第14話 316号室 光を灯す

 彼女を好いているのは死神だった。




 夕闇をぐように雷が降る。

 僕は磨き抜かれたリノリウムの上をぼんやり歩いていた。

 今日は月に一度の、カウンセリングの申し込みを設けない日だ。自分の不安定さに無自覚な部分を持つ彼らの元へ、僕が出向く日。

 誰の元へ向かうかは決めていない。


「先生!」


 不意に腰の部分に衝撃が走った。つんのめりながらなんとか踏みとどまる。振り向くと、そこには口だけで微笑んだ顔。


「ああ、あなたでしたか……毎回、よく僕だと分かりますね」

「だって薬の匂いがするし。先生は相変わらず忙しそうだね」

「そんなことないですよ」

「えー? でも、霞ちゃんの子守唄事件、色々とやってくれたの先生でしょ?」


 子守唄事件?

 随分と可愛らしい名前に一瞬固まり、笑う。つい最近起きたあの事件だ。

 まさかそんな話になっているとは。


「僕は何もできませんでしたよ」

「でも、刃くんも助かったって言ってたよ」

「彼は僕でなくてもそう言ったと思います」

「むー、そうじゃなくて、先生がいてくれたからみんな助かったんだってこと!」

「あまり変わらないように思いますが」

「ちょっとの違いで大違いだよ?」


 可愛らしく怒る彼女の表情は、目が覆われていてもくるくると忙しなく変わった。僕は目を細め、一言「ありがとうございます」と告げる。


「それはそうと、こんな日に散歩ですか?」


 何気なく問いかけたつもりだった。しかし、彼女の表情はぴしっと固まる。

 そして、急に俯いて、無言になった。


「……ねえ、先生」

「はい」

「キャンディ、多分あと三日なの」


 ぽつんと、雨が降るような声で言った。キャンディというのが、彼女と心を交わした猫の名であることは病棟内の誰もが知っていた。


「見ないようにしてたんだけどなあ……起きたら目の前にいるんだもん、反則だよ」


 目を覆う包帯にそっと手を当て、彼女は再び呟くように告げた。


「……お別れ会、したいんだよ、先生」


 空気に溶かすような呟き。

 僕は腕を伸ばして、彼女の頭に触れた。


「そうですね」


 彼女はどう見てもまだ小学生だ。けれど、彼女より命の尊さを理解している人を、僕は他に知らない。






 奇怪病で遺伝性のものはそう多くない。彼女の奇怪病も遺伝性ではない。

 しかし、遺伝性ならばもしかしたら、彼女は目を閉ざさなくても良かったのかもしれない。当たり前であったなら、彼女はそれを受け入れられていたのかもしれない。


 彼女の瞳は意図的に隠されている。目の見えない生活をすることを選んだのは彼女自身だ。

 そしてそれはおそらく、圧倒的に他者のためだった。


 彼女は命の重さを知っている。大切さを知っている。彼女の父は葬儀屋だった。

 けれど、もしかしたらそれが一番の不幸だったのかもしれない。いや、不幸というより不運だろうか。


 彼女の身近には死があった。死と慟哭があった。そんな中で、目を塞ぎたいという彼女の望みは叶えられなかった。父親がそれを許さなかったという。

 彼女の父は彼女の訴えを甘えだと切り捨てた。それはおそらく、代々葬儀屋を継いできた彼の心理的に許されざることだったのだ。彼曰く、死者を見て恐ろしいと言う彼女の行動は、死者への冒涜だと。本当は、彼女が見ていたのは死者そのものではなかったのだけど。


 彼女の病気を知ったとき、ひどく狼狽していた父親は彼女を愛していなかったわけではなかったのだろう。


 けれど、彼のしたことは残酷だった。

 葬儀屋の娘は、視界に映った人間の死に様を見てしまう奇病を患っていた。







「綺麗な死に際だったよ」


 乾いた声で彼女は友人のことを語った。


「ベッドの上で寝てるみたいな姿が見えたから……多分、老衰ってやつかなって思う」


 彼女は動物を見ることを一番恐怖した。飼われていれば別だが、野生の動物の「死」は人間の事故死より残酷なものが多い。


 そんな中で唯一彼女が友人と定めた猫は、とても賢い。あまり会わない僕でも分かる。

 彼……キャンディなどと可愛らしい名をつけられた猫は、いつもまるで姫を守る騎士のように彼女のそばに付いている。ただ、最近では寝ていることも多くなっていたので、そろそろなのではないかと思っていた。

 だからといって彼女に伝えることなどできそうにもなかったが、彼は自分で伝えたらしい。


 猫は自分の死に際を見せずに消えるというが、彼にはきっと分かっていたのだろう。彼女は「死」を何より恐れているが、唯一の友人の死を見届けられなかったならば、それはそれで後悔するということを。


「料理、味描みかちゃんに作ってもらうことって、できないかな。猫用の……駄目かな?」

「おそらく大丈夫だと思いますよ」


 作ったことは流石にないかもしれないが、その場合、彼女は調べた上で嬉々として作るだろう。いつもの癖で味見をしないように見張ってほしいと、あの彼に頼まなければ。


 彼女は慣れた足取りで歩きつつ、僕に独り言を呟くように言った。


「キャンディは賢い子だよ。まあ、先生も分かってると思うけど……でも、本当に賢いんだよ。私が本気で嫌がることは、絶対にしようとしなかった」


 僕は彼の行動に思いを巡らせた。あの猫は、他の猫と縄張り争いや雌の取り合いをすることも、無遠慮に道路に飛び出すこともしなかった。間違っても彼女が凄惨な猫の姿を見ることのないように。


「キャンディはすごいね……すごく、私を大事にしてくれてる。私の言うことを信じてくれたのは、多分先生の次くらいにあの子が早かった」


 僕は静かに頷いた。僕など勘定に入れなくてもいいと思うのだが、彼女は変なところで少し頑固だ。きちんと覚えているらしい。


「人間はどんなことで死ぬか分からないけれど……あの子だけは、老衰以外じゃ死なないって、信じられたんだ」


 この病棟に来てから分かったことだが、彼女の目は死期の近い人間の最期しか映さない。たとえば、子供の姿を見ていきなり老衰で死ぬ様子が見えることはないのだという。

 だから、最近──彼の老いが目に見えるようになるまで、彼女はキャンディと遊ぶときだけは、その目を顕にしていたこともあった。


 僕は少し気になることを尋ねた。


「三日後……というのは、いやに具体的ですが、何か確信が?」

「カレンダーが見えたの。たまにあるんだよ、そういうことも。三日後だった。見えなきゃ良かったかもしれないけど、お別れ会ができるなら、この目も少しは役に立つね」


 唇だけで笑って、彼女は俯く。大地を切り裂くような勢いで雷が落ちた。


「……ねえ、先生」

「はい」

「どうして、キャンディは死んじゃうのに、自殺する人がいるんだろう」


 僕は無言になる。彼女の質問は少し飛躍が過ぎていて、すぐには意味が飲み込めなかった。

 僕の困惑を悟ったのか、彼女は震える声で説明を続けた。


「どうして、私のためにあんなに努力してくれてるキャンディは死んじゃうのに、人間は自殺をするんだろう。どうして、生きるために一生懸命になってくれてるキャンディは死んじゃうの? どうして、人間は自分で死のうとするの?」


 分かんない、と言いながらぐしゃりと顔を歪めて、少女はか細く泣きつづける。包帯の下を通り抜けて、リノリウムに雫が落ちる。


「分かんないよ。捨てるくらいならちょうだいよ。ちょっとくらい分けてよ。キャンディにあげてよ……! 本当に、人間は本当に、自分勝手で……! その命がどれだけ大切なものか分かりもしないくせに! 勝手に捨てるなんて……捨てるなんて……!」


 いっそ、と苛烈な声が響く。


「だったらいっそ、奪えたらいいのに……! そしたら私……私、それをキャンディに、あげて……」


 嗚咽が邪魔をして、それ以上は言葉にならなかった。彼女の喉の奥から漏れる悲痛な慟哭が、人を傷つける刃と化していく。

 ああ、これだ、と僕は思った。彼女の自覚なき悪意。人に対する異様な嫌悪。

 彼女の中にあるキャンディへの愛は、そのまま人間への殺意にすりかわる。それは彼女がキャンディに会わなければ自覚し得なかったものかもしれない。

 だが、これまで彼女の小さな体に溜まりつづける厭悪を留めてくれていたのもまた、キャンディなのだ。


「猫は九回生きるという話を知っていますか?」


 僕の唐突な質問に、彼女は涙を止めた。急には止まらない嗚咽はそのままに僕を見上げる。


「九、回?」

「はい。ご存知ありませんか? 意外と有名ですよ」

「知らない……」

「そうですか。では覚えておいてください。猫は九回までなら、記憶を持ったまま輪廻できますから」


 急にスピリチュアルな話を振られて困惑しない人はいないだろう。彼女もまた、困ったように首をかしげた。


「本当に、九回生きるの?」

「ええ。彼はとても賢いでしょう? きっと何度も生きているからですよ」


 彼女の口元がわななく。殺意が薄れ、愛情が大きくなっていく。


「でも、じゃあ、キャンディはもう九回生きているかもしれないよ」

「いいえ、そんなことはありません」


 語気を強めてきっぱりと言い切る。


「確かに普通より多く生きているかもしれませんが、せいぜい……そうですね、七回くらいですよ。ほら、まだあと二回残っています」

「なんでそんなこと、先生が知ってるの?」


 僕は苦笑して、人差し指を口元に当てた。


「秘密です」


 じわりと包帯に染みた涙を残して、彼女はぽかんと口を開けた。

 そのままじいっと見えない瞳で僕を見た彼女は、突如その体から力を抜く。俯いて、そっかあ、と呟いた。


「九回、かあ……」


 なあご、と綺麗な鳴き声が聞こえた。

 彼女が振り返る。


「キャンディ!」


 ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってきた猫は、もう一度なあご、と鳴いて彼女の足元へと擦り寄った。艶を失いつつある茶色の毛並みが揺れる。

 キャンディと呼ばれたその猫は、僕の方を鋭い視線で貫いていた。あと三日で死んでしまうとは思えない。まるで刃だ。


 僕は苦笑する。

 余計なことを言うな、と語る瞳は黒く、焦点が合わないということもない。僕は柔らかく頷く。

 彼はもう僕から興味を失ったのか、ふい、と視線を移した。自らの主人に向かってもたれ掛かるように擦り寄った彼を、彼女はさっと抱きあげる。


「先生、またね」


 僕の返事も待たずに走り去っていく彼女。その肩越しに、キャンディは何もかもを悟った瞳で僕を見続けていた。


「……分かっていますよ」


 僕の声を聞く者はもう、どこにもいない。

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