第4話ソラの記憶Ⅱ ~孤独な風にさよならを~
◇
先生に赤子の頃に拾われてから十六年間を過ごした街を出てしばらく、私は馬車の荷台にある簡素な座席の上でふわふわと揺れていた。それはもちろん、座席のことではない。気休め程度に厚手のクッションが敷かれてはいるが、それでも長時間座っていればお尻は痛んだからだ。
要は私の頭の中が夢心地であった、ということである。なんせ、対面には長い脚を組んで笑みを崩さないフェンダー殿下が居られる。気分はまるでお姫様だった。
そのような状況であったから、とてもじゃないが正面の彼を直視出来ず、けれどチラチラと隙を窺ってその美しい彼の姿を見ようとするのだが、当の彼が私から視線を外してくれないので目が合っては俯いて、また目が合っては俯いてを繰り返し顔が沸騰しそうになっていた。
(……そのうち、胸が破裂するんじゃないか……)
馬車内が狭い訳ではなかった。窓際の座席は左右で計六人は座れたし、さらに折り畳み式の小型テーブルを展開しても膝がぶつからないくらいなのだ。
今、馬車の外には各々馬に乗って並走するフェンダー様の部下が三人と、御者として手綱を持つ一人がいて荷台には私達二人きりなのである。狭いどころか広々と感じてもおかしくはないのだが──なんと言えばいいだろう、色香というか纏う雰囲気というか、とにかく『圧』が凄まじいのだった。決して威圧されてる訳ではなく、むしろ友好的に接して下さっていてありがたく……。
例えるなら、目の前に大きな大きな熊がいて、にこやかにこちらを見つめている、といった感じか。なかなかに生きた心地がしなかった。
頭の中であれこれ忙しくしていると、馬車の速度が幾分かゆっくりになった。窓の外を流れる草原は緩やかで、並走している騎士と兜越しに目が合う。とても立派な肉付きをした馬も、可愛らしくトコトコと爪を鳴らして走っている。
「────っ!」
騎士は器用に片手で馬を走らせながら、腕をこちらに伸ばして親指をグッと立てた。兜で見えないが、その中の表情が見て取れてつい笑ってしまう。
「ふふ──やっと笑ってくれたな。朝からこっち、ずっと泣きそうだったり俯いていたりしていたから心配だったよ」
そんな様子も大変に愛らしかったが、と言って微笑む彼を見て、私はまた恥ずかしくて俯いてしまう。全部、ずっと見られていたなんて……。
「あの、これからどちらへ向かうのですか?」
「ああ、今は──まあ、すぐに着くだろうが、王都の西域にある集落だ。そこに大鷲の刻印所持者がいるから、迎え入れてから城に戻る。残念ながら、獅子と鯨は産まれてはいるんだが、まだ十にも満たなくてな。太陽と月は未だ発見報告はないな」
「王都……」
育ちの街を出たことがなかった私にとって、外の世界は未知だった。馬車から風景を眺めているだけでも浮き足立つというのに、王都にまで赴けるとは思いも寄らなかった。
馬車は草原を抜け緑生い茂る森の中へ。
木漏れ日を受けて走る騎馬達のなんと勇壮なことか。荷台の中にあってもしかし、外から香る自然の大気に鼻はくすぐられ、まるで木々に包まれているように感じられた。風は優しく健やかに私達を撫でていく。ここは街と比べ遥かに生命力で満ちているように思えた。
「ほう、分かるか。何しろ、刻印所持者が根城に選んだ場所だからな、魔力が潤沢なのだろう」
単なる感想のつもりだったが、彼に誉められて悪い気などしようはずもなく、熱を帯びた頬が自然と持ち上がった。
そうしてまたしばらくの間、景色を楽しみながら馬車は進んで行き、目的の場所へと到着した。
森の中に隠れるようにして構えられている小さな門は蔦や枝を編んで作られていて、人工的でありながらも自然の産物であるような不思議な景観を佇ませている。
里の住人らしき壮年の男性がその門の前で欠伸をしていたが、馬車の姿を認めると肩に掛けた弓に手をやって警戒し始めた。
「道に迷われた、風ではありませんな。如何なご用で?」
門を守るように前に歩み出た男性が馬を降りた騎士に訊ねる。丁寧な口調ではあるが、警戒を解く様子は見られない。
「我々はトライアド王国災厄調査団だ。ここに大鷲の刻印所持者が居られるとの情報を得て参った。お取り継ぎ願えないだろうか?」
「若に? ふむ、大渦の話はこちらも把握しているが、貴方らが正味、王の使いであると証明するものは? 書簡の一つでもあれば問題ないのだが──」
大渦についてはこの国にいる者ならば誰もが耳にしている事であるので、その話を引き合いに出したところで信用してはもらえないのだろう。なんせ、ここは隠れ里なのだ。よそ者をホイホイと招き入れたりはしない。
それを察してか、フェンダー殿下が腰を上げて馬車から降りていった。私も窓からこっそりと話の行く末を見守る事にした。
「初めまして、守人よ。──この瞳では証明にならないかな?」
軽く挨拶をした彼はそう言うと、その長身を少しばかり屈めて守人と呼ばれた男性に顔を寄せる。周りの騎士達は若干慌てたように手を伸ばすが、それよりも早く証明は成されたようだった。
「星を映す瞳……正しく若と同じ刻印の所持者でございましたか」
弓から手を離すと恭しく礼をする。警戒を解いてからの守人は非常に友好的だった。
里への立ち入りが許可されると、馬車を馬小屋へ移動させる為にここで私も外へ出る事となった。そろそろ私のお尻も限界が近く、ジンジンと痛むそれを擦って荷台から顔を出した。
すると、そんな私の姿をひどく驚いたように守人が見つめていた。最近はほとんどなかったので忘れていたが、その視線にはよく晒されていたのを私は苦笑しつつ思い出していた。
「……あ、あの。そちらの女性もお仲間で?」
「ああ、そうだが? 今回の旅に是非とも助力願いたいと、僕が見出だした方だ」
守人は、何故か誇らし気にそう言ったフェンダー殿下の顔と私の黒い髪とを交互に見ながら狼狽えている。この国において黒い髪など珍しい……どころか、実のところ黒は凶兆の色として認識されている為、守人のような反応は至極当然であり、私にとっても幼い頃を思い出すものだったのだ。
「フェンダー殿下が特殊なんですよ。私のようの不吉な色を手元に置こうなど……」
少し自嘲気味に声を掛けるが、これは事実である。初見で私になんの忌避感も見せず会話をするなど、これまで数える程しかなかったのだ。例えそれが私に備わっている力を求めたからにしろ、好感を覚えるに足るものだった。
「僕は僕の心にこそ従っているだけだ。一目見て、君のその髪も瞳も艶やかで神秘的だと感じた。先入観は可能性への障害でしかないんだよ」
そう言うと彼は小さく微笑んで私を見やる。この、ただの人には過ぎた力だけが目当てでなかった事が嬉しくて、また赤く染まりかけた頬を俯いて隠した。
それを静かに見守っていた騎士達も、彼の言葉に感動しているのか大きく頷いてくれている。彼が側に置くだけあって、黒い色に対する偏見は取り除かれているようだった。
◇
里に入ると族長の屋敷へと案内された。
その道すがらで私達は、気持ち悪い、怖いなど子供達の無邪気さ故の言葉とそれを小声で律しながらも蔑視の目を向ける大人達に晒されていたが、フェンダー殿下がぴたりと側に寄り添ってくれ、騎士達もそれを囲むように歩いてくれていた。私自身も、先の事もあってそれほど気にもしていなかったが、なんともお姫様な待遇を受けてまた別の意味で俯いていたのだった。
程なくして里の奥、大きなお屋敷へ辿り着くと、案内をしていた守人が木製の扉をノックして声を上げた。
「刻印所持者様をお連れしました!」
その声に応えて扉が開くと、侍女と思しき年若い女性が姿を見せ即座にギョッと目を見開く。ここに来てから最早慣れた反応だったので軽くお辞儀をすると、今度は視線を隣に移してまた目を丸くしていた。それはまあ、殿下ほどの美男である。里の男性達と毛色の違った色男に息を呑むのも頷けた。
「……………………はっ! し、失礼しました。どうぞ中へお入り下さいませ」
しばしの沈黙の後、ふと我に返った彼女が慌てて中へと促す。その気持ちをよく理解出来ていた私だったので、ほんの少しばかりの優越感に浸りながら殿下に続いたのだった。
「ようこそ、いらっしゃいました。竜の加護と刻印をその身に受けた竜王子のお噂はかねがね、わたくし共も存じ上げておりますれば、此度のご用件は我が里の刻印所持者についてでございましょうか?」
駄々広い応接室で待っていたのは、族長と名乗る一人の高齢の男性だった。とはいえ、その年齢をあまり感じさせないほどに鍛え上げられた筋肉と真っ直ぐに伸びた背筋は、老いてなお活力に満ちており壮年と言われても信じられそうである。
殿下がこうして訪問した事で私達の目的を察していたらしく、挨拶も程々に本題に入る事が出来た。
「早速だが、その大鷲の刻印持ちと会わせてもらえないか? 任務が任務なのでな、同行出来る刻印所持者は迎え入れておきたいのだ」
「左様でございますか。……しかし、申し訳ございません。今あやつは森に出ておりまして……それについて、こちらからお願いしたい事があるのでございます」
族長が言うには、大鷲の刻印所持者である彼の息子──若様は、三日前に弓を新調すると残して森へ行ったきり未だ戻って来ないのだそうだ。里の民らからすれば勝手知ったる庭のようなものであるから、これはもしや若様に何かあったのではないかとの事だった。
ふむ、と小さく唸った殿下が族長に「捜索はしたのか?」と確認をすると、これには当然、是という答えが返ってきた。
「刻印持ちであれば大丈夫だとは思うが、大渦の影響で魔モノも活性化しているからな。貴重な戦力を削がれては困る」
「それでは──」
「ああ、僕達が捜索に向かおう。刻印同士が近付けば共鳴して知らせてくれるはずだ」
殿下は鎧の上から心臓をトンと叩いて笑って見せると、すぐさま席を立った。善は急げというやつだ。もしその若様が負傷して動けなくなっていたとしたら、刻印持ちであろうと難儀するかも知れないと考えたからだろう。私達もすぐその後を追うことにした。
応接室の扉を開けると、目の前には華やかな壁が今にも私達を押し潰さんと構えていた。それは妙齢の方から私よりも幾分か年若い方、六人ばかりの女性達だった。皆眉根を寄せて瞳に涙まで溜めている。
「フェンダー殿下、どうか……どうか若様をお救い下さいませ……あの方がいなくなってしまったら私共は……」
「お願いいたします! 若様を──!」
多少、その勢いに気圧されながらも殿下は優しく声を掛ける。如何なる時も余裕を見せるというのはなかなかに難しいものであるが、それを瞬時に行ってしまうのはさすがだなと感じた。不安な顔には安堵を与えられ、従う者にとっても士気の向上に繋がる。私はといえば、そんな彼の姿が眩しく誇らしいと思えた。
「族長殿の頼みとあれば無下にも出来ない。それに刻印所持者は我らにとっても貴重な戦力だ。すぐに捜索と保護に向かう故、どうか安心して待たれよ」
彼女らにそう言葉を掛けると、壁を作っていた女性達は嗚咽を混じらせて感謝を述べ、道を開く。彼女達は恐らく、若様とやらの奥方──妾というものだろうか、正妻がどの方かは分からないが、一人を除いて皆一様に同じデザインの指輪を薬指にはめていた。自分の旦那様が行方不明とあれば、心配するのも無理はないのだろう。
屋敷を出て里の出入口まで来ると、先ほどの女性の中で唯一指輪を持っていなかった女性が走り寄ってきた。一番幼く見えた彼女だ。
「あ、あの! 私は若様の六番目の妻──タムと申します! どうか私も一緒に連れて行って下さい!」
「ふむ……しかし、何があるか分からないのだ。まだ年若く、それも大鷲に縁ある娘を同行させるのは──」
「そちらの女性と歳は変わらないようにお見受けします! 気休めではありますが、癒しの魔法も心得がございますから!」
彼女のあまりにも必死な剣幕に私達は顔を見合わせた。見たところ十四、五だろうか、私の方が歳上だと思われるが同年代に見られているらしい。……まあ、確かに童顔ではあるので仕方がない。が、やはり危険を伴う以上、殿下は同行の許可を出さないだろう。
……しかし、そうまでして捜索に参加したいという彼女の気持ちを私は尊重したくもあった。恋する乙女心とでも言うか、フェンダー殿下に着いていく為に街を出た身としては、彼女の気持ちに強い共感を覚えたのだ。
「……殿下、私からもお願い致します。これだけの想いを抱いておられるのです。ただ待つだけというのは気が気でないでしょう」
「そうか……他ならぬソラがそう言うのであれば、彼女にも同行してもらおう」
彼女がその言葉を聞くと、涙で滲んだ瞳をまあるく見開いて飛び上がるように喜んだ。それを見て私も、なんだか嬉しくて微笑んだのだった。
◇
「実を言うと、最初はソラさんを恐い方だと思っていました」
森の中を、先頭を騎士と殿下が固め、私とタムの脇を騎士二人が挟み最後尾に一人という形で進んでいた。先の出来事で私への警戒心が消えたようで、今私とタムは仲良く手を繋いで歩いていた。
そんなタムがぽつりとそんな事を言ったのだった。見慣れぬもの、ましてや忌まわれる色を纏っている私をそう思うのも仕方がないし、今はこうして仲良く出来ているのだから何も気にしていない。むしろ、手を繋いで歩くなんて街で子供達といた時以来だったから嬉しかった。
「……若様が森に入られたのは、私のせいなのです。結婚をしたのはついこの間の事でして、里の習わしで指輪に風と清めの加護をと……。私は若様から指輪を贈られる事に浮かれるあまり、危険がある可能性を失念して送り出してしまったのです」
悲しそうに言葉を吐き出すと、可愛らしい顔がくしゃりと歪む。大好きな人を失うかも知れない、そしてその原因が自分であると思っている彼女は、それこそ身が引き裂かれるような思いなのだろう。堪えきれず溢れる涙が頬を濡らしていった。
「そんな事ないよ、絶対! だって二人は好き合っていたから結婚したんでしょ? 大切な人に喜んで欲しいって思うのは当たり前だよ。嬉しそうにタムが笑ってくれたから、きっと若様も早く指輪を渡したかったんだよ。──だから、いつ若様に会っても大丈夫なように涙は仕舞っちゃお。笑顔でお帰り、って言えるようにね」
タムが優しく握られている手を力強く握り返してきて涙を拭った。少しばかりぎこちない笑顔はそれでも可憐で、やっぱりこの子は笑っているのが一番素敵だなと、私も釣られて笑顔になる。
──この子は強い子だ。私がタムの年齢だった時分を思い返して、そう思う。そもそも縁もなかったが、色恋とは程遠い生活だったし初恋だってつい最近の事なのだ。こんなにも誰かを好きになって危険にすら飛び込むタムを凄いと思うしかなかった。
「それにしても、森に慣れた里の者達に姿すら発見されないというのもな」
先頭で何やら考え事をしながら殿下が溢す。例えば──あって欲しくは無いが──事故や何かで亡くなっていたのなら、その形、つまり亡骸を発見出来ていてもおかしくはないのだ。なんせ彼らにとっての庭に等しいのだから。それがないという事は──。
「若殿は姿を隠している、または隠されている──という事ですか?」
「ああ、だから彼が死んでいるという可能性は低いと思っている。……しかし、そうなると刻印による共鳴で探すのも難しいか」
死、という単語に一際大きな反応を示したタムだったが、しかしそれを否定された事で胸を撫で下ろしているようだった。
真上にあった陽も少しばかり傾き始めている為、急がねばならない。かと言って闇雲に探しても見付かるとも思えなかった。
しばらく足を止めて思案していると、タムが声を発した。
「すでに里の皆が探したところなんですけど……加護を授かる為の祠があるんです。私達では無理でしたが、刻印があればもしかしたら……」
この森を守護する風の気が涌き出る地にその祠はあるという。習わしではそこへ夫となる者が出向き指輪を捧げ、祈った後に加護が授けられるのだそうだ。当然、里の者達も真っ先にそこを探索したとの事だが、本人が隠蔽されているとなれば私達も再度調べるべきだろう。
この森へ来てから感じていた直感を元に、私も頭を働かせる。
「この森は普通の森よりもずっと風の気が強い……気がします。大鷲といえば風の加護を強く受けた刻印と聞きますし、それを隠すとなれば他の神の力では隠し切れないのではないでしょうか? 風に克つ火の気も見えませんし、ひょっとすると風の神に隠されているのかも……」
水の神に因る癒しの魔法は使えないが、それ以外ならば使う事が出来る私は、その気配にも敏感である。もちろん、感覚的なものなので確実かどうかは分からない。しかし、それを殿下は信じてくれた。
「──なるほど。であれば、その祠で僕の火の気を当ててやれば刻印にも少しは反応が得られるかも知れないな。──助言感謝する、ソラ」
にこやかに誉められてしまって、非常に照れ臭い。なんせ私は戦いにおいて初心者同然な訳で余計な口を挟むのは気が引けたのだが、頑張って声に出して良かったと息を吐く。
目的地が定まった事で、私達は再び歩きだした。夕暮れまでのんびりもしていられず、自然とその足は早くなる。隣でタムが先頭に向けて案内を出しながら、先を急いだ。
◇
一時間も歩いた頃だろうか、鬱蒼とした草木を掻き分けて私達はそこへ到着した。
タムがいなければもっと時間がかかっていただろう事を思うと、同行を願い出てくれた事とそれを許可してくれた事に感謝の念が膨らむ。
私達の眼前には小さな泉があり、その真ん中に祠が建っている。しかし、子供すら入れそうにもない大きさで、この中に隠すというのは考え難かった。
「あそこへはどうやって渡るんだ?」
見たところ、舟もなければ橋もないのだ。泳いで渡ろうにも、犯人が森の守護者であると仮定した場合、どんな危険があるか分からなかった。
「祠の対岸でお伺いの言葉と祈りを捧げるらしいのですが、それは男衆にしか伝えられていないのです……」
夫となる者が行う以上、妻が知る由もないのだろう。申し訳なさそうに言うタムの頭を撫でて、落ち込みそうな顔を慰めた。
殿下は祠を睨み顎に拳を当てがってしばらく考え事をしているようだったが、ふむ、と一つ呟くと私達に向き直る。
「渡る術がない以上、仕方がない。──この場で火の気を発現する」
「…………へ?」
言うが早いか、殿下は腕を組んだまま目蓋を閉じて意識を集中しだしてしまった。風の気に満ちていたはずの泉だったが、火の気から逃げるように風が足元を駆け抜けていき、巻き上がる土煙が視界を遮る。私はタムを抱き抱えながら悲鳴のような声を上げた。
「いやいやいやいや、殿下ちょっと待って下さい! 森が! 森が燃えちゃいますってえ!!」
「ははは、心配性だなソラは。なに、少しばかり脅かしてやるだけだ。──それっ!」
爽やか過ぎる笑顔で、これまた爽快に笑い声を上げながら殿下から火柱が立ち昇った。騎士達も慌てて私達を取り囲むように守ってくれたが、人の身でどうにかなるものでもないと思い、私も魔法で防御姿勢を取る事にする。
地に膝を付いて祈るように両手を合わせる。一拍、二拍、三拍、四拍、呼吸は深くゆっくりと。四元素の一にして地の神に音のない声を届ける。
「──我らが大地に御座す堅牢なる神よ、その神威をお貸し下さい!」
最後にそう唱えると、今まで街で冒険者相手に使用していた魔法とは桁違いの防御魔法が発動する。水の神様とのご縁がない以上、守護においては地の神様に頼る他ないのである。それでもこの魔法は破格で、刃や弓矢を弾くどころか迫り来る炎の熱すら防いでみせてくれた。
「おっと、すまん。言い忘れていたが、これは僕の魔力が炎のように見えているだけだから大丈夫だぞ。多少、熱は感じるだろうがな。──僕が大切な仲間を燃やすはずないだろう?」
「フェンダー殿下は、おちゃめッ、なんですねッ──!!!!」
熱気に当てられしどろもどろに答える。彼の言う通り、確かに私の魔法が炎を弾いた感触はなかった。それでも肌に感じる熱量は凄まじく、これが真に攻撃に向いた時を想像して息を呑んだ。
殿下がさらに魔力を込めようと呼吸を深くすると、それを大慌てで止める声が響いた。
「ちょちょちょ、何やってんのアンターッッ!!」
「──出て来たか」
殿下の目の前で宙にプカプカと浮かび細い腕を目一杯振りながら現れたそれは、小さな子供くらいの背丈をした少女だった。その割に体は成長しており、胸がふくよかである。
恐らく、彼女がこの森を守護する精霊なのだろう。魔力の放出が止むと怒ったように腰に両手の拳を当てがい可愛らしい頬を膨らませた。
「私の森で危ない事しないでよ!! 風の気も驚いて逃げちゃったでしょ!!」
「それはすまんな。時間がなかったのだ」
「もーっ!! いくら刻印に選ばれてるからって偉そうにー!!」
怒りの矛先にある殿下では話し合いに持ち込めそうになかったので、おずおずと私が前に出る事にした。敵対心を煽らない為に、里の住人であり森の恩恵も受けているタムも一緒だ。
二人で丁寧に頭を下げると、そのままの姿勢で彼女に事情を説明した。
「あの男なら確かに私が預かってるわよ?」
「ほんとですか!? あの方は私達の大切な大切な旦那様なのです! どうかお返し願えませんか?」
「やだー!!」
「えぇー!?」
まるで子供のような態度でタムのお願いを突っぱねると語り出す。
「あの男といると幸せになれるんでしょ? 私、里の上から見てたけど指輪貰って皆嬉しそうにしてたもん! 今までは一回しかやって来ない男ばっかりだったのに、あの男は何回も来てた! だからいっぱい幸せを持ってるんだ!」
それを人間ばかりズルいと、自分も沢山幸せが欲しいと言って、そうして帰りたがっている若殿を閉じ込めたのだそうだ。
人間のように男と女で子を成して増えていく訳ではない精霊にとって、睦まじく愛し想い合う夫婦の姿というのは未知なのだろう。里で夫の帰りを待つ女房達や、このタムを見れば羨むのも仕方がないのかも知れない。
けれど、そうして<幸せ>を閉じ込めたところで、本当に彼女は幸福感を得られるのか、何より──若殿は幸せになれるのか。彼女が見ているのはすでに完成された幸せの形であって、その過程──幸せを育む、作り上げていく様を見てはいないのだ。誰かを好きになる事、その愛を一身に受けたいと思う事は悪ではないと思う。けれど、それを返す思いやりがなければ続きはしないのではないかと思う。
精霊の感情の昂りに呼応するように重たい風が私達を襲う。私の魔法はまだ健在ではあるが、精霊相手となるといつまで保つか分からない。吹き飛ばされそうになる体をなんとか地面に縫い付け、タムを抱き抱えて支えた。
そして腕の中のタムは覚悟を決めたように、真っ直ぐ精霊を見つめ叫んだ。
「確かに若様は私達に沢山の愛情を下さいます。それはとてもとても幸せな事で…………だから、私達も大好きな若様に幸せを感じて欲しいんです。疲れていたら癒して上げたい、嬉しい事も悲しい事も一緒に分かち合いたい。大きな街のように裕福でなくとも、側にいて一緒にご飯を食べて眠って、ただただ無事に健やかでいてくれたら、それが私達にとって一番の幸せなんです。
でも、その若様がいなくては私達は何も返せません! お願いします──あの人を返して!!」
精霊が一際大きく膨らんで見える。膨大な風の気がそう見せているのだろうが、これまで以上に凄まじい風が襲い掛かるのかと思うと私の魔法でも防ぐのは難しい。
目の前に風が集まり大きな球を形成していく。背中からは危険を察知した殿下が火の気を練ろうとしているのが感じられた。
(交渉は決裂……ここまで、か)
せめて皆は守らなければ、とタムを庇い背中を精霊に向ける。私の体で少しは威力を減衰出来れば──。
「──私の邪魔しないでッ!」
怒号と共に風の塊が放たれる──かと思いきや、暴風のうねり声を引き裂くような、細く鋭い音が水飛沫を空に打ち上げながら泉を割った。
「タム! 大丈夫か!!」
弓を片手に泉から這い出て来た男性は瞬く間に私達の元へ走り寄ると、私からタムを受け取って大事そうに抱き締めた。
(この人が、タムの大切な人なんだ)
打ち上がった泉の水が雨のように降り注ぐ中、二人は泣いているような、喜んでいるような、感情がぐちゃぐちゃに混ざった表情でお互いに見つめ合っている。
「若、様……!」
「心配かけたな、タム。全く、恥ずかしい事ばっか大声で言いやがって…………俺も、お前が大好きだよ」
「──はい、私も、皆も、ウィズダム様が大好きです」
にっこりと、赤く腫れぼったい目で微笑んだタムは、安心したのかそのまま気絶してしまった。ウィズダムと呼ばれた青年──若殿は優しく草むらに寝かせると、私達を向いて頭を下げた。
「あんたらのお陰で結界を維持してた魔力が弱まって脱出出来た。感謝する」
そう言うと、今度は精霊に体を向けた。その背中からでは、彼が一体どんな顔をしているのか分からない。大切な人を傷つけられた怒りはあるだろうが、精霊に害を成そうという気配は感じられなかった。
「ズルいズルいズルいズルい──!! 私も私も!!」
「…………森の守護者様、俺が<幸せ>を沢山持っている訳じゃないんだ。俺達は、元から有るものに<幸せ>を見出だしてるだけなんだよ」
「そんなの嘘だ! きっと特別な何かを隠してるんだろ! でなきゃ、そこの女があんな顔をするもんか!!」
「嘘じゃない。何て事はない平凡なものでも、それが幸せなものだって思える。……なんでだか分かるか?」
真剣に諭すような声音に、精霊も荒ぶっていた風を少し静めて考える素振りを見せる。
彼女が<幸せ>を心から欲しているのはよく分かった。それは多分、信仰心と愛情が違うものだからだと思うのだ。あの里の人達は本当に森を大切にしているだろうし、それを守護する精霊にも感謝しているのだろう。だが、それは信仰である。彼女の為す恵みという結果を見ているのであって、彼女という個は見えていないのだ。それは今の彼女の状態と同じように思えた。
空から見渡す里の皆を、彼女はどんな気持ちで見ていたのか。自分は向けられた事がないのだろう顔で笑い合う人々に何を望んだのか。
「貴女は、自分を見て欲しかったんだね」
愛されたかった、一つの存在として。
夫婦になりたいとか、もっと感謝しろとか、そういう事ではなく。ただ、仲間に入りたかったんじゃないか。一緒に笑い合えたら、一人ぼっちじゃなくなるから。
涙を堪えながら、それでも一生懸命考えている彼女は、きっとすでに答えに至っていると思う。でも、精霊の中に他者と寄り添うという概念が今までなかったのだろう。彼女らは自然に発生し、自然に消える。その姿も魔力を携えた者でしか普通は捉えられないし、今こうして騎士達にも見えるような状態は災害級の力を発揮しているからだろう。
そんな彼女だから、普通に精霊を見る事が出来て会話も出来る、幸せの輪の中心たるウィズダムさんに目を付けたのは当然だと思う。
「…………私は…………」
「うん」
「私を…………見て」
「うん、ちゃんと見えるよ」
大粒の涙がポロポロと溢れていく。
さっきとは違う、荒々しいだけの風はどこにもなく、柔らかく撫でるような風が体を通り抜けていく。
涙が落ちた地面からは小さな芽が次々に生え、泣き声は風に運ばれ空に掻き消えて──。
◇
陽もすっかり暮れた頃、里へ帰った私達は若であるウィズダムの帰還祝いとして宴に招かれた。
皆で薪を囲んで山菜料理や豪勢な焼き串に甘酸っぱい果実酒を味わい、デザートには目一杯の果物の盛り合わせ。街では食べた事がないようなものばかりで、自然と笑みが溢れた。
足元をするりと風が触る気配に、私は隣を見やった。
「楽しい?」
「うん!」
風を纏った少女が満面の笑みを浮かべている。
彼女をここへ連れて来るよう私からお願いしたのだ。エスコートは男性が務めるのが礼儀かと思い、ウィズダムさんにお任せした。
というのも、彼女の境遇には少しばかり共感するものがあったからだ。慣れたとはいえ、幼い頃は私もその色から奇異と忌避の目で見られ続けていて、私個人を見てもらえる事がなかったから。それを救ってくれたのが孤児院の皆だった。私という存在を受け入れてくれ、どれだけ幸せであったか。それを手離した自分が大層な事は言えないが、彼女にも救われて欲しかったのだ。
若い世代には魔力を持って産まれる者も増えてきているし、この里にもタムのように魔力持ちが少なからずいた。
だから、ここに来れば、怖がらず飛び込んでみれば、見てもらえると思ったのだった。元より愛らしい姿をしているので、癇癪さえ起こさなければ馴染んでいけるような気がしている。今も里の子供達とそこら中を走り回って楽しそうだ。
精霊が離れているのを確認したのか、フェンダー殿下が隣にやって来た。果実酒を燻らせる様は実に優雅だった。
「……ソラ、君は凄いな。僕ではああはいかなかっただろう。話が通じないとあれば、僕はこの力できっと彼女を──」
「でも、そうはならなかった。それで良いじゃありませんか。殿下の力だって必要なものです。及ばない部分は他の者が対処する──私達はその為にいるんですから」
「そう、だな」
そう微笑むと、殿下はどこか眩しそうにその瞳を細めて見つめてくる。頬に感じる熱は薪の炎のせいだけではないだろう。淡くオレンジに染まる私の顔を、燃え盛る炎は隠してくれているだろうか。どうかこのまま気付かないで。知られてしまったら、側に入られなくなってしまうかも知れないから──。
──甲高く夜に響く指笛と大歓声が止まっていた時計を起こした。いつの間にか人々の視線は宴の中央、うず高く積まれて燃える炎の前に集まっている。
「綺麗…………!」
美しい刺繍の入った白を基調としたドレス、露出した右肩も艶やかに花の冠をゆったりと頭に乗せた少女──タムは少し上を見上げている。見つめる先には、同じく白を基調としたローブを身に纏ったウィズダムさんがいる。
パチパチと薪の爆ぜる音がする以外、声を発する者はいない。静寂の中、ウィズダムさんがタムの手を取り口を開いた。
「あー、ごほん。『──愛しい貴女、自由な鳥にも翼休める場所が必要なのです。どうか、どうか、私に枝を貸してくれませんか?』」
「えと、えと……『──愛しい貴方、私は貴方の帰る場所、借りるなどと言わないで、どうか、どうか、私の枝をもらって下さい』!」
この里独自の誓いの言葉なのだろう、自然の中で生きる彼らによく似合った台詞だと感じた。
タムの細い指に指輪を通す。
指輪は、目印なのだそうだ。
鳥が帰る為の、止まり木。
これ以上ないくらい幸せそうな笑顔のタムは、嬉しくて嬉しくて涙が止まらないようだった。抱き締めるウィズダムさんも、頬が綻んでいて──。
再びの大歓声、あちらこちらから「おめでとう」と声が飛び交っていく。
「──大鷲の。餞別だ」
フェンダー殿下はそう言って指をぱちんと鳴らすと、薪の炎が勢いよく噴き上がった。これは本当の炎ではなくて、殿下の魔力を炎に見えているのだ。だから燃え移る事はない。美しい炎のヴェールが二人に降り注いで、なんとも幻想的だった。
私も居ても立ってもいられず、タムに走り寄る。ほんの短い付き合いではあったが、彼女の事が私も大好きなのだ。
「タムー!! 綺麗! 綺麗だよ! おめでとうー!!」
「ありがとうございます! ソラさん!!」
感情が昂っているから、私の語彙力も下がっている。凄いし綺麗だし可愛いとしか言えないのだ。でも仕方ない。真実、そうなのだし。
私がタムとお喋りしながら貰い泣きをしていると、すぐ側に風の精霊がやって来た。その目はキラキラと輝いている。
「お前ら、すごい幸せそー!! 幸せなのかー!?」
「そうですよ、守護者様。私達は今とっても幸せなんです!」
「それじゃあ……迷惑かけちゃったお詫びだ、改めて祝福をっ!」
──そうして、この一連の騒動は沢山の笑顔で締め括られたのだった。
◇
馬車に揺られながら外を眺める。
私達は何だかんだで三日程あの里に滞在していた。元はと言えば、刻印所持者を迎え入れる為の来訪だったが、その刻印所持者であるウィズダムは結婚式を終えたばかり、そんな二人をすぐに引き離すというのは気が引けたのである。
そして、今この馬車にはそのウィズダムが乗っていて、次の目的地へと向かっていた。
さて、何故敬称が取れているかと言うと…………。
「ソラ。どうだ、嫁にならないか?」
「大鷲の。やらんぞ」
「……なーんで王子様がお返事してんだろうなぁ?」
「私は──な、ら、な、いッ!」
とまあ、こんな調子であるので、敬称は彼方に放り投げたのだった。
──鳥が気ままに空を飛んでいる。
鳥が気持ち良さそうに乗る風からは、意地っ張りで寂しがり屋なあの子の声が聴こえた気がして。昨日の今日だというのに、少しばかり森が恋しくなった。
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