第5話樹林の母に祝福を。


 深く、深く、深く沈んでいく。

 喉を焼く塩辛さと体を打ち付ける潮流は、あっという間に私の肺を満たして意識を刈り取っていく。

 最早、冷たいのか熱いのかも分からない。暗い海の底へ、私は落ちていく────。








────そこは、色のない世界だった。


 いや、厳密には無色ではなく白一色で覆い尽くされており、他の色が見えないのだ。よくよく見てみれば床と壁、天井の境目が僅かに判別出来、そこが個室なのだと分かった。

 不意に正面の空間がゆらり、と揺れた。

 周囲に溶け込んで認識の外にあったが、一人の少女がこちらに赤い瞳を向けたのだ。光を弾く白銀の髪は、彼女の座り込む床にまで届いて細い脚を隠す。およそなんの表情も見て取れない幼い顔は、しっかりと私を見つめていた。


「貴女が、聖女様?」


 囁き程度の小さな音はしかし、反響によって鐘の様に室内に浸透していく。そうして、ゆっくりと目の前の少女──聖女様は唇を動かした。


「……………………」

「私はソ──」

「知っているわ」


 私は次の言葉を待ったが、それきり唇が動く事はなかった。何か機嫌を損ねてしまったのだろうかと、海が時化る前の静寂に似たざわめきが胸を占める。

 少しばかりの間お互いにただ見つめ合っていたが、静かに立ち上がった聖女様が冷たい指で私の頬に触れてきた。


「あ、あの……?」

「──貴女は良いわね。きっと私の知らない世界を生きて来たのでしょう」


 どうか微笑んでみてはくれないかしら、と呟いて私を見つめてくる。その表情はやはり何も映さず、何を考えているのかも読み取れない。

 懇願する少女に、私はこの時どう返したのか。それを思い出す前に意識は海の底から浮上した──。







「…………夢、か」


 懐かしい夢を見た。

 水の都で初めて彼女と出会った日の、言葉を交わした最初で最後の日の夢だ。

 どうせ見るのなら、大好きなあの人とまだ愛し合えていた頃の夢を見たかったと思うも、余計に傷が深くなるだけだとその考えは瞬時に掻き消えた。


 見慣れぬ天井に身を捩って部屋を見渡そうとするが、体は私の言うことを聞いてはくれない。森に出て倒れてからの記憶がなく、今どこにいるのかも分からなかった。


(…………また、死に損なっちゃったのか)


 私は私を殺したいのに。

 神がそれを許さないのか、こうして再び生にしがみ掴まされている。もしかしたら、それこそが私に与えられた罰なのかも知れない。身内を裏切り望んだ役目も放棄したその罪は死による罰では生温いのだろう。


(受け入れてくれる教会があればいいのだけど……)


 この髪では尼として生きて償っていくことも難しい。刻印所持者付きの従者ではもうないのだ。それまで辛うじてあった庇護はなく、私は一人で侮蔑の目と戦わなければならない。慣れてはいるが、一人で生活していくことを考えると先は暗く、それこそ死んだ方がマシと思えてしまう。


 室内はため息ばかりが積み重なっていき、重い空気に押し潰されそうになっていた。

 もう何度目かのため息を吐いた時だった。ドアを叩く乾いた音が耳に入った。


「あら、目が覚めたのね。良かったわ…………今にも死んでしまいそうな顔をしていたから」


 食器を載せたトレーを器用に片手で持ちながら部屋に入って来た初老の女性は、私が目を覚ましているのを確認すると安心した様に微笑んだ。


「あ、の……ありが、とう……ございます」

「まだ無理をしては駄目よ。何も食べてないんでしょう? お話は後で。今は栄養をつけましょう?」


 大したものは出せないけれど、と眉を八の字にして言ったその女性は、私の横たわるベッドの脇から子供用と思しき小さな補助テーブルを手慣れた様子で展開した。そして、私の背中に腕を入れてそっと上体を抱き起こすと枕を二つ背もたれにして食事が採りやすい様にしてくれる。

 椅子に座った女性が小さく可愛らしい木のスプーンで湯気が立ち上る麦粥を掬うと、優しく息を数度吹き掛け冷まして私の口へと運んだ。


「もっと栄養のあるものがあれば良かったのだけど」

「…………いえ、とても、美味しい…………」


 口の中に広がる熱が喉を通ってお腹に入っていくのを感じる。ゆっくりとスプーンを咥える度に、一粒一粒、涙が溢れた。

 優しく頭を撫でながら何も言わず、女性はスープが空になるまで繰り返し繰り返し私に食事を与えてくれる。

 まだ私が小さい頃、孤児院の先生が同じようにしてくれていたのを思い出して、また頬が濡れていく。こんな優しい大人になりたかったのだと思っていたのに…………人を傷付けてばかりだ。


 食事を済ませ涙もようやく収まった頃、私は改めて女性にお礼を口にした。


「こんなに良くして頂いて、本当にありがとうございました……手持ちが今なくて何もお返しが出来ないのですが……」

「いいのよ。人恋しくてお話相手が欲しかっただけだもの。何も気にすることないわ」


 彼女は穏やかに目尻に皺を寄せて言う。随分と白髪が目立ってきてはいるが、美しいブロンドの髪がかつての美貌を想起させた。

 二人でお茶を飲みながら、ゆったりとした時間を過ごす。こんなに心を落ち着かせて過ごしたのはいつぶりだろうか。頭にこびり付く彼のことが遠くに感じられた。


「私はバセットというの。──ここは貴女が倒れていた森から少しばかり離れた場所にある私の住処よ。水の都を飛び出して勝手に住まわせてもらっているのだけどね」

「水の、都…………」

「将来を誓った人がいたのだけどね……結局は身分違いの恋。あの人には家が決めたお相手がいて、私はただの町人だったから。親も早くに亡くしてしまったし、一人になりたくてここに来たのに……この歳でまだ寂しがり屋なのよ、私は」


 優しそうな表情は変わらず、けれどもその瞳は深い悲しみの色を滲ませている様に見えた。バセットさんの境遇と自分が似ていて、つい私も視線を手元に落とす。

 寂しがり屋だと言った彼女はそれでも一人でここに住んできたという事実に、その年月を想像して私は泣いてしまいそうになっていた。


「……忘れられましたか、その人を」

「……いいえ、違うわ。私は忘れる為に一人になったのではないの。忘れない為に、ここに来たのよ」


 辛い記憶であろうに彼女はそれでも笑みを絶やさず、ぽつり、ぽつりと言葉を連ねていく。

 間違いなく自分はその人を愛したのだと、それはとても綺麗な思い出だったから亡くしたくはないのだと。痛みが残っていれば、愛した記憶を忘れずにいられるのだから。──そう言って、細く枯れた指でカップを口に運んだ。


 …………心と体に幾分か余裕が私はようやく室内を観察する事が出来る。質素な棚にはお人形が仲良く並び、毛布や枕、カップなどの日用品はそれぞれ二つずつあるのが分かる。


「…………お子さんが、いらしたんですね」


 今もカップを載せている、このベッド上に展開されているテーブルもそうだ。大人が使うには小さ過ぎるだろう。


「…………子供がいれば引き離されないだろう、なんて最低な考えであの子を産んだけれど。決まったものは覆らなくて…………その頃にはうちの両親も、ね。だから、あの人が『自分が引き取る』って…………。

 打算の方が大きかった出産だったけれど、初めてあの子を抱いた時にね、『ああ、私と彼の赤ちゃんなんだなぁ』って。髪色は私から、クルクルした癖っ毛はあの人から。

 指をね、こうやって小さい手に近付けるとギュッて一生懸命にね────」


 …………その後に言葉は続かず、バセットさんは少女の様に肩を縮めて嗚咽を漏らす。

 どれだけ流れようとも、涙は枯れないのだ。

 彼女も、私も。

 せめて、その子供が彼女の元にいたならば、違う道を歩んだのかも知れない。もしかしたら、別の人と家庭を築いたかも知れない。…………しかし、女手一つで年若い女性が生活していく事は相当に難しいだろう。だからこそ、彼は子供だけでも引き取ったのではないか。

 であれば、そう。

 その子供こそが、彼にとっての傷痕となり得るのだ。

 決して、忘れない為に。亡くさない為に。


 二人はきっと、同じ気持ちを抱えて同じ選択をしたのだと、私は感じた。


「私は──母親失格ね。子供を利用してしまったのだから」


 先程とは逆に私が彼女の震える肩を抱いて背中を擦り慰めている。

 これは懺悔なのだろう。

 寂しくて、人恋しくて、それだけでこんな話をした訳ではないのだと思う。恐らく、自らの罪を聞いて欲しかったのだ。でなければ、押し潰されてしまうから。


 本当は部外者である私には何も言えないし、言うべきではないのかも知れなかった。だがそれでも、私は物言わぬ人形ではないのだ。思考する頭も伝える口もあるのだ。ならば、私は私の感じた事を彼女に伝えたいと、そう思った。


「バセットさんはさっきからご自身を薄情な人だと言っていますけど、そんなの絶対に違いますよ。…………だって、その子もちゃんと愛していたっていう痕跡は、ここにこんなにあるんですから。

 傷痕だけが思い出を繋ぎ止めるものであるはずがないんです」


 私はバセットさんが食事を与えてくれた時のことを思い返す。あんなに優しく食べさせてくれたじゃないか。それこそが、その身に染み付いた愛情の証なのだと訴える。打算で子供を作ったから、利用したから、そこにばかり目がいって卑下してしまう。確かにあったはずの愛情を見て見ぬふりしてしまうのは、駄目だ。

 彼との記憶を忘れぬ為に、というよりも──罪だと思い込んでしまっているお子さんの事を忘れない為にここにいるように思える。


「わた、しは…………でも…………」

「それでもそれを罪だと、傷だと言うのならそれはきっと、優しい傷痕なんです。だって──貴女は優しい人だから」


 バセットさんの生き方は酷く歪だ。

 傷痕が消えそうになる度にナイフで抉って再び開く様に、何度も何度も、何年もそれを繰り返して。誰かを恨めれば楽だったかも知れないのに、そうしなかった彼女はやはり優しく愛に溢れた人なのだ。


「私は……あの子を愛していても良いのかしら……」

「誰が誰を愛すのも、自由だと思います。それに、お母さんが子供を愛して何が悪いんですか?」

「そう、ね……あの子が、あの人が幸せでいたらそれで私は良いわ。ここで祈るくらいは許してもらえるかしらね」


 ようやく笑顔を見せてくれたバセットさんに、私も微笑んだ。








 誰が誰を愛すのも自由である。

 方便ではない。真実そう思っている。

 だから、彼が聖女様を愛すのも、聖女様が彼を愛すのも自由なのである。私はそこから溢れてしまっただけだ。

 今までの私は、言うなれば愛した事が消えるのが怖かった。それまでの自分が無意味だったのだと思いたくなかった。ともすれば、私もバセットさんと同じ様に傷痕を開き続ける道を歩んでいただろう。

 だが、それでは誰も許されない。穏やかな記憶を犠牲にして生きるのは、罰ではなく逃避にしかならないと思ったのだった。


 ならば、私の命は私が終わらせるものではなく。私が報いたいと思う人の為に使うべきだ。

 この日、どこへ向かうかも判然としなかった私に、ようやく進むべき道が見えた。





 翌日。

 長い拒食で衰えた体だったが、瞳は目的が見えて活力を取り戻していた私は、バセットさんに出立する旨を伝えた。

 憑き物が落ちた様に一層柔らかく見える笑顔で彼女は頷いてくれる。


「私のお古で悪いのだけど、これを使って頂戴」

「これは……頭巾ですか?」

「ええ。これなら、貴女の髪を隠して行けるでしょう? 私の髪を縫い付けてあるから、眉も隠せるはずよ」


 私の髪は以前より大分伸びたとは言え、世間一般の女性と比べればまだ短い方である。前髪をすっぽりと納め耳の前を通し顎下でキュッと結ぶと私の黒い髪はきちんと隠れてくれた。頭巾のおでこの辺りからはバセットさんのブロンドの髪が垂れて、風に気を付ければ黒髪だとはバレないだろう。


「ありがとうございます。……そういえば、バセットさんはこの髪を見ても何も思わなかったんですか?」

「そうね、水の都にいた頃なら怖がっていたかも知れないけれど、この歳になるとね。何より、貴女を見つけた時に昔の自分と重ねてしまって髪に気が向かなかったのよ」


 そう言って、そっと頭を撫でる。

 私にもお母さんがいたらこんな感じなのだろうかと、くすぐったくも嬉しくなった。


「いいこと、ソラちゃん。旅の途中、その頭巾を決して外しては駄目よ。──どうやら、貴女に懸賞金が掛けられているようだから」

「け、懸賞金!?」

「あそこの村に山菜を卸しに行った帰りに貴女を見つけたのだけどね、村に立派そうな騎士様方がいらしていて。黒髪なんて早々見ないものだし、多分貴女の事だと思って」


 それを知っていながら、突き出す事もせず拾ってくれたのか、と涙が滲んだ。

 この頭巾もそうだ。ここを私が出る事を考えてわざわざ自分の髪を縫い付けてくれたのだろう。本当に、いくら感謝しても足りない。


「バセットさん、本当にありがとうございました。必ずまた会いに来ますから」

「あら、嬉しいわ。娘が出来たみたいね」


 そうしてお互いに笑い合って名残を惜しんだ。



 これから私が目指す場所は、私の罪の在処である孤児院のある街だ。どうなるかは分からないし怖いけれど、逃げ続けるのはもう止めたのだ。

 それは許しを乞う為ではなく。結果として罰を受ける為とも言えるが、己の罪と向き合う為に。

 フェンダーと聖女様については未だ胸は痛むけれど、私もやはり、誰も恨めないから。二人が幸せになれるのなら、それでもう良いのだと思う。


「いっぱい泣いたし、多分またいっぱい泣くんだろうけど、ね」


 それでも、止まってはいられないのだ。


 いつか来た道を、今度は逆順に進む。あの頃と違って今は一人だ。

 けれど、何故だか今の方が足取りは軽く感じられたのだった────。

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駆け落ちのち、寝取られ──黒髪の魔女と白銀の聖女── 小豆丸 @yamato_nadeshiko

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