙されちゃ駄目」


「私は嘘など言ってはいない!彼女は完璧な美しさを手に入れ、それを恒久的に維持できる。私は彼女を完璧に幸せに導いている。違いますか遠藤さん」


 彩音はそこで初めて違和感を抱いた。街で感じたあの厭な視線。美しい容姿である事が、必ずしも幸せではない事に気付いたあの時、彩音は朝比奈に願い事をした。


「先生、私がお願いを聞いて欲しいと言ったのを、覚えていますか」


「ええ、勿論、どんな事でも、私は貴女の悩みと誠実に向き合う」


「私の容姿を、元に戻してください」


「な!なんだと!き、君は、私の、私のこの誠実を、踏み躙るつもりか!」


 銃痕の傷みをこらえながらそう言った彩音に、激怒した朝比奈はそう叱咤する。


「朝比奈さんは何時だって誠実です、でも、誠実だから、嘘が無いから駄目なんです」


 そう口にした藤井の、それは心からの本心だった。朝比奈は、本当に誠実に藤井に向き合ってくれた。それはこの目の前に居る彩音と云う女に対してもそうなのだう。


そしてこれまで殺して来た女達に対しても、最初は誠実だった事に間違いはない。


朝比奈が殺して来た女達は、何処かの時点で、朝比奈を裏切る様な行為をして来たのだろう。しかし、朝比奈は、他人が自分を裏切る原因を作っているのは、自分自身である事に気付かない。彼は自分の誠実を受け入れない者を憎み、自分が幸せだと思う事は他人も幸せに感じると鉄壁の自信を持っている。しかし、そもそも幸せに客観は無いのだ。



 例えば、どう仕様もないクズなひも男に貢ぐ女性は、客観的には不幸に映る。しかし、それは飽く迄も客観でしかなく、本人が貢ぐことに幸せを感じているのなら、それは他人がどう受け止めようとも、本人にとっては毅然とした幸福なのである。


「私を死の淵から救ってくれたのは朝比奈さんでした。それには本当に感謝しています。最初は本当に幸せでした。それが喩え、麻薬が齎(もたら)す偽物の幸せであったとしても」


「偽物の・・・幸せ・・・」


「朝比奈さん、朝比奈さんがくれる幸せは、本当の幸せじゃない。麻薬が創り出す根拠のない、架空の幸福感と同じです」


「架空の・・・幸福・・・」


「彼方が困っている人、問題を抱えている人を救おうとするその心は、誠実で、嘘の欠片も無い。でも朝比奈さん、理解してください、彼方はどんなに人を幸せにしようとしても、幸せに出来ない、誰も救う事の出来ない人です」


「私が、この私が、誰も救うことが出来ないだと・・・」


「麻薬が創り出す架空の幸福には無いもの、それは、血の通った愛情と、温かい肌の温もりです。彼方が最初の車の中でそれに気付いてくれていたら、彼方が私の中にある、彼方に対する温もりを、愛情を見つけてくれていたら、こうはならなかった。彼方の愛情は、彼方の優しさは、所詮、自分にしか向いていない。メサイアンコンプレックスの自分の心を満たすための、自分に対する優しさでしかなかったんです」


「うるさい!うるさい!うるさい!私はあんなに君を幸せにしたのに、君の夢を叶えるためにだけ、私は、私は、生きて来たんだぞぉぉぉ!」


「分かって、朝比奈さん!麻薬で人は救えない!見た目の美しさだけでは、人は救われないんです!」


 絶叫が響くその場所に、もう沈着冷静なあの朝比奈誠二は居なかった。朝比奈は銃口を藤井に向ける。菅原は朝比奈をいつでも射撃できる体制になる。


「お前かこの糞刑事!お前!藤井君に何をしたぁぁ!何をしてくれたんだぁぁぁ!お前なんかぁぁ!お前なんかぁぁぁ!」


                  9

 覆面パトカーは、GPSが告げる二人の位置より300メートル後方に近づく、そこで霧島は車を乗り捨てた。


月は無く、波音と星を撒き散らしたような夜空が続く海沿いの道を、霧島は足音を消すため皮靴を脱いで歩いた。


暫くすると暗闇に目が慣れて来る。さんざめく波の先端で弾ける泡の白さが見えるようになって来ると、霧島は更に目を凝らした。


停車している二台の車が確認でき、その下に倒れているのは、体格から考えて木村に間違いなかった。


「ふ、藤井君!」


 ズドンッ!!


 菅原の叫び声と銃声、人が倒れる音とそれに駆け寄る足音。霧島は銃を抜き、植え込みの躑躅(つつじ)に身を隠しながら、その総ての気配がする方へと進んで行く。


突然、エンジンの始動音と共に車のヘッドライトが闇夜を照らす。霧島は眩しい光源の右後方へと身体を躱しながら近づき、銃を構えた。


倒れた女を抱きかかえる男の手には銃が握られている。その男に銃を向けているのが菅原だった。


「銃を捨てろ!朝比奈誠二」


 割裂の余りよろしくない菅原の幼い声が、必死の様相で無駄な勧告を告げていた。


 ・・・あれが朝比奈かい・・・


 霧島は朝比奈に向けて銃の照準を合わせる、しかし、その延長線上には藤井が居た。


 ・・・外すと藤井に当たる、厄介やのう・・・


 霧島がもう五メートル右に移動して、藤井を射程から外そうとしたその時だった。


「お前かこの糞刑事!お前!藤井君に何をしたぁぁ!何をしてくれたんだぁぁぁ!お前なんかぁぁ!お前なんかぁぁぁ!」


 それは長年現場を経験して来た霧島の刑事の勘。朝比奈の声のトーンに危険を感じた霧島は躊躇うことなく発砲する。


その発射音はディレイタイムで言うなら、288music(ミリセック)のスピードで続けて三丁の拳銃から三回聞こえた。


三丁の拳銃から三発の発射音。それは、三丁それぞれの照準器が捉えていた対象に、それぞれの弾丸が命中し、その後の発砲を許さなかった事になる。


 朝比奈が銃を持つ右手を殺すために発射された霧島の初弾は、暗闇と藤井の位置の悪さに妨げられ朝比奈の右肩には当たらず、左肩を捉えた。朝比奈は左肩に被弾と同時にトリガーを引いた為、菅原を狙った筈の弾丸は大きく逸れ、藤井の脇腹に着弾してしまう。そして、菅原が放った弾丸は、左肩に着弾しバランスを失った朝比奈の耳を掠め、霧島の額を捉えてしまった。


「うぐぅ・・・」


 霧島は音もなく地面に崩れ落ちた。


「うごぁぁぁぁ」


 朝比奈は左肩を押さえ地面に突っ伏す。しかし、直ぐに渾身の力を振り絞り、再び菅原に対し銃を身構える。その光景は走馬灯のようにゆっくりと菅原の網膜を通して脳に届いていた。


菅原は応戦の構えを執る。


「逃げて!二人とも!」


 断末魔の絶叫にも等しい彩音の叫び声に、菅原と朝比奈の視線が彩音に向く。


彩音は、もう一本残っていた小さなガラス瓶の蓋を開けていた。そして今度は、木村の時の様に呼吸を止めることなく、立ち上がり、朝比奈を背後から羽交い絞めに抱きしめ、彼の頸にそれを散布した。


「先生ぇぇ!それでもやっぱり、私は、私はぁぁ!先生が、好きです!」


「うごぁ・・・貴女という人は・・・ほんとうに・・・ほんとうに・・・愚かな・・・」


 彩音の切ないそれと朝比奈の断末魔を最後に、修羅場は一転して沈黙の闇に包まれる。


「藤井君、大丈夫!し、しっかり!」


 菅原は藤井を抱き、ヘッドライトの前に連れて行く。そこで照らされた藤井の出血は、医学の専門知識の無い菅原にも分るほどに致命的だった。そして、自分と藤井以外、この場にいた全員が、もう息をしていない。


「菅原さん、痛い、痛いよぉ」


「藤井君、直ぐに、直ぐに病院に」


「病院は、いいから、朝比奈さんが乗って来たボートに、私を乗せて」


 藤井が指さした方には、岸壁に繋がれたボートがある。


「行こうよ、菅原さん、私の、私達の居場所に」


「分かった、分ったよ、行こう、僕らの居場所に」



      Two people only of the country


「明治の昔、ロシアの脅威から日本を救うために、あの島に眠る神様と、荒波の底に眠る竜宮の乙姫を起こしに、巫女が、二人の従者と共にあの島に入って、洞窟の中に祠を創ったの」


 三人の携帯品は、半紙一〆(二千枚)・筆・墨・種油一升・灯心・火くち・火打ち金に三人分の茣蓙・笠・茶わん・さじ、食糧としては煎り米二升・麦粉(はったい粉)二升・タナ米(俗にしわしわ米)二升・砂糖一斤半、水は竹筒(直径三寸五分・長さ一尺六寸)一杯。麦粉小さじ三杯、砂糖一杯を海水でねって塩味をつける。朝も昼も夜も、ずっとそれだけを食べた。水は一日に二滴、掌に受けて大事になめ、そんな飢えと渇きの限界の中で彼らは祈祷を続けたという。


「その祠の地下に、彼は研究室と覚醒剤の貯蔵庫を持っていた」


「何故、無神論者の朝比奈は、そんな神話の島に」


「神への、冒涜、だと思う」


「冒涜・・・」


「そう、くだらない神仏への、悪戯に苦しみばかりを与える、神様への反逆。ふふ、ねぇ、菅原さん、見て、空が綺麗」


「ほんとだ、もう夜が明けるね」


 東の空に掛かる薄い雲が紫に染まり出していた。その幽かな光が、沓島のシルエットを黒く浮かび上がらせている。


「ここがその祠」


「そう。でもね、表向きにはここではなく別の場所に神社がある。ここは、誰も知らない、秘密の場所なの」


 島は断崖に囲まれ、人間の上陸を拒んでいた。そんな断崖にひとつだけ、小さな洞窟への入り口が張り付く様に在り、二人はそこから島の地下に入る。


「菅原さん、寒い、寒いよ」


 菅原は上半身の全部を脱ぎ、それで藤井の身体を温める。


「藤井君、しっかり」


「もう、藤井くんじぁありませんよ、私は、女の子です、へへ・・」


「あ・・ご、ごめん」


 蒼白だった。透き通る様に蒼白の藤井は、しかしそれでも悪戯な笑みを浮かべ、そう菅原に苦情を言う。


「あの祠の中に有る鏡の下に、入り口があるの。私はここでいい、もう動けないから。菅原さん、あぁ、違う、健一さん、でもないか、ねぇ、健一って呼んでもいい」


「あはは、うん、なんだっていいよ」


「ねぇ、健一、あの中にある、一番、健一が好きなマスクを選んできて」


「どうして」


「健一の、一番、好きな顔になりたいの」


「顔なんて、なんだっていい、僕は、君と云う人間そのものを愛して・・・」


「そうもいかないの、ほら、見て」


 菅原は藤井が示す彼の顔の場所に目を向ける。


「朝比奈さんのマスクは不良品、もう直ぐこれが剥がれる。剥がれたら私の顔は、筋肉標本の顔みたいになっちゃうんだよ、そんな醜い私を、見たいの?」


「うん、見てみたい」


「ばーか!」


藤井は菅原のそれに、ぷいっと頬を膨らませて見せる。


「女の子はね、好きな男子に、可愛いって思われたいの!さぁ、早くぅ、早く行って、持って来て」


「はいはい、分った。じゃ、行って来るね」


「あ、待って、健一、キスしてから、行って」


「うん」


 そう言って微笑んだ藤井を、菅原は何よりも愛しいと思う。菅原はその気持ちの全部をこめて、藤井の唇に自分の唇を合わせた。そして菅原は、それっきり、藤井の唇から、自分の唇を離すことが出来なくなった。


藤井の唇が冷めて行く。その冷たさは、遠い、遠い黄泉の国の冷たさだった。


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 君は、何の為に生まれて来たの。こんなに報われない苦しみばかりを背負った僕らは、いったい、どこから来て、どこに行くの。


僕らが抱える問題は、ほんの少し、マジョリティーの人達と感性が違う事。遺伝子の営みから考えれば、本当にとりとめのない小さな、小さな間違いでしかない。なのにそれは、この世界から僕らの居場所を奪う。


 僕らは人を殺さない。人を傷つけもしないし、人の物を盗んだりもしない。それなのに、社会は僕らを排除しようと差別する。お前たちは恥ずべき生き物であると差別する。  


 僕らは好きこのんでこんな風に生まれたわけじゃない。気が付いたら僕らはもう性的マイノリティだった。


僕らは誰を恨めばいいのだろう。僕らは誰にこの怒りをぶつければいいのだろう。


抑圧された心がいびつに歪んでしまったのは、僕らの所為ですか。


ただ愛したいだけなのに、ただ愛されたいだけなのに、僕らは好きな人に好きと伝えられない、伝えてはいけない社会に住んでいる。


 大好きな人を思うことが、そんなに悪い事ですか。好きな人に愛されたいと願うことがそんなに悪い事ですか。


僕らは悪人ですか。僕らは化け物ですか。


顔はひとつ、手は二本、足も二本。彼方たちと何一つ変わらぬ身体をしている僕らは化け物ですか。


 どうしてあなた達は、僕らを差別するのですか。どうして僕らの居場所を、この世界は、与えてくれないのですか。


僕らがいったい、何をしたと云うのですか。どんな悪事を働いたと云うのですか。


僕らはマジョリティーの人達と、何も変わらない人間です。僕らは、君たちと同じ人間なんです。


ーーーーー

ーーーーーーーーー

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ーー


 洞窟の入り口から吹く潮風が、藤井の薄い皮を少しずつ静かに剥いで行く。それはさながら、九相図の様で、やがて藤井に訪れるだろう苛酷なその過程は、どんなに藤井がそれを拒んだとしても、自然がそれを許さない。


 菅原は、これから訪れる、その藤井の最も醜いであろう姿を、こうして唇を重ねたまま、見続けようと思った。どんなに醜く朽ち果てても、いましがたの瞬間、自分が感じた彼に対する愛おしさを、菅原は心から信じていたいからだ。


・・・怒らないで、大好きだよ・・・


・・・何時までも、何時までも、永遠に、どんな姿になっても・・・


・・・君は、君に変わりない・・・


               ・・・僕は・・・



・・・君が・・・


・・・君と云う人だけが、永遠に・・・


 ・・・大好きだ・・・


・・・そうだ・・・


 ・・・今度生まれ変わったら・・・


・・・いっぱいデートしよう・・・


 ・・・いろんな所に行って・・・


・・・いっぱい楽しむんだ・・・


 ・・・海軍カレーも食べいう・・・


・・・その日が来るまで・・・


 ・・・僕はずっと此処で・・・


・・・君の傍に居る・・・


 ・・・形が無くなっても・・・


・・・土に還っても・・・


・・・ずっと僕はここで君見ているる・・・


・・・ずっと、君の傍に居るかねらね・・・




                 了




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 九相図(くそうず、九想図)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。


 名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれる。九つの死体図の前に、生前の姿を加えて十の場面を描くものもある。九相図の場面は作品ごとに異なり、九相観を説いている経典でも一定ではない。『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。


 脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。

 壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。

 血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。

 膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。

 青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。

 噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。

 散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。

 骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。

 焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。


 死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区やアフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも唐や南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。


 仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后や小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる。



あとがき

この物語は完全なフィクションであるが、筆者がアンダーグラウンドや、麻薬と関わる組織、麻薬からの離脱を目指す団体等を取材した折に出逢った、とある同性愛者から聞いた心情が、この物語の根幹に在る。彼はこの物語に登場する藤井同様、中流家庭で両親から愛されて育ち、その環境に於いて犯罪因子を誘発させる様なものは見られない。しかし彼は、ゲイだった。ゲイであるが故に、その性的マイノリティとしての自分を恥じ、隠し、社会に出た。彼にとって生きて行く事の根底に、「自分を偽る」と云うのが有ったのだ。


 どんなに人を好きになっても、その人に告白する事は社会的に許されず、秘かに思いを寄せる事すら許されない。「そんな辛さが、自分を曲げて行った。何度も、何度も死のうと思った」と彼は言っていた。


 それが、どんなに苦しい事であるか、想像が出来るであろうか。どんなに人を愛しても、同性であるが故、その愛情自体が禁恩であると云う事。彼はそんな寂しさを埋めるために、麻薬に手を出した。そしてネットで心を同じくする仲間と出会い、その延長線上で、言うなれば、毀損した自尊心と自棄の果てで麻薬に浸かり、逮捕に至る。


 彼の両親は真実を知った時、最初の一瞬だけ、野生の猛獣を見る様な目で彼を見た。それは一瞬であり、その先は親として、最大限に彼を愛し、養護する態度を貫いたが、その最初の一瞬、一瞬の化け物を見る様な両親の視線で、彼は死を覚悟したそうだ。


 麻薬は初犯の場合、営利目的で麻薬の販売、或は、麻薬を使用して別の大きな犯罪をしていなければ、例外なく執行猶予判決が下る。彼に下った判決は懲役一年四ヶ月、執行猶予三年と云うお決まりの判決である。「もうどうでもいい、死んで仕舞いたい」カミングアウトをし、その様に自暴自棄になり、居場所のない彼が、金輪際、麻薬を断ち、悪い仲間とも離れ、前向きに生きて行こう、果たしてそんな風に思えるだろうか。その判決を受けて、本気で立ち直ろうと思えるだろうか。


 執行猶予判決を受け、拘置所から釈放されて、僅か四か月後、彼はまた再び警察の留置所に居た。執行猶予中に麻薬を使い、前の一年四ヶ月とこの度の一年七ヶ月を含め、合計二年と十一ヶ月の実刑を受け、彼は刑務所に服役した。服役後、彼は依存症からの離脱を目的とする団体でグループワークに励んでいた。来る日も、来る日も、同じ悩みと苦しみを抱え集まる人達の前で、自分の苦しみ、悲しみを訴え続ける彼の姿は印象的で、私は生涯、彼のその姿を忘れる事は無いだろう。


 何故、彼は服役後、もう一度人生をやり直そうと、薬物離脱のプログラムを受けるに至ったか。それは、くしくも刑務所の中で、生涯の伴侶と出逢ったからである。それは同性同士がひしめく刑務所と云う、特別な環境だったからこそ実現した事なのかもしれない。彼は本当の自分を晒せる相手に巡り合ったのだ。


 刑務所では、囚人同士が住所のやり取り、手紙のやり取り、先に出た者が面会に訪れる等、娑婆で接触するきっかけになる様な事は固く禁じられている。しかし彼らは、お互いのアドレスを毎日暗唱し、記憶の中に叩き込んだ。そして出所後、再会を果たした。


 性的マイノリティの中には彼の様に麻薬を使う者も居るが、彼が出会ったその男は、麻薬を使わない男だった。作品の中でも紹介したが、麻薬は飽く迄も「幸せの代用品」であり、麻薬で人が幸せになれる事は断じてない。それどころか麻薬は、人生に於ける幸せを、「前借」もしくは「借金」する様なもので、使えば使うだけ、不幸に堕ちるものである。そんな事は彼自身、骨身にしみて理解している、しかし、当時の彼は、「前借」「借金」をしなければ、その日、一日を生きられないほど行き詰まっていたのだ。だから彼はグループワークでこう言っていた。


「あの時、法に従っていれば自分は死んでいました。そして死んでいたら、大切な彼に出逢うことは出来ず、こうして前向きに生きようと皆さんの前で話す事も無かった。麻薬は違法です、しかし、幸せを見失って死ぬよりは余程いい。麻薬は人が避難する最後の手段、最後の居場所です。そこを間違えないで欲しい。大切なのは、愛です。人が人を尊重し愛しむ心です。愛に出逢えるまでは足掻きましょう。喩え法を犯してでも、生きる事を諦めるよりは余程ましです。でも、死に先で、愛に出逢えたなら、本当に大切な人と出逢えたなら、こんなくだらない代用品は捨ててしまいましょう。僕の様に」


 人は生きる苦しみの中で今日も朝を迎える。自分は幸せなのか、不幸なのか、何の為に生きているのか。苦行を続ける毎日の中でそんな疑問を嫌というほど感じるだろう。しかし、自分より余程、苦しい毎日を送る人達が居る事を忘れないで欲しい。誰からも愛されず、麻薬を使うしか生きられないような人も居る事を忘れないで欲しい。

 世界の果てには、自分が想像も出来ない様な苦難の人生を強いられている人々が大勢居る。彼方は忘れないで欲しい。日本と云う経済大国で生きる自分たちは、自分さえその気になれば、何時だって幸せを掴める立場に在る事を。

 自分たちが如何に恵まれているかを考えれば、おのずと道は、見えて来る筈である。そんな彼方は、必死で幸せになれ。必死に、先ずは自分が幸せになれ。そして自分が幸せになったら、他人を愛してやれ。もっともっと、他人を愛してやれ。そんな風に頑張るあなたの周りに、もし麻薬を使う人が居たら、その人は、彼方のお蔭で、本当の幸せを取り戻せる筈だ。


 ポルトガルが正解だとは言えない。日本が同じ様な政策を採ったとしても、ポルトガルの様な成功を収める事は出来ないかも知れない。それでも、この大問題に真摯に取り組む姿勢と云うのは、この国もポルトガルから学ぶべきではないか。メディアでは警察24時の様な番組で、麻薬を取り締まる警察官を、さも正義の象徴のように描いている。あれを見る限り、捕まっている人、犯罪者側の人生の裏に、どんな苦しみが在ったかなど、見る者は伺い知れない。何故、そこを、彼方たちは見ないのか。大切なのは、犯罪者を捕まえる事ではなく、犯罪者を造らない社会を模索する事ではないのか。捕まえて刑務所に打ち込む。その単純明快な作業を繰り返す限り、この国から犯罪は無くならない。


 本当に大切な事は、人肌の温もり。その温もりを宿した生の思いやりと愛情。それ無くして、人は、本当の意味に於いて救われはしないし、立ち直ることも出来ない。不幸の中で苦しむ人を差別するより、手を差し伸べて欲しい。臭いものに蓋をしても、臭いものは余計に腐臭を増すばかりである。


 私が見学に訪れた折の彼の最後の言葉は、私が生涯、こうして誰かに伝えたいと願う言葉である。


「人は、自分が居る環境を基準に物事を考えます。だから、自分が幸せであるか、不幸であるかを見失う。上を向いて歩こうではなく、下を向いて歩こうでいって欲しい。自分には思いもよらない他人の不幸に目を向ければ、今の自分が、如何に幸せであるかが理解できるのと同時に、自分などには思いもよらない苦境を耐え忍ぶ人々に、おのずと芽生える慈愛の心が、あなた方自身を幸福へと導くのです。だから、下を向いて歩いてください。涙が零れて苦しくなるほどに、下を向いて歩いてください」




 この言葉を最後に、後書きとさせて頂きます。ご拝読、ありがとうございました。


                  了

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