幕間 未熟な誰かの記憶

 寒い。寒い。寒い。


 一体、ここはどこだ?


 見えるのは、山積みの段ボールに埃にまみれ汚れたフローリング。

 体の下にはとても暖かそうには見えないボロボロな毛布。

 締め切られた分厚い扉。

 光源はLED電球の作る冷めた白い光が天井から吊り下げられているだけ。窓は段ボールとガムテープで覆われ、黄ばんだ分厚いカーテンによって隠されている。


 茶色と白と黒。たった三色だけの錆びついた、忌まわしい、くそったれなボクの部屋せかい




 ああ。ボクは、これを知っている。


 家だ。ボクの人生を歪めた、あの家だ。


 動きにくい体を無理やり動かせば、骨ばった小さい手が薄らぼんやりとした視界に映る。この大きさの手は、今のボクのものではない。そして、見間違うこともない。ボクの手だ。


「う、ぁあうあ、あぃあぁぁあいあ」


 乾ききり、まともな教育を施されなかったボクの喉からは、錆びついた機械のような音が漏れる。その音は、もはや声と呼ぶことすらおこがましいような、いびつな音だった。


 生まれてから三年と少しのあの日だ。


 ………だとしたら、この後は………。



 ドシャッ、パリン‼︎

「このクソ女!テメエのせいで、俺は不幸なんだ!」


 獣のような男の咆哮と破壊音。そして、女性の、ボクの『お母さん』の絶叫に近しい悲鳴。


 ああ。まただ。またこの夢だ。

 分厚い扉越しに生々しい血の匂いが、ひどく鼻に突き刺さるようなアルコールの匂いが、カビ臭いこの部屋まで届く。


「お願い!やめて!死んじゃう、私、死んじゃうわ!」


 懇願する『お母さん』の声。まだ歩くことすらできないボクは、何もすることはできない。ただ、ひたすらにあの嵐が過ぎ去るのを息を殺して待つ。


「テメエが!あんなしか産めねえから!俺は!俺は俺は俺は俺は俺はああああぁぁぁぁぁぁああ‼︎!」


 男の獣じみた吠える声と肉を殴打する音。そして、『お母さん』の悲鳴と泣く声。これが、歪なボクの毎日。そう、毎日、だった。


 変わったのは、そう、丁度この日だ。この、寒い寒い、この日だ。


「……?!やめて、あなた!そっちは!」

「うるせえ!」


 男が何かを足蹴にする音が一瞬だけ響く。


 そして、


 分厚い扉が、


 軋む音を立てながら、


 乱暴に、


 開けられた。



 入ってきたのは、後ろの自然光のせいで表情のみえない、鈍く光を反射させるを持った男。それは、ろくに手入れもされず、赤茶色のサビがこびりついていた。


 新しい、モノだった。ボクの三年と少しの日々での登場人物はボクと毎日体を引きずりながら重い扉を開け、食事をくれる『お母さん』だけだった。


 初めての、ボクと、『お母さん』以外の登場人物。それは、ボクにとっての恐怖であり、理不尽であり、化け物であり、鬼であり、獣であり、憎悪の対象であり、嫌いなものであり、不快なものであり、恐慌であり、悪趣味であり、『わるもの』であった。


「うあ、ああああああああ!」


 だめだ、やめてくれ。

 ボクは、この先を知っている。いやだ。嫌なんだ。


「うるせーんだよ!」


 声を上げるボクを、男はゴミでもどかすかのように蹴る。鈍い痛みとともにボクの軽い体は簡単に吹き飛び、段ボールの山に落ちる。


 いやだ、痛い、いたいよ。


「あああぁ、ぁうぁううあああ」

「きめーんだよ!」


 男は、ボクの短い髪の毛を乱暴に掴み、ほおを殴る。


 遠慮もためらいも、優しさのひとかけらもないその殴打は、幼いボクの骨格を変えた。二度と、戻ることはない傷跡の一つだ。


 脳の揺すぶられる気味の悪い感覚。口の中に広がる鉄臭い塩味。腹部とほおに鈍く重い痛みが走り、恐怖とも相まって涙がほおを伝う。


 やだ。やめて。いや。




「いい加減、死ねよ!」



 ひゅっ

 ぐちゅっ


 金属が空を切り裂く、甲高い音が一瞬だけ響き、焼きごてを押し当てられたかのような痛みがボクの左目から右頬にかけて走る。


 意味が、わからなかった。


 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い?熱い!熱い熱い暑い熱い熱い!

「ああああああああああああ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!」


 どろりと顔からこぼれ落ちる赤い粘性を帯びた体液は、涙と混ざり合い、吐き気を覚えるような熱さに襲われる。わけがわからない。意味がわからない。世界が、天地が、ボクが、壊れるような、痛みだった。恐怖だった。


「ひいっ?!」


 想定外の出血と、生暖かい不気味な手応えに、男は恐怖を覚えたらしい。情けない悲鳴をあげ、男は包丁を部屋の隅に放り投げた。そして、そのままこの部屋から逃げ出す。


 金属とフローリングが触れあう軽い音が場違いに響く。


「いやっ!〇〇!」


 『お母さん』が奇声をあげ続けるボクのそばにはいより、必死にボクに呼びかける。





 白む視界に、熱い傷跡。

 その日、ボクの人生は歪んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

斧男 Oz @Wizard_of_Oz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ