蔦の魔女は梢にて憩う

八百十三

蔦の魔女は梢にて憩う

篠突く雨がエッシャーの森の木々を揺らす。

鋭く刺さる雨粒は木立の青々と茂る葉を揺らし、叩いては、弾けて消える。

葉の先端が揺られるたびに宙に弾け飛ぶ細やかな雫を、メル・アイヴィーはそのアイスブルーの双眸を細めることなく、ただじっと眺めていた。

彼女の口元が、絶え間なく、小さく動く。その口から紡がれるささやかな歌声が、雨音に溶けて森に消えていく。


彼女が今いるそこは、樫の木が生い茂る森の中、一等高く聳え立つ白樫の大木の梢だ。地上からの高さ、およそ20メートル。

このざんざ降りの雨の中、木の下に居れば雨風も凌げようものを、メルは自らのシルバーグレーの髪が千々に乱れることすら厭わぬ様子で、白樫の黒々とした樹皮に背中を預けていた。

だが彼女がここにいるのは、別に人の世を憂う仙人だからでもないし、自らの生を嘆く小人だからでもない。ただ単に、そこが彼女の憩いの場・・・・だからだ。

ここに居れば、あの狭苦しい檻を成す蔦を目にすることも、あの要所要所で目については鼻につく香りを残すセルフィーユを目にすることもない。

彼女を取り巻く全てからの解放を得られるこの梢が、メルのお気に入りだった。


しかし憩いの場だといっても、さすがに今日は雨風がひどく強い。

普段はさらさらと心地よい葉擦れの音も、今は強い雨音にかき消されてしまっている。歌を歌っても自分の耳にも届かない。

加えて強い雨がメルにも降りかかり、身に着けたワンピースの裾がじっとりと濡れてしまっている。


――今日は、日が悪いか。


メルは首元のチョーカーに手を触れつつため息をついて、どんよりと雨雲が垂れる空を見上げた。濡れた木の幹で滑らないよう、ゆっくりと立ち上がる。

この豪雨の中、20メートルもの高さの木から降りるのは、成人男性でも骨の折れる作業だ。

ましてや女性の、年にして16歳かそこらに見られるメルである。翼でも生えていない限り、無事に降りることは叶わないと誰もが言うだろう。


しかしメルには手段・・があった。


白樫の木の幹に触れたまま、立ちすくむことしばし。眼下からミシミシと音を立てて、何かがせり上がってくるのがメルの眼に映った。

深い緑色と、濃い茶色。白樫の幹を伝うようにして昇ってくるそれ・・は、メルの足元の枝にとりつくとその場で渦を巻き、人ひとりが座れる程度の板を形成する。


それは地面から伸びる蔦だった。

蔦で形作られた天板の上に、まるで迎えに来たハイヤーに乗り込むようにひょいっと飛び乗るメル。すると蔦の天板が、見る見るうちに眼下の地面に向かってゆっくりと降下していくではないか。

どんどんと高度を下げていく蔦の上に座ったまま、メルはぼんやり、高度によって変化していく森の風景を眺めていた。


『蔦の魔女』――メル・アイヴィーを、人はそう呼ぶ。




「まぁ、メル。またあの白樫のところへ行っていたのね。こんなにびしょ濡れになって」


蔦に地上まで下ろしてもらい、住処へと戻ったメルを、プラチナブロンドの長髪を可憐に揺らした美女が出迎える。

美女はまるで濡れ鼠のようになったメルを一目見るや、すぐさま綿布のタオルを片手に駆け寄った。手早く髪の水気をぬぐい取るその手を、タオルの上からそっと押さえる。


「いいよ、リタ。自分でやるから」


タオルの陰から不満げに光るアイスブルーの瞳を覗かせるメルを見て、美女はメルのそれよりも幾分色味の濃い、ターコイズブルーの瞳をすぅと細めた。


美女の名はリタ・セルフィーユ。メルの『姉』にあたる。

姉と言っても血縁関係があるわけではない。メルがもう記憶の闇夜に溶け込ませるほどの昔、リタとこの森で出逢い、以来二人一緒に育ってきたのだ。

植物を扱う術に長けるリタは、薬師として生計を立てている。様々な薬草ハーブを自在に操り、時に思いのまま地面から生み出す彼女を、街の人々は畏敬の念を込めて『芹の公女』と呼んだ。


様々な薬草の中でも、自身の姓に冠する「セルフィーユ」という香草が、リタは大のお気に入りだった。住処の周辺にこれでもかと生えているそれは、安らぎと清涼感を覚えさせる――リタにとっては何とも鼻につく――香りを辺り一帯に振りまいている。

雨のせいで一等強く感じるセルフィーユの香りに顔をしかめつつも、それをリタに見られるのがなんだか嫌に思えて、メルは綿布のタオルを顔にぎゅっと押し当てた。


「それにしても酷い雨ね。今はメルが蔦で覆いを作ってくれているから、雨の日でも気にせず過ごせるわ」

「別に……この程度、リタだって出来るでしょう。春にスイカズラをたくさん生やしていた」


蔦性植物のスイカズラを自在に生やして利用できるリタだ。普通の蔦くらいわけはないだろう。そんな皮肉も込めての物言いだった。

しかしリタは怒らない。メルを叱ることもしない。その柔らかな微笑みを一層柔らかくして、メルの銀色の頭を優しく撫でる。


「私はね、メル。生やす・・・だけなの。貴女みたいに編んだり、組んだり、長く伸ばしたりは出来ないわ。

 貴女のその能力ちからは、他の誰にも真似ができないことだわ。自信を持っていいのよ

 ……あら?」


メルの頭を撫でる手を止めて、リタは視線を上へと投げた。蔦が編まれた屋根、その向こう側。激しかった雨音が、いつの間にか消えている。


「雨が止んだみたいね。街に出ましょうか」

「私も行く!「ラ・バン」のプリン食べたい!」


「街に出る」と聞いたメルの表情が一気に明るくなった。顔にかぶせていたタオルを握り締めてバッと下におろす。

その様を見て、再びリタがくすりと笑った。




フィン公国南部に位置する交易都市ドゥセールは、菓子の街として名高い。

街の目抜き通りには国内外にその名を轟かせる菓子屋が何軒も並び、老いも若きも男も女も、皆が皆色とりどりの菓子を前にして、瞳をキラキラと輝かせるのがこの街の常だ。

そして、この目抜き通りの中ほどに位置する菓子の名店「ラ・バン」の特製プリンが、メルの大好物だ。

卵をたっぷりと使用した濃厚でまろやかなプリンと、ほろ苦く香ばしさを添えるカラメル。透明なガラス瓶に詰めて作られる黄金色と濃褐色はキラキラと光り輝いて、メルの心を惹きつけてやまない。

それでいて一つのお値段、なんと驚きの銀貨一枚。幼子や婦女子にも人気の逸品だ。


今日も「ラ・バン」のテラス席の一つに陣取ったメルは、満面の笑みで瓶から掬い取ったプリンを頬張っていた。

席の向かいでリタが頬杖を突きながらまなじりを下げている。彼女の前には季節の果実を盛りつけたカスタードケーキが一切れ、豪奢な皿に載せられて存在感を放っていた。


リタがカスタードケーキに銀製のフォークを入れたタイミングで、テラス席の外側、目抜き通りを歩く男女が、こちらを指差しているのがメルの目に入った。


「おい、あそこ、『芹の公女』様だぜ。今日も『蔦の魔女』と一緒だ」

「ほんとね、公女様もあんな魔女を引き連れて街まで出てこられて、物好きだこと」


メルの耳に、男女の話した内容が届いたとは限らない。何しろ20メートルは離れたところから囁かれるようにこぼされた声だ。

しかしメルは、リタが蔑まれたことを敏感に感じ取った。スッと顔から表情を消しつつスプーンを運ぶ手を止めて、両の手をテーブルにゆっくりついて椅子から立ち上がる。その拍子にリタの前の皿が、ケーキと共に大きく揺れた。


「メル」


短く溢されるリタの声。しかしその僅かな声の内に、強い意志が含まれている。

両手をテーブルについたまま、憮然とした表情を隠そうともせずにメルは自身の椅子に腰を下ろす。ふわりと、長い銀髪が揺らめいた。


「メル、大丈夫よ。貴女が腹を立てる道理など、何処にもないのだから」

「……分かってる」


リタにそうして抑えられながらも、抑えきれない腹立たしさを臓腑の中に溜め込むようにしながら、メルは瓶に残ったプリンを掬い取った。

私が一緒にいるから。私が一緒にいるからリタは街の人から蔑まれる。

リタと一緒にいるから。リタと一緒にいるから私は街の人の目に留まる。


表現しようのない感情がメルの心の奥底で渦を巻く。まるで蔦がぐるりと円を描くように。

そんな内面の澱みを見透かしたか、リタが手元のケーキを大口を開けて口に詰め込んだ。

普段の姉では想像もつかない、マナーをかなぐり捨てたその有り様に、目をこれでもかと見開いて姉を見据えるメル。ケーキを咀嚼して一息のうちに飲み込んだリタは、口の端に付いたクリームをナプキンで拭いながら、メルをまっすぐ見据えた。


「行きましょう、メル。薬を納品したら森に帰りましょう」




雨上がりの森の中は、いつもより緑の匂いが濃い。雨上がりの日に、街から戻る時は特に。街でお腹と心を満たした後に、身体いっぱいに森の匂いを取り込むことの出来る一時が、メルは好きだった。

だから、街に出るのは好きだ。大好きなリタが蔑まれるのだけは我慢できないけれど、それ以外のことは大概我慢が出来る。それに「ラ・バン」のプリンは美味しい。

だが、何だろう。今日の森の匂いには、何か別の・・匂いが、微かに混じっている。


「……ねぇ、リタ」

「メル、どうしたの?」

「何だか木の焼ける・・・・・匂いがしない・・・・・・?」


メルのその言葉に、リタのターコイズブルーの瞳が大きく見開かれた。

進行方向、住処の方に目を凝らす。森の緑と茶色の合間に、微かにちらつく橙色。


まさか。

弾かれるようにメルは駆け出した。リタを後方に置き去りにして、ワンピースの裾を蹴上げながら走る。木の間を抜けて抜けて、住処のある開けた空間に出た途端、顔を、腕を、放射熱が襲った。

住処は、炎に包まれていた。




既に住処の壁は広範囲が炎に飲まれ、パチパチと内部から弾ける音を立てていた。入り口横のセルフィーユに紛れて、火の点いた松明が転がっているのが見える。

放火か。犯人は、ドゥセールの街に住む誰かだろうか。

思考が数瞬フリーズしたが、すぐさま目の前の現実にメルはまなじりを決した。太い蔦を数本生やすと、住処の入り口をこじ開けるように差し込んで下から支える。

住処の壁はきつく編み込まれているとはいえ、蔦は蔦だ。それに長い年月を経て乾燥しているから、火の回りも早いだろう。燃え広がることを防ぐのは容易ではない。

入り口を確保したメルは意を決して燃え盛る家の中に飛び込んだ。


「メル!!」


ようやく追いついたリタの悲痛な叫び声が耳に届く。姉としては妹を止めたかっただろうが、その声が逆にメルの背中を押した。

住処の中に飛び込んだメルが真っ先に目指したのは、リタが調薬に使う作業台だった。机の上の棚に収められた数冊のノートを手に掴む。

これらのノートは、リタが調薬の記録や薬草の効能、調合の配分の記録を付けたものだ。複写もされていないから、この世に二つとない大事なものである。これが失われたら、リタの十数年の努力と苦労が、文字通り灰燼と化す。


ノートをしっかと胸に抱き、メルはぐっと足に力を籠めた。途端、足元から勢いよく蔦が飛び出してメルの身体を弾き飛ばす。

そして弾丸のように射出されたメルが燃えて脆くなった住処の壁を突き破った瞬間、全体に火の手が回った住処が大きな音を立てて崩れ落ちた。


「メル……貴女はほんとに、無茶をして」

「リタ……」


草の上にうつ伏せに倒れ伏すメルの目の前までやってきて、しゃがみ込んだリタが、メルの頭をそっと撫でた。髪についた煤を、優しく払い落としてくれる。

メルは身体を起こすと胸に抱えたノートを、リタの前にそっと差し出した。端が僅かに黒く焦げているが、ノートはしっかり原型を留めていた。

驚愕に再び瞳を見開いたリタの前で、メルの表情がくしゃりと崩れる。


「ノートが無事なら、住処が無くなっても、やっていけるよね?」

「えぇ……そうね、そうだわ。よくやったわね、メル」


リタの細く長い指が、メルの長い銀髪を、優しく何度も、何度も撫でた。

しばし座り込んだまま髪を撫でられるがままだったメルの表情が、スッと色を失う。


「でも、どうする?火を点けられたから、もうこの森には居られないよね」

「そうね……でも大丈夫よ、貴女が居ればどこだって」

「……うん」




そして数日後、エッシャーの森に立ち入ったフィン公国の兵士たちが目の当たりにしたのは、黒く焼け焦げた下草と、その下草を取り囲むように螺旋状に伸びつつ、複雑に編まれた大量の蔦だった。

中に立ち入ろうにも、まるで鎖帷子のように編まれた蔦を排除するのは容易ではなく、「放火があった」という事実だけを確認するに留まり、調査を諦めて帰還するしかなかったという。




放火事件から幾ばくかの時間が経った頃。エッシャーの森から遠く離れた森の中。森の中で一等高い、白樫の木の高い梢。

青く晴れ渡った空を見上げて、爽やかな風が木立を揺らす中で、メルは白い木の幹に寄りかかりながら朗々と歌っていた。


メル・アイヴィーの歌は森に響く。風に乗って、空に溶けていく。そうして「蔦の魔女」は大好きな姉と共に森に生きるのだ。いつか来るその日まで。

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