報せ
仲咲香里
報せ
私はスマートフォンを前に置き、ただ泣いていた。
届いたメッセージは二件。
最近うまくいっていない彼と、口を開けば結婚を急かすようになった母からだった。もうずっと、私生活で私にとって心踊る報せなんて受けた記憶がない。
友人から久し振りに来る通知は、リア充全開のSNSの投稿や、結婚式の招待状、そして出産報告ばかりが目立つようになった。
高校の同窓会で再会して、付き合って三年になる彼からの連絡は、お互いに仕事を言い訳にした会えない理由ばかりになった。
母から定期的に来る電話は「まだ結婚しないの?」から「お見合いの話があるんだけど」に変わっていった。
今年で私も三十一歳。
社会に出て八年も経てば、いろんなことが変わってくる。仕事上の立場だけではなく、プライベートもまた然り。どんなに仕事が辛くてもプライベートが充実していれば、まだバランスが取れていたかもしれない。
今日も私は一人、日曜日に休日出勤している。
今のデザイン会社に就職して八年。
すっかりベテランの域に達した私は、大きな案件も任されるようになってとても充実した毎日を送っていた。
ただし、その充実は自由に自分の提案ができる、という一点においてのみ当てはまるものだけれども。
その実、クライアントからは無理難題をお願いされ営業スマイルで乗り切る毎日に、経験の浅い後輩からは「先輩、頼りにしてます」の一言で肝心な所は責任を押し付けられる。ほぼ事務所をカフェ代わりにしている上司からは、キャリアアップという名の仕事の丸投げと、後輩の育成を背負わされ、成果だけは搾取される。
日が昇って間もなく家を出て、月の光さえも淡くなる頃に会社を後にする日々に、私は心身共に疲れ果てていた。
それでも頑張って来られたのは、祖父のあの言葉が背中をさすってくれたからだろうか。
母方の祖父はまだ私が幼い頃に亡くなっていたから、私にとって祖父というと、今は父方の祖父一人だけだ。
その祖父が言ってくれた。
「どんな仕事でも辛くない仕事なんかないぞ。
大好きだった祖父が就職祝いとともにくれたメッセージは、当時の私の胸にどんな理不尽にも耐えられる勇気をくれた。
就職したばかりの頃は仕事を覚えるのに必死だった私を気にして、時々掛けてくれる祖父からの電話が嬉しかった。ふと愚痴をこぼしてしまった日には、祖父はこうも言ってくれた。
「なぁ、明日美。仕事なんて辞めようと思えば今日でもできるし、明日でもできる。今日この仕事を終えたら、辞表叩きつけて辞めてやるって思いながらもう一日やってみろ」
八十手前で入院を経験し、それを機に一代で興した会社の会長職を退いた祖父の言葉に、あの時は救われた気がした。
今日で辞めるなら自分のやりたいようにやってやろうと思うと、不思議と肩の力が抜けて良いアイディアが浮かんだり、それが思いの外高評価に繋がったりして、辞めるのは明日でいい明後日にしようと気付けば十年が経っていた。
文字通り、家と職場を往復するだけの生活になった頃、私のストレスは加速度的に増していった。
そして、望まない報せが続くと、段々とそれが煩わしく感じ始め、いつからか一人で過ごす時間と心の重荷だけが増えていった。
ただ、時々祖父から送られてくる野菜やお米を受け取る度に、祖父のことは思い出していた。祖父は今、元気にしているだろうか。また知らない内に入院したりしていないだろうか。
仕事を理由に、もう何年も声さえ聞いていないのに。
便りが無いのは良い便りという位だし、何の知らせも無いのは何事も無い証拠なんだろう。何かあれば、一人暮らしの私の元へもきっと知らせがあるに違いない。
今は何より、電話一本掛ける時間も、心の余裕も、私にはなかった。
既に常態化している休日出勤中、一人事務所でパソコンと対峙していると、どうしようもなく泣きたくなることがある。
気が付けば今日も西日が差し始めていて、そんな時に不意に感情のピークがやってくる。
今、自分は何をしてるんだろう、本当にこれがやりたかった仕事なんだろうかという思いが沸々と湧き上がり、本流となって私自身を飲み込んでいく。
もう潮時なんだろうかと何度思ったことだろう。机上のパソコンには、試し書きした辞表の草案が、これまで手掛けてきた華々しい広告のデザインの素案に紛れて保存されている。
今となっては祖父のあの言葉は、祖父の期待に応えたいという気持ちと共に、私の退路を完全に塞いでしまっている気がしてならない。
そんなこと、思いたくはないのに。
そんな時に、私のスマートフォンが鳴った。
見ると、彼からのメッセージだった。
今日は会う予定など無かった筈なのに何だろう。そう思いつつも、どこかで、いつかは告げられるだろう別れの言葉への覚悟をいつも持ち続けていた。
軽く緊張しつつ、私はメッセージ画面を開く。
そこにはこう綴られていた。
『休日出勤お疲れさま。あんま無理すんなよ。今日、終わったら迎えに行くから連絡して。明日美に大事な話があるんだ。言っとくけど、別れ話じゃないからな。いつもすれ違ってばかりでごめん。明日美とのこと、真剣に考えてるから』
読み終えた途端、真っ先に私の内に浮かんだのは、喜びよりも戸惑いだった。
そんな事、今言われたら揺らいでしまう。
考えなくこの現実を投げ出して、彼に私の全部を預けてしまいそうになる。
ずっと待ち望んでいた筈の言葉に、逡巡が伴うこの性格が結婚を遠ざけているのは分かっているのに。
彼にどう返信しようかと迷っていると、再びスマートフォンが鳴った。今度はメッセージではなく、通話を求める着信音。
液晶を確認すると母からだった。
また見合いがどうだの、親戚が結婚だのの話だろうかと、うんざりしながら一度それを放る。
着信音は鳴り止まない。
一旦切れて再び鳴り出したのは、おそらく留守電のメッセージを聞き、掛け直したからだろう。
しつこい。
私は観念して応答ボタンを押した。
「……何?」
「あー、やっと出た。あんた今日も仕事してんじゃないでしょうね? 年頃の娘が休日する事が仕事だけって、お母さんがあんたの歳にはもうとっくにあんたを産んでたっていうのに。そうそう、今度の見合いだけど、お向かいのまー君がね……」
最近の母はいつもこうだ。
だから出たくなかったのに、よりにもよって今度はお向かいのまー君を勧めてくるなんて。
確かまー君は、私より一回り上の、今年四十五歳になるおじさ……中年男性だったはずだ。
「お母さん、これ以上まー君の話するなら切るよ。私、忙しいんだけど」
一方的に話し続ける母に苛立ちつつ、半分通話終了ボタンに指をかけた時だった。母がトーンを変えて私を止めた。
「あ、待ちなさい明日美。今日電話したのは、おじいちゃんのことで大事な話があってね」
母の言葉に、私の胸が何故か嫌な音を立てて鳴った。
まさか、おじいちゃんに何か……。
三分後、スマートフォンを散らばった資料の一番上に置き、私は突っ伏して泣いた。
こんなに泣くのはいつ以来だろうって位、大号泣した。
一通り泣き終わった後で顔を上げた私は、そのままキーボードに手を置く。立ち上がったデザイン画面を急いで閉じ、一件の文書ファイルを削除する。
そして、新たに開いたのは、有給休暇を取得する為の専用画面。
必要事項を入力しつつ、私は一本の電話を掛けた。
「あ、おじいちゃん? 百歳の誕生日おめでとう。明日、朝一の新幹線で会いに行くね。……ああ、うん。いるよ。今度おじいちゃんにも、彼のこと紹介するね」
おじいちゃんとの通話を終えて、私は帰り支度を始める。
鈍い光を放つスマートフォンの画面には、母から送られた、誕生日会の詳細メール。
報せ 仲咲香里 @naka_saki
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