溺れた魚
修矢みつる
本文
―――私は、死にました。
私たちしか知らない、二人だけの秘密基地。ーーー屋上。一部が破損した落下防止の柵。そこから姉を、私はこの手で突き落としました。背中から地上へと落ち行く姉。
それはとてもゆっくりと、まるでここが夢の中では無いかと思わせるようなものでした。姉は驚いた表情一つ見せず、ただただ私をじっと見つめていました。重力に従い落下する姉。長く綺麗な漆黒の髪と、陶器のように白くて美しい肌のコントラストが姉の美貌をより際だたせていました。
私はその光景を、ぼんやりと見ていました。やがて、ぐしゃりと嫌な音を立てて、姉は醜い姿へと変貌を遂げていました。
その瞬間から、私が姉に成りました。
姉ではなく、醜い私が死んだのです。
私の姉、菫は賢くて運動も出来る。内向的な性格の私とは逆に、とても社交的であった。
双生児……、いわゆる双子である私たちは、顔かたちの造りこそ同じではあったけれど、全てが全て真逆。見た目の違いは髪の長さ(姉は腰程まであるロングヘアー、私は肩に掛かる位のミディアムヘアー)くらいである。しかし、いくら見た目が似ていたとしても、私たちは一個人であって、別人なのだ。中身が、違う。なんでもそつなくこなす姉に比べ、私は何もかもが普通。勉強の出来は中の下、運動は全く駄目という訳では無いが、特に秀でたところは無い。平凡な人間だ。
かと言って出来の良い姉を恨むなんてそんな昼のドラマ的な事は無く、二人の仲は良好であったと思う。しかし、周りは違った。言葉や、あからさまな態度に出ていると言うことは無かったが、やはり私みたいな凡人よりも姉の方が愛されている……というのをひしひしと感じる。私はそういうのを感じ取るのに敏感だった。差別などはなかったがきっと母親も、賢く、利己的な姉の方が愛おしいだろう。
幼い頃、両親は離婚をした。父親の顔は思い出せない。幼い私たちにとって、母親が世界の全てであった。なので、母親の愛情が姉の方へ傾いていると考えると少し寂しくはあったけれど、その分も含め姉が私を愛してくれていたので、私たちのバランスはうまく保たれていたのだ。
特に問題も無く六年間を過ごした小学校を卒業し、私たちは春休みを満喫していた。近所に住んでいる幼なじみの夏川透君と、小学校で仲良くなった和泉秋ちゃん。この四人で門限まで遊ぶのが日課になっていた。
母は女手ひとつで私たちを育てる為、朝九時から夕方の五時までは近所のスーパーのレジ、夜の八時から明朝の三時位は家から少し歩いたところにある、駅の近くに店を構えているスナックで働いていた。昼間の仕事を終え、夜の仕事へ向かうまでの時間は母と過ごす為、夕方六時が私たちの門限だ。
六時少し前、透君と秋ちゃん、二人と別れて私たちは家路に着く。築二十年の小さな木造アパートの二階。カンカンと小さな足音を立てて安っぽい鉄製の階段を上る。そして自分たちの部屋の前に着くと鍵を差し込み、扉をそっと開いた。
母は昼間の仕事を終えると、約一時間程仮眠を取り、私たちの夕飯の用意と夜の仕事の支度をしてから、また家を空ける。そんな多忙な母の貴重な睡眠時間を邪魔したくは無いという気持ちで、なるべく音を立てないよう、いつも静かに帰宅する。
「おかえりなさい。菫、春」
にっこりと笑みを浮かべ、母が迎えてくれた。エプロンを着用し、夕飯の支度に取りかかっていたらしい。美味しそうな匂いが鼻孔を擽る。匂いからして肉じゃが……、だろうか。
「ただいま!」
「ただいま。お母さん」
母が起きている事に嬉しくなり、急いで靴を脱いで家の中へと入った。六畳一間、風呂、トイレ、台所付き。ここが私たちの世界だ。不満は一つも無い。母はいつだって愚痴も言わずに必死に働き、私たちを育ててくれているから。
その日の夕食はやはり肉じゃがだった。母が作る物は全て美味しい。夕食が終わると、食器は自分たちで洗う。少しでも母の負担を減らす為だ。母はその間に化粧などの身支度をする。勿論、その時間も無駄に消費する事無くずっと私たちは他愛の無い会話をしている。食器を片づけ、少しすると母の支度が終わった。そうするともう、親子三人の楽しい時間は終わりが近づいた証拠だ。母は次の仕事へ向かう。
「お風呂も沸かしてあるから、入ったらぐっすり寝るのよ。もし誰か来ても絶対に扉を開けたら駄目だからね」
ヒールの高いパンプスに足を潜り込ませつつ、耳慣れた言葉を口にする母。私たちは素直にうなずく。
「じゃあ行ってくるから、良い子にしててね」
カバンを右肩に掛け、こちらに振り向く母の元に近寄り、二人でぎゅっと抱きつく。
「いってらっしゃい」
「気をつけてね」
母を見送った後、テレビをつけた。二人の好きなバラエティ番組がやっている。少しテレビを見てから入浴するのが私たちの日常だ。入浴が終わると髪を乾かし、部屋の中央にあるテーブルを隅へと移動させ、布団をぴっちりと三組敷く。
「じゃ、寝よっか」
姉の言葉にうなずき、パチリと電気のスイッチを押して消した。いそいそと自分の布団へ潜る。一番左側が私。真ん中が姉。そして明け方に帰ってきた母が右の布団で眠る。
うつらうつらし始めた頃、「あ、」と姉が何かを思い出したようなトーンの声を発した。その声に意識が一気に浮上した私は返事をする。
「……どうしたの、姉さん」
「あ、よかった。まだ起きてたんだね」
「うん」
本当はもう、すぐにでも眠りそうになっていたのだが黙っておく。隣で、もぞりとこちらへ向いた気配を感じ、私も向かい合う形で体を姉の方へと向けた。
「春にね、見せたい場所があるの」
「見せたい場所?」
「うん。春にだけ見せたいの。だから明日は二人と少し早めに別れてそこに行こう」
それが何なのか訊かない。尋ねたところで答えてはくれないだろうし、それに、知らない方がワクワクする。
「わかった」
「よし。じゃあまた明日ね。おやすみ」
「おやすみ」
少しすると隣からすうすうと気持ちの良さそうな寝息が聞こえ始めたのに対し、逆に私は目が冴えてしまっていた。
姉が私だけに見せたい場所……一体どこなんだろう。少しの不安と、それを上回る好奇心。逸る気持ちを押さえつけ、眠ろうと努力する。
翌朝、目が覚めると姉が朝食を作っていた(母は眠っている)。あの後いつの間にか私は眠っていたようだ。布団からこそっと抜け出し、姉の元へ行く。母は朝食が出来上がるまではそっとしておく。
「姉さんごめんなさい。寝坊した……」
「いいよいいよ。たまには」
小声で会話する。
「もうすぐ出来上がるから、先に顔洗って来ちゃいな」
台所のシンクの上にはトースト(カリカリに焼いたベーコンと、とろとろの半熟の目玉焼きが乗っている)とサラダが皿に盛りつけられていた。その香ばしい匂いに正直なお腹がクゥと小さな音で主張する。
顔を洗い、洗面所を出ると、姉が母を起こしているところだった。
「母さん起きて。ごはん出来たよ」
軽く揺すると、伸びを一つし、母が起きた。
「ん~、」
「おはよう、母さん」
それぞれに言うと、へらりと締まりの無い顔で笑った。
「菫、春、おはよぉ」
その後、三人で布団を片づけ、テーブルをまた中央へと移動させる。そして出来上がったばかりの朝食を並べた。
朝食を済ませると、母だけもう一度布団を敷いた。スーパーの仕事の時間まで一時間と少し、眠る為だ。
「母さん、私と春は遊んでくるからゆっくり休んでね」
「うん、いってらっしゃい。六時までには帰ってきてね」
昼頃に戻ると、昼食だけ用意してあり、母の姿はもう無くなっている。私たちはそれを食べるとまた遊びに繰り出す。
家から徒歩十分の公園へ行くと、透君、秋ちゃんが既に揃っていた。
「よう。菫、春」
「やっほー」
「やあやあ二人とも!早いねぇ」
「お待たせしましたか?ごめんなさい」
この二人とも、姉がきっかけで友達という関係になった。内向的な性格の私はいつも姉の社交的な性格のおかげで友達を作れている。
「春ちゃん気にし過ぎー。私たちもついさっき来たばっかだよ。ね?夏川君」
「そーそー。春はいつも周りに気遣い過ぎなんだよ!」
「いや、菫は気にしなさ過ぎだろ」
話を振られた当人よりも早く口を挟んだ姉に透君がツッコミを入れた。
「で、今日は何して遊ぼうか?」
そんな事は気にも留めず、トントンと話を進める。
「その事なんだけどね、夏川君が最近発売した例のテニスゲームを買ったらしくて、みんなでそれをやろっかって話してたのー」
テニスゲーム。家庭用の物で、テレビ画面へ向かいラケット型のコントローラーを振るというものだ。室内に居てもスポーツが出来るということで、発売と同時に完売店が続出した人気の代物である。
「そりゃあもう行くしかないね!」
どこまでもゴーイングマイウェイな姉に、三人で苦笑しつつ後に続くのであった。
透君の母親に挨拶し、リビングで早速ゲームを開始する。テレビ画面の前に立ち、ゲーム対個人のシングル戦を順にプレイする。三度繰り返し、勝利した回数が多い者が勝ちというルールだ。
実際にプレイしてみると、ほんのり汗ばむ程に運動量が多かった。まるで本当にテニスをプレイしているみたいだった。
勝敗の結果、全勝の姉、二勝の透君、一勝の秋ちゃん、全敗の私。というほぼ予想通りの結果になった。姉がふと近くの壁に掛かっていた時計を見たので、私もつられてそちらを向いた。
―――四時十分。
「ごめん、今日は母さんにいつもより少し早く帰ってきなさいって言われてるの。だから私と春はそろそろ帰るね」
おもむろに立ち上がる姉。
「そうなんだ。じゃあ私も帰ろうかな」
それに続いて秋ちゃんも立ち上がる。
「その前に片づけないと……」
ゲームのコントローラーに手を伸ばすと、透君が制止の声を上げた。
「そのままで良いよ。俺、まだやるから」
今度は負けないようにしないといけないからな。と笑っていた。
***
解散し、秋ちゃんを見送った後、私は姉に手を引かれ、家から少し歩いた場所にある雑木林の中へと来ていた。
「姉さん、こっちは危ないから入っちゃ駄目って母さんが言ってたよね?」
薄暗い中、ふつふつと沸き上がる不安が私を襲う。
「ダイジョーブダイジョーブ。あと少しだから」
歩みは止まらず、私達はずんずんと真っ直ぐ前を進む。姉の言う通り、それから間もなくして足が止まった。辺りをキョロキョロと見回していた私はそれに気づかずに、どんっと背中にぶつかった。
「ご、ごめ……」
言葉が途切れたのは、姉が怒った表情で私を見ていたから。なんてことは無く、目の前に大きくて立派な白い家があったからだ。
「……誰の家?」
「誰も住んでないよ。表札も無いし、全体的に見ると結構ボロいの。多分もう何年も誰も住んで無いと思うんだ」
「そうなんだ……。でもどうして姉さんがこんな場所を知ってるの?」
よくよく目を凝らして見ると、確かに至るところペンキが剥がれ落ち、所々穴も空いていた。
「前に春が風邪を引いて寝込んだ時があるでしょ?母さんが看病してたし、私は邪魔にならないように外に行ったの。でも、そんな時に誰かと遊ぶ気になんてなれなくって。その時ふと、前から気になってたこの雑木林に入ってみたらここを見つけたんだ」
なんて危険な事を……。と思ったが、キラキラした姉の瞳を見ていたら言葉として出ては来なかった。
小さく風が吹き、サワサワと木々が音を立て、薄暗さも相まって、その家の不思議な雰囲気を引き立てている。立ち尽くし、ぼうっと見入ってしまう。
「ね、春」
姉の声でハタと我に返る。
「何?」
「ここをさ、私たちだけの秘密基地にしよう!」にやりと悪戯っぽく笑った。
「二人だけの……秘密基地……」胸が、躍った。
「うん。だけど今日はもう帰ろう。そろそろ時間だから。また明日室内を見に来ようよ」
いつの間にか取り出した携帯電話(母がもしもの時の為と言って持たせてくれたもの)の画面を見て言った。時刻は五時三十分。
母と過ごす時間、透君と秋ちゃんと遊んでいる時、私の心はずっとふわふわとしていて、あの秘密基地の事でいっぱいだった。
今日は三時に二人と別れ、その足で例の場所へと向かった。家の前に古びた立ち入り禁止の看板があったが、無視をする。普段の私だったら考えられない行為だ。玄関の扉のドアノブに手を掛ける姉。
「姉さん、鍵は?」
「んー。私が前にヘアピンでちょちょいとね」
シシシと笑った姉に色々と思うところがあった。そんな私を余所に、ギギッと音を立てて古びた扉は開いた。姉の手をぎゅっと握り、恐る恐る中へ入って行く。
薄暗かった。私の手を離すと姉が鞄から懐中電灯を取り出す(家にあったものだ)。私もそれに倣った。ゆっくりと室内を見渡すと、ホコリが積もっていたが、ソファーやテーブルなど人が生活していた頃とさほど変わらないであろう状態で、一式が揃っていた。窓にカーテンが無かったので、外からの光が少し差し込んでいる。電気やガス、水道は当たり前だが、引かれていないとの事だ。
「ね、凄いでしょ?」
「うん。凄いよ!」
得意げに話す姉に素直に同意する。
「でもなんでこんなに良いところなのに誰も住んで無いんだろう」
「あれ、見てみて」
姉が、懐中電灯の光を天井に向けて当てる。キラリと反射する光。
「シャンデリアだ!」
「他にもね、絨毯とか棚に入ってるお皿とか、高級そうなものが少し残ってるの。きっとここに住んでた人はお金持ちだったんだよ。だからさ、ここにも飽きてどこかに行っちゃったんだと思う」
「そうかもね」
姉に手を引かれるまま、二階へと続く階段を上る。そこには子供部屋、と思われる部屋があった。元はピンク色だったであろう壁は薄汚れていた。机や小さなベッド、ぬいぐるみなども置いてある。
子供部屋の隣は寝室だ。夫婦の部屋だろう。大きなベッドが中央にあり、壁際にメイク台があった。
一通り見終わると、三階へ上る。客室らしき部屋と、書斎があった。書斎には沢山の書籍が所狭しと詰め込まれていた。英語の題名の本もあり、難しそうなものばかりだ。
「私たちの家とは全然違うよね」
「そうだね」
「あ、そうそう。この家、屋上もあるの!行こ!」
ぱっと明るい表情になり、姉さんは有無を言わせず私の腕を引っ張り、屋上へと続く階段を勢いよく上る。
扉を開くと、夕焼け空が広がっていて美しかった。屋上には雨ざらしで傷んだのであろう椅子とテーブルがあった。落下防止の柵が一部破損しているが、それ以外は特に問題無さそうだ。姉はわざわざそこへ向かって歩いて行った。
「ちょ、姉さんそっちは危ないよ」
「気をつけてるから平気だよ。春もおいで」
少し怖かったけれど、私は姉に言われた通りに隣へ座る。足を伸ばす際、一瞬下を見てしまい、後悔した。もしも落ちてしまい、打ち所が悪かったら怪我だけでは済まないだろう。
「屋根に座ってるなんて面白いよね」
屋根、とは違うような気もしたが、面白いことは確かなので、こくりと頷いた(恐怖心もあるが)。
***
残りの少ない春休みの数日間は、いつも通りの生活にプラスアルファで秘密基地に通う毎日だった。柵の崩壊した箇所から足をぶら下げつつ座るのにももう慣れた。遠くで夕日が沈むのを眺めながら、姉と他愛のない会話をするこの時間が、自分の中で一番心が落ち着く時間だった。
「私たちも明日から中学生だね」
「うん」
「何の部活に入るかもう決めた?って訊こうと思ったけど、答えは分かりきってる。春はもちろん文芸部でしょ」
夕日から私の方へと視線が向けられたのを感じ、私も姉を見る。
「そうだよ。姉さんは決めたの?」
私は特に何か好きなスポーツが有るわけでは無いし、得意でも無いので、趣味である読書の出来る文芸部一択だ。しかし、多才な姉は選り取りみどりだろう。
「うん。私も文芸部」
「……えっ!?」
思わず凝視する。まあ、人並みには読書をするが、どちらかといえば体を動かすことの方が好きな姉が何故。ぐるぐると考えていると、太ももに置いていた私の左手を姉が両手で包み込んだ。
「春との時間が減るのが嫌なの。だってさ、双子って同じクラスになれないでしょ?それで部活まで違ったら二人で過ごす時間が無くなっちゃうもん」
それは、正直私も同じ事を考えていた。でも、私なんかのワガママで姉を困らせたくない。と、思っていたので、私はあえてその話題に今まで触れなかった。
「でも……姉さんはきっと、いや、絶対に色々な部活からスカウトされるよ?だってなんでも出来るんだもの」
悲しい現実。例え容姿が似ていたって、私たちは全く違う。
「そうかもしれない。だけど私は春との時間の方が大事。だからこれは決定ね!」
優しい顔で笑う姉に、涙が出そうになった。けれど、ここで泣いてしまったらせっかくの姉の優しさが無駄になってしまうような気がしたので、ぐっと堪える。
「わかった。でもね、姉さん」
「なに?異論は認めないぞ」
「文芸部に入るからには、今まで以上に沢山の本を読むんだよ?」
姉は一瞬虚を突かれた表情になった後、とても楽しそうに笑った。
―――四月。
晴れやかな空の下、入学式は行われた。
クラス分けは案の定、姉と離れ離れになってしまった。しかし幸いな事に秋ちゃんと同じクラスになれた。姉は透君と同じクラスになれたとの事だったので、良かった。新しいクラス。だが、市立の中学校なので見知った顔が多い。
「いやー、でも春ちゃんと同じクラスで嬉しいよ!一年間よろしくね」
私のすぐ横の席の秋ちゃんが言った。
学期の初めは名前順で席に座る。相原春、和泉秋。あいうえお順で私たちは隣の座席になった。
「こちらこそよろしく。一人だったらどうしようかと思った」
秋ちゃんの方へ体を向ける。
「菫は夏川君と一緒だね。いやー、良かった良かった」
意味ありげに笑う彼女に対して、私は首を傾げた。
「んー、春ちゃんに言って良いのかな?良いよね。うん」
少々態とらしく悩んでいるような素振りを見せた後、ちょいちょいと手招きをされたので顔を寄せる。
「夏川君ね、菫の事が好きなの」
耳元で吐かれた言葉に、周りの雑音がかき消された。
「菫の方はまだ友達以上の感情は持ってないみたいだけど」
キィィィン。耳鳴りが、五月蠅い。
***
その後の事はあまり覚えていなかった。
初日という事もあり、授業が早く終わった私たちは例の秘密基地へと来ていた。読めそうな本を書斎から適当に数冊持ち出し、お小遣いで購入したレジャーシートの上でそれを読む。少しして飽きたのか、姉が話し始めた。
「透君はサッカー部に入るって言ってたよ」
姉から出てきた名前に胸がツキリと痛む。読んでいたページに栞を挟み、閉じて自分の右側に置く。
「秋ちゃんは彼氏ができた時の為にって家庭部に入るって言ってたよ」
「何それ!」
コロコロと笑う姉。
和泉秋。見た目がボーイッシュで性格はサバサバしている彼女だが、実は意外と乙女なのだ。
「ま、でも二人とも充実してそうでなによりだ」
「そうだね」
「でさ、うちの担任の中山先生がね、文学部の顧問なんだって。ビックリしちゃった。色々話を聞いたら、いまは三年の男の先輩一人しかいないらしくて、私たちが入部するって伝えたら凄く喜んでたよ。ちなみに活動内容はとにかく本を読む!だって。好きな時に行って忙しい時は休んで良いとか超自由!」
姉が私の膝を枕にして寝ころんだ。
「文芸部にして良かったよー。他の部活じゃこうはいかないもんね」
目を瞑っている姉。睫毛が長い。私もこのくらい長いだろうか。
「だからってサボってばかりじゃ駄目だよ?」
「分かってまーす」くすくすと笑い合う二人。
放課後。図書室に隣接された司書の先生方が休憩室として利用している部屋が文芸部の部室だ。
「えーっと。では新しくメンバーが増えたので自己紹介をしましょう」
太めの鼈甲色の眼鏡に黒髪セミロングのこの女性が文芸部の顧問の中山先生だ。大きめの机に集まっている生徒は私を含めて六人。
「三年の沢田孝です。宜しく」
細めのシルバーフレームの眼鏡を掛けている無表情の先輩。彼が今まで唯一の部員だったのだ。
「二年の田山律です。今までテニス部だったんだけど、腕の怪我をしたきっかけにそっちは辞めて、趣味のひとつの読書が出来るこの文芸部に入りました。よろしくね」
人の良さそうな笑顔で挨拶をした先輩。はつらつとした雰囲気にいかにも運動部、という活発な印象を受ける。
「一年の相原菫です。こっちは双子で片割れの春。この子が読書好きで、私は人並みには好きかなって感じです。よろしくお願いします」
「姉さんが紹介してくれましたがもう一度……。相原春です。これから宜しくお願い致します」
「……同じく一年の美里夕立と申します。宜しくお願い致します」
肩口で綺麗に切り揃えられた清潔感のある黒髪。無表情で、雰囲気が三年の沢田先輩にどことなく似ている。
「部員が一気に五人も増えて先生嬉しいなあ!と言っても特に活動内容とかは無いんだけどね。もし何かやりたいことがあったらどんどん提案してね!」
その後、田山先輩の提案で週に一度全員で集まり、おすすめの本を紹介し合うという事になった。
せっかくの部活動なのだから、ただ読書をするだけでは無く何か文芸部らしい活動をしようとの事だ。姉さんは若干面倒くさいといった表情を浮かべたが、他の二人は特に反対する理由も無いと無表情のまま答えた。私も結構面白そうだな、と思ったので快く承諾した。
来週の記念すべき第一回おすすめ会の為、解散後そのまま図書室へ行き、私達は各自気になった本を借り、秘密基地へ向かう。そこへ行くのも慣れたもので、本当はもう手を繋がなくても平気なのだが、雑木林に入ると自然に姉が手を優しく包み込むように握ってくれる。なので何も言わず私はそれを握り返す。秘密基地に辿り着くと、すぐに屋上へと階段を上る。
借りてきた本を開くでもなく、制服のままで私たちは大きめのレジャーシートの上へと寝ころんだ。
夕暮れの空を真っ直ぐに見つめている姉。
枕にしていた自分の腕、右腕を空へと伸ばした姉。私はそれをじっと見つめる。
数秒そうしていたかと思うと、姉は突然ガバリと上体を起こした。
「ねえ、春は、春はいま楽しい?」
漆黒の、澄んだ両の瞳が私を捉える。艶やかな長髪がサラリと風で靡く。
「楽しいよ」(姉さんがいるから)とは言わなかった。
「そっかー!」
嬉しそうに笑い、私を両手で引っ張り起こす。
「下の書斎で少し本を読んでから帰ろう」
「うん」
書斎には二人で買ったキャンプ用のランタンが置いてあるので、読書をするには充分の明るさがある。
***
第一回、二回と回数をこなしていくうちに、部員とも自然に打ち解けていくようになった。最初は怖かったけれど、話してみると皆良い人たちだった。姉は文芸部の部員以外の人たち、クラスメートや先生方からもすぐに親しまれるようになった。
テストの順位もいつも上位。体育では学年の女子のトップ。それに比べ私はいつも中間の順位。テストも、体育も。
友人は、姉を通じてそこそこいた。優秀な姉と双子ということで、いじめなどもなかった。周囲からは優秀な姉のオマケ程度に見られていたのだろう。
姉が良い成績を取ると、母はとても喜んでいた。私はそれをまるで別世界で起こっている出来事かのようにぼんやりと眺めていた。
***
一年も二学期に入ると、周囲が姉を放っておかなくなった。常に遊びの誘いや、部活動の勧誘を受けている。それから、愛の告白をされているのも何度か目にしてしまった。
姉は優しい。
内向的な私を放ってはおけなかったのだろう。その全てを断った。私はその現実がとても辛く、しかし心のどこかで優越感……、もあった。
そんな日々を繰り返していたある日、姉が日直の当番があるので、それが終わるまで図書室で待つことになった。中には司書の若い女性と、一番奥の本棚から近い席に沢田先輩が座っていた。一言挨拶を、と思い、沢田先輩の方へと歩みを進める。
「こんにちは」
彼が本から視線を上げ、ああ。と返してくれた。
「一人か?」
「あ……、はい。姉さんは日直の当番なんです」
読んでいたページに栞を挟み、本を閉じると自分の前に置いた。
「前からお前に言いたいことがあった」
右手をすっと差し出す。座れ、という意味だろう。私は彼の向かい側の席に腰を下ろした。その際、司書の方をちらりと見たが、彼女はパソコンに向かい黙々と作業をこなしていた。少しくらい会話をしていても大丈夫そうだ。
「なん……でしょうか?」
自分で気づかないうちに何か失礼なことでもしてしまっただろうか。今までの自分の行動を瞬時に思い返してみたが、特にこれといった事は何もない。と思う。
「お前は相原春だな?」
彼は至極真面目に当たり前の事を言った。冗談だろうか。とも考えたが、彼がこんな冗談を言うはずが無いので、私も真面目に答える。
「はい。そうです」
彼は軽く頷き、中指で眼鏡のフレームをくいっと持ち上げ、位置を正す。
「お前は相原菫では無いし、相原菫もお前では無い。一卵性双生児とはいえお前たちは一個人で、別人だ。俺の言っている事は理解出来るな?」
それにどう答えるべきか悩んでいると、勢い良く扉が音を立てて開かれた。
「おっまたせー!春ぅ」
姉さんだ。静かに。と司書の先生に叱られつつ、いつもの調子で軽く謝っていた。
「沢田先輩こんにちは。じゃ、帰ろうか春」
まだ話の途中だったのだが、手を引かれて立ち上がる。
「ちょっ……」
困って先輩を見ると、彼はまた本を手に取り、読み始めていた。
「先輩さようならー」
「す、すみません。お先に失礼します」
「ああ」
視線がこちらに向く事は無かった。
後にも先にも彼と二人きりで会話をしたのはそれきりだったので、結局あの日の答えも言えなかった。
早いもので、特に大きな問題もなく私たちは二年生になった。卒業式の日、文芸部の皆で色紙を書き、それを彼に渡すと、僅かだがふっと笑顔を見せてくれた。それを見て私と姉さん、田山先輩、中山先生は、わっと泣いてしまった。美里さんはいつも通り涼しげな表情だったのだが。
二年生のクラス替え。この学校では受験勉強に力を入れている特進クラスが二年生からある。本人の希望と、学力がクリアすれば入れる。将来の夢が医師である姉は勉強と運動、両方が出来るので当たり前のように特進クラスになった。透君もだ。彼はこれといった夢は無いようだったのだが、両親の薦めもあり……といった感じだ。
私は平凡なクラスの二組。偶然にもまた秋ちゃんと同じクラスになった。そして今回はなんと美里さんとも同じクラスになれた。
「美里さんも特進クラスだと思ってた」
休み時間になり、窓際の席で本を広げた彼女に近づき、おずおずと話しかけた。本を手にしたまま視線をこちらへ向け、彼女が口を開いた。
「別に有名な高校に行きたい訳じゃないし、近所の高校で良いから、そこまで力を入れてないの」
淡々とした口調で答える。
「そっか。でも、同じクラスになれて嬉しいな」
彼女がじっと私を見つめる。
「そうね。私も嬉しい」
相変わらずの無表情だったが、嘘では無いはずだ。驚いたのと同時に、少し照れくさくて笑ってごまかしてしまった。
「ねえ、あなたのこと春って呼んでも良い?名字だとお姉さんと同じでしょう?」
「えっ……」
「私のことも夕立で良いから」
「うん!分かった。ありがとう!」
二年生になって変わった事。
髪が胸の辺りまで伸びた事。
下の名前で呼び合える友達が増えたこと。
***
休み時間に秋ちゃん、夕立、私の三人で居ることが多くなった。姉も最初の頃はよく二組に遊びに来ていたのだが、私に友人が増えた事もあり、最近では自分のクラスで過ごすことの方が多くなっていた。
部活は相変わらずで、週に一度おすすめの本を紹介する程度の活動だ。今年は残念な事に新入生は入ってこなかった。
放課後だが、透君や秋ちゃんの部活動が休みの日は昔のように集まって遊びに繰り出す。他の日は読書をしたり、文芸部のメンバーでお喋りしたりとすごく毎日が充実していた。
なので、秘密基地へ行く時間はめっきりと減っていた。そんなある日の夜、母を見送った後に姉さんが、「今から秘密基地に行こう」と言った。今から。時刻は二十時を回ったところだ。
「夕方でも薄暗いのに、この時間じゃもう真っ暗だと思うけど」
「なに、春ってばもしかして怖いの?」
わざと挑発するように言ってくる。
「いや、危ないでしょ?」
「大丈夫だよ。私がいるじゃん」
―――大丈夫。姉のこの言葉に私は昔から弱かった。彼女が言うと本当に全て大丈夫に思えてくるのだ。
「……わかった。行こう」
懐中電灯を鞄に入れ、戸締まりをきっちりとしてから家を出る。少し歩いたところで雑木林にたどり着いた。そこは案の定暗闇に包まれていて、不気味さが増していた。パキっと小枝を踏み鳴らしながら歩いていくと、秘密基地がぼうっと現れた。
室内に入り、懐中電灯を片手にいつも通り屋上へと階段を上る。外に出ると、ぽつりぽつり星が顔を見せていて綺麗だった。
「綺麗だね」
「来て良かったでしょ?」
姉がしたり顔で言ったが、素直に頷いた。
あの夜以降天気の良い日は、夜に母が仕事へ向かった後に時たま秘密基地へと行くようになった。
その日は屋敷の中にあった、まだ使える木製の椅子を放課後の明るい内に屋上へと置いておき、夜にそこへ座って星空を観察した。
「春、今は楽しい?」
聞き覚えのある言葉だった。
向かい合わせで置いた椅子。上空から視線を姉へと向ける。背もたれにもたれ掛かって姉は、まだ星空を眺めている。
「うん。楽しいよ。夕立とも仲良くなれたし」
「美里ちゃん?」
「そう」
姉が私を見た。
「春はもう、私がいなくても大丈夫そうだね」
どこか寂しげな笑みだった。そんな表情の姉は初めてだったので、私はなんと返せば良いのか分からなかった。
それは、その翌日だった。
姉と透君がつきあい始めたらしい。人気者同士の二人のこのニュースは学年でちょっとした騒ぎになった。秋ちゃんは「長い道のりだったねえ」としみじみ呟いていた。
『放課後に話があるの』と、今朝学校に着いた時に靴箱で姉に言われた。だが、私は授業が終わると共に走り出し、屋上に行った。しかも人が来てもすぐには気づかれない、ドアからは死角になっている反対側に隠れるように座った。携帯電話に姉からの着信履歴が何件も入っていたが、無視をした。
十数分、正確な時間は確認していなかったが、ガチャリとドアの開く音がした。
「春?」
姉の声だ。息を潜める。
「どこに行ったのよ……」
溜息と共にドアが閉まる音がしたので、ホっと一息吐き出した。体育座りをして上を見上げる。私の心の中とは違い、雲一つ無い快晴だ。今夜はきっと星が綺麗だろうな。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、また、ドアの開かれる音がした。思わず肩がびくりとする。足音はこちらに向かって来た。怖くなって両膝に顔を埋める。こんな事をしたところで意味など無いのに。
私の隣でピタリと立ち止まる気配。あちらも驚いたのだろうか。
「春」
その声にゆっくりと顔をあげると、姉さん……、ではなく、夕立が立っていた。
「どうして……、分かったの」
「なんとなく」
スカートが皺にならないよう両手で抑えながら、夕立が隣に腰を下ろした。しばらくの間、静寂が二人を包む。
「夕立は、姉さんが透君……夏川君と付き合い始めたっていう話は知ってる?」
ぽつりぽつりと私から話し始めた。
「まあ。聞くつもりがなくてもあれだけ周りが騒いでいれば耳に入る」
彼女らしい答えが返って来たので、くすりと小さく笑った。
「私ね、それが凄く嬉しいの。透君は昔から姉さんの事が好きだったらしいから。でも姉さんは頭が良いくせに変なところで鈍くて、その事に全然気がつかなかった。それでいつもいつも私のことばかり構ってくれて。私も姉さんに構って貰える事が嬉しかったから、その事についてはあえて触れなかった。でも、いつかは二人にくっついて欲しいなって思ってたんだ」
本当だよ。と、彼女の方へ視線を向ける。
「うん」
夕立は静かに私の話を聞いてくれる。
「でもね、それがいざ実現したら、心にポッカリ穴が空いたみたいになっちゃった」
なんでだろうね。と問いかけると、彼女は「……寂しいからでしょ」と静かに答えた。
何が寂しいの、と尋ねようとして、それよりも先に自分の両の瞳からボロボロと涙の粒があふれ出し、ついにはわあわあと小さな子供のように大きな声を上げながら泣いてしまった。
夕立はその間、何も言わずにただただずっと私が泣きやむまで隣に居てくれた。
「はい、これ」
しばらくして泣きやんだ後に、「ちょっと待ってて」と言って一度彼女はどこかに行ってしまった。少しして帰ってくると、目が腫れるからと言って屋上の下の階の水道でわざわざ濡らして来てくれたのであろうハンカチを差し出してきた。
「ありがとう。ごめんね」
目にあてるとひんやりとして気持ちが良かった。
ふと、頭に何かが触れる感触がしたので、ハンカチを目から離す。夕立が私の頭を撫でている。驚いて彼女を見つめると、夕立は薄く、優しく微笑んだ。
「そろそろ帰ろうか」
「う、うん」
彼女とは住んでいる方向が真逆なので、校門を出てすぐに別れる。その前にもう一度お礼の言葉を口にする。
「気にしなくていいよ」
それだけ言って、何事も無かったかのようにスタスタと去っていく夕立の背を見送り、携帯電話を取り出す。
『家に居るから、帰ってきて』
姉からのメッセージが来ていた。返信をせず、私も帰路に着く。
部屋へ入ると、母はすでに居らず、姉さん一人だった。
「ごめんなさい」
玄関に立ったまま、俯き加減で謝罪する私に、姉が抱きついてきた。
「連絡ぐらいしなさい!心配したんだからね!」
顔を上げると、姉の瞳に涙の膜が張っていた。私はきっと目が腫れている。しかし、その事に触れては来なかった。
靴を脱ぎ、部屋へと上がる。
「美里ちゃんがね、電話してくれたの。春と一緒にいる。だから心配しないで先に家に帰って待っていてくれって。でも、すごく不安で、今どこにいるのって聞きたかった」
「うん」
「だけど、信じて待ってた」
「……うん。ごめんなさい」
「一昨日、透君に告白されたの。それで私、オッケーした。だって、嫌いじゃないもの」
「学校中が今日はその話題で持ちきりだったよ。二人とも人気だもんね」
「春はどう思った?」
「姉さんが透君と付き合ったこと?」
姉がこくりと頷く。
「私が透君のものになっちゃって嫌だって思った?それとも……、透君が私のものになっちゃったのが嫌だ?」
「……」
(嫌だ?何が?私は姉さんが好きだ。透君も、好きだ。好きな二人が幸せなんだから、何を不満に思うの?違う、私は寂しいだけ。急に、二人が私とは違う世界に行ってしまったような気がして……それで……だから……私は……)
キィィン……。
耳鳴りが、する。酷く、頭が痛む。
「ごめん。やっぱりなんでもない。変なこと言って、本当にごめんね。春」
姉が優しく、まるで壊れ物を扱うかの如く柔らかく私を包み込む。トクン、トクン。胸の鼓動が心地良く鼓膜を揺さぶる。そうして暫くすると、耳鳴りは徐々に遠くへ行き、頭の痛みも和らいだ。
(このまま眠ってしまいたい)
「ねえ春。秘密基地に、行かない?」
(私はもう眠りたいな)
「今日の星はいつにも増して綺麗よ、きっと」
* * *
ふわふわ。ふわふわ。
気がつくと、私は姉と二人、秘密基地の屋上にいました。
「やっぱり、凄く綺麗だね」
姉と同じように空を見上げます。いつもよりも綺麗な星空でした。今日あった出来事などお構いなしに、星たちは爛々と輝いています。
「姉さん、今日という日を特別な日にしよう」
「うん?どういう意味?」
視線を姉に向けると、姉も私を見ていました。
「初めて喧嘩して、仲直りしました記念?」
くすくすと笑いながら、姉は私の近く(落下防止の柵の壊れた屋上の端。いつも二人で座る定位置)にやって来ると、楽しそうに、両手を真っ直ぐに広げ、躍るようにくるりと一回転しました。制服のスカートが遠心力に従い、美しく円を描きます。
―――私は、相原菫を殺しました。
自分の意志とは関係なく、身体が勝手に動いたのです。
トンっと軽く、姉の細い肩を柵の無い、外側へと向かって押しました。
二人だけしか知らない秘密基地。屋上。一部が破損した落下防止の柵。そこから姉を、私はこの手で突き落としました。背中から地上へと落ち行く姉。
それはとてもゆっくりと、まるでここが夢の中では無いかと思わせるようなものでした。姉は驚いた表情一つ見せず、ただただ私をじっと見つめていました。重力に従い落下する姉。長くて綺麗な漆黒の髪と、陶器のように白くて美しい肌のコントラストが姉の美貌をより際だたせていました。
私はその光景を、ぼんやりと見ていました。やがて、ぐしゃりと嫌な音を立てて、姉は醜い姿へと変貌を遂げていました。
その瞬間から、私が姉に成りました。
姉ではなく、醜い私が死んだのです。
充実していた中学生活も、残り僅かとなった。受験シーズンも本番だ。
「一応もう一度聞くけど、本当にあの高校にするのか?」
三年生になり、私は透君と同じ一組になった。このクラスに入る為、そして夢を叶える為に、私は必死に勉強と運動、両方を努力した。
「もう、またそれ?そうだってば。あそこの高校なら大学までエレベーター式だし、一番医師への道のりが早いんだから。前から何度も言ってるでしょ」
「やっぱり俺もそっちの高校にする」
「なあに?私と離れるのが寂しいの?」
くすくす。透君、可愛いところもあるんだなあ。
「そうだよ。……菫」
***
受験前の最後の部活動。と言っても特にこれといって特別なことはしないけれど。
私は彼女の隣に座り、透君の事を報告した。
「そう。じゃあまたライバルが増えたのね」
実は、三年になり、美里ちゃんも同じ一組になったのだ。彼女も突然、私と同じ高校に行くんだと言ってきた時には凄く驚いたけれど、今はとても嬉しく思っている。恋人の透君、友人の美里ちゃん。秋ちゃんは残念な事に違う高校へ行くらしいが、二人が居ればその寂しさも紛れそうだ。
「大丈夫だよ。みんな受かって、来年の四月には三人とも笑顔で入学式だって!」
「……卒業式もその格好で出るつもり?」
「え?そりゃそうだよ。だって卒業式は制服でしょ」
「…………私は、男子生徒服の方のあなたが好きよ」
―――約一年前。取調室にて。
「私は昼と夜、二つ仕事をしています。……そうでないと女手一つ、子供たち二人を育てることが難しいからです。夜の仕事へ行く前に子供たちは帰ってきて、三人で夕飯を食べながら他愛の無い会話をするのが日課であり、私の幸せなんです……。ですけど、その日は菫……、お姉ちゃんの方が先に一人で帰ってきました。いつもとなんだか様子が違ったので私はどうしたの。って聞いたんです。そうしたら、春……、あ。弟の方です。春と喧嘩しちゃったんだって泣きそうな顔で言ってきました。喧嘩なんて今まで一度もしたことが無いんですよ、あの子たち。でも、普通ありますよね?姉弟喧嘩。特にこの位の年頃なら。だから私、心配だったんですけど、そこまで深刻に捉えて無かったんです。春の傍にお友達もいてくれたみたいだったので。時間になってしまったので私は仕事に向かいました。菫の頭を一回撫でてから。仕事上結構お酒も飲むんですけど、その日はお客さんの入りが悪くってあんまり飲みませんでした。まあ、ほろ酔い程度には酔っていましたが。それで、めずらしく早く上がらせて貰いました。人件費削減の為でしょうけど。お店を出てぽわぽわ良い気持ちで歩いていて、角を曲がればもう我が家。角を曲がりました。そうしたら……、二人が夜道を歩いていました。街灯に照らされて制服姿の我が子たちが、真っ直ぐ、私とは逆の方向に歩いて行くんです。普段の自分なら、そこで声を掛けていた筈です。けれどその時の私は……、そう。ほんのりと酔っていたので……。二人がどこに向かっているのか気になってむくりと湧いた好奇心と共に、少し距離を開けながらそうっと後を追いました……。そうしたらあの子たち、私が昔から散々近づいたら駄目よって言い聞かせていた雑木林に入って行ったんです。私もそのまま後を追いました。二人は懐中電灯で足下を照らしていたんですけど、私はそんな物を持っていなかったので、携帯電話につ
いているライトで足下を照らしつつ、二人に気づかれないようにしました。……少し歩くと、例の、白い家が現れました。そんなものがあるなんて知りませんでした。雑木林に入ったのが初めてなんですから……。二人はその中へ消えて行きました。少ししてから私も中へ入りました。上の方から物音が聞こえるので、階段を上っていきました。二階、三階と登って行っても二人はいませんでした。そして屋上に続くあの階段……。その頃には酔いも冷めてきていたので、二人を叱って家に連れて帰ろうと考えながら屋上へ出る扉のドアノブに手を掛けました。……どうせなら驚かせてやろうと静かに扉を開けたのですが、年季の入った扉だったので、少し開けただけでギィと音が鳴りました。私は何故か咄嗟にその場にしゃがみ込んで隠れました……。開いたドアの隙間から二人の様子を伺ったのですが、二人は話をしている最中だったようで、こちらに気がついていませんでした……。なんだかこっちの方がドキドキしてしまって……、とりあえず二人が話し終わるまで待とうと、そのまま聞き耳を立てていました。……二人の会話はなんとなくしか聞こえませんでしたが、暫くすると声が止まったように思えました……」
先ほど漸く止まった涙が、また母親の頬をハラリと伝う。俺は自分の懐からハンカチを取り出し、彼女に差し出す。彼女はそれをおずおずと受け取った。
「……すみません。ありがとうございます刑事さん。続き……ですね。二人の会話が終わったのかなと思って、私はもう一度扉の隙間から覗いたんです。……そうしたら、菫が……、菫が後ろから屋上を落ちていきました……。まるで何かに引っ張られたかのように自ら落ちて行ったんです……!一瞬、髪の隙間から菫が笑顔を浮かべているのが見えたような……、気がします。落ちる寸前に、春に向かって『特別な日にしてあげる』という言葉も言っていたような気がします……。春も……、もちろん私も時が止まったように固まっていました。だって本当に、突然だったんです……。菫は……突然、自ら飛び落ちました。なので、あの子は、春は菫を殺してなんかいません……!」
信じてくださいと言う母親の瞳は嘘をついているようには見えない。しかし、弟の相原春の証言とは真逆であった。俺は頭を抱えた。
〆
溺れた魚 修矢みつる @ruru1205
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