第3話別れの朝に啄みを。


 ぼんやりした頭が、オレンジ色の霞を視界に捉えていた。暖かい陽の光が目蓋に優しくカーテンを掛けてくすぐっている。──死者の国とはもっと寒々しいところだと思っていたが、存外悪くないもののようだった。

 ゆっくりと目蓋を持ち上げると、しかしそこに望んだ世界は見当たらなかった。簡素なシングルのベッドに横たわったまま辺りを見回すが、いつぞやお世話になった宿屋の室内が思い出されるばかりだ。


「……生き、てる……?」


 昨夜、私は確かに自らの喉を貫いたはずだったが、どこを擦っても傷など見付からない。服は備え付けの部屋着に変わっていて自分の着ていた服がなかったので、血痕があったかどうかも分からなかった。


 体を起こしてからはそれ以上動くこともせず、ただただ呆けて自分の手を眺めていた。旅に出る前よりも、ずいぶん痩せたものだ。王国から資金は出ていたので食に窮するということはなかったのだが、私の体が食べることを拒むようになっていった為だ。初めの三ヶ月は夢のようだった。彼の隣で採る食事はお腹だけでなく胸も幸福で満たしていたし、私の作る粗末なスープにも彼は美味しいと笑顔を向けてくれていたから。

 今となっては、それもただ悲しいだけの記憶だ。孤児院で囲んだ食卓を思い返しては懐かしみ、布団の中で涙を堪えるのが日課になっていた。自ら捨てたものに都合よく縋りつく様は、滑稽という他あるまい。


 そんな感傷を破って扉を叩く音に気付き、私は顔を上げた。いつの間にか開け放たれていたそこに、よく知った顔があった。


「……お早うさん。体は大丈夫か?」


 今にも欠伸をしそうな顔で私を見つめるのは、隊で一番の長身を持ち数キロ先までも見透す琥珀の瞳で弓矢の名手、伝承にある大鷲の年に産まれた刻印所持者であるウィズダムだ。赤みがかった茶色い髪が、おでこに巻いた鉢金から溢れて揺れている。

 咄嗟に私は顔を伏せて視線を隠した。あそこから逃げ出したのだから、仲間に合わせる顔などないのだ。


「あんな嵐の中でぶっ倒れててさ、久々に血の気が引いたわ。死んでるみたいな顔色だったしさあ……」

「……なんで、助けたの」

「心配だったからに決まってんじゃん。半分は俺の責任でもあるし」


 倒れていた私を発見し、慌てて担いでキャンプ地付近の村まで運んだのだと言う。そのまま捨て置いてくれていれば、などとは言えなかった。


 一昨日はウィズダムと二人でこの村まで食料や衣料品、はついでとして切らしてしまった聖女様の為の聖水を五刻協会まで取りに行っていたのだが、帰りがけに嵐で足を止められ隊への合流が一日遅れてしまったのだ。

 私達は普段、清流や湧き水を飲料にしているが、聖女様は穢れを忌避する必要があって浄められた水しか摂取出来ない。余分に抱えてはいたのだが、私が手を滑らせて台無しにしてしまった為、調達を買って出たのだった。

 女一人では危険だということでフェンダーに命じられたウィズダムが同行してくれ、まだ私もフェンダーに一人の女性として見てもらえてるのだと歓喜していた。

 しかし、件の嵐で遅れてキャンプに到着すると、そこで待っていたのは侮蔑と叱責だった。聖女様を思えばそれは至極当然かも知れないが、私の心はもはや波際に立つ砂の城が如く、いつ崩壊してもおかしくはない状態にあって涙を流した。

 頬を撲られた以上にあそこを逃げ出すこととなった決定打が、フェンダーの眼差しだ。覚束ない足取りで荷を持ってきた私を気遣いながら並ぶウィズダムを見やった彼は────心底安堵した顔をしていたのだ。

 私は凍りついた。

 そんな目を向けないで。

 笑わないで。

 私には貴方しかいないのに。


 彼は、あの一夜で私が他の男に抱かれ、まぐわい、不義を行ったのだと邪推し、安堵したのだ。そうすれば、彼は良心の呵責なく正式に私達の関係を反故に出来るのだから。

 フェンダーは隣に立つ聖女様の肩を抱いていた。──そこは、かつて私がいた場所だ。私だけがいられた場所だったのに。

 その聖女様は最後に見た時よりも顔色が悪く、恐らくは何も口にしていないことが見てとれ、罪悪感が胸を刺した。……しかし、その何をも見ていない瞳は変わらず、「死んでいなければ大丈夫」だとでも語るかのように彼のマントの裾をそっと握っていて──。







 ──ウィズダムが飛び掛かるのを目の端に映すのと同時に、私は己の犯した罪と彼の瞳から逃げたのだった。





「あいつは一発ぶん殴った。誤解も解いてある。だから戻ろうぜ。……皆、心配してる」


 その言葉は素直に嬉しかったが、無理な話だ。

 私は彼に、明らかに疎まれているのだから。


「……元はといえば、私の不手際だから」


 戻らないと一言言えれば簡単なのだろうが。未だその言葉が喉を通りたがらない。


「あれは仕方ないだろ。あいつが後衛の聖女の護衛を無理矢理押し通した挙げ句、本来後衛だったお前が慣れない前衛で戦ってたんだから。それも隊全員の補助魔法を維持しながらだ」


 聖女の命は誰よりも優先されるもの、であれば最も強い自分が護衛に回るのは必然であると彼が言い出してから、私の役割は戦闘においても変わったのだ。剣はどう扱ったらいいのだろうか、魔力の大渦に近付くにつれ凶悪さを増す魔モノの攻撃に防護の祈りは容易く破られ、それを何度も何度も掛け直しては前線に立つ。

 肉体の疲労は一夜では回復せず、魔力の消耗も激しくなっていった。そんな矢先の出来事だったのだ、あれは。


 思えば、躍起になっていたのだろう。

 聖女の力は私が持たない治癒の力で、それこそ『死んでさえいなければ』たちまちの内に治して見せていたから。

 彼の隣を奪われた上に隊での役割をも失うとなれば、私に居場所などないのだ。


「キャンプ地に三日間逗留するらしいから、それまでになんとか機嫌直してくれよ? 出立の日の朝に迎えに来させるからさ」


 黙りこくった私にそう告げると、ウィズダムは静かに部屋を去っていった。

 外から聞こえる鳥のさえずりは微かに、しかし室内に音を立てるものはなく、微睡みがそっと寄せてくる。





「戻ったところで、私には何もない……」


 それに抗うこともせず、眠ったまま目を覚まさないでいてくれたら、と私は私に願い再び眠りについた。








 出立の朝がきた。

 ウィズダムの話ではフェンダーが迎えに来ているとの事だが、どんな顔で会えば良いのか、そも私は戻るべきなのかも未だ悩んでいるのだ。


 朝もやが村を包み込んでいる。

 透ける朝陽がヴェールのようで、旅立ちの朝に帰って来たような感覚を覚えた。

 ゆっくりとした足取りで入り口を目指し、そこで待つあの人の元へと気持ちが逸っていたあの頃。光を映す髪の美しいことこの上なく、真っ直ぐな瞳は力強く私を見つめていて──。


 ……あの時と違うのは、彼の隣には可愛らしい人形のような少女が立っていて、青い瞳を一身に受けていることで。


 彼女と目が合った、気がした。

 何も言わず、何も思わず、ただただ紅い視線が私を地面に縫い付ける。

 それを遮ったのは、金色の髪だった。

 身を屈め、少女の顔は彼の影に隠れ、静まり返る世界に甘美の音を響かせる。

 一度目のそれが終わると、二度、三度とそれは続き、その度に私の心臓は杭で打たれたような痛みを訴える。


 それは以前、自分が最も近いところで見ていたものだから分かってしまう。今、彼がどんな表情を浮かべているのか、容易く想像出来てしまう。

 脚が震えて動かない。壊れそうなほどに鐘を鳴らす胸を頑張って押さえ付けるけれど、いっそ止まって欲しいとすら思う。


 何度目かの口付けに満足したのか、フェンダーが背を伸ばして振り向こうとしているのを見た瞬間、私の体は弾かれたように後ろへ駆け出していた。別れの言葉はない。あれを見れば、とうに終わっていることなど明白なのだから。


 村の裏門を走り抜け、森林地帯へと入り込む。霧掛かっていて前もよく見えないが、走ることは止めない。呼吸は浅く息が苦しい。荒々しい呼吸音は、いつの間にか嗚咽に変わっていた。


「うぅぅ……あ、あぁ……」


 ここ数ヶ月は泣いてばかりだ。それでも涙は涸れることもなく顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。木の根に足を取られて転ぶことで、ようやく体は走るのを止めた。

 お腹から喉へ熱が昇ってくると、固形物などない胃液のみが吐き出される。この村へ来てから水しか口に出来なかったからだろう。喉が焼けたように熱く、鼻を突く刺激臭と口内に残る酸味が不快感を誘う。


 せめて、言ってくれれば良かったのに。他に好いた人が出来たのなら、言ってくれれば。元より不相応な関係だったのだから、彼がそれで幸せになれるのなら潔く身を引こうとも思えたのに。

 それでも私を抱き続けていたのは、聖女を汚さない為か、それとも余程大事にしているか。


 愛している、とは昔に一度だけ言われたことがあったが、好きという言葉は最後まで聞くことは出来なかったな、と無理矢理に笑ってみるが、きっと情けない顔をしていることだろう。


 これからどこへ行けば良いのか。

 ──否、どこで死のうか。

 そればかりが、頭の中を占めていた。









 約束の時間になっても姿を現さなかったという話を聞いたウィズダムは怒っていた。なぜ彼女が来るまで待たなかったのか、のうのうと帰って来てからに、ここを出発するなどと宣うフェンダーに対して、言葉が出なかった。

 誤解は解いたはずなのだ。

 あれは仕方のない事故だったし、確かにウィズダムは女癖が悪かったがソラがフェンダーを強く想っていることは知っていたから手を出すつもりなど毛頭なかった。


「まさか、あいつ──わざと俺をソラに同行させたんじゃ」


 昔のフェンダーであれば、自分を女性の護衛になど就けなかっただろう。であれば、ソラに婚約中でありながら不義を行ったという事実を作らせたかったのでは。

 聖女にご執心なのは誰の目にも明らかだったし、他人の色恋沙汰には不干渉を決め込んでいるウィズダムとしては仕事さえしっかりしてくれれば文句はなかった。だが、フェンダーは聖女に想いを寄せる一方でソラをも未だ手元に置き精を放出していることも察していた為、憤りが少なからずあったのだった。


「体よく追い出したかったってことかよ、フェンダー……」


 ソラは自ら隊を抜けた。過酷な旅であるから引き留めることも叶わず、といったところか。ウィズダムは吐き気を堪えるように口元を押さえた。


 彼女が宿泊していた部屋には鞘に納まった短剣が一振り、他には私物などない。

 ウィズダムは何の気なしにその短剣を引き抜くと、まるで最初から存在しなかったかのように、そこに刃は見当たらなかった。

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