タバコ
「タバコ」
人をダメにするクッションにもたれかかって、結花が僕に命令した。
「はいはい」
タンスの上にあるマルメンの箱を取って一本出し、彼女の口に咥えさせる。一緒に持ってきた100円のターボライターで火を点けると、彼女は満足そうな笑顔をして吸い始める。
「ゲホッ、ウッ、えふっ、えフッ!!」
「あーあー、全くもう」
彼女はタバコが吸えなかった。
ドラマか何かの見様見真似なのか、親指と人差し指でつまむようにタバコを持っている。煙にむせてそのままタバコを落とさなかっただけマシだ。
マルメンは僕が普段吸っているモノ。
それを吸いたいと言ったのは、彼女のちょっとした反抗だった。
きっかけは、夕食後のことだ。
「ねえ、私ってさ、ちょっとお利巧すぎるよね?」
ソファに座ってモンハンワールドをプレイしている僕に向かって、彼女が言った。
台所で流れる水の音が止まって、僕の隣に彼女が座る。両手を拭ったエプロンを腹の辺りで丸めて座る彼女は、僕の横顔をジッと見つめた。
「そう?」
ナナ・テスカトリを槍でチクチクしていた僕は、彼女の顔を見ることもない。ただ、目の端に彼女がわずかに不満げな表情をしていることだけが分かった。
「そうだよ。共働きなのにさ、家のことは全部私がやってるじゃん?」
「うーん」
「それで、トモくんはずっとゲーム」
「うん」
「たまには私がお利巧じゃなくなってもいいと思わない?」
「うーん」
「ねえ、聞いてる?」
「うん」
相槌をうつ僕の適当さに腹が立ったのか、結花は僕と液晶画面との間に顔をねじ込んだ。
「ちょっ、邪魔だって」
「やだ」
頬をふくらませた彼女は、僕にキスをする。
キスの向こうでナナ・テスカトリの爆発による攻撃で自分が倒された音がした。
「私、悪い子になりたい」
「悪い子って何だよ……」
僕のゲームを邪魔した点においては彼女はずいぶん悪い子になっているのだが、きっとそれは彼女の中にある悪いことリストには入っていないだろう。
「あのね、タバコが吸いたい」
「タバコ?」
なるほど、と思った。
真面目な結花にとって、タバコを吸うことは確かに悪いことの中に入っているのだろう。彼女はかなりの潔癖だ。僕がタバコを吸っているのも、恐らく本心ではあまりよく思っていない。
「でも、吸うとクセになるよ」
「だから『悪いこと』なんでしょ?」
身体に害があるものを自ら取り込むからこそ、悪いことなのだ。
彼女は普段から健康というものに過敏である。
安いファミレスやファストフードなどを嫌い、コンビニで売られているような弁当を買うこともない。食事はできるだけ自分で作るし、毎日どこかしら掃除をしているので、同棲している家はいつもピカピカ。特に水回りに関してはそれが顕著で、僕が気まぐれに掃除をしようとすると「トモくんには任せられないから、ゴメンね」と言うのだ。
しかし不思議なことに、僕がタバコを吸うことに関しては何も言わない。一度そのことについて、思い切って彼女に問うと「だって、それはトモくんが決めることだから」と微笑む。子どもができたら吸わないように、って言うかと問うた時も「トモくんがそう思っているのなら、そうした方がいいんじゃない?」と微笑むだけだった。
彼女は、ソファに座る僕の太ももに馬乗りになるように座る。エプロンをソファの上に投げおいて、両腕をそっと僕のうなじに巻きつける。
「私だって、ちょっと悪役してみたい」
「悪役のイメージがタバコなのか……」
「違うもん。タバコのイメージが悪役なだけだもん」
言っていることに違いはないように感じたが、きっと結花の中ではその二つは全く違うものなのだろう。彼女は利巧だ、僕なんかよりずっと頭がいい。だから、その二つが別物だということを理解できない僕の方が、たぶん、間違っている。
馬乗りになる彼女の華奢な腰にそっと腕を回して引き寄せる。
「それで?タバコ、吸ってみる?」
彼女の顔を見上げて問うと、彼女は大輪の花のような笑顔で頷いた。
「こういうのは形が大切だからね」
そう言うと、彼女は普段僕が使っている、人をダメにするクッションをそそくさと持ち出してきた。
それに体を預けてニンテンドースイッチをやるのが僕の習慣の一つなのだけれど、もしかしたらそれも彼女にとっては悪いことの一つなのかも知れない。
僕は彼女にとっての悪役なのだろうか。
そんなことを思いながら、結花がふんふんとクッションの座り心地を確認するのを眺めていた。こういう時の所在なさを、どう表現したらよいのだろうか。僕はぽつねんと立ったまま、彼女が満悦になるまでその様子をぼんやり眺めているしかなかったのだ。
「うん、トモくんの匂いがする」
「僕の臭い?」
「そう、トモくんの匂い。タバコの臭いと、ちょっとの汗の匂い」
「僕、そんなに臭う?」
彼女は居たたまれずに立っている僕を見て、ただ微笑むだけだ。
「ううん、いいにおいだよ」
「それなら……うん、まあ、良いんだけどさ」
彼女は人をダメにするクッションにポスッと収まると、一つ咳払いをして、僕を睨みつけた。
「タバコ」
「えっ?」
「えっ、じゃないよお。せっかく私が役に入ってるんだから、トモくんもちゃんと悪役を引き立てるチンピラの役やってよお」
「ああ、そのソファはボスチェア代わりだったんだね」
身体をすっぽりもたれかけて、肘置きもある。そういう用途で人をダメにするソファが選ばれたらしい。ボスチェアにしては少し背丈が低いのだが、この際それは無視したのだろう。
「分かった?」
「分かった分かった」
「それじゃあ、今度こそよろしくね」
そうして冒頭のやりとりがあり、今に至る。
「喉は痛いし、舌はピリピリするし、変な味」
「そりゃあ、慣れてないとそうだろうね」
女性が吸いやすいとされるメンソールだとはいえ、僕が吸っているのは他よりもずっとタール量が多いものだ。いきなり吸えばむせるのは当然だろう。
「ねえ、トモくんは何でこんなものを吸うの?」
時々、こうして彼女は僕を困らせる。
こんなもの、と言うからには、彼女はタバコのことを良く思っていない。きっと、僕が吸うことも良く思っていないはずなのだ。それを言わないだけで、ただ微笑んで受け流すだけで、そしてこうやって時々僕に不満の片鱗を垣間見せる。
「禁煙……した方が良い?」
ああ、僕は悪役だ。
こうしてまた、逃げるように彼女の微笑みを頼る。
この言葉が、彼女が欲しい本当の言葉じゃないことぐらいわかっている。
僕は弱い、本当に弱い悪役だ。
「ううん、そうじゃないんだけどさ。ちょっと気になっただけ」
彼女は微笑む。
ゆっくり立ち上がって、ソファに置きっぱなしのエプロンを取ると、ターボライターを持った僕に楚々と近づいて、キスをする。
「お風呂、できたよ」
彼女の口から、初めてタバコの匂いがした。
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