雨樋

 けたたましい音に目を覚ました僕は、ベッド脇に置いた目覚まし時計に手を伸ばした。

 しかし、叩けども叩けどもけたたましい音は止まず、騒音はいよいよ洪水のように勢いを増して僕の耳朶を叩く。寝返りをうってイモムシのように這い起き、引き寄せた目覚まし時計を見れば、朝の午前四時。

 目覚まし時計は機能していなかった。

 普段起きるよりずっと早くに起きてしまった僕は、そのけたたましい音の正体が雨音だったことに気づく。朝の光がわずか漏れるカーテンを開ければ、雨がざあざあと地面を叩いているのだった。

 庭の土が、叩きつけられる大粒の雨によって泥土と化していく。

 物理の法則に従って、王冠のような模様を地面のそこかしこに咲かせていく大雨は、しかし一向に止む気配を見せない。窓の内から空を仰ぎ見れば、暁の空はどんよりと曇っており、モノクロの空一面に定規で線を引いたように大雨がざあざあと落ちてくる。

「すげえな……」

 昨夜は眠れなかった。

 子どもの頃はあんなに楽しみだった夏休み明けの初日が、いつからこれほどまでに憂鬱な日に変わってしまったのだろう。

 日曜日が終わるその時が、不安で仕方なくなったのはいつからだろう。

 僕は頭をぼりぼりと書いて、解きかけの宿題が開かれた勉強机をぼんやりと眺めた。

「そうだった……」

 宿題は、結局昨晩一時までやって、力尽きた。

 明日の朝早く起きて、それから学校に行けばいい。そう思っていた。

 しかしこんなに早くに起こされるとは思いもよらなかった。

 午前一時ごろは、まだ雨の気配もなかったのに。ほんの三時間ほどで、これほど大雨になると誰が予測できただろう。

 不安と、寝不足とが、僕のまともな思考力を奪っていく。

「ダンイット!」

 夏休み、映画を見に行った時。

 僕の見たい映画はマイナーで、一緒に見に行く友人もおらず、一人で映画館を訪れたその日、僕は世界で一番見たくないものを見た。

 同じクラスの片思いの女子が、男を連れてデートに来ていたのだ。

 その男はお世辞にもカッコいいとは言えない、下腹の出た、脂下がった、社会人だった。片思いの女子は、日本人形のような黒い髪をした、大人しい女の子。深窓で一人読書を好むような、クラスでも目立たない、大人しそうな女の子だった。

 それが、ぶすくれた男の、腕毛のもっさり生えた腕に体を押しつけるようにして絡みついている。

 クラスでは……いや、きっと学校の誰もが見たことの無いような、上目遣いの媚びた表情をその青髭の男に見せているのだ。

 しゃらりとなびく髪の毛の、その奥の耳たぶに、僕はキラリと光るものを見た。

 ピアスだった。

 それだけじゃない。薄くひいた口紅、男の腕に寄りかかるように巻きつけたその両の指先にマニキュア。普段よりもぱっちりと見える瞳は、それも化粧の成果なのだろう。

 その日見た映画の内容を、僕は覚えていない。

 きっと、その映画の事を少しでも思い出してしまえば、儚い恋心が吐き気を伴う憎悪に塗りつぶされたその瞬間を思い出すに違いなかった。

「……ェッ」

 今もこうして、大雨の暁に思い出して吐き気でえずきそうになっているのだ。

 ざあざあと、大雨が降り続いている。

 あの女の子は、耳たぶに開けたピアス穴を、誰にも見られないように、隠れるようにして、普段通りに登校するのだろうか。それとも、夏休みデビューの成果を見せびらかすように、羽化した蝶の羽をクラスの人に見せびらかすのだろうか。

「宿題なんて、できるかよ」

 机の上に開きっぱなしの宿題を机上から払い落として、僕はその場に屈みこんだ。

 雨はざあざあと降り続く。

 大雨は、生活を営む一切の音を聞こえなくして、僕を孤独な早朝に取り残す。いっそこのまま止まずに降り続いてくれるなら、まだしも僕は救われただろう。

 その場にうずくまるようにして、脳裡を駆け巡る夏休みの呪いにさいなまれていると、部屋のドアが叩かれた。

 ギリギリわずかに聞こえたその音に、僕は億劫に立ち上がり、開ける。

「あら、起きてたのね。おはよう」

 化粧のために前髪をバンドで止めた母が、あっけらかんとした顔で言った。

「今一斉メールで来たんだけど、学校、今日は休みだそうよ」

 そう言いながら、母は僕の肩越しに部屋の中を覗き見た。

「大雨だから交通機関も麻痺しているし、高校は大変ね。こんな時間にメールが来るのもビックリ」

 母の言葉に目覚まし時計を見れば、デジタルの表示は午前5時を少し回ったほどである。

「とは言っても、お母さんももう出かけなきゃならないんだけどね。こんな天気でも、一斉メールが届いても、学校に来ちゃうのが中学生だから」

 母の手には洗面台でよく見た化粧水が握られている。

「アンタ、宿題終わってないんでしょ?今日が休みでラッキーだったわね。今日のうちにやっちゃいなさいね。お母さんはもう学校に行くからね」

 それだけ言うと、母は忙しそうに踵を返して洗面台へと向かって行く。

「……」

 取り残された僕を、曇天が雷一つ鳴らして正気に戻す。

「きゃあッ。もう、朝からビックリするじゃない」

 遠くで母の悲鳴が聞こえた。

 僕は、一日伸びた執行猶予のような休みの日を勉強に充てるべく、払い落とした宿題を拾い上げて、椅子にドッカと腰かけた。

 雨樋から、ボタボタと大雨の残滓が流れている。

 この大雨が止むまで宿題を続けよう。僕はそう誓うのだった。

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石を磨く 雷藤和太郎 @lay_do69

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