第15話 413号室 殺意に絆される



 彼女を愛したのは鬼ばかりだった。



 白い扉は開いていた。

 全開というわけではなく、ほんの少しだ。丁度針が通るほどの隙間。毎日のように誰かしらを訪ねている僕でなければきっと気づかないだろうという細さだった。


 僕はそっと息をついて、体を扉に向かって横向きにして立つ。伸ばした腕が扉に並行に並ぶようにして、取っ手を引き開けた。

 端的に言えば、扉を開けたときに中から自分の姿が見えないようにして僕は扉を開けたのだった。


 ひゅん、と軽く空を切る音がして、病室の中から鈍色の何かが飛び出してきた。同時に女性の鋭い声が飛ぶ。


ぬえ!」


 非難の響きが篭ったそれに、僕はひとつため息をついた。けらけらと笑う声が扉の向こうから響く。

 中には開けた窓のふちに腰掛けて笑っている青年が一人。長い銀髪をひとつに結わえた彼は、この病棟に棲むはずではない者だ。


「またあなたですか」

「なんだよ、俺がいちゃまずいか?」

「病棟患者になりたいのでしたら診断書をお持ちくださいね」


 にやりと彼は笑う。途端に鋭い声が飛んだ。


「やめなさい、鵺! もう……今日は先生が来るんだって言っておいたでしょう!」

「あぁ? だからって警戒しておくくらいはするだろ」

「先生が死ぬところだったじゃないの」

「気配くらい読み取れる。そいつが扉の前にいなかったことくらい分かってやったんだよ」


 彼女は呆れたように頭を振って窓を指さした。


「出ていって。あなたには話を聞かれたくないわ」


 その声が、ほんの少し強ばっていることに、彼も気づいたのだろう。今まで浮かべていたニヤニヤ笑いを引っ込めて、彼はふっと柔らかく微笑む。


「わあったよ、終わったら呼べ」


 返事を待たず、彼は窓の外へと消えた。ここは一応四階なのだが、いつもどこに行っているのだろうと思う。

 彼女は申し訳なさそうに僕を見た。


「ごめんなさい、その……伝えてはいたんだけれど」

「構いません。僕もだいぶ慣れました」


 言って、傍らに落ちているナイフを拾う。

 刃はご丁寧にしっかり潰されていた。本当に、欠片も殺すつもりはなかったのだろう。

 しかし彼女は眉を下げて言い募る。


「本当に、あの人は全く……ぬえがいるんだから、他の人なんて来るわけないのに……」


 自分が一番自信なさげにそう言っていることに、彼女はいつも気づいていない。






 彼女は前代未聞の誘拐事件の被害者だった。五歳の少女の誘拐には大規模な捜査線が敷かれ、警察が死に物狂いで探したが、その行方は終ぞ知れなかった。

 しかしその五年後、彼女はひょっこりと表舞台に姿を現した。犯人の遺書を片手に、無垢な少女の身体のままで。


 そして、それで終わらなかった。

 社会復帰した彼女の前には、ありえないほど大量の殺人鬼が現れ続けたのだ。

 彼らは皆彼女に愛を囁いた。男はもちろん、女の殺人鬼も。彼らは一様に、自分のための行為であったはずの殺人を彼女へと捧げた。


 しかし、自分の行為によって彼女が涙を流したとき、彼らは例外なくその命を絶つ。たとえ、愛する者を泣かせることに愉悦を感じる者であろうとも。

 彼女は自分の異常性を自覚していた。しかしこの病棟の存在を知らなかった。彼らはやって来ては死に、やって来ては死にを繰り返す。彼女は引越しを繰り返したが、どこにいても彼らは彼女を見つけるのだった。

 その均衡が崩れたのは二年前。ちょうど、彼女が十七歳の誕生日を迎えた日だったという。


 その日、彼女は自分と暮らしていた殺人鬼を殺した彼に連れられて、この病棟を訪れたのだ。


 殺人鬼に例外なく愛される。そんな病を持った彼女を病棟へ入れたのもまた、年端もいかぬ殺人鬼だった。




「ねえ、先生、ストックホルム症候群って分かる?」

「ええ、もちろん」


 僕は軽く頷いた。吊り橋効果の上位互換とも言うべきそれは、カウンセラーとしては常識だ。

 誘拐事件の被害者然り、銀行強盗の人質然り。極限状態における人間は、自分の生殺与奪の権を握っている犯人に優しくされると、好意的になってしまうというもの。


 彼女は少しぼんやりとした瞳で宙を見た。


「私、それ、嫌いなの」

「それ?」

「その言い方。『ストックホルム症候群』って言葉そのものが」


 ああ、と僕は頷いた。その言葉に嫌悪を示す人がいることは知っている。


「最近では症候群という言い方は適切でないという意見もあります。病ではなく、被害者達の生存戦略の手段だと……」

「違うの」


 彼女は僕の言葉を強めに遮った。表情が奇妙に歪んでいる。


「違うの……そうじゃなくて。どうして、人が人を好きになることを、そういう風に言うのかって、ことよ」


 泣きそうなのか、彼女は喉に手をやる。


「私、あの人たちを怖いとか恐ろしいとか思ったこと、ないわ。本当にないのよ。怖くて仕方がなかったから、あの人たちを庇ったんじゃ、ないのよ。ぬえにしたってそう。私、あの人が私の手を引いてくれて嬉しかったわ。あの雨の日からずっと、私はぬえが……」


 唇を噛み締めて、彼女はスカートを握った。

 僕は彼女の過去を思い起こす。普段なら、二人以上の殺人鬼が同時に彼女の前に現れることはないはずだった。それは時期を狙って隠れていたわけではなくて、本当に、彼女の周りにいる殺人鬼はいつも一人だけだったのだ。


 その均衡を崩した彼は、彼女と暮らしていた殺人鬼を殺して、『病院、行かねえ?』と笑ったという。


「先生も病気だと思う?」


 彼女は虚ろな瞳で僕を見る。


「私が彼を好きなのは、それは全部私の勘違いで……私は、病気に病気を重ねてるだけの愚かな人間だって、思う?」

「あなたは彼を好きですよ」


 僕は即答した。それは揺るぎない事実だった。


「僕は、恋愛経験に乏しいので、自信はありませんが……」


 言葉を選んで、彼女を見る。


「それが愛ではないと、僕は言いません。あなたが彼を見る目に、彼への恐怖はないですから」


 彼が窓から消える瞬間、彼女の目に映る刹那の恐怖は、彼をうしなうことに対するものだ。

 彼が誰かを害するとき、彼女の目に一瞬よぎる怯えは、彼の罪が糾弾されることに対するものだ。

 僕は様々な恐怖の色を知っている。彼女の瞳に映る恐れは、全て彼のためのものだ。それくらいは、いくら僕でも分かる。


「人を愛することに、自信を失わなくてもいいと思いますが」


 彼女は少し俯いて、そうね、と柔らかく呟いた。小さく息を吐く。


ぬえも……そうなのかしら」


 ぽつりと呟いた言葉が本題だろうと僕は思った。

 彼女の前に現れる殺人鬼はいつも一人ずつだ。彼らは例外なく彼女を愛する。しかし、今彼女を悩ます銀髪の彼は、その一人ずつという制約を破って現れた。それはつまり、彼女を愛さないかもしれないということだ。


「彼の気持ちは、僕には分かりません」

「……そう、よね」


 揺らぐ視線に、僕は薄く微笑みかけた。


「ですが」


 顔を上げた彼女と、僕は真っ向から視線を交差させる。


「あなたは、彼が『例外』として現れたから、付いてきたのではないのですか?」


 普通に、いつもの通り、一定の周期で入れ替わる殺人鬼たちと同じように現れたなら、彼女は彼には付いていかなかったのではないかと思う。

 彼女もうすうす気づいていただろう。殺人鬼にばかり愛されるということは、殺人鬼なら誰でも彼女を愛するということだ。

 つまり、殺人鬼たちは彼女が奇病にかかっていなければ、もしくは自分たちが殺人鬼でなければ、彼女を愛してはいなかったかもしれないのだ。


 それは、愛を否定されるストックホルム症候群と何が違うのだろう。


 そこまで考えて、僕は思わず微苦笑をこぼした。

 彼女は首をかしげたが、ゆるりと雪が溶けるように表情を和らげて頷く。


「そうね。私は、きっと、彼が良かったのだわ」


 随分と指示語の足りない文だった。けれど確かに彼女の出した答えだった。


 愛おしそうに窓の外を見る彼女にひとつ礼をして、病室を出る。

 扉を閉めて踵を返した瞬間、ひたりと首に怜悧な冷たさを感じて僕は苦笑した。


「ご挨拶ですね」

「なんの話してたんだ?」


 僕の首によく研がれたダガーを当てる彼。声は一段低く、瞳は光を灯さずほの暗く揺らめいている。

 真正面から僕を睨み据える彼は、彼女に似ているのだろうと、思う。

 彼女を失うことに怯え、自分が彼女を愛していないかもしれないことに恐怖する。こういうとき、彼も子供なのだということを思い出させられるのだった。


 僕は薄く微笑んだ。


「あなたの話をしていました」


 目を丸くする彼の瞳に、ほんの少しだけ光が戻った。


「彼女はまだあなたに愛されている自覚がないようですが……そろそろきちんと言ってあげてはいかがです?」

「それができたら苦労しねえよ」


 苦々しい顔で彼は刃物を離した。

 そのままがりがりと頭を搔く。


「なあせんせー、俺の相談には乗ってくれねえの?」

「無理ですね」


 即答した。僕はこの病棟のカウンセラーだ。病棟に棲んでいない彼のカウンセリングは出来ない。

 彼は年相応に唇を尖らせた。


「けち」

「密告すれば死刑にもできるあなたを黙認している時点で、随分な好待遇だと思いますが」


 ここの病棟に棲む彼らは、国家機密と同等の扱いなのだ。呆れる僕に、彼はけらけらと笑う。


「そりゃそうだ」


 彼は定期的にこの病棟に来る。この前の騒動のように人に見つかるようなヘマは犯さず、鮮やかに忍び込み、しなやかに去っていくのだ。

 彼は不満そうに扉を見据えた。


愛鬼あきもさあ、そろそろ気づいてくれてもいいと思わねえ? ……誰が好きでもない女のために、命張ってこんな所まで来るってんだ」


 まあ、その通りではある。恐らく彼女は殺人鬼に尽くされすぎて感覚が麻痺しているのではないだろうか。

 彼は嘆息して、僕の顔を覗き込んだ。


「なあせんせー、俺、殺人鬼じゃん。俺の殺人衝動って殺人鬼の間でも結構変って言われるんだけど、それって病気認定されねえの?」


 どう考えても無理難題なことを平気で宣う。僕は彼の神経を逆なでしないぎりぎりを見極めて答えた。


「……もしそうだとしても、常習的な犯罪者は、ここではなく専用の刑務所に入れられることになっていますよ」

「えっなにそれ、やだ」


 不満げな顔を隠しもせず、彼はひらりと手を振って扉に手をかけた。


「んじゃ、まあ今はいいや」


 不穏な言葉を残し、彼はダガーを何も無いところで振って病室の中へと消えたのだった。

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奇怪病棟 七星 @sichisei

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