この感情に、名前を付けないままで
ねこみみ
紙をめくる音とペンの走る音。時折誰かの咳が聞こえてくる図書館特有の静けさが耳に心地いい。
要点を綺麗に書きならべたノートに、彼女は新しく文字を書き込んでいく。
少しずつ近づくテストを見据えてか、普段よりも彼女と同じ学校の生徒が増えている。ただ、偶然ではあるだろうが、その全てが二人以上の塊なのが少しだけ気になった。
いや別に寂しくなんか、と言い訳してみるも余計に虚しくなって彼女は手を止めた。二人の友人を誘ったものの、どちらも彼氏との先約があると言われたことも思い出してさらに表情が苦くなる。今日の天気と同じで、心の中も曇り空だ。
必ずしも誰かと一緒にやることで効率が上がるわけではないということくらい理解している。それでも、こうなると何とも言えない気持ちが湧いてくる。
集中が足りないと言われればそれまでだが、高校生はムズカシイのだ。一応はそう結論づけて、彼女は溜め息をついた。
いつまでもつまらないことを考えていても仕方ない。手が止まりっぱなしでは尚更だ。彼女は頭を切り替えて教科書に向き直る。
芯を出すためにシャーペンを押す音。消しゴムのカス。量よりも質を重視すべきだけれども、分かりやすい「勉強をしている」という証拠に気分が乗ってくる。こうなってくると普段は面倒だと感じる数学も楽しくなってくるから不思議だ。
左手で押さえていた教科書をめくろうとして、ふと後ろに気配を感じて彼女は手を止めた。通り過ぎるわけではなく、彼女に用があるのか後ろに立っている。
今日は絶対無理って言ってたし、と思いながら彼女が振り向くと、予想していなかった幼馴染の顔に思わず「おっ」と声を上げてしまう。——そういえばお弁当食べながら友達が何か言っていたような。
彼はそれを気にした風はなく、朗らかに片手を上げる。
「よう。隣空いてる?」
サッカー部のエース。勉強も出来て、顔もそれなり。彼の評価を訊けば大抵この三つが返ってくる。ずっと昔から見てきた彼女もその評価に異論はない。
腕時計を見れば本来部活が終わるのはもっと先だ。汗臭さもないし今日は休みだったのだろう。
「どうぞ」
彼が指差した左側に広がっていた教科書を引き寄せる。ついでに椅子も引いてやると「さんきゅ」と彼は言ってきた。
隣に座った彼はカバンをテーブルの上に置く。そのカバンが少しだけ濡れているのに彼女は気がついた。
「あれ、外雨降ってる?」
「降ってるよ」
「うそー……」
あいにく、折り畳み傘すら持っていない。朝から曇り空ではあったけれどニュース番組では降水確率20%だと言っていたのを信じて置いてきてしまった。
「お母さんに連絡すべきかなー」
降り方にもよるけれど、やっぱり濡れ鼠で帰るのは気が進まない。最悪コンビニで買う手もあるが図書館に一番近いコンビニは果たしてどこだったか。
悩んでいると、彼が思考を遮ってきた。
「そんな悩まなくても多分大丈夫だぞ。ここ出る頃には止んでるはず」
「ほんと?」
「はず、な。あくまでも予想。けどそんな強くなかったし」
彼が言うならばきっとそうなのだろう。嘘を吐く理由もないし疑ったところで意味もない。気休めの嘘ならば傘を奪うくらいはするけども。
彼はハンカチでカバンを軽く拭いた後、筆箱、ノートと取り出して次に数学の問題集を取り出した。どうやら数学からやるらしい。
彼が隣で勉強をする姿なんて随分と久しぶりだ。——ああ、思い出した。そういえば。
「あんたさ」
「んー?」
「付き合ってた子と別れたんだって?」
彼がノートに問題式を写し始めたところで、彼女は爆弾を投げ込んだ。
「なっ⁉」
ノートの文字が大きく乱れた。
こんな時でも自然と声が小さくなるのは彼の良い所だが、本人は気付いてないらしく迷惑をかけてないか慌てて周囲に視線をやる。
当然のように咎める利用者はおらず、落ち着いた彼は消しゴムを掴みながら深い溜め息をついた。
「女子のネットワークって怖えな……」
彼は心底恐れているようだが、少しだけ違う所がある。どうやら気付かれていないと思っているらしい。
「んー、お昼に聞いたけどね。そうじゃなくてもわかる」
「え、マジで」
「マジ。あんた、誰かと付き合い始めると他の女子とは距離置くでしょ。たとえ付き合ってる子と時間が合わないにしても付き合ってる時ならわざわざ隣に来ないもの」
「なんで知ってんのさ……」
指摘すると本気で驚かれた。頭の出来は悪くないはずなのにどうしてあからさま過ぎるやり方で気付かれないと思ったのだろうか。彼女には不思議でたまらない。
中学に入る頃までは一緒に教科書を覗き込んでいたのに、付き合い始めた途端に距離を置かれれば気付かないはずもない。別れたと聞いた頃から接し方が戻ったのだから余計に。
「同じ中学の子なら全員気付いてるよ。知らぬは本人ばかりなり、ってね」
「うーわ、マジかー……。それかなり恥ずかしくない?」
「めっちゃ恥ずかしい」
うわー、あー、うー。消しゴムを掴んだまま彼は顔を覆った。その様子は随分と滑稽だったけれど伝えるのはやめておいた。
当人の気持ちになれば分からなくもないが、側から見る分には手頃な見世物だ。彼女はもうしばらく堪能することに決めた。
それに、たとえ恥ずかしくてもその姿勢は見習うものがある。過剰とは思うけれどそのくらいの心構えを持っている恋人なんて稀だろう。少なくとも彼女の周囲では聞いたことがない。
「なんだよ……、気づいてたんならもっと早く言ってくれよー……」
「むしろ気付かれてないと思ってたことが驚きよ。不自然。超不自然」
むくれたようにテーブルに突っ伏す彼を無視して彼女は止まっていた手を再開させる。
「それでさ」
「なに」
「どうして別れたの? また相手の子が原因?」
これを訊いたのはちょっとした八つ当たり。彼が来る直前に少し詰まっていた問題が簡単に解けたのがなんとなくムカついた。
「またってなんだよ」
「違うの? 今までの二回も向こうが原因じゃなかった?」
「違わないけど……」
彼は力なく呟く。
相手を一方的に悪く言おうとしないのは昔から変わらない。環境はほとんど同じはずなのにどうしてこう人間が出来ているのだろう。彼女とて出来ている自信はあるが、彼はそれ以上だ。
「どうせまた一緒でしょ。完全な両立は難しいって言ってあったのにもっと構って! って言われたんでしょ」
「御察しの通りで」
時期によっては予定が部活一色になる。それでも時間を作ってはいたがいい加減向こうが我慢できなくなった。そんなパターンがこれで三回目だ。
そろそろ学習しろ、と言いたいが人間の本質に近いものを見抜けと言うのも難しい。三回が三回とも彼が告白された側だと聞いているから、結局は女運がないだけなのかもしれない。
「その子も後少し我慢できればよかったのにね」
「そうは言ってもさー」
「まあ、あんたがあれ決めてればまだ忙しかったかも、なわけだし?」
「やっぱ見に来てたのか……」
「まあねー。何はともあれお疲れ様」
「ありがと」
少し機嫌が悪そうなのは目の錯覚などではないはずだ。一点差で負けている中、どフリーで貰ったボールを枠外に外したのだから当然と言えば当然だが。
「手、止まってるけどやらないの?」
彼が気にしていることをこれ以上いたずらに突く必要もない。少々強引に話題を変えると、彼はめんどくさそうに溜め息をついて体を起こした。
問題集を引き寄せ、途中から書き直す。その字はだいぶ汚いが、それがむしろ彼を普通らしく見せている。
頭の良さならば彼女の方が上だけれど、運動神経や人間性に限らず日常のちょっとしたところでスペックの高さを見せつけられるのは彼女としては勘弁願いたい。もしそんな幼馴染であれば、今頃劣等感でいっぱいだっただろう。
「あれ、答え違くない?」
「え、嘘」
「違うと思うけど、って途中で数字変わってるじゃん」
ふと覗き込んだ彼のノートに、彼女は自分のシャーペンで間違いを指し示す。
字の見分けがついてしまうのは長いことその字を見てきたからだ。あまり嬉しくはないが、慣れというのは恐ろしい。
「うーわ、やらかした。道理で変な答えになるわけだ」
「あんたってほんとそれ多いよね。今までのテストで何点逃してきたのさ」
「うっせ。お前だって漢字のミス多いじゃんか。どっちも同じ勘違いだろ」
「あんたのはただ字が汚いだけでしょ」
「へいへい」
今度の字は少しだけ丁寧に。少なくとも見間違えるようなことはない。
「あんた、いい加減その字なんとかしたら?」
「答案とかはちゃんと書いてるよ」
「普段の話。ぶっちゃけ見返さないノートはともかく自分しか見ない途中式で見間違えてどうすんのよ」
「ぐ……。いや、まあそういうこともあるけども」
「稀にある、って時点でダメじゃん」
ぐうの音も出ないらしく、彼は完全に沈黙した。自覚はあったようなのが救いといえば救いだろうか。
「せめて数字は大きく書いたら? そしたら流石に判別つくでしょ?」
「おう……。肝に銘じとく……」
今のやりとりになんだか既視感を感じて彼女は首をかしげる。
はて、一体いつだったか。少し考え込んで、答えは見つかった。小学生の時だ。
彼の家か、自分の家か。ともかく一緒に宿題をしている時に同じようなことを言った記憶がある。
その時の彼の返答も「肝に銘じとく」だった。それを思い出して彼女は一人吹き出しそうになってしまう。
なんとかそれを吹き出さずに済んだが、彼の方は全く覚えていないのかそのような素ぶりは一切ない。
彼女とて忘れていた以上彼が忘れているのも仕方ないけれど、何となく釈然としないものが残る。
その釈然としなさを飲み込みながら、彼女はノートに視線を戻した。
「そろそろさー」
十分ほど、互いに黙ったままペンを走らせていた時だった。彼女は動かす手を止めぬまま、横目で先を促す。
「進路考えなきゃいけないんだよな」
高校二年の秋にもなればいい加減出てくる話題。彼女はすでにある程度決めているが、それでも好んで話題にはしたくない。
「あんたはサッカーは高校までだっけ?」
「おう。趣味としては続けるけどな」
必死に食らいついて、それでもきっとプロにはなれない。
彼は高校に入った頃からそう言っていたし、それはきっと間違っていない。エースとはいえ、通っている学校は強豪校ではない。
「お前は? もう決まってんの?」
「一応だけどね」
頷いた彼女が口にしたのは普段使っている電車で一本の所にある国立。学校の雰囲気も、ゼミや講義の様子も十分希望に合致していた。
「あんたも最善はあそこでしょ。下二人いるんだし」
「まあなあ。まだ考え中だけど流石に私立はきついからなー」
学力、学費、通学手段。様々な面で見ても彼女の住む地域ではそこが一番で、それゆえ難易度も高い。けれど、彼の頭なら心配する必要もないはずだ。
「ま、頑張ってね。最悪勉強は見てあげるから」
「最悪ってなんだ、最悪って」
「だって普段から私が勉強見る必要なんてないじゃん」
「確かにそうだけどもうちょっと優しさをだな……」
彼は何かを訴えたげだが、彼女はそれを無視して問題を解き続ける。
事実をそのまま言っただけなのに何が不満なのだろう。むしろ、必要になれば手を差し伸べるのだからこれ以上ないほどの慈悲深さではなかろうか。
「あれ……? なあ、これどうやって解くんだっけ?」
「……どれよ」
まるで狙っているのではないかと疑うようなタイミングで彼が訊いてきた。そうでなければからかうための嘘か。
一瞬そんな邪推をさせるようなタイミングだが、彼が指す場所を見た彼女はめんどくさそうに顔をしかめた。
「あー……、えっとなんだっけ。似たようなのやったけど凄いややこしかったやつだ」
問題をノートに写しながら、彼女はふと思う。——こうやって律儀に付き合っているのだから十分優しいんじゃ?
隣を見れば彼が教科書をめくりながら必死に考えている。彼女だって記憶に任せて思い出せる範囲で問題を解いているからこそ隣を見れるような余裕があるが、同じ程度には頭を働かせている。
「確かこれは……」
なんとか朧げな記憶の欠片を掴むと、彼は身を乗り出して彼女のノートを覗き込んできた。
息が当たりそうなほど距離が近くなるが、彼は気づいていないのだろうし気づいたとしても気にしないのだろう。彼女が気にしないものを、今更彼が騒ぎ立てることはない。
ただ、鼻をくすぐった彼の匂いが妙に印象に残った。
「こうやれば、っと」
「あー、なるほど。こりゃめんどくさい」
後は少し頭をひねるだけで見慣れた形になる、という段階まで解いたところで彼は声をあげた。
彼が理解した以上先を解く必要もないが、途中でやめるのも気持ちが悪くてそのまま流れで彼女は解を出す。最後の数字を書いて手が止まると、詰めていた息が肺から漏れ出した。
めんどくさいけれど、解き終えた時の満足感が気持ちいい。
「ありがと。助かった」
そうだそうだもっと感謝しなさい、とは言わずにおいた。彼が本心からありがたがってるのは見て取れたし、彼女としてはそれで満足だ。
うん、十分に私は優しい。
辿り着いた結論に、彼女は心の中で頷いた。
湿った空気に濡れたアスファルト。少し離れたところには水たまりができていて、けれどその水たまりはそれ以上大きくなることはない。
「おー、ほんとに雨上がってる」
見上げた空は雲も何処かへ流れていき、むしろ晴れと言っていい空模様に変わっていた。
惜しむらくは、すでに色は濃い紫に染まっていることだろうか。西の方はまだ少し橙色が見えるけれど、それもすぐに紫、そして黒色に変わるはずだ。
「日が沈むのも早いわね」
「だな。そろそろ冬物出さないと」
「あー、コートどうしよ。新しいの買おうかな」
二人並んで歩きだす。辿る道は彼とほとんど変わらない。
「俺もサイズ合わねえかも」
「あんたどれだけ伸びる気よ」
肩が触れ合いそうな距離を、少し手を動かせば掴める距離を。
それ以上に近づかず、それ以上に遠ざからず。
ただ、この距離が心地いい。
「さすがにそろそろ止まると思うけど」
「止まんなかったらびっくりよ。ほんとお父さんの血強いわね」
きっと、彼も気づいている。知っている。感じている。
この関係が心地いい。
「ねえ」
「どした」
「お腹空いた。肉まん奢って」
いつかこの関係は変わるだろう。彼か、彼女のどちらかが踏み出して。
「自分で買えば」
「あの問題、あんた一人だったらかなり時間かかったでしょ?」
けれど、それまでは。
「……肉まんでチャラな」
「あ、待って。じゃあピザまん」
「おい!」
この感情に、名前を付けないままで。
この感情に、名前を付けないままで ねこみみ @nekomimi02
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