第2話 テルミンの響く空
――来た。
南の空に黒い点が滲んでいた。
――大きいのが四つ。小さいのは二十……くらい?
バッテリーの電圧を確かめ、機銃の安全ピンが除かれていることを確かめる。フットバーを軽く踏み、操縦桿を前後左右に揺すった。翼面に氷はなく舵の手応えもスムーズだ。
木と膠の香りがするこの機体こそ、英国の奇蹟を担うエーテル機だ。
一九一一年、J・W・ダンによって開発された無尾翼機D・7のレシプロ機関をエーテル機関へと換装し刷新を重ねた機体が二十世紀末の英国の空を護っていた。オーストラリア原住民の種猟具のような単葉が、捻り下げられた翼の端を震わせている。
十二歳にしては小柄な僕の肩幅でもいっぱいいっぱいの操縦席の視界は良く、雲海を見渡せた。敵――ドイツ軍爆撃隊を優位な高度で迎え撃つことができそうだった。
指揮官機の無線が僕らの配置を伝えてくる。
先鋒の仲間たちがエーテル機関の気配を響かせながら緩降下をはじめた。後発組の僕らはもうしばらくは昇り続けるだろう。
襲いかかる聖歌隊機に応じ敵の護衛戦闘機隊が左右に散った。聖歌隊機は直進する爆撃機には構わず敵戦闘機の背後に向かってクロソイド曲線を描いていく。
――うまく行きそうだ。
先鋒のエーテル機は敵戦闘機を巴戦へと引きずり込みつつあるようだった。敵爆撃機が僕たちの真下を素通りしていく。
――そろそろかな。
僕は計器板の
十二音技法派の作曲家たちが磨き上げ自由フランス
――いけない。
セリエル・マシンに注意を取られて右前方を飛ぶ小隊長機からのハンドサインを見逃すところだった。突入だ。
――軍隊の真似なんていらないのに。
エーテル機関の気配が三つ、活気を増す。四分の三回転近い横転とともに降下を始める小隊長機を追って僕も大きくロールを打ち、左手のテルミンにセリエル・マシンの編み出した旋律を乗せた。音楽は、例えば『キラキラ星』でも良いのだけれど、戦の空での僕はセリエル音楽と決めていた。旋律に即座に応えるエーテル機関が翼に力強い気流を生む。
エーテルフォンとも呼ばれるテルミンは当たり前の電子楽器のひとつだ。けれど僕ら聖歌隊の少年が奏で、エーテル機関に接続されればただの楽器ではなくなった。奇蹟の顕現だ。エーテル機関を通じ僕らは二百馬力を超えようとする新鋭のレシプロ戦闘機をあらゆる面で凌駕することが可能になる。
エーテル機はプロペラを持たない。エーテル機関から導かれ、翼に配されたエーテル管は巡らせる励起エーテルによって直接空気の流れを作る。なぜそんなことができるのかという問いはいらない。ここには奇蹟がある。ただそれだけだ。
――オニキスはご機嫌だな。
三機編隊の先頭に立つ小隊長のオニキスはガキ大将風を吹かせる少しばかり鬱陶しいやつだ。左翼の二番機は僕で右翼の三番機にはメタルが占めるV字の
先鋒の二十一機が敵戦闘機を相手に巴戦へとなだれ込もうとしていた。有利な体勢から襲いかかったのは聖歌隊だったけれど、ほとんどのエーテル機小隊は敵に背後を占められかけている。
いつもの通りに。
――あれ、かな?
僕の注意を引いたのは先鋒組の一機を追って強引な旋回に入った敵のフォッカーだった。
オニキスの狙いも同じらしい。
速度は降下制限いっぱい。背後には太陽。エンジン音も風切り音も立てない、戦闘機中最小の前面投影面積しか持たない僕らの機体は気づかれることなく目標に忍び寄る。もっとも襲撃組の僕らが苦労せずに済むのは巴戦に持ち込んだ先鋒組のおかげなのだけれど。
オニキスは
もっとも仲間のテルミンの音が耳に響いているわけじゃない。僕らの演奏はエーテル機関を通じて“エーテル波”を放ち、臍玉を持つ者だけがそれを“気配”として感じることができた。そこから元になった音楽を察している、というところだ。
翼周りの空気の流れをエーテル機関で整えるだけで降下制限速度に達してしまう。こんな時のD7
静寂の時間は短く、降下はすぐに横滑り混じりに変わる。目標のフォッカーは真正面には捉えない。照星に据えるのは引き金を引く寸前だけ。
初撃でオニキスが目標の翼を穴だらけにし、続いた僕は胴体に銃撃を集中させる。
もう一小隊の襲撃組も別の目標の撃墜に成功していた。
先行し、巴戦を担う聖歌隊機は囮だ。乱戦外から一撃離脱を行う小隊が攻撃役を担う。エーテル機の性能であれば巴戦であっても圧倒的に優位だったけれど、囮と一撃離脱の組み合わせで石橋を叩くよう堅実に戦うのが聖歌隊のモットーだった。課せられた
三分と経たずに三割近くを失ったドイツの戦闘機隊は雲を隠れ蓑に一機、また一機と大陸に向けて離脱していく。僕らは去る敵を追わない。
息を吐いて背後を振り返る。
無傷のまま通り抜けていった爆撃機の後ろ姿は点となり、高射砲の作る雲が包み込もうとしていた。
――彼らは還らない。
護衛を失った彼らの進路には高射砲陣地だけでなく迎撃機隊が待ち構えているはずだった。
「全機帰還?」
「そうらしい」
「爆撃機は?」
「第二〇三飛行隊が迎撃に上がったって」
「第五飛行隊じゃなくてか?」
「第五はドイツ本土側からの爆撃機隊の相手だとさ。俺たちのとこを抜けてった奴らは紙切れを撒いただけでロンドンまで行かずに逃げてったらしいぜ」
「昼の爆撃なんて全滅に決まってるもんな。さっさと逃げる方が利口だ。プロパガンダだっけ。赤の脅威が君たちの国を蝕んでいるとかなんとかみたいなの」
敵国のドイツは東方やアフリカでも様々な国と戦争状態にあった。
「麦の育て方がどうのってやつだろ」
「共産圏の農業への批判だな。民族自決とか」
更衣室は勝利の高揚を残して明るい空気に満ちていた。
「楽勝だったな」
隣で「俺のおかげだ」といわんばかりの口調とともに装備を外す今回の小隊長・オニキスに僕はちょっとばかり意地悪く指摘してやる。
「オニキス、君、弾を食らってたよ」
「そんなわけあるか」
「左の翼端灯、着陸で点いてなかった」
僕の指摘にオニキスが更衣室を飛び出していく。格納庫の自機を見てきたのだろう、しばらくして戻ってきた彼の機嫌はひどく悪くなっていた。
「俺の小隊は“姫”のお守りがあったからな。割を食っちまう」
オニキスが口にした“姫”というのは僕への当てつけだ。聖歌隊での僕の呼び名はスノウホワイト。童話のお姫様と同じである上に色白で、小柄で髪も黒かった。
「流れ弾だろ。運が良かった。君のケツは僕が守ってたさ」
「僕もですよ」
やはり小隊を組んだメタルが控えめに主張する。いつもはヘッドホンを被って音楽を聴いてばかりいるとっつきにくいやつだけれど空に上がれば頼りになる仲間だ。
ああ、と僕は時計を見上げて溜息を吐く。
「今朝から休暇だったはずなのに損しちゃったな。船便あるかな」
「おまえ、また本土か」
外出用の制服に着替えた僕を見てオニキスが鼻を鳴らす。あと一時間ほどで非番になるはずだった僕の休日は緊急発進のために削られてしまっていた。街の図書館とカフェでのんびり過ごすつもりだったのに。
「うん。あ、もう渡しが出るみたいだ」
渡し船の出航を知らせる鐘が鳴る中、じゃあね、と僕は更衣室を後にし、息を切らして船に飛び込んだ。グレートブリテン島本土まで十五分。ぽんぽんと楽しげに鳴る焼き玉エンジンの音を聞きながら島を振り返ると聳える崖が目に入る。六角形の柱のような奇岩の連なる島は修道院と飛行場があるばかりで娯楽らしい娯楽もない。にも拘わらず休みを本土で過ごす者は多くなかった。この船便に乗る少年も僕の他には二人だけだ。
――みんな穢れを嫌う。
同乗した年少組の二人とも会話はない。僕はそっと右の手のひらを見る。
――
古い火傷があった。物心つく前、赤子の頃の僕に母が焼け火箸を押し当てた痕だった。アイルランドの古い血と大陸からの移民の血を引き、国教会の聖歌隊でエーテル機関を奏でる僕は幾重もの祝福、呪い、汚れの輪の中にあった。
図書館での用事と買い物を済ませた僕はカフェで楽しみにしていた昼食を摂る。閑散とした店で食後のミルクティを楽しんでいると三人組の少女が声をかけてきた。
「ね、君、島の聖歌隊の子でしょ」
聖歌隊の島には名がない。対岸の街ではただ“島”と呼ばれていた。
黙って頷くと、きゃあ、と黄色い声が湧く。僕は女の子たちのこんな騒々しさが苦手だった。
「すごく可愛くて女の子かと思った」
「ねー」
彼女たちは容姿を褒めてくれているつもりなのはわかるけれど呼び名でからかわれることのある僕にはあまり嬉しくない。
「聖歌隊は少年しか入れないに決まってるよ」
僕の言うことなど耳に入っていないかのように少女の一人が問いかけてくる。
「ね、キミたちは宝石を持って生まれてくるって本当?」
彼女の言葉は僕ら聖歌隊の少年が臍玉と呼ばれる石を身体に持つことを指しているのだろう。蛋白石の一種だとかで、お臍のあるべきところに宝石のような石が凝る。この石を持つ少年だけがエーテル機関から力を引き出せる。奇蹟の証だ。
頷いてみせると再び黄色い声が上がった。
「見せて!」
「だめだよ」と僕は首を振る。「見せびらかすようなものじゃないんだ。僕らは臍玉を通じて天に語りかけるし、天も応えてくれる。石は僕にとっては大切な、ええと、祈りそのものなんだ」
島の修道院に身を寄せて数年。聖歌隊の毎日は良いことばかりではなかったけれど、お腹に抱えた一シリング貨幣くらいの雪白の石と石を通じて捧げる祈りの日々を僕は大切にしていた。
じゃあさ、と最初に声をかけてきたベレー帽の子が食い下がる。
「どんな石なのか教えて。君たちは石の名前で呼び合うって聞いたよ」
「……うん。僕はスノウホワイト。透き通った中に白くて雪みたいな模様のある石を持ってるからそう呼ばれてる」
「わあ。すごくそれっぽい。他には? どんな石の子がいるの?」
「オニキス。トパーズ。キャッツアイ。珊瑚。宝石に似た石を持つ子はそういう呼び名がつくし模様や色でローズとかマリンとか夜とか呼ばれる子もいるよ。金属の結晶みたいな石を持つ子はメタルなんて呼ばれてる」
「オニキスって瑪瑙だっけ?」
「黒にきれいな緑色の縞のある石を持つ子がそう呼ばれてる。ジャガイモみたいな顔してるけど」
ジャガイモ、と少女たちが笑いさざめく。口にしておいてなんだけれど、オニキスが少し可哀想になってしまった。
「キャッツアイは?」
「宝石、あるよね。猫目石」
へえ、と納得の気配が返る。
「君の雪白の宝石見てみたいな」
やっぱりだめ?と三人の中で一番積極的な子が僕の顔を覗き込んできた。
「ごめん」
はああ、と少女たちが溜息を吐く。十三、四歳だろうか。彼女たちは僕より少し歳年上に思えた。リーダー格の子がタータンチェックのベレーを弄び指先で回す。
「聖歌隊の子たちってカタいよね」
「女の子にも興味ないみたいだし」
「切っちゃってるって本当なのかも」
ああ、と心の中で今日幾度目かの溜息を吐く。
「ええと、違ってたらごめん。もしかして君たちは僕ら聖歌隊をカストラートだって思ってる?」
もう百年も前に途絶えてしまった去勢男性歌手の話を持ち出してみる。聖歌隊の誰もが同じだとは思うけれど、僕はこの種の話がことのほか苦手だった。
違うの?と首を傾げられて冷や汗が出そうだった。女の子というのはどうしてこうデリカシーのない生き物なのだろう、とうんざりする。
「エーテル機関に石持ちの少年の祈りが通じるのは大人になる前だけなんだ」
「知ってる! だから大人にならないよう切っちゃうんだって」
「大人になる前っていうのはだいたい声変わりするまで。中には声変わりしなければいつまでも飛べるだろうって去勢手術を受けたり、入隊前に処置を受けてくる子がいなかったわけじゃないけど――」
「やっぱり!」
「話は最後まで聞いて。――けど、去勢して声変わりしないようにしても飛べなくなるのは避けられないんだって」
「嘘ぉ?」
「だから島の聖歌隊にはカストラートは――去勢手術を受けた歌い手はほとんどいない。勘違いした親が入隊前に子供に手術を受けさせたり、島に石持ちの子を売りに来る人買いが無知からそうしてしまうこともあるし、どうしても飛び続けたい子が思い余ってそうしてしまったこともあったみたいだけど、でも、一七歳になって飛び続けられた例はないんだって」
「ふうん」
「僕らは今しか飛べないんだ。そして、一度でも飛べばできるだけ飛び続けたいって思う。大抵はね。だから僕らはあまり島を出ない――お堅いんだ。女の子と遊ぶのが楽しそうでも、女の子が素敵に見えても、大人に近づいてしまいそうなことは避けようとする」
「ふうん。君も?」
面白がるようにしてリーダー格の子が僕に身を寄せてくる。髪が頬に触れ、島の少年たちの汗臭さとは違う甘やかな肌の香りとほのかな体温が僕を落ち着かなくさせた。ぐい、と少女を押しやって「ごめん」と小声で謝る。
「僕も飛ぶことを大切にしてるんだ」
「もしかして、男の子同士のがいい子?」
まじまじと訊ねられて僕は肩を竦めて見せる。
「違うよ」
「ふうん。もったいないな。君、可愛いのに」
「可愛いなんて言われて喜ぶ男子はいないよ」
「あはは。でも残念。君みたいなとびきりの男の子が一番きれいな時間を修道士みたいな生活や戦争に捧げなきゃならないなんて」
「かもね。飛べなくなってエーテル機を降りたら、その時は遊んでよ」
「ふふっ。その頃には君も、がらがら声で背も伸びてヒゲだらけの別人みたいになってて、フラれちゃうかもよ?」
僕は苦笑する。
「女の子って残酷だよね」
「そう? じゃ、またいつかね。聖歌隊一のべっぴんさん」
隣に貼りついていたリーダー格らしい子はウィンクをひとつ残し、他の二人を引き連れ離れていった。僕は眩しい思いで彼女らの背中を見送る。街には傷痍軍人の姿が目立ち、働いているのは子供と老人、女性ばかり。くたびれた服に接ぎが当たっているのが当たり前で、レースや刺繍が施されアイロンの利いた真っ白なブラウスを着る彼女たちの華やかさは目映かった。労働者階級の子女ではないのだろう。
――丘の学校の子かな。
街の外れには裕福な家の子が通う寄宿制の学校があった。
――ヒゲだらけの別人か。
島の少年たちが一番恐れる変化だった。僕にはそういった変化の予兆すら訪れていなかったけれど、びっくりするような勢いで背を伸ばし肩幅が広がる仲間を見ていれば残された時間が短いことに気づかないはずもない。目標にしてきた上級生がある日突然飛べなくなって去って行く姿を見てもいた。
――敵の銃弾ならまだしも。
エーテル機関が応えなくなる日のことなど想像したくもなかった。僕らにとっての今は猶予期間――モラトリアムというものなのだろう。翼を失うことは僕ら合唱隊の少年にとっては、たぶん、死に等しい。六、七歳で修道院に預けられ、歌うこと、テルミンを奏でること、空を飛ぶために必要なことを学ぶばかりの日々を過ごし、いざ戦場の空に飛び立てるようになれば残された時間はほんの二、三年だ。
――去勢手術を考える子を笑えるわけがない。
教科書に向かいながらそんな堂々巡りが頭から離れずにいると先ほどの三人組の一人が目の前に戻ってきていた。どこか見たことがあるような気のする赤毛の、さっきは一言もしゃべらなかった子だ。
「やあ、忘れ物?」
彼女は首を振ると僕の向かいの椅子をおずおずと指し示す。
「座っていい?」
「どうぞ」
「ありがとう。ラテン語の勉強?」
「うん。聖書を読まなきゃいけないんだ」
ラテン語の教科書に対訳をつけ丸暗記している最中だった。向かい合った彼女は「数学は得意か」と訊ねてきた。
「簡単な幾何と代数なら」
修道院で僕らは操縦士となるための知識を学ぶ。島が見えなくなるほど遠くへ出撃することも夜に飛ぶこともなかったけれど大人の飛行機乗りと同じように地図と時計と六分儀を頼りにどこにでも飛んでいけるようになることが求められた。手順を丸ごと覚えるだけなのであまり難しいことじゃない。
「わたし、数学が苦手なの。教えてもらえると嬉しいのだけれど。そうしたらわたしが代わりにあなたにラテン語を教えてあげられる」
「ラテン語、わかるの?」
「少しは。こことこことここ、ちょっと違う」
彼女が僕の書いた訳文を示す。どうやらうまい具合に交換条件が成立しそうだった。
一通りの勉強が片付いたところで僕はホットミルクを注文する。リズ、と愛称で名乗った彼女はココアを注文した。
「ありがとう。ラテン語の課題、ずいぶん捗った」
「わたしこそ助かったわ。スノウホワイトさんは男の子なのにとても話しやすかった」
「うん。僕も楽しく話せたよ」
「……わたし、弟がいたの」
「弟さん?」
「ええ。聖歌隊に。三ヶ月前に死んでしまったのだけれど」
その言葉に僕は大いに納得した。いかにも内気で一人では男子に声などかけられそうもない女の子が、どうして僕に話しかけてきたりしたのだろうと不思議だったのだ。
リズは写真を差し出してきた。姉弟と母らしき人と三人で並んで撮られた写真だった。もう何年も前のものだろう。写真の中の彼女は今の僕より幼く、聖歌隊の制服を着た少年も七、八歳に見え、顔にも見覚えがあった。
――コンクだ。
薄桃色をした独特の光沢を持つ臍玉がコンクパールというカリブ真珠と似ていることから“コンク”と呼ばれていた少年を思い出す。
僕はこれから交わす彼女との会話がすでにあったことのようにわかる気がした。
「その、お気の毒です」
リズは黙ったまま首を振り、コンクのものを思い起こさせる赤毛を揺らす。僕の父方の祖父もこんな髪だった、と思い出した。
「弟がどんな最後だったのか知りたいの。同い歳くらいよね? 一緒に飛んだことはない? 何か覚えてはいないかしら」
僕は言葉を選んで慎重に話し出す。
「彼のことはよく覚えてる。同期だったよ。僕も彼も初めての出撃だった。僕には周りを見る余裕なんて一欠片もなくて、ただ小隊長の後ろにくっついてはぐれないようにしているだけで精一杯だった。彼は別の小隊だったけど、僕と同じで余裕なんてなかったと思う」
あの日、初陣を飾った三人の中で帰らなかったのは一人。十分な訓練を受け、圧倒的な性能を持つエーテル機を与えられる聖歌隊でも初陣で命を落とす者は少なくない。
「島に戻って彼が亡くなったことを知った。空でのことはまったくわからないんだ。ごめん」
「そう……。弟の棺は蓋も開けられずお別れもできなかった。お墓も島にあって年に一度しか会いに行けないというの。制服と宝石とわずかな身の回りのものだけがわたしたちに返されたわ」
リズが小箱を取り出す。中には猛禽を象ったレリーフが入っていて、その鋭い爪が宝玉を掴み掲げていた。見覚えのあるコンクパールに言葉が詰まる。
僕らは離隊する時に身体から石を取り除く。主から離れた石はレリーフを飾る除隊章となった。猛禽が白く塗られているのは戦死――殉教者に出されたものであることを示しているはずだった。
勲章とは違う。僕らは軍人ではなく教会に属する正真正銘の聖歌隊だ。
殉教者の亡骸は遺族に返されることはなく島に葬られ、死後も島と仲間を護り続けるといわれている。
僕はふと思いつきを口にしてみる。
「ね、君。リズ。弟さんのテルミンは聴いたことある?」
「いいえ。首都のミサで弾いたりしていたと聞いたけれど」
僕は鞄の中にあった小さな箱を取り出した。コンクのレリーフが収められたものよりも小さい木細工だ。二本のアンテナを起こしてアースを手首に巻き、電池を接続すると小さなスピーカーから微かなノイズが流れた。おもちゃのテルミンだった。調整をしている間に回路が暖まり音が澄んでくる。
――確かこんな曲だ。
コンクが奏でていた曲は記憶に残っていた。僕ら合唱隊はその名の通り飛行機を飛ばす以前に歌を歌うことが一番の仕事で、うんざりするくらいテルミンや歌の練習をする。音楽漬けの毎日に宝石の子供たちが自ら好んで奏でるのは両親の元で覚えた民謡や流行歌であったりする。僕が奏でたのもアイルランド民謡らしい響きのある曲だった。
「――っ」
楽器のようには見えなかったのだろう、テルミンを組み立てている間はただ不思議そうにしていたリズも電子楽器が旋律を奏で始めると明るい茶色の目を丸くした。
――コンクもこんなまん丸になる茶色の目と鮮やかな赤毛だったっけ。
大陸の宗教音楽とは少し違う音階を持つ曲はアイルランド独特のホイッスルで奏でられるものと教えられた記憶があった。「草笛でよく吹いた」というコンクの言葉とともに指先が思い出す単旋律はテルミンで再現するのは難しくなかった。
「シアンっ……」
リズが顔を覆って俯いてしまった。
――あの戦闘では。
僕はコンクとともに臨んだ初陣を思い出す。
――ビブリオティークが出てきていた。
聖歌隊に損害の出る戦闘では決まって現れる敵がいた。尾翼に本とナイフの絵柄を刻んだ赤いフォッカーで僕らの間で『
僕はコンクが撃墜されるところを見ていない。ビブリオティークのフォッカーを見た記憶もなく、戦場で見かけたという話を聞いただけだ。回収されたコンクの遺体にも機体にも銃創がなかったという話も伝え聞いてはいた。
でも。
――そんなの、話せない。
魂云々といったオカルトは論外だったし、無傷の被撃墜は故障か操縦ミスということになってしまう。エーテル機には故障らしい故障は滅多になくて、そうなると可能性はひとつだ。実際、敵味方を問わず操縦ミスで墜ちる例は少なくなかったし、僕らにしたって敵をミスに誘い込むような手管を教えられる。今は飛ぶだけで精一杯という未熟な戦闘機乗りばかりなのだと言われていたけれど僕ら聖歌隊のような練度を持つ使う敵がいてもおかしくない。
そんな事情も遺族の悲しみを癒やすとは思えなくて、他に話すことが思いつかない僕はテルミンを奏で続けることしかできなかった。
「隠していたの」
演奏が一巡りする頃にはリズも落ち着きを取り戻したらしく静かに呟く。
「え?」
「シアンを。あの子が石を持っていることは隠していたのに学校で見られてしまって」
「……そっか」
僕は嘆息する。聖歌隊は志願制だったし自ら飛びたいと願う子がほとんどだけれどそうでない子もいないわけじゃない。お腹に宝石を持って生まれてくる子は少なかった。僕らのような子を徴用する法律はなくても、貧しい家庭は札束で頬を叩かれるし臍玉持ちの子を教会に報せれば報奨金も出た。人買いに売られてきたという子だっていた。
「あの子の声のよう」
食い入るようにテルミンを見つめるリズは少し怖く、痛ましいという言葉はこういう時に使うものなのだと理解した。
「テルミンは臍玉を持たない者が弾いてもただの電子楽器でしかないけど――」と僕はテーブルの上のレリーフに彼女の手を重ねさせる。もう一方の手には僕の弾いていた小さな楽器を載せた。「――石を手に奏でれば石の持ち主の音色がするんだって」
嘘か本当かわからない。臍玉が奇蹟の欠片を残すというのは出所のよくわからない噂でしかなかった。
涙で汚れた顔がこちらを見る。長く感じられた視線を受け止めるとリズがぽつりと呟いた。
「ありがとう、天使さん」
春の空を見上げたリズが小麦の芽吹きはまだかしらと独り言を口にする。僕が首を傾げていると彼女は「何でもない」と笑顔を作った。
「母の農場がヤロビ農法というのを取り入れたの。うまく芽吹けば二期作ができるのだけれど。弟がいなくなって生活も厳しくなるし。わたしも丘の上の学校はおしまい」
耳慣れない単語はどこかで接したことがあるような不安な印象を受けた。
――空に上がりたいな。
体験したことのない過去をなぞるような感覚に機上にいる時間を思い出す。デ・ジャ・ヴはエーテル機に触れている時間に訪れることが多かった。わずか半日離れていただけなのに僕はもう島が――エーテル機関を抱えた操縦席が恋しくなってしまったらしい。
彼女は僕を天使と呼んだ。
――ならば。
僕のいるべき場所は空であるはずだった。
宝石の翼 セリエルの空 藤あさや @touasa
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