第10話 島民
あっち島に朝の静けさを裂くような太く尾を引いた音が響き渡った。
船着き場の方からだ。きっと私たちが昨日乗るはずだった連絡船の汽笛だろう。開けっ放しだった窓から差し込む夏の陽気と一緒に部屋の中を朝色に染めた。
目覚まし時計の代わりとしては少々騒がし過ぎる気もするが、お陰様で目も身体も一発でばっちり覚めた。
そこでふと気づく。昨日はそのまま寝たはずなのに、私の体には布団が掛かっている。
なんだろう。今日は朝からあたたかいな。
眠っている間に身体の下敷きになっていた携帯を手にとって画面を開く。時刻は8時を示していた。
今日は日曜日。といっても夏休みなので、あまり関係のない話ではある。長期休暇ってよく曜日感覚を忘れがちだよね。
さて、これから何をしようか。あっち島の散策もしたかったけど、昨日安良岡さんから釘を刺された出前、挿し絵の原案には手をつけないといけないよね。でもその前にーー。
部屋から出ると、下の方からいい匂いが漂ってきた。めぐみさんが朝食を作っているのだろうか。ならちょうど良い、めぐみさんに聞き忘れた事があった。
「トイレ、どこ?」
窓からの景色から察するに、ここは建物の二階なのだろう。私の部屋以外にも何部屋かあるらしく、廊下続きの両脇にはドアが備え付けてあった。流石は民宿を営んでいるだけあって、部屋数は多い。
この中からトイレを探し当てなければならないのか。うん、めぐみさんに聞いた方が早いな。
とすればやっぱり一階に降りてみよう。まさか二階部分があって一階に降りるための階段が無いなんてことは無いはずだし。そんなの欠陥住宅だし、即刻建築業者に連絡だし、ビフォアアフターだし。
足を踏みしめる度にきしきしと床が軋む音がする。楽しいけど少し怖い。階段を探して狭い廊下を歩いていると、廊下の先が少し明るくなっているのが見えた。だがそれは蛍光灯の光ではなく、ゆらゆらと揺らめいて見える。
なんだろうと、そのまま歩み寄り廊下の壁から覗きこんだ私の目は眩しさに眩みながらも、一瞬で「それ」に吸い寄せられた。
木製のテーブルと椅子を置いただけの簡素な休憩スペースのような場所。日の光を浴びて益々強くなったブナの木の香りはまるでこの部屋だけが林の中にぽつんと置かれているような気持ちにさせてくれる。
その空間を色彩豊かに揺らめく光はどうやら窓際のステンドグラスから発されたものらしい。ベランダへ続く大きな窓の隙間から僅かに望める、星を散りばめたような水面から届く光の粒がステンドグラスに吸い込まれ、その色や形を変えながら部屋一帯に散らばっていく様は、木々の間をすり抜け、揺らめきながら地面に手を伸ばすあの木漏れ日のようだった。
だがそれはただの背景にすぎない。私がこの瞬間目を奪われたのは、大きな窓の奥。ベランダに設置されたこれまた木製のリクライニングチェアに腰を落とし、朝の海風に吹かれながら読書をするあの男の姿だった。
そして私は、そのことを堪らなく不思議に思った。
昨日会ったときとは違い、無精髭は剃り落とされて幾分か若い印象を受ける。それに折角のブロンドの美しい髪は日に晒され、本を読むのに鬱陶しいのか後ろでひとつ括りにされ、悲しそうに風と遊んでいた。
それにどうみても寝起きの格好。いま起きてきましたと云わんばかりだ。
1、2度会っただけではとても同一人物とは分かりようもない印象の変化。しかしその彼のきりりとした目元に、青空を摘み取ったような澄んだ蒼い瞳がどうしようもなく目に焼き付いて離れない。砂浜で見た彼の姿がベランダで読書に耽る彼と瞼の裏で交錯する。
不思議なことというのは、私が「彼」だと直感したのが、ベランダで寛ぐ彼を見た「瞬間」だということだ。
瞳の蒼さや髭の剃り具合はもちろん、彼の髪がブロンドだと認識する以前に、私はすでに「彼」であると直感してしまったのである。
私はそれが不思議でならなかった。
そしてその違和感は、やがて次の違和感へと移行する。
だがどうだろう。それにしたって、遭遇率が高過ぎではないだろうか。
もしこれを言い表すとしたら、何が適当なのだろう。偶然、神様のいたずら、ストーカー?
色んな言葉があるはずなのに、私の頭に思い浮かんだ言葉は「運命」。その言葉だけだった。
私、そんなメルヘンチックな子だったっけ?
むしろ運命だとか、赤い糸だとか、そういう類いの話は苦手とする奴のはずだったのだが、どうやら早速島の平和な空気にあてられてしまったらしい。
だがそんなひねくれた考えとは裏腹に、私の足は自然と一歩前へ踏み出していた。
貴方は何者? おばさんとはどういう関係? なぜこの島に?
聞きたいことはたくさんある。とにかく彼のことが知りたくて堪らない。これもきっと私の子供じみた好奇心のせいだ。
ベランダへ続く大窓に手をかけ、静かに開く。もう彼が気がついてもおかしくはなかったが、彼は砂浜の時にも見たあの真剣な眼差しで本に向かっている。
そして私のか細い声でも届く距離まで近づき、意を決して話しかけようとしたのだが。
あれ、これなんて声かければいいんだ。
「Hi!ヒッチハイカーさん!」
違う違う。そんなアメリカンでポップな挨拶私ができるわけ無い。そもそも私が彼を何度か見ただけで彼からすれば私は初対面の相手だ。そんな相手が突然こんな挨拶してくるなんてただの変人じゃないか。
ならば、
「あの、私交差点でも砂浜でもあなたを見かけました。覚えてませんか?」
いやいや、怖い怖い。これじゃあ私のほうがストーカーみたいじゃないか。いや彼も多分ストーカーではないけれども。これは絶対引かれる。
こんな感じに、私の脳内は半分パンク状態。彼を目の前にしてパニックをおこしてしまった。そして結局口からでたのがーー。
「すみません…」
仕方ないじゃないか、普段男の人と話すこと自体ないのに、ましてやほぼ初対面の男の人に話しかけるだなんて難易度高すぎ。G級レベルだ。
そんな消え入りそうな声でも彼の耳には届いたらしい。体が一瞬少し反応した。しかし彼が私に振り向くことはなく、本に目を落としたまま呟くように口を開いた。
「どうして謝るのですか?」
「へっ?」
外国人らしい片言混じりで返されたその言葉に、私の顔はみるみる赤みを帯びてくる。まさかそんな返事が返ってくるとは思ってもみなかった。これはアメリカンジョークというやつなのだろうか、にしては彼の表情は相も変わらず本に夢中だといわんばかりだ。
返す言葉が見つからなかった。二人の静寂が朝の喧騒に溶けていく。ウミネコの鳴き声がまるで私を嗤っているようだった。
もう今すぐ赤い顔を覆って逃げ出したい。そう思った時、
「朝ごはんできたよー」
めぐみさんの空気を揺らすような良く通る一声に弾かれるように、私はベランダを飛び出し、ちょうど目に入った階段に走り込んだ。
だがあまりにも勢いが強すぎたおかげで階段脇の角におもいっきり足の小指をぶつけ、強烈な痛みが電撃のように身体中を走る。
「痛っ……!」
それでも私は止まらなかった。耐えきれず目に涙が滲んだが、体が、気持ちがあの空間から緊急退避を告げていたのだ。結構急な階段を一目散に駆け降りる。
今の気持ちを的確に表現するのなら、そう。
「恥ずか死ぬ」
そんな様子をみて一番驚いたのは間違いなくめぐみさんだろう。朝ごはんと聞いて私が元気に駆け降りてきたと思えば、顔を紅潮させ、その目に涙を溜めて突然しがみついてきたのだから。
だがそこは流石のめぐみさん。すぐに状況を理解したかと思うと、私の頭を優しく撫でてなだめ、その少し後、涙でよく見えなかったが、今度はめぐみさんが血相を変えて階段を駆け上がっていった。そしてその数秒後、鈍い破裂音のような音が『柏木』全体に響きわたったのだった。
AI少女は小説作家に恋をしない。 湯灯し詩葉 @youta7777
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