吾輩はサムライ

大地 鷲

吾輩はサムライ

 一八七三年(明治六年)――

 馬場下町に伝通院という寺がある。

 一六〇八年に徳川家康によって建立されて以来、徳川将軍家の菩提所として庇護されてきた寺である。

 しかし、大政奉還に伴う江戸幕府瓦解により、長く将軍家の菩提所として隆盛を誇った伝通院も、凋落の一路を辿っていた。

 時代は明治維新の波に呑み込まれ、今やこの伝通院も忘れ去られようとしていた。

 既に訪れる者も少ないこの寺に、一人の男が足を踏み入れていた。

 敝衣蓬髪へいいほうはつ見窄みすぼらしい格好なりであったが眼光鋭く、腰には大小を帯びている。彼もまた、時代から忘れ去られようとしている侍の成れの果てであろう。

 無造作に境内を歩んでいた男の足がぴたりと止まる。

「……何時まで拙者をつけ回すつもりだ?」

 振り向きもせずに漏らした声。もう我慢出来ん、と言わんばかりのあからさまな怒気が含まれていた。それが証拠に、大刀の鍔元に既に親指が掛かっている。

久鬼兵乃新くきへいのしん殿とお見受けするが――」

 しわがれた声だった。聞く者に、何処か虚しさを感じさせる。

 一瞬眉を顰めた男がゆっくりと振り返った。

 視界に入ってきたのは、声以上に気を取られてしまう、奇妙な出で立ちであった。

 当時、まだ普及しきっていなかった洋装をしているあたりは富裕層を思わせるも、その格好に虚無僧よろしく深編笠ふかみがさをかぶり貌は窺えない。その上、帯刀しているとなると、高貴さよりも滑稽さが滲み出る。

「ふん、西洋かぶれの分際で帯刀とはちゃんちゃら可笑しいわ! 腰のものが泣いておるぞ? それに何だ、その深編笠は!」

 心底馬鹿にした笑い。無礼極まりない嘲りであった。

「『人斬り』らしい下卑た笑いよなぁ――」

 しわがれ声にも嘲りが含まれていた。

 方やの嘲りが一瞬で消え、あからさま過ぎる殺気がたぎり始める。

「……ほう、『人斬り』の仇名が出るか」

 人斬りと言えば、中村半次郎、田中新兵衛、河上彦斎げんさい、岡田以蔵の四人が「幕末四大人斬り」として上がるが、この四人にこの久鬼兵乃新を加え「五大人斬り」を唱える歴史学者も少数ながら存在する。

 他の四人が尊皇攘夷に揺れる京都を中心に活動したのに対し、久鬼兵乃新は江戸を中心とする関東一円を股に掛けて暗躍した為に外されている、と言うのがその理由である。

「拙者をその仇名で知っているとなれば、貴様には死んでもらう外ないな」

 久鬼の鯉口が切られる。

 対して西洋かぶれは、身じろぎもせず立っている。

 大刀がゆっくりと抜かれ、きっさきが西洋かぶれへと向く。砂流すながし走る刀身が鈍い反射を残した。

「一応は名を訊いておこうか」

「……我輩は――」

「我……輩?」

 半ば余裕の微笑えみさえ浮かべていた久鬼が、不快感極まりない声を上げる。

「……貴様、格好なりばかりではなく、心まで武士を捨てたか! 刀を振るう武士たる者、拙者なり、それがしなり、名乗りようがあるだろうが! 貴様のような者は武士の風上にも置けぬわ! ……斬る」

 激高が冷たく響く声に凝結した。

 くうが裂ける。その唸りが棒立ちの男に向かって吹き抜けた。しかし、西洋かぶれは何事も無かったかのようにその場に立っている。

「ほう、これをかわすか。面白い……面白いぞ、貴様」

 久鬼の口角が上擦った。

 刀身の見えぬ斬撃と、動きの見えぬ身躱し。どちらも常人の域を超えている。

 久鬼の摺足がじり、と詰め寄り半歩出る。構えは青眼。

 西洋かぶれは変わらず微動だにしない。だが、左手の親指が鍔元に掛かっていた。

 剣呑とした空気が漂うも、程なくそれさえも硬直した。唯一、時の流れを感じえるのは風の生む樹木のざわめきのみ。

 枯れ葉の一枚が音も無く地面に舞い落ちたとき、時が弾けた。

 一気に詰め寄る久鬼兵乃新——電光石火の勢いで西洋かぶれに迫り、大上段に振り上げられた大刀が、大地に向かって有り得ない速度で落ちてくる。

 ぎぃん——

 甲高い音が渡り、一瞬の火花がそれを彩った。

「ふっ……これも受けるか」

 大刀の鋒は地面を穿っている。西洋かぶれはそれさえ躱したのである。

 では、先の音は――

 見ると、久鬼の右手には脇差が握られており、その刃は西洋かぶれの腹に及んでいる。しかし、それは西洋かぶれが半身で抜いた脇差に阻まれていたのだった。

 西洋かぶれが飛び退いた。

「即席の二刀とは言え、伝説の新免武蔵に並ぶかもしれぬな……。だがな、武士の時代は終わったのだ。武士たることを辞め、剣を捨てよ。さすれば――」

「聞けぬな。将軍家は終わったやもしれぬが、拙者はまだまだ。……どれ、それを証明して見せようぞ。即席の二刀かどうかを見極めるがいい」

 だらりと垂れ下がった久鬼の両手には大刀、脇差が握られ、ゆらりゆらりとにじり寄っていく。

「――!」

 刹那、西洋かぶれの双眸には幾重もの銀線が瞬時に浮かぶ――縦横無尽に流れ、儚くも見えるその一つ一つは確実に死をもたらす斬撃であった。

 西洋かぶれも有り得ぬ速度で鯉口を切り、大刀を合わせる。

 久鬼の左右の刃が別の生き物のように打ち込まれ、西洋かぶれの大刀がそれを辛うじて凌ぐ。正にしのぎを削る剣戟が繰り広げられていた。

 一合、二合、三合――その度に火花散り、刃の叫びが響く。

 久鬼の斬撃だけが一方的に打ち込まれ、西洋かぶれは防戦一方であった。洋装のところどころに赤い染みが滲んでいる。

「さぁ、そろそろしまいにしようぞ。……めしの時間も近い」

 再び二刀を構えた久鬼が何とも余裕綽々の科白を漏らす。確かに陽が山の端に掛かろうとしてた。

 対する西洋かぶれは青眼に構えていた大刀を、一旦鞘に収めた。

「……ほほう、抜刀いあいで挑もうという訳か。やってもらおうかぁぁっ!」

 正に、咆哮そのものが斬撃と化したかのようだった。交叉した大刀と脇差が避けようのない速度で迫る。

 ぎぃん――

 口角が上擦ったままの久鬼兵乃新。一方、西洋かぶれの大刀は、かの人斬りの胸元に向いている。

「……き、貴……様」

 笑みを浮かべたまま久鬼がどう、と倒れた。

 西洋かぶれの握る大刀の鋒から赤いものが滴っている。

 久鬼の使った「末広」――左右に交叉させた刀を腕を広げて左右から相手の胴を薙ぐ――に対して、三段突きで応じたのである。一段目二段目で末広の太刀筋を変え、三段目で胸元を貫いたのであった。


          ◇


 この決闘劇を影から観ていた少年がいた。

 目を大きく見開き、半開きの口から吐息さえ漏らさず、一部始終を観ていたのだ。

 今瞳に映るのは、鈍色の光を残し、刀身を鞘に収める男の姿であった。

 その男がこちらを向く。

 少年の瞳が一瞬揺らぎ、映る男の姿が次第に大きくなっていく。

 すぐに逃げ出そうとしたが、足が全く動かない。足どころか、体もピクリとも動かない。まるで蛇に睨まれた蛙であった。

 少年の瞳は光を失い、それを隠すかのように瞼が落ちた。

 きゅっと縮こまった体。肩が竦み首に力が入る。

 だが、首は落ちなかった。代わりに暖かなものが頭に載せられていた。

「……?」

 恐る恐る開けた目の前には、あの深編笠がある。

「坊主、今のを見ていたのか」

 西洋かぶれであった。西洋かぶれは先ほどまで柄を握っていた手で少年の頭を撫でていた。ピクリと少年の体が震えた。

 すると、西洋かぶれもピクリとして、すぐに手を引っ込める。

「おお、人を殺めた手で撫でてしもうたか、すまぬなぁ。悪気はないのだ――」

 嘲りの混じる声が深編笠から漏れていた。

「――確かに我輩はあの男を殺めてしもうた。……だがな、これだけは分かって欲しい。拙……我輩は決して好きで殺めた訳ではない。これには理由があるのだ。これからは平和な時代だ。剣の腕など必要のない時代がくる。武士の世は終わったのだよ――」

 夕映えの空を見つめ、何処か儚げな視線を送る西洋かぶれ――武士と言う存在が、沈み消え往くあの夕陽と同じだと言いたいのかもしれぬ。

「――しかし、この世には未だに剣の時代の終わりを認めず、剣で人を殺める奴等がおる。……この男もそういった類の輩だ。我輩はそういった連中を見つけ出して葬るが仕事なのだ……」

 そこまで告げると、西洋かぶれは少年にくるりと背を向ける。

「お、おじさんは一体……」

 消え往かんとする後姿に少年の声が掛かった。

 ぴたりと足が止まる。しかし、西洋かぶれは振り向きもせず、ただ声だけで少年の問いに答えていた。

「我輩は……元公儀、柳……いやいや、ただの侍よ。……そう、我輩は侍だ。この世で最後のな。……では、御免」

 西洋かぶれがゆっくりと歩み出す。

 少年はそれ以上声を掛けることができなかった。

 滲む夕映えに溶けるが如く、その姿が消えていく。嗚呼、何処へ消え往かん最後の武士よ。

 少年にその行方を知る由はなかった。だが、耳の奥に彼の搾り出すような言葉が残っていた。

 我輩――どんな想いが籠められていたのか。それすらも少年には分からなかった。しかし、その二文字は少年の心に深く刻まれていた。


          ◇


 後に少年はその時代を代表する文豪となった。処女作の名は——


「吾輩は猫である」


 だが、この「吾輩」に込められた本当の意味を知るものは少ない。


            (了)

 

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吾輩はサムライ 大地 鷲 @eaglearth

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